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存在理由〜The meaning of existence〜  作者: 吉田伊織
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〜地上へ〜


地上へ出たシアンと桂花は、管理棟のエントランスを出て、ロータリーで待機しているタクシーへ乗り込んだ。

 

桂花はシアンをいたわって、傷に障らないようにしつつ、手を貸した。


エア・クロイツの中で、一番大きいセンターホスピタルへタクシーが着くと、シアンがカードで支払いをした。


そのまま桂花を従えて、大きな両開きの、自動エアシャワーと除菌オゾンが降り注がれている間接室ヘ入る。


当然のように桂花を連れて、受け付けに向かう。


そこで以前も受診した事があったシアンが、診察カードを出すと、笑顔で受け取ってくれた医療事務員が、チラリと桂花を見て言った。


「住民以外の方は、こちらで診療を受ける事は出来ません。外へ出して下さい」


「いえ、彼女は治療を受ける俺に、付き添ってくれているだけで待ってもらうだけなんです」


「駄目です。住民の方以外は入れません。規則ですから」


冷たい事務員の対応に、思わず言い返そうとしたシアンの服の袖を、桂花が掴む。


「シアン様。私は病院の外で待っていますから、気にしないで下さい」

 

微笑む桂花にシアンは何かが胸につかえているような、何とも言えない気持ちになってしまう。


「でも、犬や猫じゃないんだし……」


シアンの言葉を事務員ががひったくるようにして言い放つ。


「家畜も入れません。早く外へ出して下さい」


事務員は冷酷な声で、決めつけて言うと、二人から視線を外し、さっさと仕事に戻ってしまう。


食ってかかろうとしたシアンを、穏やかな桂花の声が止めた。


「私は家畜です。本当にお気になさらないで下さい。こんな事をしていると、本当に売ったり食べたり出来なくなりますよ?シアン様が治療を終えるまで、出入り口の近くでお待ちしてますから」


笑顔で当然のように出て行く桂花を、シアンの紫の瞳が見送った。



出入り口からバス停への通り道にある、小さな公園の木陰のベンチに腰を下ろした桂花は、久しぶりの地上の太陽を目一杯に浴びる。


〘地上でも、こうして何もしていなければ、目と髪が黒いから珍しがられる事はあるけれど、それ程奇異な目では見られない……男の人でこの色彩が珍しいみたいで、髪の事を褒めてきたりして、声を掛けてくる人がいても、きちんと断ると何もされない……でも、今日は、やっと会えたシアン様を、困らせてしまっている様だし。私は家畜らしくないのかな……?〙




ぼんやりとそんな事を考えながら、風に揺れる木の枝や、そこからチラチラと見え隠れする木漏れ日を見ていると、あっという間に陽が傾き始める。


幼い頃から、逃亡生活が長いせいか、宗近に言われるまま数日一人でモーテルや、野宿する事も珍しくなかったので、自然と馴れてもいた。


そうやって、宗近の帰りを待っていたから、待つのは全く苦ではなく得意なので、シアンを待つ事は桂花に取っては嬉しいぐらいだった。


なにしろ、宗近のようにもしかしたら、二度とかえって来ないかもしれないなんて言う心配は、一切ないのだ。


〘シアン様……初めて会った日から、この人に食べられるのならいいと思ったのに……私、売られるのかなぁ。痩せてるし、父さんが労働用だったせいで筋肉質だし、あまり美味しそうじゃないし……スープの出汁には良さそうな気もしなくはないけれど、あんまりそういう食べ方しないから……いくら食用人間が改良されていると言っても、私はちゃんとした食用じゃないから。上手く血抜きしても子供じゃないから、固くて酸っぱいだろうし……〙


うつむいて考え込んでいた桂花は、人影が近付いてくるのに気付いて、少々驚いて顔を上げる。


シアンかと思ったのだが、人影は実りきった稲穂のような黄金の髪と空色の瞳の、二十六・七歳に見える背の高い青年だった。


宗近ほど体格は良くないが、鍛えられた綺麗な筋肉の付いた身体をしている。




両手をラフな上着のポケットに突っ込んだまま、彼はゆっくり近づいてくる。


次の瞬間、桂花は自分の全身の血の中に何か、異質な液体が混ざり込んできたような、血液が泡立つような気がして目を瞠る。


それを見た青年は綺麗な桜色の唇の両端を上げた。


「なぁんでか、さっきから上にいる気配がしたからさ、困った事になってるんだったら、助けてあげうかと思ったんだけど……こんなトコでボンヤリ日光浴だなんて、呑ん気だねぇ、お嬢さん?……いいのかな〝イブリスの鍵〟を持つ者が……」


そう言いながら彼は当然のように桂花の隣に腰を下ろした。


思わず逃げようと身構える桂花を、彼は穏やかな空色の瞳でおかしそうに見てくる。


「なんにもしないよ。ってか、出来ない、が正解だな。キミは三日月宗近と契約を交わしているし、正式な暗号コードも直接イブリスから渡されてる。あり得ない程の正式な後継ってわけだ。手出しは禁物。オレは……そうだなぁ……もし選ぶとすると、一番血の濃そうな所で、シアン・ケンプ・リンドグレーン辺りかな。別にこの都市を守るとか全然興味ないから、今の所は誰も選ぶつもりは無いけどね。ええっと、はじめましてだけどお互い名乗る必要なんかないだろ?……三日月のオッサンに話は聞いてたけど、本当に純血なんだな〜まっ黒で可愛い。会えるとは思わなかったけど……オッサンが手放すわけねぇだろうけど、地上なんかで何してんの?それとも、さすがのオッサンもついにぶっ殺されたか?」


青年は腰に差していた刀を鞘ごと外して脇へ置きながら爆笑している。


宗近は、何故か守護刀を腰に差さない。


いつもだらしなく下げ緒で肩に引っ掛けていたり、荷物の中に入れてしまっている。


この人は、普通に持ち歩いてるんだな……。


何故だろう。不思議な感覚……紅雪、左文字……。



桂花黄金の髪と、俳優のような整った顔立ちの彼の、その空色の瞳をじっと見つめた。


両親と兄と僅かの間住んだ、港町レンリョウの空のように、澄んだ空色の綺麗な瞳だと思った。


「……同じ刀使いでも宗近とはまるで違う血族なんですね?イブリスを制御し、守護刀として働かせる遺伝情報は、刀で取り込んできたんですか?三日月宗近のように」


「だろうね。ここまで外見が東洋系と違うのに、イブリスの守護刀持ちって事は、トンデモナイ人数のイブリスの血族を、この刀は喰らったんだろうなぁ。あの十三年前の“絶血運動ぜっけつうんどう”の時も、オレの父親キミの血族殺しまくったらしいよ?」


あははは……と青年は朗らかに笑う。


朗らかで碧空の様な瞳なのに、そこに宿るのは冥い影……どうして?何で、何がそれ程にこの人を哀しくさせるのだろう……宗近は、人殺しをしてきた哀しさしか感じない。顔見知りや元同輩も、私のせいで殺してきたのに、こんなに哀しそうにはしていない……。


桂花は彼の持っている刀を見つめる。


「……紅雪、左文字こうせつさもんじさん……」


「ご名答。へぇ、分かる物なんだ。あぁ、本名は捨てた。だからオレの事は紅雪って呼んで。三日月のオッサンとおんなじように、さ」


「……誰か、守りたい人がいるんですか……?」


桂花が少々複雑に、戸惑うようにしながらも微笑んで尋ねると、空色の瞳は暝い色をさらに深く滲ませて、ゆっくりと正面から桂花の黒い瞳を捕らえた。


「もういない。オレが殺した……知らなかったんだよ。彼女がまさかこの都市を最初に作った人間の血族で、暗号コードを持っていただなんて……知らずに、オヤジが死んでコイツを譲り受けて……何があっても、肌身離さず持ってろって言うから遺言に従った……」


桂花は無言だったが紅雪を見るその黒い瞳は、哀切と穏やかで深い優しさと、まるでどこか母親のような慈愛に満ちている。


紅雪はちょっと眉をハの字にして、苦く笑う。


「まいったなぁ……」


「なにがですか?」


「アンタ、さ。オレがコイツに取り憑かれて殺しちまった……その彼女に似てるんだよ。髪の色とかは違うけど。その、優しい瞳の感じとか、笑い方………ああ!もうっ、仕方がないな。前言撤回。名前聞いていいかな?他のイブリスが居て、同時に危なくなったら、アンタを優先してあげるよ。つっても、オッサンが居るか。ん?割りと放任なのは知ってるけど、地上で傍に居ないって事は……生きてんのか?もし死んでるんなら、オレが後釜に立候補してあげるよ」


