101話 「喧嘩は嫌」
私と武田は事務所へ帰り、既に揃っていたみんなと夕食をとった。
モルテリアが作ってくれたビーフシチューは、とろけるような肉と濃厚な味で大好評だった。ナギは妙にテンションが高くなっていたし、武田は黙々と食べていた。もちろん美味しいと思ったのは彼らだけではない。エリナも、私も、である。
それから風呂に入ったり、それぞれ自由な活動をしたりして。そしてついに就寝時間が来ても、レイは帰ってこなかった。
私は気になって仕方がなかった。エリナも少し気にしている様子だったが、「そのうち帰ってくるでしょう」などと言って流していた。
穏やかに眠っていた私は、モルテリアの「起きて……」という声によって目を覚ます。モルテリアが起こす側だなんて珍しい。私はしばらく、状況が理解できなかった。
壁にかけられた時計の針は五時を示している。カーテン越しにしか見えないが、窓の外は薄暗かったので、午前五時なのだと理解した。
「……すぐに着替えて……」
「えっ。何かあったんですか?」
「……レイが」
それを聞き、昨夜レイが事務所へ帰ってこなかったことを思い出す。
彼女に何があったのだろう。昨日の彼女の不思議な言動を知っているだけに、不安が込み上げてくる。
素早く起き上がり、パジャマからスーツに大急ぎで着替える。やや寝癖がついてしまっているが、髪をセットする余裕はない。
私は最速で身支度を整え、モルテリアと共にリビングへと急いだ。
リビングには、エリナと武田、そしてナギもいた。私とモルテリア以外は揃っている。
「あっ! 沙羅ちゃん来たっすよ!」
私の姿を見て、大きな声を出すナギ。
「何があったんですか!?」
「沙羅、落ち着いて聞け。レイが……」
優しくて頼りになる彼女の身に何かがあったのかもしれない。そう思いながら落ち着いて聞くなど不可能だ。
「やっぱり、レイさんに何かあったんですか!?」
「路地に倒れているのが見つかったらしい」
「そんな!」
私は思わず叫んでしまう。
レイは大丈夫だと思っていた。高い戦闘能力を持つ彼女なら誰かに襲われても大丈夫だろう、と。
だが、甘かった。やはりちゃんと一緒に帰るべきだったのだ。
「今から現場へ向かうわ」
エリナは平静を装いながら言う。しかし若干顔色が悪い。
「武田、運転できる?」
「はい」
「怪我しているところ悪いわね、よろしく頼むわ。車を出してちょうだい」
静かな声で「はい」と返事をする武田。彼は、早朝であるにもかかわらず、漆黒のスーツをきっちりと着ていた。
「ナギ、モル、沙羅。行くわよ!」
エリナは鋭く言い放つ。
ナギもモルも、しっかりと頷いた。私も一度首を縦に振る。
こうして私たちは、レイが発見されたという現場へ急行するのだった。
外はまだ薄暗い。完全な真っ暗闇ではないが、視界はあまりよくない。そんな中、私たちはレイが発見されたという現場へ到着する。
既に救急車が到着していた。ちょうどレイが救急車へ乗せられている途中だ。
「レイ……!」
「レイちゃんっ!」
車を降りるなりナギとモルテリアが駆け出す。それに続いてエリナ。私は武田と共にその後を追う。
「何があったんすか?」
ナギはいつになく真剣な声色で救急隊員に尋ねる。冗談や嫌みの多い日頃の彼とは別人のようだ。
「爆発があったとかなんとかで。ただ、自分はよく……」
「分からないんすか!?」
「あ、はい。自分はあまり詳しくな……」
「だったら分かるやつ呼んで! 頼むっすよ!」
ナギは曖昧な返答ばかりの救急隊員に苛立ち、徐々に口調を強めていく。今にも掴みかかりそうな勢いだ。
「落ち着きなさい、ナギ」
救急隊員に詰め寄るナギを、エリナは静かに制止した。
ほっとした顔になる救急隊員。いきなり現れた者に詰め寄られていたのだ、助かって安堵の溜め息を漏らすのも無理はない。
「でもエリナさん、レイちゃんが怪我したんっすよ!? 何があったのか気にならないんすか!?」
「気にはなるわ。でも救急隊員の方に迷惑をかけるのは駄目よ」
「何言ってんすか! 冷たすぎっすよ!」
落ち着いた様子のエリナとは対照的に、ナギは取り乱している。恐らくレイを心配するゆえなのだろう。
彼は女性のこととなるとすぐに平静を失うので、私が言うのもなんだが、見ていて少々心配である。
「今はそんなことを言っている場合ではないでしょう?」
「いやいや! 仲間の身に何があったのか分からないなんて、そんなの嫌っしょ!」
「ナギ、落ち着きなさいよ。そんなに取り乱すなんて、さすがにみっともないわよ」
しまいに言い合いに至ってしまうナギとエリナ。二人はわりと相性がいい方だと思っていたので、言い合いになるなんて驚きだ。
そんな中、言い合う二人をじっと見つめていたモルテリアが、身を縮め、悲しそうに漏らす。
「……喧嘩……嫌……」
声が震えていた。
翡翠のような瞳には涙の粒が浮かんでいる。
そんなモルテリアを目にし、ナギとエリナは言い合いを止めた。二人は揃って気まずそうな顔をする。
「……すいません。言いすぎたっす」
「そうね……、言い合いは無益だわ」
まさかモルテリアが言い合いを止めるとは。私は密かに彼女を尊敬した。
そこへ、救急隊員が声をかけてくる。「誰か同行するか?」という問いだった。シンプルな問いではあるが、咄嗟に言われると慌てそうな質問である。しかし、エリナは落ち着いた声で、「ナギとモルが」と答える。
二人は救急車へ速やかに乗り込む。それから数分も経たないうちに救急車は出発した。
走り出す救急車の背中を見送っていた——その時。背後から得体の知れない殺気を感じて振り返る。
そこには、一人の女性が立っていた。白い髪を春の風に揺らす彼女は、うっすらと微笑んでいる。
「瑞穂!?」
愕然とした顔で叫ぶエリナに、白い髪の女性は言う。
「エリナ、会いたかった。こんな形でまた会えるなんて、凄く嬉しい気持ち」
「……なぜこんなところに」
理解できない、といった顔をするエリナ。
「話したいこと、いっぱいあるのよ? ゆっくりお話しましょう」
白い髪の彼女は、ふふっ、と柔らかな笑みを浮かべる。
だが私には、彼女が偽者の瑞穂だとすぐに分かった。恐らく武田も分かっていることだろう。しかし、エリナが完全に分かっているかどうかは怪しい。
こんなところで彼女に再会するなんて……。
私はそう思いながら、目の前の光景をじっと見つめる。




