131話 「感謝を込めて」
病室へ入ってきたのは、やはり私の父親だった。付き添いはない。高さ十センチほどの小ぶりな紙袋を持っている。
父親は身を縮め、おどおどしながら、武田や私の方へと近づいてきた。部屋が狭くさほど距離はないため、すぐに数メートルくらいの近さになる。
上半身を起こしベッド上で座った体勢になっている武田は、私の父親の姿をじっと見ていた。私には察せないが、何か思うところがあったのかもしれない。
「すみません。いきなり伺って」
私の父親は、怯える小動物のように気の弱い顔つきをしている。それに加え、何度も軽く頭を下げていた。
対する武田はというと、笑いが込み上げてくるくらい平常運転だ。
「気になさらないで下さい。それより、何かご用でしょうか」
「感謝の気持ちを伝えさせていただきたく……」
「堅苦しいことは結構です。私は貴方に感謝されるような行為をした記憶はありません」
武田は真面目な顔で淡々と返す。
なかなかバッサリいったな、と私は密かに感心した。
「畠山とは銀行へ入った頃の知人でして。彼が警察へ移ってからはしばらく連絡をとっていなかったのですが……数年前、突然連絡が来たのです。それからはずっと脅されてきました」
父親は考えながらゆっくりと言葉を紡いでいく。自信がないのか声は小さいが、その表情は真面目そのものだ。
「だから、今回このような機会に恵まれ、良かったです。感謝しかありません」
「それなら良かった。こちらはこちらで、あの男には因縁がありましたので、良い機会でした」
窓の外は既に真っ暗。日はほとんど完全に沈んだようである。もう夜が来た。なんだか、一日があっという間だ。
「娘を護って下さりありがとうございました」
「いえ。私が望んだのです」
「そして、傷つけてしまい申し訳ありませんでした」
「お気になさらず。傷つくのも仕事のうちです」
怒ることはなく、しかし笑うこともなく。武田は始終真顔だった。
そんな彼を眺めていると、まだ表情があまりなかった頃を思い出す。今でこそ色々な顔をする武田だが、出会ってまもない頃はいつも淡白だった。まるでその頃に戻ったかのようである。
「お父さん。もう自由の身なの?」
空気がひんやりしてきたので、少しばかり口を挟んでみた。
すると父親は、やや縮こまったまま、返してくる。
「そうなんだ。京極さんが上手いこと言ってくれたおかげで自由になれたんだ。明日からはまた、普段通り仕事だな」
父親の言葉を聞いて、私は、「良かった」と安堵の溜め息をつく。変わらず仕事を続けていけるなら、それが一番だ。
今はエリナの計らいに感謝したい。
「明日からってことは、今日中に帰るの?」
「新大笠から新幹線で」
「ふぅん。そうなの」
父親と会えなくて寂しいということはない。ただ、久々に会えたのにすぐ別れなくてはならないというのは、少々残念な気がする。
どんな理由であれせっかく帰ってきたのだから、もう少しゆっくりしていけば良いのに。
しかし言わなかった。
自分は他人の人生に口出しできるような人間ではない、と分かっているからだ。本人が嫌でなければそれでいい。
「それでは、そろそろ失礼させていただきます。あ、これ。もし良ければどうぞ」
父親は深くお辞儀し、手に持っている紙袋を武田へ差し出す。動物たちがピクニックしているイラストが載った、予想外にポップな紙袋を、武田は「ありがとうございます」と言いつつ受け取った。
「これは?」
「クッキーの詰め合わせです。武田くんの好みが分からなかったので……」
「お気遣い、感謝します」
武田の対応は大人らしいものだった。
彼とて三十路を過ぎた十分な大人。当たり前といえば当たり前なのだが……、ずれていない彼にはやや違和感を感じる。これは多分、感覚が普通とずれている武田に馴れてきた故に生じた違和感なのだろう。
こうして、私は武田と、父親の背を見送った。
しばらくは色々ややこしいことがありそうだな、と思っていただけに、拍子抜けだ。罪を問われることはなく、身柄を拘束されることもなく。ほぼ一日で自由の身となれるなんて、想像してもみなかった。
現実は私の予想を遥かに越えた——とても良い方向に。
「クッキー、食べるか? ……さらぼっくり」
「そうですね……武田さんは食べられますか?」
最後に無理矢理「さらぼっくり」を付けるセンスが彼らしい。不自然感は否めないが、そこが彼の魅力でもある。
だから私は、ほんの少し他人とは異なった感覚の武田が、好きだったりする。
「お前が食べるなら、一つくらいは頂こうかなとは思う」
「じゃあ食べてみましょうか。今日は九時までまだ時間ありますし」
「では紙袋を開けてみよう。……さらぼっくり」
またしても「さらぼっくり」を無理矢理付けた。
付ける必要がないタイミングにねじ込んでくる武田のセンスはかなり謎だ。ただ、人の心とは不思議なもので、武田の謎なセンスさえ今は愛しく感じる。
武田は紙袋から箱を取り出す。そして、包装紙を剥がし、テープも外して、ついに箱を開ける。
するとそこには、花畑のような様々なクッキーが広がっていた。
合わせると市松模様になりそうな白黒の四角いもの。ジャムで彩られたカラフルなもの。黒い粒が見える、恐らく茶葉を練り込んだのであろうもの。
もちろん他にもあるが、とにかく様々な種類のクッキーが詰め込まれている。
「これは私にはもったいない。さらぼっくり、お前が食べろ」
「いえ。一緒に食べましょう」
「……そうか。分かった。お前が言うなら仕方ない」
狭い病室の中、私は武田と、クッキーをつまんだ。
口内で甘さが広がる。すると緊張は消え、心が緩んだ。温かな気持ちになって、頬も自然と緩む。
エリミナーレの明日はまだ分からないけれど、今はこの幸せがあればそれでいい。
私は素直にそう思った。