137話 「一番知っているのは」
懸命に走った。
当てなどない。だが、ただひたすらに大地を駆けた。
背後から足音が聞こえてくる。恐らく武田が追いかけてきているのだろう。
彼は特別足が速いことはない。しかし、私に比べれば速いことは確かだ。このままではいずれ追いつかれる。それは避けたい。
そこで私は舗装されていない脇道へ足を進めた。
彼に捕まえられるのが怖かったからだ。こんなこと無意味だと分かってはいるが、今さら止めるわけにもいかず、私は走り続ける。
呼吸が荒れ、胸が苦しくて、横腹が軋むように痛む。
「待ってくれ! 沙羅! 頼む!」
背後から飛んできたのは武田の声。
私はそれすら無視して、山道を駆けていく。山道はやや上り坂になっていて体力を消耗してしまうが、必死に足を動かし続けた。
それから数分。
細い道を何度も曲がり、ようやく武田をまいた。
「はぁっ。はぁっ」
すっかり汗だくだ。額も腕や脚もびっしょり濡れてしまっている。木々を揺さぶる強い風が吹くたび、汗に濡れた肌にひんやり感を覚えた。
呼吸がなかなか整わないので、取り敢えずその場に座り込む。
土の上に座り、暫し風に当たっていると、徐々に頭が冷えてきた。頭が冷えるにつれ、「なんてことをしてしまったのだろう」と、自身の衝動的な行動を後悔してくる。
せっかくの楽しい旅行を台無しにするなんて……。
「……寒い」
山の中に一人ぼっち。
そのせいもあってか、妙に寒く感じる。
「……寂しい」
それから数十分ほど経過しても、武田は姿を現さなかった。
今も探してくれているだろうか。……いや、きっともう諦めているに違いない。多分、もう迎えに来てはくれないのだろう。
なぜこんなことになってしまったのか——私には後悔しかなかった。
「ごめんなさい、武田さん……。寂しいです……」
一時間二時間が経過しても誰も来ない。
携帯電話は圏外。時間だけは見ることができるが、電話やメールは使えない。これでは、武田はもちろん、レイにだって連絡できないではないか。
立ち上がって歩いて、自力で旅館まで戻ることも考えた。しかし、やみくもにここまで来たので、道がまったく分からない。適当に歩き回っても体力を消耗するだけなので、それは止めた。無理だ。
人一人いない細い山道に座ったまま、私は空を見上げる。葉と葉の間から僅かに光が降り注いでいた。
それでもやはり寒い。
恐らく薄着のせいだろうと思う。
「ずっと一人でここに座って、いつか息絶えて、土に帰って……なんてね」
私は一人、くだらない冗談を呟いて笑った。こうでもしていないと、不安に押し潰されそうになるからだ。
「このまま消えても自業自得」
何か言ったところで誰も答えない。当たり前だ、人がいないのだから。ただ、独り言であっても、静寂よりはましな気がした。
そのうちに日が落ちていく。
夕暮れの赤い空を見上げながら、私はぼんやりと「お腹が空いたな」なんて思った。
でもこんなことになったのは完全に自分のせいなので仕方がない。今回ばかりは、私には助けを求める権利などないのだ。
「……羅、沙羅っ。しっかりしろ、沙羅!」
誰かの声が、私を呼ぶ。
聞き慣れた声だ。
しかし脳はぼんやりとして、上手く考えられない。頭にもやがかかったような感じ、と言えば伝わるだろうか。
「沙羅! 分かるか、沙羅っ!」
「……武田さ、ん?」
ゆっくり瞼を開けると、すぐ目の前に武田の姿があった。
「気がついたか!」
彼は額の汗を片腕で拭うと、気が緩んだのか大きく息を吐き出す。今にも泣き出しそうな顔をしている。
「……どうして」
頭はまだぼんやりしているが尋ねてみる。
すると彼は、問いに答えることはせず、私を強く抱き締めた。
「良かった! 沙羅、良かった……!」
私を抱き締めた武田の体は震えていた。大きくたくましい肉体なのに、今はなぜか弱々しく感じられる。
「あ、あの。ごめんなさい、武田さん」
彼の腕の中、私は小さく謝罪する。
不快感を与える発言をしたこと。勝手な行動をしたこと。それによって迷惑をかけ、心配させてしまったこと。
こんなにたくさんの罪がたった一度の「ごめんなさい」で許されるとは、とても思えない。けれども謝らないよりかはましだろうと思って、真剣に謝罪した。
