157話 「追憶」
旅館を出た私たちは、レンタルの自動車のトランクに荷物を積み、行きと同じ座席に座る。武田と隣だ、今度こそうたた寝しないように気をつけなくては。
——そう思っていたのだが。
よく見ると、エリナとモルテリアの席が入れ替わっていた。
「あれっ、エリナさん後ろなんですか?」
運転席に座っていたレイが、背後を振り返り言う。
「ナギが暴れないよう、私が見張っておくわ」
エリナは柔らかな声でそう返した。
すかさず反応するナギ。
「ちょっ……なんすか、それ! 俺は子どもじゃないっす!」
「別に子どもだなんて言っていないわよ」
「た、確かに……って、そうじゃなく!」
直後、ゴン、とぶつかる音。
発言しようと勢いよく立ち上がったナギが、車の天井に頭をぶつけたようだ。
「いったぁー……」
ナギは頭を抱えて、身を縮める。素で痛がっているところを見ると、そこそこ痛かったのだろう。
それに対しエリナは呆れ顔。
「まったくもう。そんなだから目が離せないのよ」
すると、急激に元気な顔つきになるナギ。
「目が離せないっ? 目が離せないって、どういう意味っすか? もしかして俺にときめいて目が離せ——」
「止めて。気持ち悪い」
「ううっ! 傷つくっす!」
冷ややかな声でばっさり言われ、ナギは両手で顔を覆った。
大袈裟な動作が少し笑える。
「武田さんー! 助けてほしいっす! 女の子との接し方、教えて!」
「私のことを散々モテないモテないと言ってきたのは誰だ」
「うっ」
「モテない男に女との接し方を習うなど、嫌だろう」
「ううっ」
どうも、以前やられたことの仕返しをしているらしい。今の武田は妙に攻撃的だ。もしかしたら、結構根に持っていたのかもしれない。
「それじゃあ、出ます!」
レイが出発を告げる。
二泊三日過ごした旅館とも、もうこれでお別れ。そう思うと少し寂しい気もする。食事に入浴、襲撃、足湯カフェ。色々なことがあったなぁ、と改めて思った。
瑞穂の墓へと向かう途中、花屋に寄った。
そこでエリナが買ったのは、白いスイートピーの小さな花束。瑞穂の墓に備える用だと彼女は言う。
可憐で、しかし華やかさもある、白色のスイートピー。
瑞穂にぴったりの花だ、と私は思った。
「綺麗な花束ですね」
花屋から車へ戻る時、私は勇気を出してエリナに話しかけてみた。今なら話しかけられる。彼女の顔を見ていたらそう思ったからだ。
すると彼女は、少し寂しそうに笑う。
「スイートピーね、瑞穂が好きだった花なのよ」
エリナの声は静かで柔らかい。以前のように棘はない。
私は車へ戻るまでの間、彼女の背中を眺めていた。特に深い意味はなく、なんとなくぼんやり眺めていたのだ。そして、彼女は変わろうとしているのだな、と改めて思った。
エリナは今まで囚われていた過去に別れを告げようとしているのだろう。だが、それは容易いことではない。過去に別れを告げるということは、これまでずっと抱いてきた負の感情を捨てるということでもあるからだ。
けれども、彼女ならやってのけるだろう。いつかは必ず。
どんな長雨にも終わりが来るように。そして虹が現れるように。彼女にまとわりつく雲はいずれ消え、その先にはきっと大きな幸福がある。
そして、そこへたどり着いた時、初めて気づくのだ。
歩んできた長い道のりは辛かったけれど、無意味な苦しみではなかったのだ、と。
墓地へ到着し、車から降りると、涼しい風が吹いていた。晴れた明るい空の下、ひんやりとした乾いた風を浴びると、不思議と心が軽くなる。
エリナはスイートピーの白い花束を胸元に抱え、歩き出す。
その後ろ姿を見つめていると、いつの間にか出遅れていた。レイが「大丈夫?」と声をかけてくれたおかげで意識がこちらへ戻った私は、「はい」と答え、みんなの後を追うように足を進めた。
瑞穂の墓にたどり着く。
静寂が私たちを包む。
「……瑞穂。誓いは果たしたわ」
エリナは胸の前に抱えていた花束を、そっと墓前に備える。スイートピーの白い花弁が、風に揺れた。
真剣な顔で花束を見つめるエリナ。
静寂の中、その場にいた誰もが、エリナの姿を見守っていた。
「貴女は間違いなく、私の、一番の親友だった。それなのに救えなくて、ごめんなさい」
彼女はひざまずいて、静かに謝罪の言葉を述べる。その声は震えていた。
「……あの時、私は貴女のために泣けなかった。でもどうか、分かって。私が貴女を思っていたことは確かよ……」
弱々しい声は続く。
そしてついに、彼女の瞳から一滴の涙がこぼれ落ちた。
心配そうにエリナを見つめるナギ。
「本当に、本当なの……瑞穂、分かって……」
「エリナさん」
静寂を破ったのはナギだった。
彼はエリナに寄り添い、しっかりとした声色で彼女を励ます。
「瑞穂ちゃんはきっと分かってるっすよ」
「……そんなこと、どうして分かるのよ」
「だってほら、瑞穂ちゃんはエリナさんの親友だし? 理解ない人なわけないっしょ」
いつもはおちょけてばかりのナギ。ふざけて叱られてばかりのナギ。だが、今の彼は、別人のようにしっかりしている。
「エリナさんは瑞穂ちゃんのこと、信じてないんすか?」
こんなことを言うのはおかしいかもしれないが——今の彼は、完全に、一人前の男だった。立派である。
「……信じているわ」
「瑞穂ちゃんのこと、好きなんっしょ?」
「好きよ……好き! 誰より!」
するとナギは、顔を墓へ向け、ニヤッと笑う。
「らしいっすよ! 瑞穂ちゃん!」
ナギのあっけらかんとした声が、澄んだ空に響く。
「良かったっすね!」
彼は、でも、と続ける。
「これからエリナさんの一番になるのは俺っすから!」
唖然とした顔になるエリナ。
いきなりのナギの宣言には、私も戸惑いを隠せない。
「その代わり、アンタの分もエリナさんを幸せにするっすよ!」
それは、もはやプロポーズだった。
亡き親友の前で堂々とプロポーズするとは、ナギはよほど本気なのだろう。そうでなくては、こんな大胆なことはできないはずである。




