114話 「寄り添いあうもの」
茜の背を追って歩くこと数分、扉の前にたどり着いた。先頭を行く茜は、扉の前で足を止めると、「ちょっと待っててねぇ」と言い部屋へ入っていく。上手な入り方だったので、室内は少しも見えなかった。
武田と共に茜を待つ。
待つ間、少々暇なので、私はふい武田の顔を見上げてみた。そして驚く。意外にも、彼の表情が強張っていたからだ。
私は武田を何事にも動じないタイプだと思っていた。初めて出会った立て籠もり事件のあの日も、誘拐されて助けてくれた日も、彼はいつだって冷静沈着だった。
いや、もしかしたらそう見えていただけかもしれないが。だとしても、少なくとも私には、落ち着いているように見えていた。
「……武田さん?」
しかし今は違う。
武田は何かに怯えるような色を浮かべていた。取り乱して騒ぎこそしていないが、普段とは明らかに異なる顔つきだ。
元気がない、という感じである。
「武田さん?」
「……あ。あぁ、沙羅。どうかしたのか」
「元気がないなと思って」
「なに。私がか」
「はい。ちょっと辛そうだなって」
私は感じたことをそのまま言った。
すると彼は、微かに目を伏せて、それから述べる。
「……少し不安なんだ。エリナさんやナギ、それにモルも、無事だろうかと」
それに、と彼は続ける。
「私で本当に沙羅を護れるのか分からなくなってきた。殴り合いしか能のない私が、お前のような繊細な人間を護れるのだろうか」
なにやら自信を喪失しかかっているようだ。今この場で抱く不安ではない気もするが、彼は真剣に不安を抱いているのだろう。
ならば一番近くにいる私が、その不安を解消してあげなくては。
そんな風に思い、私は彼の手をそっと取った。私がいつも頼りにしてきた大きな手も、今だけは小さく感じる。不思議なものだ、人の感覚とは。
「ん? どうした?」
武田は戸惑ったような顔をしながらも手を握り返してくる。彼の指の温もりが、私の手にじんわりと伝わる。
「……武田さんが」
「私?」
「武田さんが元気になりますように」
心の底から念じつつ、たった一文、小さな声で言った。
多くの言葉なんていらない。心がこもってさえいれば、短いものであっても、きっと力になる。そう思うから、私は敢えて長くない言葉を選んだのだ。
「い、いきなりどうした。沙羅? お前は一体何を」
「武田さんの中の不安が少しでも軽くなればいいなと思って言いました。言葉ですべてが変えられるわけじゃないですけど、でも、少しは元気が出るかもと。いきなりですみません」
すると、武田は黙り込んでしまった。絡んだ指と指をほどこうとはしない。ただ、時が停止したかのように、びくとも動かなくなってしまったのである。
ショックを受けるようなことか、あるいは、言葉にならない怒りが込み上げることを言ってしまっただろうか。最初私はそんな風に思い、心配になった。二人きりの時に仲違いしてしまったら最悪だ。
だが、もし彼が先ほどの発言で不快感を抱いたのだとしたら、さらに何か言うのは危ない。さらなる仲違いに繋がってしまう可能性は十分に考えられるからである。
あらゆる方向へ思考を巡らせ、次の言葉をかけるかどうか悩んでいると、武田が唐突に呟く。
「これは……素直に、嬉しい」
彼はらしくなく頬を赤らめていた。気まずそうな色を浮かべながらも、チラチラ視線を向けてくる。
「ありがとう」
予想外にストレートな感謝の言葉を述べられたことに驚き、私は思わず彼の顔を見上げてしまった。すると、たまたま視線がばっちり合う。目が合うと、彼はすぐに視線を逸らす。
……変に初々しい。
いい年の大人だというのに。
「少しは元気になれそうですか? 武田さん」
「あぁ。もう弱音は吐かない。沙羅のためにも、私が頑張らねばな」
「一緒に、ですよ」
「そうだな。よし」
今この状況で、ということには不自然さを感じる。
しかし、少々温かな気持ちになった。緊張がましになった気がする。
その時、ガチャリと音を立てて扉が開いた。
出てきた茜は、あどけなさの残る子どものような顔に、屈託のない笑みを浮かべている。よく分からないが、相変わらず楽しそうだ。
彼女は赤い瞳で武田と私をそれぞれ見て、それから口を開く。
「お待たせぇ。はいどーぞ。入っていいよぉ」
茜特有の甘ったるい声だった。どこか不気味さすら感じられる、柔らかい調子である。
彼女はにこにこしながら扉を開けてくれた。
しかし私はここにきて迷ってしまう。茜が浮かべる曇りのない笑みの裏を自己流で深読みしてしまい、踏み出す勇気を失っていく。今さら退けないことは分かっている。それなのに、沸き上がる不安に勝ちきれずにいた。
そんな私に、武田は、「大丈夫」と小さく言ってくれる。彼にしては気が利いた声かけだ。
もちろんたったの一言であらゆる不安が一掃されるわけではない。だがそれでも、微かに心が軽くなった気がした。
「おや。なかなか速やかに来てくれたようですな」
室内へ入る。すると中では宰次が待ち構えていた。
いかにも高級そうな、滑らかな生地で仕立てたグレーのスーツは、重厚感を漂わせている。ダブルボタンなのは変わらないが、前に会った時とは若干異なった印象だ。
けれど似合っていないことはない。白髪混じりの頭部とよく馴染んでいて、これはこれでちゃんとした形になっていると感じる。
「分断して沙羅を呼び出すとは、一体どういうつもりだ。宰次」
「ふふ。彼女に直接お話ししたいことがありましてな。驚かせてしまいましたかな?」
「乱暴なことをするなら手加減はしない」
武田は厳しい顔つきで低い声を出す。まるで威嚇しているかのように。
そんな彼を見て宰次は、ふふ、と笑みをこぼす。
「乱暴なこと? そんな野蛮な真似をするつもりはありませんよ」