愛嬌のある人懐こい笑みを浮かべ、挙手をした青年に、桂花も笑い返す。


「私は、久保田桂花くぼたけいかといいます。宗近むねちかは地下にいます。黙ってマスターについてきてしまったから、心配しているかもしれませんけど。偶然マスター・シアンに地下都市でお会いして、怪我をされていたのでお送りしようと思って。今、診察が終わるのを待っている所なんです」


けれんみのない、まるで幼子のように嬉しそうに笑う桂花に、プッと紅雪は吹き出す。


「なに?あのオッサンなんのかんの言って、まだリンドグレーンから、アンタの所有権奪えてねぇのか?笑える〜!!」


ひとしきり笑ってから、青年は夕陽を映した優しい青い瞳で、真っ直ぐに桂花を捕らえる。


「桂花ちゃん」


いきなりちゃんづけで呼ばれて、驚いて返事が出来ないでいると、紅雪は気にするふうも無く、微笑んだまま話しだす。


「知ってるとは思うけど、“イブリス”の〝鍵〟は一つじゃない。この化け物都市『エア・クロイツ』の五つの脳ミソの数だけの血統、ひとつに二本ずつ違う役目の〝鍵〟がある……そしてその子孫が全て〝鍵〟になはなりえない。アホな地上のヤツらは、無闇矢鱈むやみやたらに食い散らかして、遺伝子を取り込もうとしているようだけど、いくら特殊な加工をされて取り込まれた遺伝子モノでも、“イブリス”は騙せない」


桂花から視線を逸らし、空を仰いだ青年———紅雪は穏やかに笑って言った。


「桂花ちゃん達の頭のイイご先祖様が造りだした、最高の人工知能。何処の都市でも真似出来やしないし、まだ軍でさえ解明出来ていない事だらけの、謎だらけの、この都市の生命線だ………でも、“イブリス”は〝鍵〟を持つ者をどんなに愛しても、他の人間は単なる住人でしかない。

だから、軍のヤツらが望むコマとして従順に動く人間じゃなくて、オレやオッサンみたいなロクデナシが守護刀に選ばれるのさ」


「ろくでなし?宗近は、優しいし、しっかりした人です」


「あはは!そりゃ、桂花ちゃんにだけいい顔してんだよ。あの殺人鬼みてぇなオヤジが、イブリスの血族を何人殺したと思ってるの?オレらの戦闘形態見た事ないんだろ〜?めちゃくちゃグロいぜ?すでに人間じゃねぇ……しかも、下手すりゃ刀に意識喰われて……オレみたいに、大切な人だろうがなんだろうが、血族を殺しまくる……その辺は、オッサンの事、実は尊敬してんのよ?アレって昔と守護刀の意味や意義が違っちゃって、血族見ると猛烈な食欲みたいなのが湧くんだ。頭真っ白になって、イッちまう。なのに、オッサンってば、あり得ない的な冷静さだからな。ピ———も勃たんのかな〜って勢いだよな?!」


ちらりと桂花を見た紅雪は、思わず拍子抜けしてしまう。


漆黒の瞳は、汚れのない子供のように幼くさえ見えるのに、全てを知って、それでも許す聖母のような慈しみに満ちていた。


「……見た事あるんだ……」


「はい。小さい頃から宗近は、いつも傍にいてくれて、ずっと守ってくれていましたから。私はエア・クロイツから遠くへは逃げられない身ですし……せいぜい一ヶ月ほどの距離を離れるぐらいしか出来なくて……政府からも軍隊の人からも、変に私を利用しようとする人からも、いつも守ってくれるんです。申し訳ないって、思うんですけれど。宗近が居なかったら、多分私はとっくに死んでいたか、軍に捕まって実験材料にされていたかも知れません」


「……気持ち、悪かっただろう……?」


桂花がくすくすと無邪気な子供のように笑う。


「はじめて見た時は、少し怖かったと思います。神話で読んだク・ホリンみたいって……。でも、宗近は、独りぼっちの私を護ってくれる、たった一人の、大切な人だから……怖いとか、すぐに感じなくなりました。傍に居てくれると、安心するんです。とても優しいですし」


「ふぅん……もしかして、オッサンに惚れてんの?」


ニヤニヤと笑って桂花を紅雪は肘でつつくが、きょとんとして桂花は首を傾げてしまう。


その姿が、ご主人様の姿を探す仔犬のようで、何故か紅雪は久し振りに心の底から可笑しくなってしまう。


「あの。そういうのとは違うと思います。よく解りませんけど……家族、みたいな……」


「くくくっっ。鬼の三日月も形無しだな。こんなお子様に振り回されて……傭兵上がりだろうと、軍人としてイヌのまま出世してりゃ、今頃は贅沢な暮らししてたんだろうに」


「本当に、そうですよね。私もそう思います。小さい頃、一度だけ……宗近に聞いた事があるんです。どうして一緒にいてくれるの?って」


うつむいた桂花は、ちょっと言葉を選ぶように考えている様子なので、紅雪も待った。


「宗近が殺して喰べた私の兄と、私を守る約束をしたんだって……」


「へぇ。あのオッサンにそんなオセンチな所があるとはね。こりゃ驚きだ。ま、なんにしてもキミは生き延びなさい、桂花ちゃん。地上にいる間に何かあったらオレを呼ぶといいよ。地下にナワバリ張ってるオッサンより早くすぐに傍へ行くよ。何処に居たって分かるしね。オレに変な遠慮はしなくて良いから。あ〜〜出入り口から飼い主君が睨んでるから、オレは退散するよ……じゃあね」


にっこりと目を細めて笑った紅雪のあたたかな手が、桂花の頭を優しく撫でてゆくと、傍らに置いてあった守護刀を手に、ゆうゆうと立ち去って行く。


確かに紅雪が言うように、出入り口からシアンがこちらの方へ早足でやって来るのが見えて、桂花は立ち上がって駆け寄る。


「シアン様っ!」


「ごめんね、随分待たせちゃったよね」


「いいえっ。大丈夫です!」


飼い主に懐いている仔犬のような、無邪気な瞳に見つめられ、シアンの眉尻が下がる。


「え———と。あ……あのさ。今、一緒にいた男の人なに?大丈夫だった?」


「えっ?大丈夫、と、仰いますと?」


「だから、声かけられて、変な事とかされたりしなかったか?って聞いてんの」


「はっ?いいえ。あの人は……なんて言うか……紅雪左文字さんといって、知り合いのようなものです。優しい方だと思いますし、大丈夫です。少しお話をしただけですから」


そう言った桂花の瞳が、何かを問い掛けるように、シアンの紫の瞳を捕らえていて、なんとなく居心地が悪くなったシアンは、桂花の肩を軽く促すように叩いて歩き出す。すると桂花は心配そうにシアンを見てきた。


