125話 「あれは本気か?」
私はレイと共に病院へ帰ることとなった。
レイは病院のエントランス付近にあるタクシー乗り場からタクシーに乗ってここまで来たらしい。だが、帰りはタクシーを呼ぶ時間もなく、結局電車帰りとなった。
最寄りの駅は芦途駅。ここからは徒歩十数分の距離だ。
「ここって、芦途市だったんですね。知らなかったです」
「電車で来たことはないもんね」
「はい。それにしても……おかしな感じです」
ナギに止血してもらった左腕は、こうして歩いている間も、脈打つように痛む。しかし、涙が出るほどの痛みではない。だから平気だ。
爆発に巻き込まれ、電撃を浴びせられ、しまいには拳銃で撃たれ——やられ続けた武田を思えば、こんな怪我、たいしたものではない。
「本当にこれで終わったんですかね」
曇りのない空を見上げると、なんだか奇妙な気持ちになる。
エリナが宰次への復讐を夢見て生きた約十年。
武田が人を愛さぬと決めて生きた約十年。
その長い時間が、こんなほんの数時間で終わりを告げるなんて、不思議としか思えない。
……いや。もちろん、これですべてが解決したわけではない。宰次の罪を明らかにしたり、紫苑らをどう裁くのか決めたり、やるべきことはまだまだ山積み。
ただ、一段落したことは確かである。
「……沙羅ちゃん?」
「宰次が捕まったとして、これからどうなるのか……私も父も、エリミナーレも」
任務が終わればみんな揃って、仲良く帰ることができるのだと、そう思っていた。だけど現実は違って。結局、私たちはまた別行動だ。
いまいち気分の晴れない私に、レイは言ってくれる。
「大丈夫だよ、沙羅ちゃん。きっと大丈夫」
レイの励ましの言葉に、私は胸を握られたような感じがした。嬉しくて、温かくて、ほんの少し申し訳なくて。
「未来は見えない。けど、きっと上手くいくと思うよ」
「レイさんは、またエリミナーレに?」
「要安静が済んだらね。あたしは自分を誇れるあたしでありたい。だから、また人のために働くよ」
そう語る彼女の表情に曇りはない。その瞳は、この先歩んでゆく未来を、真っ直ぐに見据えている。
「妹さんに恥じないように生きたいって仰ってましたもんね」
「そうそう」
こんな風に真っ直ぐな表情をできればいいな、と私は思った。私もいつか、曇りのない瞳で未来を見据えられるような人になりたい。
「これからもよろしくね。沙羅ちゃん」
「なんだか最終回みたいな感じですね」
「え? 最終回って?」
キョトンとした顔をするレイ。
おかしなことを言ってしまっただろうか、と心配になる。優しい彼女のことだから悪くは言わないだろうが、些細なことも気になってしまうのが私の性なのだ。
「大きなことが終わって、帰り道に『これからもよろしくね』ですよ。物語の終わりみたいだなって」
するとレイは楽しそうにクスクス笑った。
「沙羅ちゃんったら、変なの。明日も明後日も、変わらず続いていくのに」
「ですよね。確かに変です」
「思うんだけど、沙羅ちゃんってたまにユニークだよね」
ユニークな自覚はないが、レイが言うならそうなのかもしれない。彼女は嘘はつかない。だから、恐らく私は、本当に、ユニークな人間なのだろう。
自分のことは自分が一番分かっていない、という説も、あながち間違いではないようだ。
——夜。
私は一人、病室前の廊下に設置された椅子に座っていた。
蛍光灯のぼんやりとした光が、寂しい気持ちを掻き立ててくる。私は、包帯が巻かれた自分の左腕を眺め、退屈をまぎらわす。
エリナかナギが来るという話だったので待っているのだが、一向に現れそうにない。
レイは医師や李湖に叱られ、元々いた病室へと入れられた。武田は治療やら何やらで、面会できる状態ではない。だから、レイにも武田にも、会いたくても会えないのだ。
「……疲れた」
私は一人、溜め息を漏らす。
夜の病院は静かだ。薄暗い静寂の中でぼんやりしていると、まるで世界から音が消えてしまったかのように感じる。
時計がないので、携帯電話でさりげなく時間を確認する。午後八時は過ぎていた。
その時、廊下の向こうから、パタパタという小さな足音が聞こえてくる。
私は特に意味もなくそちらを向く。清潔そうな服に身を包んだ三十代くらいの女性看護師が、小走りでこちらへ向かってきていた。
まさか私ではないだろう、と視線を逸らす。
しかし彼女は声をかけてきた。
「天月さん! 良かった、まだいらっしゃって」
「え。私に用事ですか?」
「はい。一緒に来ていただいても構いませんか?」
また誘拐されたりして。
そんなことを心の中で呟き、一人密かに笑う。
「構いませんけど……何の用ですか」
「先ほどお目覚めになった武田さんが、天月さんに会いたい、と」
「そうでしたか。分かりました」
武田の意識が復活したなら良かった。そして、彼が私に会いたいと言ってくれて、凄く嬉しい。
私は明るい気持ちになりながら、女性看護師に案内されて、武田のもとへ向かった。
入り口付近に『武田康晃』と書かれた小さなネームプレートがかかっている病室へ入る。
ベッドと椅子、そして小さなテーブル。ほとんどそのくらいしかない、殺風景でこじんまりした病室だった。一人用の個室だから、あまり広くないのだろう。
私は女性看護師に礼を述べ、ベッドへ駆け寄る。
「武田さん……!」
らしくなく、武田はベッドに横たわっていた。
まだ点滴中だが、意識ははっきりしているように見える。彼の瞳はしっかりと私を捉えている。
「沙羅。来てくれたんだな」
「はい、大丈夫でしたか?」
「問題ない。お前のおかげで堪えられた」
そう話す武田の表情は柔らかなものだ。
頬の傷にはガーゼが貼られていた。ゆるりとした白い上衣の隙間からは、包帯が巻かれた体が僅かに見える。
「ところで、沙羅」
唐突に武田が話題を変える。
一体何だろう、と思っていると、彼は言いにくそうな顔で言う。
「その……あれは本気か?」
話についていけず黙っていると、彼はゆっくりと続ける。
「私は構わないが、本当のところ、お前はどうなんだ」
「え。あの、何のお話でしたっけ?」
武田と話したことを忘れるはずはないのだが……今は本当に思い出せない。お互いの意思を確認しあうような話をした記憶はない。
私が首を傾げていると、彼はいつもと変わらない淡々とした口調で言う。
「私が死にかけていた時、言ってくれただろう。結婚しましょう、と」
それを聞いて私は、この場から走り去りたいほど恥ずかしくなった。
確かにあの時、私はそう言った。だが、あの時の私はどうかしていたのだ。だから勢いに任せてそんな恥ずかしいことを言えたのである。
どう考えても、正気の沙汰ではない。
「あれは冗談だったのか?」
まさか聞こえていたとは。
そのことに大きな衝撃を受け、私は暫し何も言えなかった。