「謝るな、お前は悪くない。私がお前の気持ちを考えなかったのが悪かったんだ。さらぼっくり」
この期に及んで、なぜ「さらぼっくり」を付けるのか。今は和むような場面ではないというのに。
そんな風に心の中で突っ込みを入れていると、彼はようやく体を離し、真剣な顔で私を見つめてきた。形のせいもあって鋭い雰囲気を持つ瞳からは、曇りのない真っ直ぐな視線が放たれている。
「ただ、これだけは聞いてほしい」
「……はい」
「私のことを一番知っているのはさらぼっくり、お前だ」
彼の真っ直ぐな視線に、私は、胸を貫かれるような感覚を覚えた。
胸の奥が痛む。低音が響くような痛みだ。これは多分、真っ直ぐであれなかった自分を悔やむゆえの痛みなのだろう。
武田はいつだって真っ直ぐで純粋で私を思ってくれている。にもかかわらず私は悪いことばかり考えて……本当に、嫌になってくる。
「確かに、過ごした時間そのものは長くないかもしれない。だが、私が何でも話せるのはお前だけだ」
「……エリナさんはもっと色々知っているはずです。私が知らない、若い頃のこととか。私とよりも、もっとたくさんの苦難を乗り越えきたのでしょうから……」
言いながら俯いてしまった。あまりに情けなくて、もう、泣き出したいくらいだ。
私がそれ以上何も言えず黙り込んでいると、武田はそっと私の手を握ってくる。彼は続けて、片手で私の頭をポンポンと叩く。まるで泣いている子どもを慰めるかのように。
「エリナさんにも深いところまで話したことはない。もちろん他の誰にも。痛いことも辛いことも、私はさらぼっくりにしか言わない」
言いながら、彼は羽織っているスーツの上着を脱ぎ、私の背にかけてくれた。
彼の温もりは、まるで雪を溶かす春の陽のようだ。私の冷えきった心を温め、少しずつ少しずつほぐしていく。
「……いや。正しくは、言えないんだ。私は、こう、自分の状態を上手く伝えるのが苦手でな」
武田は真面目な顔で、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「だから後から傷が痛くなってきた時にはよく困った。誰にも言えず、一人でなんとかするしかないことも多かった」
夕焼けも過ぎ、空は徐々に暗くなりつつあった。
山道には明かりがない。このまま日が沈みきると、辺りは真っ暗になってしまうことだろう。野生動物が現れでもしそうで怖い。
「だが、さらぼっくりには話せる。お前だけは私の弱ささえも受け入れてくれるからな。本当にありがたい」
「そんなことないです……」
「私の体をここまで気遣ってくれるのは、さらぼっくりだけだ」
いつも見つめていたから気づく機会が多かっただけかもしれない。
「ありがとうな」
武田は柔らかな笑みとともに感謝の言葉を述べた。
それから彼は立ち上がる。
「沙羅、そろそろ戻ろう。みんなが心配しているかもしれない」
「は、はい……。でも、怒られないでしょうか……」
「なぜ怒る必要がある。みんなお前を心配しているに決まっているだろう」
怒られる気しかしない。
だが、いつまでもこうしていては凍えてしまうので、私は腰を上げた。
少しは元気が出てきたし、これなら歩き出せそうだ。
その時になって、私に上着を貸しているせいで武田が薄着なことに気づく。ワイシャツ一枚で夜の山はさすがに寒そうである。
だから、私は彼に身を寄せてみた。
「さ、さらぼっくりっ!?」
かなり動揺しているようだ。
そんなつもりでやったわけではないのだが、いつになく慌てた武田を見るのは、なぜか妙に面白かった。
「あ、あまり近づくな! 汗臭いかもしれない!」
もはや可愛い。
「でもこうしていた方が温かくなりますよ」
「だが……」
「迷惑かけたお詫びです」
「だ、だが、女性は汗臭いのが嫌いだと……」
武田は動きだけでなく口調までぎこちなくなっている。
「本に、書いてあった……」
「何の本ですか?」
「先日買った、『女性に嫌われない方法』という本だ」
そんな本を買っていたのか……。
私は何とも言えない気持ちになりながら、旅館へ戻る道を歩くのだった。