「あの。お怪我の具合はどうだったんですか?」


「ああ、大丈夫。肋二本にヒビ入ってただけだし、コルセットして痛み止めも貰ってきたから」


あっけらかんとしたシアンの様子に、しかし桂花は険しい表情になる。


「あの人達、なんて事をっ!今度会ったら眉間に弾丸打ち込んでやりますっ!!」


決意を示すように拳を握る桂花に、シアンはこっそりと溜め息をつく。


〘大人しそうな顔して、結構過激なんだなぁ……テトロの事も投げ飛ばしして、ケイカには本当に驚かされる事ばっかりだな〙


「そう怒らないでよ。バカは相手にすると疲れるだけだからよしなよ。オレなりに誠意は見せてもらうつもりだし。これぐらい平気だから」


『でも……』と、なにか言おうとする桂花の背中にそっと手を置いて、駐車場へと誘う。


「とりあえず家へ行こうか?車を呼んであるし。もう来てるはずだよ」


「あっ、いいえ!とんでもないです。お車を呼んでらっしゃるのなら、私はそこまでお見送りさせて頂ければ充分ですのでっ!」


そう言う桂花と一緒に駐車場へ行くと、シアンが幼い頃から家で働いてくれている運転手が、ドアの前で待っていてくれた。


心配そうな白髪の中年男性にシアンはにっこりと笑いかける。


「大丈夫だよ。大した事なかったから」


シアンの言葉に頭を下げ、彼は開いた車のドアの上部に白手袋をした手を掛け、シアンが乗るのを待っている。


「では、シアン様。私はここで失礼致します。お怪我お大事になさって下さい」


 深々と頭を下げて帰ろうとする桂花の腕を、シアンが捕える。


「ちょっと待って。まだ話したい事がたくさんあるから、家に来てよ」


戸惑う様子の桂花を、半ば強引に引き寄せるようにすると、桂花はシアンの怪我が心配で抗えなかったらしく、そのまま無理矢理車に乗せた。


幼い頃からシアンを知っている運転手は、何も言わずに屋敷への道を走りだした。




ゆったりとしたシートに体を預けて、シアンが桂花を見る。


「病院では、嫌な思いさせちゃってごめんね。俺のせいだ……」


顔をのぞき込むようにしえてそう言われると、シートに遠路がちに座りながら、桂花はわずかに首を傾げると不思議そうに目を瞠り、首を横に振る。


「お気になさらないで下さい。地下都市の人間が、地上の公共の施設に入れないのは、当り前ですから」


「そうなんだ……でも、どうして?」


「家畜ですから。それに、地上の人に恨みを持っている者もいますし、危険だからだと思います。下手をすると……というか、地下の人間って分かると、買い物に入れるお店も限られます。それがこの都市のルールですから」


当然の事のように話す桂花にシアンは驚愕し、深く息を吸って言葉を探したが、いい言葉が思い浮かばない。


それでも、桂花と何か話したくて、言葉を探してゆっくりと口を開く。


「色々、大変なんだね……」


「いいえ。当然の事です。それに、ほとんどの物は地下で揃いますし」


シアンの隣で遠慮がちに座りながら、桂花はまるで美しい満開の、枝垂れ桜の下に佇む幻のように、儚く艶やかに微笑む。


桂花に会ってから、正直シアンは奇妙な気持ちになっている。


初めて会った食用人間で、その上こんなふうに話ができるから、そのせいかもしれないけれど、それだけじゃないような気がしてならない。


そして、もしかしたらそれが、子供の頃友達だと何も知らずに思っていた女の子が、地上うえの人間ではなかった事への、ショックなのかもしれないと考えてしまうと、自分の器の小ささが嫌になる。


そんな葛藤が、心の中で渦巻いて、シアンはやり場のない苛立ちと怒りを感じていた。


普通の人にとって当たり前の事が、自分にとってそうではない。


今までも他人よりもそういう所が多かった為に、嫌な思いをする事も多かったけれど、今回の事も、かなり嫌な部類に入る。


〘どうして地下の人間だからって、食べたり奴隷にして良いだなんて思えるんだ?……何処からどう見たって同じ人間なのに……〙


シアンは心の中で、抱いても仕方のない、答えのない疑問を繰り返していた。




屋敷の玄関に車が横付けされても、まだ戸惑っている桂花の手を引いて、中へ入るとメイドの達が出迎えてくれた。


「お帰りなさいませ。お友達ですか?お茶をお持ち致しましょうか……?」


にこやかに微笑む銀の髪の新入りらしい彼女に、シアンもにっこりと笑い返す。


「ああ、そうなんだ。悪いけれど、俺の部屋に二つ」


「あ、あのっ」


何かを言いかける桂花の口を塞ぐと、引きずるようにしてシアンは二階へ上がる。


懐古趣味の父親のせいで、この屋敷はかろうじて空調設備とセキュリティが入っている程度で、エレベーターなど無いので、広い踊り場の設けられた階段を上って行く。


「あのっ、シアン様、どうして否定なさらないんですか……?友達だなんて、私はシアン様の持ち物です」


手を離されても、桂花は明らかに戸惑い困惑して、上目遣いでシアンを見てくる。


「だって、何も言わなきゃ分からないじゃないか。言わなくても良いさ」


〘……同じ人間なのに、地下の人間って分かると態度が、百八十度違くなるのって、何か気持ち悪い。というか差別にも程があるだろ……〙


シアンのやや意味不明な言葉に、しかし桂花は逆らわず、視線を磨き抜かれた床と、絨毯の辺りで彷徨わせながら、何も口に出さなかった。


そんな桂花に、シアンは小さく溜め息を吐くと、再び桂花の手を掴んで歩き出す。。


〘ケイカが地上へ出てから、ちょっとビクビクしてる所も、かなり嫌なんだけど……それ以上に、自分でも何が原因なのか、わからないけれど、ケイカと居ると楽しいのに、変に苛々するんだよ……〙


シアンから理由の分からない、憤りを含んだ視線を投げられながらも、シアンに逆らう気が皆無の桂花は、素直に再びシアンの後をついて、シアンの部屋へ入る。



乱暴な足取りで桂花の手を掴んだまま、部屋に入ったシアンは、バタンとドアを閉じる。


「シアン様。私、なにかお気に障る事をいたしましたでしょうか……?」


おずおずと顔色を窺う桂花に、シアンの機嫌は、さらに下降してしまう。


「ああ!もう!どうしてそんなに怖がるのかな?!地下にいる時はそうでも無かったのにっ!」


「そう仰いましても、やっぱり、少し……怖いですから……」


微笑みながらも、脅えた色を瞳に浮かべる桂花に、シアンは自分自身にも怒りが湧き出してくる。


〘そりゃ……今日の病院での扱いと言い、アネモニ達の態度や言い方もそうだったし……地下の人間であるケイカが、地上の人間に対して恐怖感を持つのは仕方ないかもしれない。殺されても、何をされても当たり前と思っているだろうし。実際、何かが起こったとしても、一般的な常識からすると、誰も助けてくれないだろう……〙


そう思い至り、自分の子供っぽい態度を反省しつつ、シアンはとりあえずは、桂花を安心させる事を最優先しようと、目の前の少女に出来るだけ優しく微笑みかける。


「ごめんね。怒っちゃって。ケイカのせいじゃないんだ。座ろう?」


自分を落ち着かせながら、シアンが桂花をソファーに座らせた時、ドアがノックされ、先刻のメイドが紅茶とクッキーを持って入って来た。


お茶をいれテーブルに置きながら、メイドは桂花の美しい黒髪や瞳を珍しげに見たが、蔑むような雰囲気は全く無く、丁寧に頭を下げる。


「ごゆっくりどうぞ」


そう言うと、桂花にも笑いかけ、部屋を出て行く。


しばらくカップの中の紅茶を見つめて、考え込む様子を見せたシアンだったが、真っ直ぐに桂花を見つめて口を開く。


「あのね、ケイカ。何て言うか……俺がキミの持ち主なんだから誰にも変な事させないし、売る気も無い。だから、そんなに怖がらなくていいんだよ……?地下都市にいた時みたいに、っていうのは無理でもさ、もう少しこの屋敷の中でも笑ってよ。屋敷に来てから、変に怖がってるよね?にとが多いせいかな……?皆いい人達だから、ケイカが地下都市の人間でも、大丈夫だからさ」


シアンが少し首を傾げて、おどけた仕草でそう言うと、桂花は本当に嬉しそうに笑った。


「有り難うございます、シアン様……。私、十三年前にお会いした時に、シアン様にとても優しくしていただいて、とても嬉しかったんです。だから、この人に食べられるなら倖せだなって思いました。食べられる側は、食べる相手を選べないですよね……私はあの時、この人のお腹がいっぱいになるなら、私は倖せだと思ったんです。でもずっと放って置かれて、もうあまり美味しくないでしょうし、奴隷で売られるのかと思うと、少し嫌だったんです…………奴隷で売られたりしたら、きっと、二度とシアン様にお会い出来ないから……本当に、そう仰って頂けて、嬉しいです」


