121話 「生を刻む時計」
「沙羅ちゃん! 武田さん! 大丈夫っすか!?」
エリナの指示を受け、ナギが素早くこちらへ駆け寄ってきた。上体を起こすことすら自力ではままならない状態の武田を目にし、彼は驚きを隠せない。
「ちょ、武田さんっ!?」
「……ナギ、か……」
ナギの声が聞こえたらしく、武田は応じる。しかし、生気のない弱々しい声だ。
「何があったんすか?」
「宰次から私を庇って、それで、色々……」
涙のせいで上手く話せない。するとナギは慌てたように声をかけてくる。
「あ、いいっすよ! 沙羅ちゃんは無理しなくていいっす!」
「ごめんなさい……」
「いやいや。気にしなくていいっすよ。って、あっ!沙羅ちゃんも怪我してるじゃないっすか!」
ナギに言われて初めて思い出した。私も怪我人だったのだ。……いや。だが武田の方が重傷である。今は彼が優先だ。
「まだちょっと出てるっすよ! すぐに止血するから。ええと、ハンカチハンカチ」
「そうだっ。これがあります」
私は武田から借りたハンカチを出す。その光景を目にした武田は、掠れた声で「それは駄目だ」と言う。
よく考えると、確かにこれは武田の血液が付着している。しかし、私としては、そんなことはどうでもいい。
「あ、ちょうどいいっすわ」
ナギがハンカチを使って止血してくれる。案外すぐに止まったので、「これなら自分でやっておくべきだったな」と少々後悔した。だが、これで失血死は免れただろう。取り敢えず私は。
それからナギは武田の方へ目をやる。
「うーんと、これはどうすればいいんすかねー」
武田は見た感じあまりたいした怪我には見えない。銃創こそあるが、そこまで酷い出血でもない。だが、らしくなくぐったりしている。
困り顔になるナギ。
ナギはここへ至った経緯を知らない。だから何がどうなってこのような状態になっているのか、どのように対処するのが適切なのか、分からないのだと思われる。
本来なら、ちゃんと私が、一部始終を説明するべきなのだろう。しかしそんな時間はない。なんせ、まだ宰次の魔の手から逃れきったわけではないのだ。
「……ナギ。私は放っておけ……」
「ちょ、武田さん? いきなり何言い出すんすか」
「沙羅が……無事なら、それで……」
浅く速い呼吸をしながらも、武田は懸命に言葉を紡ぐ。苦しそうなのは変わらないが、ほんの少し安堵しているようにも見える。
「いやいや、駄目っしょ。そんな——」
「ナギ!」
唐突に飛んできたのはエリナの鋭い声。驚いて声がした方を見ると、エリナが宰次と紫苑に挟まれていた。
黒光りした鞭を竜巻のように縦横無尽に振り回し、宰次と紫苑が接近してこないようにしている。攻撃というよりかは、牽制に近い感じだ。
「援護!」
エリナとて普通の女性ではない。一対二になったくらいで怯みはしないし、容易くやられることなどありはしないだろう。
ただ、今彼女は、ナギを求めていた。宰次と紫苑——二人を同時に相手にするには、ナギの力が必要だと感じているのだろう。
「すぐ行くっす!」
反射的に返事をしてから、ナギは私の顔を見た。申し訳なさそうな顔になる。
「大丈夫、っすか?」
私や武田のことを案じてくれているようだ。ナギは善人なので、怪我している私たちに気を遣ってくれているのだろう。
けれど私には分かる。
彼がエリナを心配している、ということが。
「私たちはもう大丈夫です」
「やっぱこっちにいた方がいいんじゃ……」
「いえ。ナギさんはエリナさんを護って下さい」
私が武田を心配するのと同じように、ナギはエリナを心配しているに違いない。これは確信が持てる。なぜって、彼は時折、エリナを凄く気にかけていたからだ。
「そして、宰次を倒して!」
後から「倒して、という言い方はおかしかったかな」などと思う。勢いで発してしまったのだが、考えてみれば、この年で「倒して」は変だ。ヒーローを応援する子どもではないのだから。
