116話 「背負うな危険」
ダァン、と鈍い音が響き、黒服の体が床に叩きつけられる。身構えていなかった黒服は、床に叩きつけられた衝撃ですぐには立ち上がれない。
投げた武田は黒服から数歩離れると、しゃがみ込む。左手で右腕を押さえながら、肩で息をしている。
私はすぐに彼のもとへ駆け寄る。
「大丈夫ですか、武田さん」
「……あぁ。問題ない」
彼はそう言うけれど、問題がないとは到底思えない。額には汗の粒が浮かんでいるし、呼吸は乱れている。この状態を見て問題ないだと思える者がいるわけがない。もし仮にいたとしたら、それは、彼の身を案じていない人間だろう。
顔を覗き込むと、彼は懸命に笑みを浮かべようとする。
「優しいな、お前は。だが心配は要らない。少しすれば回復する」
「でもっ……」
すると彼は、痛むであろう右手で、私の頭をぽんぽんと叩く。子どもに対して行うような感じの叩き方だ。
「泣くなよ、沙羅。私のことで悲しむな」
「え?」
「お前が悲しむと私も辛い」
武田は肩を揺らしていたが、その表情は柔らかかった。私のせいで傷ついたのに。私のせいで苦しんでいるのに。
私はそんな彼の背を軽く擦りながら、父親へ視線を向ける。威圧感のある鋭い目つきになるよう意識しながら睨む。
「お父さん! なんて酷いことをするの!」
すると、何も言わずに立っていた父親が、ようやく口を開いた。
「……仕方がなかったんだ」
今日初めて聞く父親の言葉は、自身の罪を肯定するようなものであった。
他人を傷つけたにもかかわらず、罪を認めず、悔いることもしない。その態度が許せなかった。腹が立つ、という感情を改めて知ったような気分だ。
こうなってしまえば、父親だということは関係ない。大切な人を傷つけられて、黙っていられるものか。
「仕方なくない! 武田さんはお父さんを助けようとしたのよ。なのに……!」
「待て、沙羅。それ以上言わなくていい」
「お礼を言わないどころか攻撃するなんて!」
武田の制止も振り払い、私は父親に鋭く叫んだ。
あまりに許せなかったから。
宰次に強要されていたから自分は悪くない、とでも言うつもりだろうか。
「どうしてこんなことをしたのか、ちゃんと説明して!」
問いたださなくては気が済まない。
武田に何度か「落ち着け」と言われたが、どうしても落ち着けそうにはなかった。
「沙羅、聞いてくれ……これはすべて僕の意思じゃないんだ……」
「宰次に頼まれたの?」
「……あぁ。黙っていたこと、すまなかったと思っている。けど、沙羅や母さんを守るためにはこれしかなかったんだ」
父親は、ほんの少し俯いて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。その顔は青ざめていた。
「逆らえば妻子が危険な目に遭う、と脅されて……僕は従ってしまった……」
その瞬間、宰次が顔色を変える。
「天月!!」
今までに一度もないくらい鋭い声。
宰次はいつも飄々としていて、激しい声を出すことはなかった。それだけに、今の一声は私を驚かせた。
父親は小動物のように体を震わせる。
「でたらめを言うと、娘もろとも痛い目に遭うぞ!」
丁寧さの欠片もない。
脅すような言葉を投げかけられ、父親は身を縮めている。完全に怯えてしまっているようだ。なんて情けない父親——そう武田に笑われそうだと思った。
「や、止めてくれ。畠山。それだけはどうか……。僕はともかく、娘は止めてくれ……」
「もう遅い! アウトだ!」
宰次が叫んだのを合図に、黒服が殴りかかってくる。突如背後から来られ、私は「避けられない!」と焦る。
——しかし。
次の瞬間、武田が黒服の拳を受け止めていた。痛いはずの右手も頑張っている。
「沙羅。棒を使え」
「は、はいっ!」
武田からの指示に従い、私は黒服の脇腹に黒い棒を当てる。黒服の動きが制止した。その隙に、武田が黒服を蹴り飛ばす。
そこへ、もう一人の黒服が、攻撃を仕掛けてくる。武田は、乱雑な攻撃を受け流し、膝蹴りで動きを止めてから蹴飛ばした。
これで黒服はひとまず片付いただろうか。
恐怖に身をすくめていた父親は、武田の圧倒的な戦闘能力を目の当たりにし、「信じられない……」と何度かぼやいていた。それから少し経つと、今度は、目をパチパチさせたり軽く首を傾げたり。どうも理解が追いつかないようである。
「つ、強すぎる……」
父親はかなり動揺しているようだ。
しかしそれも当然かもしれない。というのも、武田の戦い方はかなり豪快である。初めて見た者は驚かずにはいられないだろう。
私とて最初は驚いた。回を重ね、ようやくここまで見慣れたのである。
「うぅむ。彼は一体何者なんだ?」
「彼は武田さん。エリミナーレが誇る最強の戦士なの」
「せ、戦……士?」
「つまり強い人ってこと!」
詳しく聞かれるとややこしいので、先回りして言っておいた。
ちょうどそこへ、戦いを終えた武田が戻ってきた。
私が「体は大丈夫?」と尋ねると、彼は静かに「もちろんだ」と答える。
そんな彼の真っ直ぐな視線は、宰次一人に向いていた。細い目でありながらもただならぬ威圧感をまとっている武田の目は、なかなか恐ろしい。私ですらぞわっとした。
「宰次。悪いがここで捕らえさせてもらう」
「……できますかな?」
「今日の目的はお前を拘束すること。それさえ終われば帰還できる」
武田は本気で宰次を捕まえるつもりのようだ。
しかし、それに関しては、私は反対である。個人的には、エリナらと合流することを優先した方が良い気がするのだ。一対多になれば確実にこちらの勝ちなのだから、敢えて今挑む必要性は感じられない。
私は武田に一応言ってみる。
「あの、武田さん。エリナさんたちとの合流を優先した方が良いのでは……?」
だが、彼は首を横に振った。私の意見を採用してはくれないようだ。
「エリナさんたちが来るまでに、すべてを終わらせる」
彼はほんの僅かに口角を持ち上げ微笑する。ただ、私には、無理しているようにも見えた。
もしかしたら彼も、エリミナーレのみんなが傷つかないように、と考えているのかもしれない。あの時のレイと同じように。
——だからこそ。私は彼を止めなくてはならないのだ。
一人で背負い込もうとして、レイはあんな目に遭った。私はそれを悔やんでいた。
ここでもし彼を止めなければ、同じ間違いを繰り返すことになる。またしても大切な仲間が傷つき、私はレイの時と同じかそれ以上の後悔をすることになるに違いない。
そんな風に考えたから、私は彼の上衣の裾を掴んだ。
「待って下さい」
「……なんだ」
「いくら武田さんでも、一人で挑むのは危険です。何があるか分からないのに」
「確かに危険かもしれない。だがこれは私が」
そんな風に言葉を交わしていた時。視界の端に、何か——火花のようなものが煌めくのが見えた。私の足下辺りだ。
直後、武田が声をあげる。
「危ない!」
彼は突然私を抱き締める。何かから庇うかのように。
そして、その体勢のまま、私たちは数メートル飛ばされた。