桂花の黒い瞳は、心からシアンを信頼し、慕っているのがシアンにでもよく判った。


微かに上気した頬も気にせず、何とも言えない微笑みを浮かべているが、桂花の声も表情も、包み込むような暖かな雰囲気を持っている。


〘食べられるのが幸せだなんて、やっぱり俺には理解できないな……けど、俺が売らないと言った事で、ケイカが少し安心したみたいでよかった……〙


嬉しげに笑ってシアンを一途に見てくる桂花といると、シアンも不思議と温かい気持ちになり、頬が緩む。


「そういえば……ケイカってどういう字?漢字ってあまり使わないから、ちょっと見ただけじゃ覚えられなくて。ここに書いてくれるかな?」


紙とペンを机から出して、テーブルの桂花の前に置くと、桂花の手がペンを取り、丁寧に字を綴って行く。


ソファーの傍らにやって来ると腰を下ろし、覗き込むようにしてくるシアンが可笑しかったのか、笑うのを堪えるように、深く俯いた桂花は、自分の名前を書いた紙を丁寧に手渡す。


「ふぅん……上の字が〝ケイ〟で、下の字が〝カ〟……?二文字でそう読むんだ……キレイな形だね」


 紙から視線を外し、桂花に笑いかけると、嬉しそうに笑い返してくる。


「父がつけてくれたんです。小さな黄色い花がたくさん咲く樹の名前だそうです。良い香りのする、オレンジ色の花が咲くんだそうです」


桂花が名前を書いた紙を胸のポケットにしまいながら、シアンは少なからず驚き、驚いた自分に、何とも言えない嫌悪のような感情をおぼえた。


〘………そうだよ。当たり前じゃないか。父親や母親がいて当たり前なのに、俺も何処かで、地下都市の人間を違うものとして見ていたのか。驚くなんて……桂花のお父さんとお母さんはどんな人?って、聞いてみたいけれど、優しげな虫も殺せないような笑顔で、当然のように淡々と『もう屠殺されました』とか言われると、少しショックだから、止めておこう〙


そんな事を考えながら、自分のティーカップが置かれている場所に座り直し、紅茶に口を付けた所で、全く中身の減っていない桂花のティーカップに気付く。


「紅茶も甘い物も嫌い?」


シアンの問い掛けに、桂花は落ちつきなく、髪に手をやり梳きながら答える。


「いえ……好きです」


「なら食べなよ。桂花の口に合うかどうかは保証出来ないけど」


不思議そうにするシアンの目の前で、桂花は戸惑うようにしているが、テーブルに手を伸ばそうとしない。


「変な遠慮とかすると、本気で怒るよ?」


怒気を孕んだシアンの言葉に、慌てて桂花は頷く。


「い、頂きます」


紅茶に口を付けて、指がそっとクッキーを一枚取ると、嬉しそうにソレを眺めてから、本当に美味しそそうに食べ始める。


「女の子って甘い物好きなコ多いよね……よかった、気に入ってくれたみたいで……美味しい?」


「はい、とても」


お世辞などではなく、生まれて初めてお菓子を食べた子供のように、とても嬉しそうに桂花が笑って言った。


その幼い子供のような無邪気で無防備な笑顔に、シアンも嬉しくなって笑ってしまう。


「もっと食べなよ。俺は甘い物そんなに好きじゃないから」


シアンの言葉に、はた、と動きを止めた桂花が瞳を輝かせる。


「シアン様は、生まれて初めて合成じゃない、本物のチョコレートを食べた時の事、憶えていらっしゃいますか?」


「チョコ?さぁ、憶えてないな。でも、どうして?」


「私に生まれて初めて、合成じゃないチョコレートを食べさせて下さったのは、シアン様なんです」


「えぇっ? 俺っ?……と、いうことは十三年前?」


あまりにも予想外だった為、突拍子のない声が出てしまうシアンに、桂花は目を細め、嬉しそうに頷いた。


「このお屋敷へ、連れてこられた日なんです。もう、いつ殺されるかビクビクしている私と、子供部屋の、ふかふかの絨毯の上で、一緒に遊んで下さって……シアン様への誕生日プレゼントに贈られた、立派なチョコレートの箱を開けて下さって、チョコレートを私にまで下さったんです。すごく、美味しくて……思わず『おいしい』と言ったら、今と同じように仰って下さって。二人でチョコレートを食べたんです。あんまり良い方なので、〖この人になら食べられてもいい〗って思ったんです」


「嘘……そんな理由で、俺に食べられてもいいって、思ったの?」


信じられなくて尋ねたシアンに、頬を染めて、それだけではないんですが……と、頷く。


桂花の答えにシアンは脱力して、ソファーの背もたれに、のけ反るようにして寄りかかる。


〘……この子は……この桂花という女の子は話せば話すほど、よく解らなくなっていくみたいだ。こんな不可解な人間が俺の持ち物だなんて。それも、奇っ怪な事だけれど、たかがチョコレートの一コや二コで、どうして殺されてもいいなんて思うんだ?〙


そのままぐったりと、ソファーの背もたれに身をあずけたシアンを、少々心配そうに見ていた桂花だったが、シアンは桂花の視線を気にしていないので、桂花は視線を窓の外に広がる大きな庭へ移した。


そこで桂花の顔を見たシアンは、ぼんやりとその横顔を見つめる。


東洋的で、たしかに彫りの浅い顔立ちだけれど、切れ長の目も、優しげでふっくらとした唇も、決して不快な印象は受けない。

それどころか、このままずっと見ていたいような、不思議な感情をシアンに与える。


〘小さい頃一緒にいたから、そのせいかもしれないけれど……どうして、こんな風に桂花といると、落ち着くのかな……〙


そんな事を考えていたシアンの視線に気付いて、黒曜石のような瞳が振り返り、アメジストの瞳を捕らえて小首をかしげて見せる。


「シアン様……?」


「ああ、ちょっとぼんやりしてただけだよ。ごめん。庭の散歩でもする?桂花の事、色々聞きたいし……話しながら、さ……」


「はい」


少女はなんの警戒心もなく、安心しきった笑顔をシアンに見せる。


真実、心の底からシアンを信じているのだと、その笑顔が伝えてくる。


ただそれだけの事が、シアンをとても嬉しい気持ちにさせた。



  

人工ではない草花の生い茂る広い庭に敷き延べられた、煉瓦の道を桂花とシアンの足ががゆっくりと歩いてゆく。


それ程背の高くならない樹々の間を、心地よい風が吹いて、二人の髪をも心地よく 揺らしていく。


もうすっかり日は沈んで、辺りには夜の気配が漂っているが、今はまだそう濃くは無い。


庭をめぐる煉瓦敷きの古風な小道にそって、ポツポツと足下を照らす灯があり、その灯に照らし出された、傍らを歩く少し背の低い少女の表情を見て、シアンが口を開く。


「答えたくなければ、いいんだけど……初めて家に来る時、怖かった?」


「そうですね。私は元々労働用の予定でしたし。母が食用母体だったんですけれど、父が労働用ですから、あまり美味しくない雑種です。自分が食用になるとは、考えていなかったですし。旦那様が保育所の私を見て、食用で買われたものですから、とても怖かったです。もしも逃れられるなら……正直、逃げたかったと思います。すぐに屠殺されるのだと思っていたら、綺麗な服を着せられて、このお屋敷へ連れて来られました。あの時の事は、今でもハッキリと覚えています。生きた心地がしないって、あの心境がまさにそうでしょうね」


少し哀しそうに目を伏せて微笑む桂花を見て、シアンの記憶が、フラッシュバックのように蘇る。


白いレースの付いた衿や、飾りが胸やウエストに付いている紺色のワンピースを着た、真っ黒い長い髪に真っ白い手の込んだ飾りの付いたリボンを結んでいて、それがとてもよく似合っていて、まるで綺麗なお人形さんのように可愛らしい女の子が、家にやって来た日……。


父に連れられてきた女の子は、脅えきった色を宿しながら、ブルーベリーのような不思議な黒い瞳で、真っ直ぐにシアンを見つめてきた。


それでも、何故だか一目で大好きになった記憶がある。


「……そういえば、家に来た時……泣いてたよね?」


〘そうだよな。いつ殺されるかもしれない状況なんて、怖くないわけないよな〙


「思い出して下さいましたか?」


「うん……少しね」


嬉しそうな桂花と対照的に、シアンは少し沈んだ表情になっていく。


その感情と比例するように、心の中に父に対する疑問と怒りが込み上げてきた。


〘でも、もし、父さんが桂花を買わなかったら、他の人が買って食べていたか、今頃地下都市のどこかのファームか工場で働かされていたか、奴隷で売られていたかもしれない。俺は桂花と話しが出来て良かったと思うから、結果として、これで良かったと思うけれど。父さんがどういうつもりでこんなプレゼントをくれたのか、聞かないと…………桂花が俺に食べられるのが嬉しいとか、倖せとか言うから、ワケがわからなくなっていたけれど、殺されて食べられるなんて、怖くないはずが無いんだって、今の話を聞いた俺だって理解出来る。それなのに、どうして俺にチョコレート貰ったぐらいで、怖くなくなって、食べられてもいいだなんて思ったのかな? ドコか足りないのか? ……そうは見えないけど〙


