151話 「温泉を堪能したい」
私と武田は、足湯カフェでゆったりと昼食をとった。
武田は照り焼きチキンカツサンドイッチ、私はおにぎりセット。お互いのものも食べてみたため、サンドイッチも食べたが、なかなか美味しかった。
「あのカツサンド、美味しかったですね」
「そうだな。脂身だけが口に入った時には焦ったが」
「脂身お嫌いなんですか?」
「あまり好みではない」
左右に和風の建物が並ぶ石畳の道を私たち二人は歩く。集合場所へと向かうためだ。
歩き出して十分ほど経った頃、武田が唐突に口を開く。
「それにしても今日は、よく晴れているな」
スーツをきっちり着ているのもあってか、武田の額には汗の粒が浮かんでいる。彼は何度か手の甲で拭っていたが、それでも暑そうだ。
その時になって私は、武田の様子がおかしいことに気づく。
今の武田はどことなく疲れた顔つきをしている。それに加え、足取りが重い。歩きにくそうだ。そして更に、呼吸が早まっている。
私は足を止め、ついに質問した。
「武田さん、少し休みますか?」
彼に無理はしてほしくない。純粋にそう思うからだ。
「いきなり何を言い出すんだ、さらぼっくり」
前振りもなく尋ねたものだから、武田は私の問いの意図が分からなかったらしい。首を傾げている。
「体調が悪そうだったので」
私が簡単に説明すると、彼は独り言のように「なるほど」と呟く。
「心配ない、少々暑かっただけだ。それより、もうすぐ集合時間だ。急がなくては」
言いながら、武田はまた手の甲で額の汗を拭う。
いつもは鋭い視線を放っている細い目も、今はぼんやりとしていて、力を感じられない。若干視点が定まらないような感じだ。
「やっぱり辛そうですよ。どこかお店にでも入って、休憩しましょう」
「いや、駄目だ。集合時間に遅れ……」
「体の方が大事ですっ!」
自身の体調を考慮せず集合時間ばかり気にしている武田に苛立ち、私は口調を強めた。
しかし、口調を強めた理由は苛立ったからだけではない。本当は、大好きな彼に対して、こんな言い方をしたくはない。だが仕方ないのだ。こうでもしないと武田は頷かないから。
それから私と武田は近くの茶屋へ入り、休憩した。淡々煎餅や餡蜜、抹茶ラテなどを注文し、飲み食いする。
私はレイへ電話をかけ事情を話す。そして、最後に「店を出る時にまた連絡します」と添えて、通話を終える。
そうこうしている間に、武田の体調はみるみる回復してきた。顔つきも普段と変わらないくらいに戻っている。強い日差しにやられてしまったのだろうな、と私は思った。今日は妙に眩しかったので、体調を崩すのも仕方ない。
武田の体調がかなり回復したのを確認してから、レイに知らせ、茶屋を出た。
だいぶ寛いでしまったせいで、集合時刻はとっくに過ぎてしまっている。けれども、武田が元気になったので、一旦休んで正解だったと思う。
再び石畳の道を歩き出した頃、私たちを見下ろす空は、切ないくらい綺麗な夕焼けだった。
赤く染まる空の下、私たちは集合場所へと向かう。
繋いだ手の温もりに癒やされながら。
夜、私は大浴場へ向かった。
昨夜は部屋で入浴したが、今夜は温泉へ行くことにしたのである。
理由の一つは、武田が「温泉に入る」と張りきっていたこと。もう一つの理由は、せっかく在藻温泉へ来たのだから、温泉を堪能したいということ。
この二つに尽きる。
「今日は沙羅ちゃんも入るんだね。一緒に入れて嬉しいよ。あたし、温泉大好きだから」
「温泉、お好きなんですね」
「うん。沙羅ちゃんは? あまり好きじゃない?」
私は少し考えて返す。
「熱いお湯がちょっと苦手で」
するとレイは「そっか」と笑う。私の大好きな、彼女特有の爽やかな笑みだった。
脱衣室に一歩踏み込んだ瞬間、温かな湯気が私を包む。とにかく湿気が凄い。真夏だったらずっとはいられないだろうな、と思ったくらいだ。
「モル、脱いだ服はまとめて置いておくのよ」
「……うん」
「お菓子は持ち込んじゃ駄目。そこへ置いておきなさい」
「お腹空く……」
「そんなに長時間入らないわ。だから出るまでお菓子は禁止!」
エリナとモルテリアの会話がなぜか妙に面白く感じられて、私はクスッと笑ってしまう。しかし聞こえていなかったらしく、誰にも何も言われなかった。
こうして、いよいよ浴場へと入っていく。
そこは、私の想像を遥かに越える広さだった。しかも綺麗である。
タイルの床は滑りそうなほど磨かれ、天井は高く、様々な大きさや形の湯船が並んでいる。まるでテーマパークのようだ。
「す、凄いっ……!」
私は思わず感嘆の声をあげる。
すると隣にいたレイが、ふふっ、と愉快そうに頬を緩める。
「沙羅ちゃんは今日が初めてだもんね」
「色々ありますね……!」
「軽く体流して、それから全部巡ろうか。楽しいよね。しかも体にも良いらしいし」
歩き出すと、束ねていない青い髪がさらさらと揺れる。真っ直ぐな背筋に、私は暫し見とれてしまった。
その後。
体や髪をシャワーで洗い、好きな湯船へ直行するエリナとモルテリア。片手の包帯を濡らすわけにいかずもたもたしていた私は、二人よりかなり遅れた。
エリナは『美肌』と書かれた看板のついた小さめの湯船に浸かっている。腕や脚を伸ばし、まるで温泉番組の撮影かのような優雅さで、湯を堪能していた。髪を上にまとめていることによって見える首筋からは、健全な色気を感じる。
しかし、『美肌』という湯船へ直行するのは恥ずかしくないのだろうか……。
一方モルテリアはというと、上から細く湯が流れてくる滝のようなエリアにいた。ここだけは湯船が浅く、湯船らしからぬ形態だ。
彼女はちょうど上からの湯が当たる位置に立ち、びくともせず、修行僧のように湯を浴び続けている。
「沙羅ちゃん! もうどこか入った?」
大浴場内にレイの声が響く。彼女のよく通る声が、なおさら大きく聞こえた。
「まだです。今洗い終わったところで」
「じゃあこことかどうかな」
「桜湯……ですか?」
レイが指し示したのは、かなり大きい湯船。
白い湯に桜の花弁が浮いていて、いかにも女性に人気がありそうな雰囲気だ。
「せっかくだし浸かってみようよ」
「桜って、季節外れですね」
「それは言っちゃ駄目だよ!?」
まぁ確かにそうかもしれないが……。
しかし、六月に桜というのは、どうも違和感を覚えずにはいられない。もう少し六月らしい風呂でも良いと思うのだが。
けれども、入ってしまえば違和感は気にならなかった。それどころか、桜餅のような香りの湯気が頬を撫で、穏やかな気持ちにしてくれる。
「後で露天も行こうね、沙羅ちゃん」
「はい。でも寒そうです……」
「平気平気! お湯が凄く温かくて気持ちいいよ」
レイに言われると、「そうなのかも」という気がした。
私は、ひんやりする中で温かな湯に浸かることを、想像してみる。すると、非常に幸せな気持ちになれた。