しかしナギは、私の言葉に、握り拳の親指をグッと立てる。そして口角を上げ、「もちろん!」と元気に応じてくれた。
ナギはエリナと共に戦うのだ。形は違えど、私も武田のために戦おう。
私は横たわる武田へと視線を注ぐ。彼の虚ろな目も、ぼんやりと私を捉えていた。
やがて、彼の口が動く。
「……沙、羅」
声は掠れている。なのに、どこか穏やかな顔をしている。今にも眠ってしまいそうな顔だ。
迫るような浅く速い呼吸。徐々に青白く染まる顔面。
見ているのも辛い。私のせいで彼がこんな風になった、と思ってしまうから、なおさら辛いのだ。ただ、私はこの辛さを、口には出さないと強く決める。
弱気な言葉は不幸を呼ぶ。だから駄目だ。
「……生きて、いるんだな」
「はい。だから武田さんも頑張って下さいね。もうこれ以上痛い目には遭いませんから」
「あぁ。……もう、遭いたくは、ない……」
ゆっくりと言葉を紡ぎながら、彼は一度、静かに瞼を閉じる。一筋の涙が頬を伝っていく。
「……すまなかったな。沙羅」
「どうして武田さんが謝るんですか」
「私は、お前を……もう、悲しませたくなかった……」
涙の粒が落ちてから、彼は再び瞼を開く。虚ろな瞳は涙で滲んでいた。鋭い光を湛えていた頃の面影は、もうない。
「……だが、できなかった。本当にすまない……」
「いえ、いいんです! そんなの。私は泣き虫なので、簡単に泣いちゃいますから! 私はただ、武田さんが生きていてくれれば」
無理をして明るく振る舞う。
そんな私を見て、武田は、どこか切なげに微笑んだ。
「その唯一の願いすら……私は、叶えてやれそうに、ない」
泣きながら笑う。彼はいつから、こんなに複雑な表情をするようになったのだろう。
「……ごめんな。沙羅」
細い目を閉じる。
彼の生という名の時計が止まってしまったみたいだった。
「ま、待って。そんな急に。冗談……ですよね?」
しかし返事はない。
その光景を見て、私は、「このままでは彼が死んでしまう」と思った。確証があるわけではないが、本能的に感じたのである。
「待って。待って下さい、武田さん!」
このままではいけない。どうにかしなくては。
私は、彼を引き止めることができそうな言葉を、なんとか探す。
懸命に。必死に。
——そして。
「結婚しましょう!!」
とんでもないことを言ってしまった。
私は一体何を言っているのか。自分でもわけが分からない。
無理矢理言葉を探すと、いつもこうだ。嫌になってくる。けれど今さら引き返すことはできない。
「いいですか、武田さん! 結婚するんです! 一時間後くらいに! だから、死んじゃ駄目ですからね!」
長時間にわたる強いストレスのせいで、私は若干おかしくなっていた。そこに、武田が死ぬかもしれないというストレスが加わり、私の頭は色々とんでもないことになってしまったようだ。
「いいですね? 返事して下さいっ!」
床に横たわる武田の体を揺すってみる。だが反応がないので、私はさらに激しく揺すりつつ耳元で叫ぶ。
「返事して! 武田さん!」
少しの沈黙。
もう駄目か、と諦めかけた時、武田の唇がほんの少しだけ動いた気がした。じっと見つめてみる。
「…………」
「武田さん? 武田さん?」
「…………」
「聞こえてるなら返事をして下さい!」
「……沙羅」
確かに、彼の声だ。
間違いない。
「目が覚めたんですね!? 武田さん!!」
武田は寝起きのように細く目を開ける。とても眩しそうだ。
「……瑞穂さんに、なぜか」
「瑞穂さん?」
「……今死ぬと、とんでもないことに、なると……笑われた……」
奇跡。
そんな言葉、信じてはいなかった。だがこの瞬間、私は生まれて初めて、その言葉の本当の意味を知った。
こうして、二人の時計は再び動き出す。




