30話 「現れた救世主」
人通りのない路地は、異様に寒く感じる。まるで外界から隔離された場所にいるかのような気分になってきた。人々の姿は見えず、足音や声も聞こえない。多分そのせいだろう。
向き合うナギと紫苑、それを見つめる茜と私。背筋が凍りつくような空気の中、今まさに、戦いの幕が上がろうとしている。
それにしても、ナギがこんな真剣な表情をすることがあるなんて、予想外としか言いようがない。自身のことを語る時ですら明るく笑っていた彼なのに。
しばらくの沈黙があった。どちらも仕掛けない、様子を探りあうような時間だ。
やがてナギの指が引き金に触れた瞬間、紫苑は駆け出す。
直進だ。
次から次へと放たれる銃弾を、軽く跳ねるようにして避けつつ、ナギへと向かう。彼女の紫の瞳はナギだけを捉えている。ただひたすら、真っ直ぐに。
紫苑はほんの数秒でナギの懐へ潜り込む。
彼女の武器は、その小さな体と、それゆえの素早さ。彼女はそれらを存分に活かせる動きを見せる。そもそものスピードと無駄のない効率的な動作があいまって、予測以上の素早さになっている。
しかし、ナギもそう簡単には終わらない。
即座に後ろへ下がった彼は、紫苑のナイフを持つ手に向けて銃弾を放つ。放たれた銃弾は、紫苑が持つナイフのうち一本に見事命中。それをはたき落とした。
紫苑が微かに動揺した隙を見逃さず、ナギは拳銃に新しい弾を入れる。
——だが、その時。
ほんの一瞬、ナギが紫苑から目を離した瞬間。紫苑はナギに向けてナイフを投げた。
「危ないっ!!」
私は半ば無意識にナギを突き飛ばしていた。彼は驚いた表情で私を見る。
刹那、紫苑が投げたナイフが視界に入った。銀に輝く細い刃がこちらを睨みながら飛んでくる。
これはまずい、と心の底から思った。
素人同然の私には、凄いスピードで飛んでくるナイフを避けられるような、人間離れした運動神経はない。それでなくとも私は運動が苦手な部類である。
「沙羅ちゃん!」
ナギが悲鳴に近しい緊迫感のある声で叫ぶのが聞こえた。しかしそれに応える余裕はない。
「……っ!!」
避けるどころか悲鳴を上げることさえできず、飛んできたナイフは私の首筋を掠める。今まで体験したことのないような鋭い痛みに、一瞬だけ脳内が真っ白になる。ほんの少しの時間だけだが意識を失ったかと思った。
気がつけば私は地面に座り込んでいた。
顔を真っ青にしたナギがこちらへ駆け寄ってくるのが視界に入る。
「沙羅ちゃん、大丈夫っすか!?」
彼はいつになく慌てた顔をしている。
いつもはヘラヘラ笑っているばかりだが、時にはこんな顔もするのか。ぼんやりする頭で、そんなどうでもいいことを考えた。
首筋から肩へ、赤いものが伝う。傷は思いの外深いらしく、首の奥が熱くなるのを感じる。
「しっかり。沙羅ちゃん、しっかり!」
このままでは危険。それは十分分かっているのだが、心はなぜか妙に落ち着いていた。
いや、もしかしたら、ただ慌てる体力がなかっただけかもしれないが。
「私に構わないで下さい……。次が来ます」
「それはそうだけど、でも!」
ナギは目に涙を溜めて半泣きだ。いつも笑顔なだけに意外である。彼に悲しい顔は似合わない。
「ナギさん、後ろ……」
紫苑が再びナイフを構えるのが見えたが、私は十分な大きさの声を出すことができなかった。自分としては普通に声を発したつもりなのだが、いつもの半分くらいの大きさしか出ていない。
私の小さく掠れた声は、混乱しているナギに届かない。
「何をしている!」
聞き慣れた声に、私はハッと目が覚めるような感覚を覚えた。音の刺激で一時的に視界がパッと広がる。半泣きだったナギは驚きに目を見開いて、顔を上げている。その視線は私から外れていた。
「武田さん……」
そう言ったナギは、口をぽかんと開けて戸惑った様子だ。何がどうなっているのか理解不能、といった顔つきである。
だが、意識がしっかりあるのか怪しい私も、こればかりはさすがに驚きを隠せなかった。
今日の見回りは私とナギ、武田がここにいるはずがない。なのに彼は確かにここにいる。状況がまったく飲み込めない。
「ナギ、お前は二人を止めろ。一分でいい」
「お、俺っすか?」
「そうだ。一分だけでいい」
「わ、分かったっす!」
ナギは真剣な顔で立ち上がり、改めて拳銃を構えた。
それとほぼ同時に、武田が私のすぐ横に座る。横たわる私の上半身をスッと起こした。彼に触れられるなんて特別な気分だ。こんな時でなければ、心臓が破裂する勢いだったに違いない。
「大丈夫か、沙羅。すぐに止血する」
武田は落ち着いた様子で言い、取り出したハンカチを私の首筋へ当てる。
「……武田さん」
傷は痛む、血も流れている。
でもなぜだろう。ほんの少しだけ、嬉しい気持ちが湧いてくる。
「……どうして」
彼が私だけを見てくれている——。
「レイへ電話をかけただろう。無言だったが、異常が発生したことはすぐに分かった」
「なるほど……」
携帯電話を通話の状態にしておいたのが良かったようだ。いつもは役立たずで情けない私だが、その選択は正解だったらしい。
「何か不安なことは?」
「……ちょっと寒いです」
「そうか。血の出しすぎだな」
武田は顔色一つ変えずに言い、スーツの上着を脱ぐ。そしてそれを私にかけてくれた。
「そこでじっとしているといい。血はもう止まったから大丈夫だろう」
私は夢を見ているかのような錯覚に陥りながら、「はい」と一言だけ返した。
武田のスーツをかけてもらえるだなんて、これはもはや奇跡だ。いや、奇跡などという次元ではない。もしかしたら私はもう死んでいて、ここは天国なのかもしれない。そんな風に思うぐらいである。