105話 「時は止まらない」
午後三時を回った頃、事務所に突然電話がかかってきた。
偶然近くにいた私は慌てて受話器を取る。また誰かに何かあったのか——と少々不安になったが、どうやらそうではないらしい。かけてきたのはナギだった。
「あっ、沙羅ちゃんすか?」
「はい。どうかしましたか」
「ついさっきレイちゃんが起きたんっすよ!」
それを聞き、心が一気に明るくなる。
最近の中では珍しく嬉しい知らせだ。
どんな深い谷底にも太陽の光は届く。それを目の前で証明してもらったかのような、とても嬉しい話である。
「記憶とか意識とか、大丈夫なんですか?」
「大丈夫っす! 普段と全然変わんない感じっすよ! むしろよく眠って元気なくらいっすわ!」
「それなら良かったです」
「いやー、心配して損したっすよー。この俺が胃痛める直前だったっすからね!」
それは絶対に嘘。
常に軽くて悩むことなんてなさそうなナギが、胃を痛めかけるはずがない。彼のことだから大袈裟に言っているのだろう。
「……ただ」
声色をやや変えて言うナギ。
「吹蓮が自爆して、その爆発に巻き込まれた……とか言うんすよ。そこだけちょっと謎なんすよねー」
「そうなんですか。確かに少し謎ですね」
「悪い夢でも見てたんすかね? ま、でも元気なんで、安心してもらって大丈夫っすよ!」
ナギは気を遣ってかそんな風に言う。
それから数秒間を開けて、言葉を続ける。
「ところで、エリナさんの調子はどうっすか? 熱とかあった? 苦しんでないっすか?」
女性に対して優しいナギは、エリナの身を案じていたのだろう。私が答えるより早く次々尋ねてくる。
「ちゃんと寝てる? 無理して強がってないっすか?」
彼は日頃からよく喋る質ではあるが、それにしても今日はよく喋る。随分早口だ。恐らく、伝えたいことがたくさんあるのだろう。
「あの人、いつも強気に振る舞ってるっすけど、本当は繊細なんすよ! だから沙羅ちゃん、寄り添ってあげてほしいっす!」
「え。私がですか?」
なぜ私なのだろう。そう思い確認すると、ナギは「よろしくっす!」と、はきはきとした調子で言った。
「ま。本当は俺が傍に寄り添って、あんなことやこんなことをして差し上げたいんっすけどねー」
「何ですか、それ……」
「いやいや! 沙羅ちゃんは知る必要のないことっすよ!」
うっかり言ってしまっただけだったのか、慌てて揉み消そうとするナギ。
心配しなくても、知りたくもない。
そう思ったが、敢えて言うことはしなかった。ここでわざわざ言う必要もないと判断したからだ。
それから少しばかり話をし、私は電話を切った。
ナギとモルテリアは特別に許可を貰ったらしく、病院で一泊するという話である。つまり今夜は帰ってこないということ。非常に残念な話だ。
寂しい夜になりそうだな、と思ったりした。
——その夜。
エリナは自分の部屋で夕食をとった。そして、その皿を引き上げるのは私の役目だった。
彼女の夕食の皿をお盆に乗せてリビングへ移動する。そこで私は驚きの光景を目にしてしまった。
「なっ、何を!?」
武田が床に座り、開脚して柔軟体操をしていたのである。私は驚きと戸惑いで、思わず後ずさってしまった。
しかし彼はというと、少し顔を上げただけで、呑気に柔軟体操を続けている。
「何を驚いている?」
「驚きますよ! いきなりリビングで柔軟体操とか!」
「老いと共に体は柔軟性を失っていくものだ。時にはストレッチも必要だと思うが?」
「だからってリビングでしなくても……」
謎が深まってしまった。
彼の不思議な行動は今までもあった。しかし、今回はまた、かなり不思議な行動である。
もちろん柔軟体操をすること自体に問題があるわけではない。ただ、敢えて今ここで行う意味が、私には理解できないのだ。
「そうか……そうだな。沙羅が嫌なら止めよう」
武田は言いながら少ししょんぼりした顔をした。
こんな顔をされると、私の中に罪悪感が芽生えてしまう。これではまるで、彼の楽しみを私が奪ったかのようではないか。そんなのは私が嫌だ。
せめて今くらい、彼には好きなことをしていてほしい。勢いで色々言ってしまったが、彼のやりたいことを止めさせるつもりはなかったのだ。
「待って下さい。私、嫌とは言ってません」
懸命に探し見つけた言葉は、こんな得体の知れないものだった。
しかし彼はすんなりと受け入れてくれる。
「そうなのか?」
「はい。ただ少しびっくりしただけで」
「そうか。びっくりさせてしまってすまなかった。今後は気をつけよう」
「あ、いえ……」
何とも言い難い雰囲気になってしまった。リビングは静寂に包まれ、非常に気まずい。
そこへ、李湖が突然現れた。
「あれぇー。お二人、こんなところで何してるんですかー?」
夜にもかかわらずフルメイクだ。
相変わらず化粧は濃い。皮膚は分厚そうに見える。これでよくアイドルなんぞできていたものだ。
「もしかして、いちゃついてたんですかぁー? それともぉ、もう一線越えちゃいましたー? やぁ、怖すぎぃー」
発想が怖すぎる。
私は冷めた顔をせずにはいられなかった。
そんなことを恥ずかしげもなく言えるというのは、ある意味才能かもしれないが、普通とは言い難い。普通の大人なら、仮に思ったとしても心の中にしまっておくだろう。
「康晃くんってぇ、意外と積極的だったりしそ……ひぃ!」
武田に凄まじい形相を向けられ、短い悲鳴をあげる李湖。
「すぐに立ち去れ」
短い言葉だが、武田の低い声で放たれると、かなりの威圧感がある。
完全に怯えてしまっている李湖は、びくびくしながらも速やかにリビングから出ていった。
李湖がいなくなってから武田は、はぁ、と溜め息を漏らす。呆れ顔で「何なんだ、あいつは」などと言っている。
「面白い人ですよね」
「な、沙羅はああいうのが好みなのか?」
「いえ。そんなんじゃないですけど、ユニークだなって」
もっとも、李湖の場合は、ユニークを通り越して面倒臭いな気もするが。
「ところで武田さん、どうしてこんな時に柔軟体操を? 怪我してられるのに」
「どうもすっきりしなくてな。気晴らしに少し動いてみようと思ったんだ」
「なるほど」
「沙羅もどうだ?」
「遠慮しておきます……」
彼と同等の動きをできるはずがないので断った。本当は一緒にしたい気持ちもあったが、迷惑をかけてしまうのが嫌だったからだ。
こうして、また一日が過ぎていった。
一歩ずつ一歩ずつ、確実に約束の日へと近づいていく。