145話 「無謀な挑戦」
「沙羅ちゃん、何言ってるの!? 危ないよ!」
レイが戸惑いを露わにしつつ、私を制止しようとする。けれど、そのくらいでは私の心は変わらない。
「武田さんもレイさんも怪我してる今、私がやらないと」
「そんなのいいから……」
「これ以上皆さんが傷つくのは嫌なんです!」
せっかくの旅行なのに、私のせいで迷惑をかけるのはもう嫌なのだ。エリミナーレとして過ごす最後の数日かもしれないのに、またしても武田が苦しむのは嫌だ。
だから私は、一歩前へ踏み出す。
すると、それに気づいた水玉マスクが、こちらへ視線を向けた。
「やんのか?」
「武田さんを離して下さい」
「テメェ、何、威張ってやがるんだ。小娘の分際で」
水玉マスクのどすの利いた声を聞くと体が強張った。
恐怖が込み上げて、逃げ出したい衝動に駆られる。だが逃げ出すわけにはいかない。だから私は、「逃げるな」と自身に強く言い聞かせ、水玉マスクを真っ直ぐに見すえる。
「人に刃物を向けるなど、許されることではありません!」
「あぁん? そんなこと分かってらぁ」
「ならすぐに止めて下さい!」
私は発言することを止めない。しかも敢えて偉そうな言葉を選んでいく。
本当は相手を刺激するような発言は極力慎みたいところだ。しかし今だけは敢えてそれをする。
水玉マスクを武田から引き離すためだ。
「小娘の命令なんかに従うわけねぇだろ。テメェに戦う力がないことは分かってんだよ」
ニヤリ、と不気味に笑う水玉マスク。
何事かと思えば、彼の持つ果物ナイフの刃が武田の首に食い込んでいた。武田の首を一筋の赤い液体が伝っている。
「そもそも、この男がこんな目に遭っているのはテメェのせいだろ! テメェが屑だからだろうがよ!」
水玉マスクがそう怒鳴った瞬間、武田の表情が豹変した。
細い目には怒りの色が浮かび、全身から殺気のようなものが漂う。今の武田は、獲物に襲いかかる直前の獣のような顔つきをしている。
しかし、水玉マスクはそれに気がついていない。意識が私に向いているからだろう。
「……まぁいい。そんなに死にてぇなら、テメェから叩き潰してやる!」
そう叫んだ水玉マスクは、急に武田から離れ、こちらへ迫ってくる。手には果物ナイフ。凄まじい勢いだ。
レイが割って入ろうと踏み出すのが、視界の隅に入る。だが水玉マスクの方が速い。
「おらっ!」
タックルを受け、私は後ろに数メートル飛ばされる。布団が敷いてあるおかげでたいした痛みではなかったが、すぐには動けない。そんな私に向けて振り下ろされる果物ナイフ。
「嫌っ……」
私は咄嗟に両腕を前に出し、目をつぶる。
その次の瞬間、腕に痛みが走った。
恐る恐る瞼を開けると、腕から赤いものがこぼれ落ちているのが、視界に入る。大量出血するほどの傷ではなさそうだ。しかし傷口が熱い。
「……っ!」
再び果物ナイフを大きく振り上げる水玉マスク。
もう一撃はまずい。
私はまたしても両腕を前に出し、反射的に目を閉じる。
怖い。また切られるのは、痛みを感じるのは、怖い。しかし、私の心は落ち着いていた。しかも、なぜか妙に晴れやかだった。危機的状況を恐ろしいとは感じても、悔やむことは何もない。
武田を救えたのだ、それでいい——。
刺されると思った。
死ぬかどうかはともかく、負傷することは必至だと、そう思っていた。
しかし、果物ナイフの刃が私の体に触れることはなく。
代わりに耳に飛び込んできたのは、ドガァン、という凄まじい音。信じられないような大きな音だ。
「沙羅!」
音が空気を震わせた直後、耳の近くで武田の声が聞こえた。
私はゆっくりと目を開ける。すると、すぐ近くに彼の顔があった。こちらを見つめる彼の瞳は、不安げにゆれている。
「すまない、沙羅。すまない、本当に……」
「えっ。え?」
水玉マスクの姿が見当たらない。
「あの男の人は……?」
その問いに、武田がきっぱりと答える。
「蹴り飛ばし、気絶させておいた。しばらくは大丈夫だ」
首から上だけを動かし、部屋の奥へ目をやる。すると、水玉マスクが床に倒れているのが見えた。びくともしない。
「それより腕だ。沙羅、少し待っていられるか?」
「は、はい」
「すぐに止血するからな」
言うなり洗面所へ走り出す武田。
私は彼の言葉によって、腕を怪我したことを思い出した。腕を持ち上げると、赤いものがぽたぽたと垂れ、布団に染みをつくる。
今度は逆に首から上だけを玄関側へ向ける。すると、電話をかけるレイの姿が見えた。
「持ってきた。これで止める」
ぼんやりしているうちに、武田が洗面所から帰ってくる。その手には分厚いタオルが何枚か持たれている。
「意識はちゃんとあるか?」
「はい、大丈夫です」
「良かった。もう辛くないからな」
武田は私の腕を掴むと、分厚いタオルを当てて圧迫する。
「……レイさんは?」
「エリナさんと旅館に、連絡しているところだ」
「……ごめんなさい。もっと早くそうすべきでしたね」
私たちだけで対処しようとしたのが間違いだったのかもしれない。三人組が狙っていたエリナはともかく、ナギには協力してもらえたはずだ。
そうすれば、もう少しましだったかもしれない。
「いや、沙羅のせいではない。私とレイが不覚を取ったのが原因だ」
「……そんなことないです」
「いや、そんなことないことはない。エリミナーレの人間が素人にしてやられるなど、恥ずべきことだ」
「でも二人とも怪我してたから。仕方ないですよ」
しばらく動いていなければ多少衰えもするだろう。武田もレイも人間なのだから、当然のことだ。
その時。
パタパタと乾いた足音が聞こえてくる。
「一体何があったの!?」
「みんな大丈夫っすか!?」
エリナとナギが来てくれたのだと、声で分かった。ほっとして、体から力が抜ける。
「無事だけど、沙羅ちゃんが怪我して……」
「マジっすか!? そりゃヤバイっす!」
「レイ。彼らは何の目的でこんなことを?」
「なんでも——」
喋っているのを聞いていると、徐々に声が遠ざかっていく。そして私は、ついに、眠るように意識を失った。