隣を歩く桂花を見ると、冴え冴えとした月のような雰囲気を放っていた。


桂花の束ねられていない、長い黒髪が夜風になびいて、庭の灯を映してさらさらと風になびいて輝く。


「ねぇ、桂花は地下でどんな生活しているのかな?学園を出ているみたいだけれど、地下の人間はみんな学園へ入って勉強するものなの?」


「はい。一応の義務教育は用意されています。地上の学園とも遜色ないと聞いていますが、大きく違う教科があるとすれば、エア・クロイツの歴史を習う事でしょうか……」


「エア・クロイツの歴史?!……そんなの学院でも習わないよ」


シアンの言葉に、ふっと微笑みを消した桂花の顔は、人をゾッとさせる凄絶な何かを秘めているように見える。


まるで別人のような瞳に、目を逸らしたいような気持ちと、もっと見ていたいという、奇妙な引力のようなものを感じる。


〘……何だろう。知りたい。俺が知らなきゃならない事を、桂花が全て知っているような、そんな気がする……なんだろう。それなのに、知るのが物凄く怖い〙


「桂花……?」


「地下都市では学園に入れる事自体が幸運で、私もきちんと全部通えたわけではありませんが、この都市まちは私達の祖先が何もない、枯れ果てた不毛の大地に地下都市を作る事から始まったそうです。そして、枯れた大地に適応した、丈夫な植物を造りだし、植え、一歩一歩、育てててきた。化け物都市です。クロイツは十字の事で、太陽のシンボルや、南十字星の意味を持ちますが、四大元素や水平線を世界とした、統一を表しているそうです。地下と地上……全ての世界が、一つであるように願ってつけられたそうですが、黎明期は違う名前だったそうです。エア・クロイツと言う名は、汚染された土壌と空気の、この大地で地下に生きる道を見いだし、緑の大地を夢に見ながら、死んでいった祖先の墓標なのだと教わりました」


桂花の足がいつの間にか止まっていて、シアンも真っ直ぐに桂花を見つめていた。


「墓標?」


「はい。この都市の初めての名は『ヴェルデ』。祖先はここに緑の大地を夢見て、未来の子供たちに残せる街を造りたかった。今、それは確かに此処にあるんです。彼等が求めた形ではないにしても、この庭に生える植物のように、人工ではない植物が、大地に生える都市……」


ふっと視線を逸らした桂花は、数瞬黙って夜空を見上げ、何もかもを振り払うように深呼吸をして、彼女らしい無邪気な笑顔を浮かべると、シアンを振り向く。


「私、地上に来た時は、必ず都市から少し離れたあの丘の上まで行くんです。遠くに街が見下ろせて、本当に綺麗に見えるんです。夕陽が沈んで空が薄紅と瑠璃を混ぜたみたいに、不思議な色の時間には、この街の息遣いが、聞こえてくるような気がするんです。そうすると、ゆっくり都市に灯が点って、まるでこの都市が、大きな1つの生き物みたいに思えるんです」


幼い少女がとても大切な宝物の話をしているような、桂花の笑顔につられて、シアンにも自然と笑顔が浮んだ。


心底嬉しそうな笑顔を見ながら、今まで全く興味の無かった、街外れのあの丘の上まで、嘘ではなく、本当に近いうちに、桂花と一緒に行って見たくなる。


都市まちの北にある丘の事だろ? 今日は無理だけど、今度一緒に行こうか」


「いいんですか?!」


「うん。俺も見てみたくなったからさ」


「はいっ!ありがとうございます。嬉しいです、シアン様とあの丘に行けるだなんて、夢みたいです」


子供のように笑っていた桂花が、ふと笑いを収めて、シアンの顔を窺うように見てくる。


「あの……シアン様のお母様は、早くに亡くなったと、お伺いしていますが、この都市の事を、シアン様にお話にはなりませんでしたか?」


「えっ?う〜ん。母さんが死んだのって、俺がまだ三〜四歳の頃だったし、話した内容とか記憶にないんだけど……どうしてそんな事聞くの?」


途端に桂花は立ち止まり、シアンを見るなり深々と頭を垂れた。


「申し訳ありません。哀しい事を思い出させてしまいました……」


「いや、母さんの事はべつにいいんだ。もう哀しいとかそう言うの無いしさ。でも、何でいきなり聞いてきたんだろうって、そっちの方が気になるんだけど」


ちょっと狼狽うろたえたように首を振って、うつむいたまま、それでもおずおずと桂花は口を開く。


「……私が、祖父や両親にこの都市まちの事を教えてもらったように、シアン様もご両親から色々聞いているのかと思ったものですから。地上の人は、そういう話しは、親子でもしないんですね」


「……親子でもって言うか、普通知らないと思うよ?まぁ、議員なんてやってるから、父さんなら多少知ってる事とかあると思うけど、俺と父さんって、そういう真面目な話っぽいのしないんだよなぁ。なんでだろうな。桂花に言われて、今気付いたけど」


「あ……申し訳ありません。踏み込んだ事をお聞きしてしまって」


「なんで桂花が謝るんだよ。変なの。謝る所じゃないよ」


「えっ、そうなんですか?」


驚いて顔を上げた桂花の頬は、薄闇の中でも分かるほどに上気して、赤くなっている。


「桂花。顔、赤いよ?」


クスクスとシアンに笑われ、桂花は頬を手の甲で擦る。


「でも、なんで地上の学校じゃ、この都市の歴史とか教えないのかな?他の国や、都市の歴史やなんかはやるのにさ」


言いつつ再び歩き出したシアンに、桂花も半歩後ろについて歩きだす。


「すみません。私は……地上の事は、分かりませんので……」


呟くような桂花の声に、シアンは『だよね』と答えただけで、特に気にするふうも無かった。

桂花はすっかり闇が深くなった夜空を見上げ、そこに都市の灯にかき消されそうな、シリウスの輝きを黒い瞳に映していた。



めずらしく夕食前に帰ってきたと聞いて、桂花と部屋でくつろいでいたシアンは、桂花を連れて父親の書斎へ怒鳴り込んだ。


「父さんっ!どういう事だよっ?!説明してもらうからなっ?!」


いきなりドアを蹴破る勢いで入ってきた息子に、まだ三十代半ばにしか見えない若々しい外見を保った父、サリエル・メイシー・リンドグレーンは驚いたように目を瞠って、肩で息をする息子を、書斎のゆったりとした椅子から見上げる。


「どういう事って。何がだい?」


血相を変えて自分を睨め付けてくる息子に、サリエルは椅子から立ち上がると、優雅とさえ言える落ち着いた足取りで、出居る口近くに立っている息子へ近寄っていく。


そのサリエルの前に、シアンは、自分の背後に隠れるようにしていた桂花を引っ張り出す。


「なんで、地下都市の食用人間が“俺の物”なんだよっ?!食人反対じゃなかったのか?!」


まだまだ言いたい事があるのに、言葉が上手く出てこないのか、息巻くように主張した息子に、父親であるサリエルは動じず立ち上がると、にっこりと、温厚な紳士そのものの笑顔を見せる。


「おや。桂花ちゃん。また綺麗になったね。会うのは一年ぶりかな?」


そう言いながら、サリエルは当然のように桂花の小さな頭を撫でた。


桂花も嬉しそうにサリエルを見上げて、笑っている。


「なんで、そんな、当たり前みたいに頭撫でてんだよ?!このスケベオヤジ!!桂花を離せ!だいたい、なんだよ?!一年ぶりって?!おかしいだろ?!」


「なんだ。シアンは良い年をしてヤキモチかい?お〜よしよし、いい子だね〜」


そんな事を言いながら、シアンの頭をこれでもかと撫で回してくる父親の手を払って、睨みつけてやる。


「違うっ! ヤキモチなんかやく訳ないだろう?!そうじゃなくて、地下へ行って偶然桂花に会わなかったら、桂花の事知らないままだったんだ!!俺は今日、学院のカリキュラムで、食人反対と他人に呼びかけている人間が、息子にプレゼントだって?!支離滅裂だろ!どうして桂花が俺へのプレゼントなんだよっ!しかも、まだ学院へも行ってない子供だったんだ!!」


