27話 「二人だけの時間」
広いリビングの中、私は武田と二人きりになってしまった。エリナが出ていったからだ。真夜中の湖畔みたいな静けさに息苦しくなる。室内には二人しかいないというのに、酸素が薄いような気すらしてきた。
嬉しいくせに楽しくはすごせない私は、本当に意気地無しだと思う。
どちらも話し出せない気まずい空気の中、武田は音をたてずソファに座る。私はその場に立ち続けることしかできない。
「……少し構わないか」
やがて沈黙を破ったのは、しばらく何か考えているような顔つきだった武田。
「何ですか?」
「今から六年ほど前のことになるが」
「私が武田さんに助けていただいた時のことですか?」
彼は頷き、感心したように「察しがいい」と小さく漏らす。私からすれば、むしろそれ以外に何があるのか、という感じだが。
「あの時は世話になったな。おかげで助かった」
暫し意味が分からなかった。
立て籠もり犯の人質になっていたのは私で、彼はそんな私を救出してくれたのだ。救われたのはどう考えても私である。
にも関わらず、彼は私に「救われた」と言う。そこが理解し難いところだ。
「どういうことですか? 助けていただいたのはこちらなのに」
「いや、違う。そうではない」
分かってはいたが、彼と二人きりというのはやはり話しづらかった。お互いの中に流れているものがあまりに異なるからだろうか。
エリナやレイなど他の誰かがいる時にはまだ良いが、二人だけになってしまうとどうもぎこちない。
「犯人に刺された私を助けてくれただろう」
……そんなこともあったな。
あの瞬間は必死だったので、瓶で殴るなどという乱暴な行為を躊躇いなく行ってしまった。少しは武田のためになったから良かったものの、「やり過ぎた」と後から結構後悔した記憶がある。
それにしても、そんな小さなことを覚えているとは少々意外だ。
「あの後医者に見てもらったが、これ以上深く刺さっていたら大変なところだった、と言われた」
「深かったんですか?」
武田は気まずそうな顔をしながら、「それなりにな」と短く答えた。
そんな話をしていると、ふとレイが言っていたことが蘇る。芦途の資材置き場で、彼女は背中の古傷と言っていた。彼女が言っていた背中の古傷とは、恐らく私を助けた時に負った傷のことなのだろう。六年も経っていれば、古傷、と言うのもおかしな話ではない。
でも、だとしたら、彼は今でも私のせいで苦しむことがあるということ。それを思うと、胸が締めつけられた。好きな人が自分のせいで苦しみ続けるなんてまったく嬉しくない。
「ごめんなさい、武田さん。私のせいですね」
あの時、彼は平気なように見えたけれど。本当は違ったのかもしれない。
「何も謝ることは……」
「でも、痛かったのでしょう!?」
私は自分でも予想しなかったくらい強く言っていた。こんな物言いをするのはいつ以来だろう。それが思い出せないくらい久々のことだ。
武田は目を大きく開き、動揺したような顔をしている。さすがに驚いたようである。
「あ……ごめんなさい! 失礼なこと言ってしまってすみません」
慌てて謝ると、彼は頬を緩めた。
「その方がしっくりくるな」
武田のこんな柔らかな笑みを見るのは初めてだ。厳しい印象の顔に浮かぶ笑みはどことなく子どものようで、想像を軽く越える可愛らしい雰囲気だった。
それと同時に、私の中で何かが変わった気がする。
私にとって武田は特別な人だった。困った時には助けてくれて、かっこよくて、完璧で。そんなところに憧れていたけれど、「容易に触れてはならない」と自分に言い聞かせてしまっていた。私なんかが気安く近づいてはならない。そんな気がして、常に遠慮がちに接していた。
しかし、そうではないのだ。
彼も一人の人間で、こうやって普通に笑うこともある。それを思えば、ほんの少しだが親近感を抱くことができた。
「武田さんは普通にしている私の方がいいと思いますか?」
「そうだな。これは個人的な意見だが、瓶で殴るような沙羅の方が興味深く面白いと思う」
瓶で殴る……。武田の中の私はそんなキャラクターだったのか。そこはできれば忘れてほしい。
「じゃあ、そうします」
ありのままの自分を出す。たまにはそれもありかもしれないな、と思った。
私の本当の気持ちは、武田には伝わっていないだろう。彼のことだ、「エリミナーレの仲間として」くらいにしか考えていないに違いない。
——だが、今はまだそれでいい。
タイムリミットがあるわけではないのだから、何も慌てることはないのだ。嫌われてさえいなければどうとでもなる。積み重ねて少しずつ距離を縮めていくので構わない。
「メンバー同士が良好な関係を保つことはエリミナーレの発展にも繋がる。私もこれからは、親しみを持ってもらえるように努めようと思う」
「そうですね」
やはり彼はずれている。私が先ほど言った「好き」は、良好な関係などという意味ではない。しかし、敢えて訂正することもないと思うので、私は突っ込まなかった。
この気持ちが正しく伝わる日はまだ来ない。道のりは険しいことだろう。
だが、私は簡単に諦めたりしない。いつか必ず彼の心を奪ってみせよう。
改めてそう決心した夜だった。