26話 「誤解解消」
沈黙はそれほど長い時間ではなかったと思う。長めに考えても、一分か二分くらいのものでしかないだろう。しかし、私にはとても長い時間に感じられた。どんな風に思われるか不安だったから。
私は、しばらく顔を上げられなかった。
エリナは「馬鹿げている」と笑うだろうか。いや、笑われるならまだいい。引かれてノーコメントというパターンが、私としては最悪だ。そんなことになると、何を言えばよいものか分からなくなってしまう。しかも気まずい空気になるに違いない。広いリビングに三人しかいないこの状況でそうなるのだけは避けたい。
しかし彼女はまだいい。一番気になるのは武田の様子である。彼に引かれたら、遠ざけられてしまったら……。私はそれを考えるのが一番怖かった。今までならできた何の変哲もない会話すらできなくなってしまったら、私はまともに暮らしていけないだろう。
「……そう、やっぱりね。薄々気づいてはいたわよ」
永遠のようにも思える沈黙をようやく破ったエリナの声は、私が想像していたよりずっと落ち着いていた。彼女の容姿に似合った、大人びた声色である。怒ってはいないようだが、彼女の顔にはいつものような笑みは浮かんでいなかった。
「そういうことらしいわよ、武田。何か言ってあげたら?」
エリナの茶色い瞳が武田の方を向く。
彼は口元に指を当てながら首を傾げていた。納得がいかない、といった顔つきだ。恐らく今の彼の脳内には大量の疑問符が漂っていることだろう。
私も時折そういうことがあるので、彼がそのような状態になっているということを察するのは簡単だった。
「ちょっと、何なの? どうして黙るのよ」
武田が真剣な顔で考え込んでいるのを目にしたエリナは眉をひそめる。
だいぶ時間が経ってから、彼はようやく口を開いた。
「苦手だったのではなかったのか?」
真面目な表情でこちらを見つめて尋ねてくる。
あまりに真っ直ぐ見つめられたものだから、胸の鼓動が急激に加速する。ここまでなると、もはや動悸の域である。緊張のあまり呼吸まで荒れてきそうだ。
私は必死に平静を装いつつ返す。
「武田さんのこと、苦手なんかじゃないです」
すると彼は信じられないというような表情でパチパチとまばたきした。あっさりした涼しい顔でいることの多い彼だが、今は困惑の表情を隠しきれていない。
そんなに戸惑うこともないと思うのだが……。
「しかし沙羅、お前は私が話しかけるといつもぎこちない反応をしていたじゃないか。レイなんかと話している時は楽しそうだが、私にはどこか遠慮した接し方だっただろう」
それは、好きであるが故に緊張しすぎて、まともに話せなかっただけである。意識してしまう、というやつだ。
しかし、本人に直接そんなことを伝えるのは無理である。
だから私は頭をフルに働かせてそれらしい答えを探してみる。短時間で不自然に思われない答えを導き出さねばならないのは、簡単なようで案外難しい。
「実は私、男の人と話すと緊張するんです。だからあまりちゃんと話せないだけで……」
想像力がたいして高くない私には、これ以上それらしい理由を即興で思いつくのは難しかった。
「ナギとは普通に話していた気がするが?」
武田は真顔で更なる質問を浴びせてくる。
私に興味を持ってくれるのは嬉しい。ただ、ほんの少しだけ面倒臭い気もした。
「ナギさんは年が近そうなのでまだ大丈夫なんです」
「つまり、私が年上だから話しにくいということか?」
「そんな感じです。なので、武田さんのことが嫌いだとか、そういうことではありません」
彼は真剣な顔つきで「そうか……」と独り言のように呟く。多少は納得してくれたようだ。
それにしても、まさか苦手だと勘違いされているとは思わなかった。エリナが質問してくれなかったら、危うくずっと誤解され続けるところだ。
ある意味彼女に感謝である。
「よし。ではこれからは、沙羅が話しやすいよう努めよう」
武田は何か決意したようにそう言ってから、エリナに視線を移す。
「どのような工夫が必要でしょう?」
眉間にしわを寄せて呆れた顔のエリナは、桜色の髪を整えながら口を開く。
「そんなこと、自分で考えなさいよ。何でもかんでも人に頼らないで」
普段武田には比較的優しく接するエリナだが、珍しく素っ気ない態度を取っていた。単なる気紛れか、気に食わないからなのか——確かな理由は分からない。しかし、あまり機嫌良くはなさそうである。
エリナは武田から目を逸らし、視線をこちらへ移す。それから彼女は、口元に、いつものような余裕のある笑みを浮かべる。
「沙羅、そんな顔しないでちょうだい。私は別に武田の彼女になるつもりはないわ」
いつも武田との親しさを見せつけてくる彼女にそんなことを言われても信じられない。しかも笑顔で言われるものだから、なおさらである。
「私の目的を達成するために、彼の力が必要なだけのことよ」
それから彼女は、「ちょっと寝てくるわね」と言って、リビングからそそくさと出ていってしまう。
その背中を見送る時、私はほんの一瞬申し訳ない気持ちになった。彼女の背中が、なんとなく寂しそうだったから。