自分でも少し言葉がおかしいように思いながらも、興奮している為か頭も口も回らない。


しかし、サリエルはシアンの言いたい事をよく理解したらしく、微かに眉を寄せつつ、呆れた様子で答えてくれる。


「なんだ。すっかり忘れてしまっていたのか。お前が親戚の子がプレゼントに貰っているのを見て、欲しいって駄々をこねたんだよ。私はあまり気が進まなかったのだけれどね。子供とはいえ、自分の考えがあるのだろうと思って買ってきてあげたんだけど……屠殺しようとすると怒るし、何か勘違いをしていたんだな、と分かったから、そのまま家で一緒に暮らしていたんだけれど。どのみちお前が気が変わって『いらない』って言ったら、家のメイドにしようと思って、一番可愛い子を選んできたんだよ。お前はお前で『おともだち』って大喜びしてるから、まぁいいかなと思ってね。ただね、私に反感を持っている人達の中の一部の過激な輩が、桂花ちゃんの事を嗅ぎつけてきてね。色々な嫌がらせをしてきたわけ。べつに、私を狙うなら構わないんだけれどね。家に爆弾を送り付けてきたりして下さるから、お前も桂花ちゃんも危ないと思って地下へ帰す事にしたんだよ……あそこの方がある意味安全だからね」


そこでサリエルはわざとらしいほど大仰なため息をついて、桂花の黒い髪を優しく、何度も撫で梳くようにする。


「桂花ちゃんは、昔の事を、ハッキリと覚えてるって言ってたよね?」


「はい。お屋敷の外から銃を持った人達が、マシンガンとかで窓ガラスを割っていったり。門に爆弾を仕掛けた車が突っ込んできたりして、お屋敷の皆さんも不安そうにしていたように記憶しています」


「そうなんだよ、シアン。だから仕方なく取った措置だったんだよ。桂花ちゃんが地下に家族もいない事は知っていたし、。娘が出来たようで、私も楽しかったしね。せっかく屋敷の人間にも馴染んで来てたんだから、ここで一緒に暮らしたいのは私も同じだったのに、シアンときたら『つれていかないで〜〜‼』って大騒ぎした揚げ句、しばらく口もきいてくれなくなったから、桂花ちゃんの話しはしないようにしていたんだよ。名前出すと『いますぐケイカつれてきてよ!』って、泣いて駄々こねるから、面倒だったし」


サリエルの話しにシアンの顔に見る見る血が上っていくが、サリエルは桂花の最近の様子などを、至極自然に訊いている。


「ちょっと待てよ。父さん。何でメイドにしようなんて思うんだよ? 他のメイドに地下都市の人間だってバレて、苛められたらどうするんだよ……?」


眉間にしわを寄せてそう言った息子に、父は悪戯っぽく笑う。


「その点は心配無用だよ。ウチで働いてくれている人は皆、私が地下から買ってきた人達だから」


一瞬の沈黙の後、シアンは呆れてように父親を見た。サリエルはいつもの穏やかな笑顔で息子を見ている。


「どうして俺にその事言ってくれなかったんだよ」


「べつに?強いて言う必要はないだろう? それで彼等や彼女達の、仕事内容が変わるわけではないしね」


 涼しい顔をしてそう言ってのけるサリエルを、シアンは睨むように見上げる。


〘……こいつ、確かに俺の父親だ。同じ考え方してるよ……まったく、嫌になる〙


サリエルはムカッ面の息子をサラリと無視して、優しい笑顔を桂花に向けた。


「桂花ちゃん。いつも言ってるけれど、困った事や、相談したい事があったら、遠慮せずにいつでも話しに来なさいね。私は本当の娘とも思っているんだから、遠慮された方がつらい。もし、シアンに何か嫌な事をされたら、すぐに私に言いなさいね。一応シアンの名義にはなっているけれど、お金を出したのは私だしね。シアンはまだ未成年で、彼の保護者は私なんだから、遠慮しちゃ駄目だよ?」


その言葉をひったくるようにして、シアンがサリエルを睨みつける。


「父さん。俺は、桂花のいやがる事なんてしないよ。信用されてないんだなぁ……」


いつもと変わらない、ある意味ポーカーフェイスのサリエルの笑顔の淡いブルーの瞳を、シアンの真っ直ぐな紫の瞳が捕らえる。


シアンは外見も色彩も母親に似た為、目の前の父親とは、全くと言って良いほど似ていない。


愛した妻によく似た息子を見ていたサリエルは、その息子が心底嫌そうなため息をつくのを聞いた。


「どうりでウチのメイドは、皆きれいな顔をしているわけだよ」


呆れる息子に、父は平然と答えた。


「毎日顔を合わせるなら、美人の方がいいに決まってるじゃないか。それに、買う前に本人の意思もきちんと聞いてるよ。奴隷用の人にも、食用の人にも、家の仕事内容と給料の事。労働条件なんかもきちんとね。それで選んで来てもらってるんだよ。手続き上私の持ち物と言う事になってしまうけれどね。」


穏やかに微笑みながら、サリエルはなおも続けて言う。


「それに私はいくら美人でかわいい子が好きでも、どこぞの変態オヤジのように、手を付けて廻っているわけじゃないぞ?今だって、死んだお前の母さんだけを愛している。その気持ちに変わりはないからね」


もっともらしく、当然の事のように言う父親に、言ってる事【食人反対】と、やってる事【地下都市の人間を買う】が、チグハグなようにも感じたけれど、これも今の父の、どうしようも無い気持ちのあらわれで、なんとか少しでも変えていきたいと思うが、劇的に何かを変える事の出来ない自分へのもどかしさや、地上の都市で暮らす人達の、食人を当然と思う心を変えられない悔しさの結果なのかもしれないと思った。


たとえ自分一人ではかよわい力であろうと、一人でもいいから、救いたかったのかもしれない。


それを自己欺瞞や、身勝手な自己満足で、優越感に浸っているのだと父に言う人もいるだろうが、少なくともシアンはそうは思わないし、出来る事からやっていかなければ、百年経っても、何も変わらないだろうと思う……。


「もういい。わかった……行こう桂花」


脱力したように部屋を出ていくシアンの後を、サリエルに頭を下げるた桂花が、慌てたように追いかけて書斎を出て行った。


その後ろ姿を見送ってから、サリエルは再びゆったりとした椅子に腰を下ろして、銀灰色の髪をかき上げる。


〘桂花ちゃんが予想以上の美人に成長してくれて、ちょっと嬉しいけれど……しかし、シアンがあそこまでポッカリ忘れているとは予想だにしていなかったな。桂花ちゃんがいなくなって、一年ぐらいは桂花ちゃんの名前が出るたびに、『つれてこい』と泣いてわめいてうるさかったのに。あまりにもうるさく騒ぐから、桂花ちゃんの話はしないようにしていたんだが…………子供の記憶なんてそんなものなのかもしれない。それにしても、随分熱心だったが、シアンは何を考えているのだろうね。まぁ、何にしてもあの子達がどうするのか、見物ではあるかな〙


自分に全く似ていないと思っていたのに、いつの間にか性格や気性が似てきている息子をほんの少し心配に思いつつ、サリエルは微笑んで再び仕事を始めた。




父の書斎を物凄い勢いで飛び出し、かなりの足早で自室に戻ったシアンは、桂花を先に部屋へ入れるとドアを閉めた。


息を切らせているシアンを、桂花が心配そうに見つめる。


「シアン様、大丈夫ですか?」


「……桂花は覚えていたんだよね。なのに、忘れててゴメン。しかも小さい頃の俺って、すごい間抜けで大バカだ」


その場にズルズルとしゃがみ込んだシアンの傍に、桂花もしゃがんだ。


「でも、シアン様のおかげで、私はここまで生きてこれました。シアン様にはいくら感謝しても、したりないです。自分の運命に対しても良いように考えられるようにもなりましたし、シアン様にお会い出来て、本当にとても嬉しいです。それだけで、充分、私は倖せです」


