104話 「慣れた寝床で眠りたい」
結局あの後、私は事務所へ帰ることになった。
ナギとモルテリアは病院へ残り、私と武田、そしてエリナは事務所へ。というのも、急に体調を崩したエリナが、「事務所で休む方がいい」と言ったのだ。慣れた場所で休みたかったのだろう。
そんなことで事務所へ帰ると、李湖が一人うろついていた。
「もー。みんな揃ってどこ行ってたんですかぁー……って、ちょっとぉ!?」
半ば担ぐような体勢で武田に運ばれているエリナを見て、驚きを隠せない李湖。
「一体何があったんですかぁ!?」
「騒ぐな。静かにしてくれ」
李湖を見る武田の目は非常に冷ややかだった。彼はそもそも李湖を嫌っている。だから余計に、騒がれると不愉快なのだろう。
冷遇された李湖は「酷ぉい」と言いながら拗ねる。しかしこの容姿では可愛らしさは皆無だ。いや、可愛らしさが皆無どころか、むしろ痛々しい。
武田はそんな痛々しい李湖を無視し、担いだエリナを彼女の部屋まで連れていく。一応私もついていっておくことにした。
エリナの部屋へ入ると、武田は彼女をベッドに横たえた。
顔はまだ火照っている。目もほとんど閉じたままで、あまり動こうとしない。だが、使い慣れたベッドの感触に落ち着いたのか、表情は先ほどまでより少し穏やかになっている。
「体温計や飲み物を持ってくる。沙羅は傍にいてあげてほしい」
「あ、はい! もちろん!」
武田は速やかに部屋を出ていく。マンションの一室という決して広くはない空間に、エリナと二人きりになってしまう。
「大丈夫ですか?」
どう見ても大丈夫ではないエリナに対し、何げなくそんな言葉をかけてしまった。嫌な顔をされるかもしれないと思ったが、彼女はそこには特に触れない。
「……沙羅。何よ、その同情するような目は……」
「えっ」
「私のことは放っておいて……貴女は自分のことだけを……」
エリナはらしくなく、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。声は弱々しく張りがない。
体調不良の時は話すだけでも体力は消耗するものである。
「エリナさん、話さなくて大丈夫ですよ。なるべくじっとしていて下さい」
リーダーに対しこんなことを言うのもどうかと思ったが、今は仕方がない。彼女が消耗しないようにするのが先決だ。だから私は、怒られるのを覚悟した上で、エリナにこんなことを言ったのである。
しかし彼女は「そうね……」とだけ言い黙る。エリナが私に怒ることはなかった。もっとも、単に怒る気力もなかっただけかもしれないが。
そこへ武田が戻ってくる。
「席を外して悪かったな、沙羅。取り敢えず要りそうな物を持ってきた」
「早かったですね」
「そうか? 別段早いこともない。普通だと思うが」
「じゃあ私が遅いだけかもしれません……」
そんなことを話しながら、武田はエリナに体温計を渡す。彼女はゆっくり手に取ると、体温を計る。
しばらくすると、体温計からチチッと音が鳴った。計り終えたことを知らせる音である。
「……三十八度……八分」
エリナは飾り気のない弱々しい声で言う。
「結構高いですね」
「そこそこな熱だな」
言いながら武田と顔を見合わせる。彼は困り顔になっていた。
数日後に宰次との決着をつけねばならないというこのタイミングで、エリナが熱を出すというハプニング。困り顔になるのも無理はない。
「エリナさん、起きられます? せめて薬だけでも飲んでおいた方が良いかと」
「……そうね」
瞼はほとんど閉じたまま、エリナは徐々に上体を起こした。武田は持ってきていた薬とペットボトルを彼女に手渡す。
エリナは速やかに薬を飲み、少しして、また横になる。すると、すうっと眠りに落ちた。寝不足だから眠りやすいのかもしれない。
彼女の寝顔は、予想していたよりか穏やかだった。
エリナが眠ったのを確認し、私と武田はリビングへと戻る。
二人だけのリビングはどこか寂しい雰囲気だ。一応李湖はいるが、それでも寂しい雰囲気は変わらない。
私はソファに腰を掛け、一人考えていた。エリミナーレは大丈夫なのか、と。
すると武田が声をかけてくる。
「どうした、沙羅。そんな浮かない顔をして」
彼はさりげなく隣に座った。
そして、私の顔を覗き込んでくる。何げなく距離を詰めてくるところが彼らしい。
「悩みでもあるのか?」
近くでじっと見つめられると、なんだか羞恥心が目覚めてしまう。彼の顔を真っ直ぐに見つめ返す余裕のない私は、つい視線を逸らしてしまった。
本当に、どうして私はこんな、意気地無しなのだろう。好きな人の顔を見ることすらまともにできない。
「……エリミナーレのこと、考えていました」
「エリミナーレのこと、だと?」
なぜ? といったように首を傾げる武田。
「もう数日しかないのに、武田さんは完治してなくて、レイさんは怪我して、エリナさんは風邪で……大丈夫なのかなって……」
このままではまともに戦えるメンバーがナギしかいない。宰次がどんな手を使ってくるのか分からないうえ、こちらは戦力不足となれば、もはや不安しかない。
「もしかしたらって考えてしまって、不安なんです」
すると武田は私の手をそっと握ってくる。
「沙羅が心配する必要はない。戦いは私たちに任せていればいいだろう」
「でもっ。私の父親が宰次の味方をしているって話もありますし、もう……もう、よく分からなくなってきました……」
考えれば考えるほど分からない。ただ生きているだけで周囲が崩れていく。
もう、疲れてしまった。
弱音を吐くのは簡単だ。だが、みんな頑張っているのに私だけが弱音を吐くなんて狡い。そう思ってここまで来たけれど、やっぱり——。
「……怖い。明日が来るのが……」
静かだから悪い方向に考えてしまうのだろう。きっとそうだ。だが、怖いことに変わりはない。
沈黙が訪れてしまった。
——やがて、しんとした空気の中、武田が口を開く。
「私もだ、沙羅」
「え。武田さんでも、怖いと思ったりするんですか?」
「いや、以前は思わなかった。しかし、いつからか思うようになっていた。不思議だ」
彼は穏やかに頬を緩める。自然な笑みだった。
無理矢理のようなぎこちない笑みも、努力してくれているのが伝わって嫌いではない。だが、自然な笑みもまた魅力的だと感じる。彼の自然な笑顔は私の心を掴んで決して離さない。特に意識もせずそんな笑みを浮かべているのだろうから、彼はある意味凄い人だと思う。
「だが、私は沙羅がいれば恐怖など忘れられる。お前にいつも助けられているんだ。だからお前も、私でよければ頼ってくれ」
「いいんですか?」
「もちろんだ。気は利かず器用でもない私だが、体の頑丈さだけには自信がある。沙羅の自慢の盾になれるはずだ」
真剣にそんなことを述べる彼を見ていると、なんだかおかしくて、つい笑みをこぼしてしまった。
「ふふっ。盾だなんて、おかしいですね」
「おかしいのか?」
「はい。だって、自分を盾とか……ある意味新しいですよ」
「私にしては上手く言えた方だと思ったのだがな。やはり不自然だったか」
みんなが苦労している時に、私だけこんな風に過ごしていて良いのだろうか。
罪悪感が微塵もないわけではない。
だが、ほんの少し笑うくらい、心の広い神様は許してくれるだろう。きっと。