桂花の言葉に顔を上げると、あまりにも真っ直ぐな、黒々と輝く瞳と目が合って、つい赤面してしまう。


〘桂花と一緒にいると、何故かすごく心が安らぐのに、たまにまともに顔が見られないような、変な気持ちになる。俺、もしかして自分で考えているよりも、桂花の事が好きなのかな……〙


そう考え出すと、なおさら桂花に興味が湧いてきてしまう。


「子供の頃、俺には友達って居なかったから……きっと凄く欲しくて、勘違いして強請ねだったんだと思う。我ながら頭が悪いと思うけど、結局は良かったのかな。おかげで桂花と友達になれたんだし」


少し赤い頬をしたシアンが、照れたように笑って桂花を見ると、とても嬉しそうに笑い返してくれたが、反応はいつも通りだ。


「私はシアン様の持ち物です。友達だと仰って下さるのは、とても嬉しいのですが。私は人権の無い地下都市の人間ですから、そんな事を他の人が聞いたら、シアン様にとって良い事があるとは思えません。二度と今のような発言はしないで下さい。お願いします」


必死に、縋る様に見てくる黒い瞳に捕らえられ、シアンの口からため息が漏れる。


「頭固いなぁ、桂花は。俺の持ち物なのは理解してるよ。それじゃ、友達が嫌なら…………」


そう言ったシアンの顔が、すぐ隣にいる桂花の鼻先に触れそうなほどに近づいていく。


「彼女になってもらおうかな?勿論、大切にするよ」


優しい笑顔でそう言ったシアンから、物凄い勢いで身を引き尻餅まで付いた桂花は、切れ長の目を極限まで瞠っているが、その頬に見る見る朱が散っていく。


「な、何を仰ってるんでッすかっ?!彼女なんて滅相もございませんですっ!からかわないでくださいっ!」


首を振ってそう言った桂花の顔を、微笑んで見ているシアンの、ちょっと不思議な色を映した視線に気付いて、桂花もシアンを伺うように見た。


「あの。できれば、こういう冗談は、止めて頂きたいのですが……」


まだ赤い顔をしている桂花の頭に、シアンはそっと手を置くと、ゆっくりと撫で下ろした。


見た目通り、漆黒の絹糸のように柔らかい手触りだった。


「桂花って何だか可愛いね。だから許してあげる。いいよ……桂花が嫌なら、今は冗談にしといてあげるね……?」


目を細めて笑いながら、何度も桂花の頭を撫でるシアンを、桂花は困惑しきったていで見ている。


「あの、シアン様。こういうのも、私みたいな地下の人間に対して、変なのではないかと思うのですが……」


「桂花は二言目には、俺の持ち物って言うけどさ、その割りには言うこと全然聞いてくれないような気がするなぁ……髪の毛にも触らせてくれないなんて」


その言葉に、ハッとした様子で桂花の顔から血の気が引き、深々と頭を下げた。


「申し訳御ざいません!失礼きわまりない態度を……」


さらに何か謝罪してこようとする桂花の頬に手を当てて、シアンの手が優しく桂花の顔を上向ける。


「謝らなくていいよ。そこが桂花の面白い所だから。でも、一つ聞いてもいいかな?」


「はい。シアン様」


桂花はけれんみの無い笑顔で頷く。


切ないような奇妙な心臓の鼓動を収めるように、シアンはじっと桂花の黒い瞳を覗き込む。その青黒い瞳の底にある、秘めた何かを探るように………。


何処か変に素直で純粋な桂花だから、嘘をつけばすぐに分かるだろうとシアンは思ったから、視線を外さずに、ゆっくりと問い掛ける。


「マスターとか、そういう関係を本当に抜きにして、同じ人間として、桂花は俺の事が嫌いかな?」


「……好きです」


小さな声だったが、はっきりと耳に伝わってきて、シアンの口元が思わずほころんだ。


「俺も、桂花の事嫌いじゃないよ。お互いに嫌いじゃないんなら、少なくとも友達にはなれるよね?」


シアンの言葉に、桂花はひどく驚いたようで、息を呑んだが、それでも明らかに嬉しそうなのが、表情に素直に出てしまっている。


「桂花って、なんだか本当に可愛いよね」


思わずシアンの口から出てしまったのだが、嘘や偽りではなく桂花の優しさや純粋さ、表情などを可愛いと思ってしまったのだ。


しかし、言われた桂花は、黙ったまま深く俯いてしまう。


「可愛いって言われるの、嫌だった?」


「いっ、いいえ。違うんですっ。あのっ、そんな事、言ってもらった事、私なんてありませんから。そのっ、すごく……嬉しいんだと思います。でも、言われると、なんだか……どうしたらいいのか、分からなくなってしまいまして……」


おびえた野生の動物のように、シアンの顔を恐る恐る見てくる桂花は、決して醜くは無いし、同じ地下都市の人間から“可愛い”やら“綺麗”という賛辞の言葉なんて、言われ慣れていても、おかしくは無いだろうとシアンには思えた。


しかし、目の前の少女の赤く上気した頬の熱は、小さな耳までも伝わって、赤く染めてしまっていたし、とても嘘や演技には思えなくて、可笑しくなって笑ってしまう。


「真っ赤になるほど恥ずかしいんだ?」


「はい……すみません……」


素直に頷いた桂花は困惑もあらわで、シアンを助けを求めるように見てくる。その小さな耳に手を伸ばしたシアンは、指先でその熱をたどるようにして、触れる。


「耳まで赤いよ?言われ慣れてないんならさ、これから慣れればいいよ。桂花は本当に可愛いんだからさ。ね?」


「あっ、ありがとうございます、シアン様。他の誰が私の事をどう思おうと、構わないですけれど、シアン様にお気に召して頂いて、本当に嬉しいです」


シアンが触れているのを、心から感謝するように小さく溜め息を吐いて、桂花は胸の前で両手を合わせて、そっと微笑む。


まるで、何かを願うような、祈るような仕草だと思った。


そのシアンの脳裏に、記録映像で知っている以外の、純然たる記憶として、庭で不思議な言葉を自分に教えてくれていた、母の姿や声が脳裏によみがえる。


〘え……なんだ?……外見はまるで似ていないのに。どうして……?〙


突然、凍りついたように動かなくなったシアンを、心配そうに桂花の射干玉ぬばたまのような瞳が捕らえている。


気付いて、慌てて取りつくろううように笑うと、桂花は何も訊こうとはせず、笑い返してくれる。


〘何だったんだろう。今のは……桂花は可愛いと思うし、同じ年とは思えない程にどこか幼くて、でも強くて。今まで周りにいた女の子達とは全然違う。話をするほど、桂花に興味が湧いてきて、もっと知りたくなる。知りたくて仕方がないのに、何故か心の深い場所で、俺は桂花が怖いのか……?母さんが、あの奇妙な詩のようなモノを教える時、俺は母さんが怖くて、怖くて、いつも逃げ出していた。そんな事さえ忘れていたのに、どうしてか桂花の中の何かが、母さんの記憶を蘇らせたのだろうか?でも、どうして……〙


「シアン様。大丈夫ですか?」


立ち上がったシアンは、何でもない様子をして見せ、座ったままの桂花を見て笑う。


「お茶でも飲もうか。夕食まで時間もあるし。紅茶でいいかな?」


そう言って部屋を出ていこうとすると、慌てて桂花が立ち上がる。


「私がやりますので、シアン様はここでお待ち下さい」


立ち上がった桂花がシアンを制してドアに駆け寄った時、外からドアがノックされる。


シアンが開けると、母親代わりにシアンの面倒をずっと見てくれている中年の女性のナニー代わりのメイドが立っていた。


「ヘレナ。何か用?」


優しげな赤茶の髪と瞳の女性は、ドアが開いた時から、シアンの傍らに居る桂花を見ていた。


「旦那様に、桂花ちゃんが来ているとうかがって、会いたくて……」


目を潤ませるヘレナを部屋の中へ入れてやりながら、シアンは内心首を傾げる。


しかし桂花は嬉しそうに笑って、ヘレナの手を取った。


「ヘレナさん。会いたかった。良かった、元気そうで良かった……」


「桂花ちゃん!まぁ、こんなに大きくなって……旦那様に反対している人達や、軍の機密部隊の人達に捕まってしまっているんじゃないかと思って、心配していたのよ。旦那様は、何も答えて下さらないし……本当に、無事で良かったわ……」


言いながらも、ヘレナの目からは次々に涙がこぼれ落ちる。


〘軍の機密部隊が、なんでたかが食用人間を捕まえようとするんだ?〙


まったく話しが見えなくて、戸惑うシアンに気付いたヘレナが、シアンに向き直ると、涙をぬぐって笑いかけた。


「申し訳ありません、シアン様。私にも娘がいたんです。もし、生きていればちょうど桂花ちゃんと同じ歳の。それで、桂花ちゃんをお世話させてもらっている時も、つい、娘と重ねて見てしまって……本当に、桂花ちゃんともう一度会えるなんて……こんな、嬉しい事があるなんて……」


そう言いながらヘレナの手は、桂花の両手を包むようにして、何度も、何度もいたわるように、さすり続けている。


「ああ、そうか。桂花も俺と一緒にヘレナが世話してくれてたのか。じやぁ、積もる話もあるだろうし、二人ともソファーにでも座って。俺がお茶いれてくるから」


その言葉に二人は同時に『私が行きます』と申し出てきたが、シアンは軽く手を振ると、さっさと廊下へ出てドアを閉めてしまう。


〘そうか、ヘレナも地下の人間だったっんだから、同じ地下都市の人間である桂花の事、心配して当然だよな。ましてや自分の娘と同じ歳で、世話までしてたんじゃ、情が移って当然か。俺が小さい頃に、ヘレナが『私にも娘がいたけれど、死んでしまったんです』と洩らした事があったけど、もしかしたら地下都市で生きているかもしれないんだよな。会わせてやりたいけど、父さんがそうしないって事は……もう、いないのかもしれないな〙


そんな事を考えながらキッチンへ向かう途中で、運良く最近入った先刻お茶を持ってきてくれたメイドに出くわす。


彼女は二十三歳だと言っていたが、美しく長い銀髪をきっちりと束ねて結い上げていて、大きな淡い紫色の瞳をしている。


多少の好みはあれ、大抵の人間が〈美人〉というであろう容姿をしている。


シアンが部屋にお茶を三つ持ってきて欲しいと頼むと、笑顔で『すぐにお持ちします』と、落ち着いた女性らしい声で返事をしてくれ、キッチンの方へ去って行く。


〘父さんってかなり面食いだったんだなぁ……今まであんまり深く考えた事なかったけど、俺にも遺伝してそうな気がしてかなり嫌だな。顔なんて二目と見られないような不細工でなければ、充分だろう。性格の方が大事だ、と思っていたんだけど……いや。勿論性格は大事だと思うけど……〙


思わずしかめ面になりながら、自室のドアを開けたシアンは、ドアを開けたまま、部屋の中の桂花とヘレナを見つめる。


なにしろ二人とも先刻のままの場所に立っていて、入ってきたシアンを見るなり、突然話しを止めてしまったのだ。


おまけにシアンが中へ入って二人の傍へ歩み寄ると、ヘレナはそそくさと、まるで逃げるようにして部屋から出て行ってしまう。


ぽつんと残された形の桂花を見ると、シアンが見た事のない、人をゾッとさせるような、厳しい冷徹なまでの意志の強さを感じさせる目で、じっとヘレナが出て行ったドアを見つめている。


「桂花。何があったんだ?」


「いいえ。何でもありません。ご心配には及びませんから」


見ている方が哀しくなりそうな、冷たい目をしたまま、それでも微笑んで首を横に振る桂花だったが、シアンはその肩を掴んで、顔を覗き込む。


「ヘレナに何か言われたのか?それとも、ケンカにでもなった?俺は桂花の味方だし、何かあっても絶対に力になるから。話してよ」


何かを桂花が隠しているのはわかるし、知られたくない事の一つや二つ、誰だってあって当然だとは思うものの、つい苛々してしまい、問いただすような口調でいいながら睨むように見ると、桂花は頑固に口を閉ざして目を逸らすので、シアンも頭にきて、桂花の肩から手を離しソファーへと大股に歩いて行って、どさっと腰を下ろす。


そのまま腕組みをして、瞑目してしまったシアンを寂しそうな目で桂花が見ながら、シアンの正面に置かれている一人用のゆったりとしたソファーに、静かに座った。


どれくらいのあいだ沈黙が続いていたのが、彫像のように動かないシアンに、桂花はついに口を開く。


「……申し訳ありません。怒っていらっしゃるんですよね……」


おそるおそる尋ねてくる桂花に、シアンはため息をつく。


〘怒っているといえば確かにそうだ。でも今の自分の態度は、明らかに桂花に対して理不尽だと理解は出来る。頭ではそう思うし、話したくないものを無理に訊いても、傷つけてしまうだけだとも思うのに………〙


信用されていないから話さないのか。話しても仕方ないと思われているのか……どちらにせよ、桂花が話してくれないと言う事実に、シアンは傷ついてもいたし、その感情の元を探っていくと、嫉妬心や独占欲などという、あまり自覚したくない感情にまで行き着いてしまうのだ。


かと言って先刻の反応だ。同じ歳とも思えないほど変に子供っぽい所があるうえ、地下都市の人間である桂花に、好きだなんて言った所で、すんなりと上手くいくわけが無い。ただでさえ、シアンは桂花にあくまで『マスター』としてしか見られてない。


桂花は、頑固に自分を『家畜』だと思ってる。現実として、地下の人間と恋愛なんて無茶苦茶だとシアンも理解出来るが……。


今日ではなく、きっと初めて出会った瞬間から、シアンの心には今の感情に近いものが芽生えていたに違いない。


だから、今日、見知らぬ少女だと思ったのに、忘れていた桂花を一目で信用してしまったのだろう。


シアンはうなるようにして、前髪をくしゃっと両手でかき上げつつ、膝に両肘を付けその両手に顔をうずめるようにした。


それを見て、桂花はさらに心もとない、捨てられそうな犬のような眼差しで縋るようにシアンを見るが、シアンはその姿のまま、また動かなくなってしまい、重い沈黙に耐えかねて、桂花が呟くように話しだす。


「……実は、ヘレナさんに渡したかったものがあったんです。それで、なんとか受け取ってもらおうとしたんですが、強く断られてしまって……どうしても、受け取って欲しかったんですが……」


話しだした桂花につられるように、顔を上げたシアンの目は、上着のジッパーを、鎖骨の下辺りまで降ろした桂花の手が、首から下げている鎖を手繰だぐりだすのを見た。

その鎖には、地上へ来る時に渡された認識票の他に、地下で使う登録証や、細長いものや丸いもの板状の物など様々なキーがが下げられていた。


その鎖に付けられた、映像記録用の3Dメモリー専用の、銀色のハードケースに、ずっと手に持っていたらしい薄い5センチ四方程のメモリーを、収めようとしている。

ちょっと古い型のモノだが、〈解像度は落ちるが〉頑丈さと、再生機能が付いている為、いまだに好んで使う人もいるシロモノだ。

どうやらそれがヘレナに渡したかった物らしい。


「それを渡そうとして、断られたの?」


シアンに問われると、メモリーをケースにきっちりと収めた桂花は、少しいつもの彼女らしい笑顔を見せたが、その視線はすぐに、メモリーの入っているケースに向いてしまう。


「屠殺された友達に頼まれたものなんです。『多分、桂花が一番長生きだろうから、もしも会えたら渡して欲しい』って。他人に見せないという約束はしていませんから……よろしければ、ご覧になりますか?」


シアンが思わず一瞬絶句する様な事を、平気な顔で言った桂花は、微かに笑って、小首をかしげている。


まるで、ご主人様の命令を待つ犬のような無邪気な仕草だった。


「俺が、見せてもらっても構わないのかな?その、屠殺された子も」


「シアン様なら、ユリナも笑って許してくれます。ユリナの大好きな“お母さん”が、幸せに暮らさせてもらっているお屋敷のご子息で、その“お母さん”が大事に育てた人で、私のマスターですから」


けれんみのない笑顔と、話の内容がシアンの頭の中を一瞬混乱させる。


「……ちょっと、待って」


「はい」


シアンの言葉に、桂花は大人しくそのまま待っている。


「ええと。つまり、桂花にそのメモリーを頼んだのは、ユリナと言う子で、すでに屠殺されていて。ヘレナの、実の娘って事……?」


「そうです。一番下の娘だそうです。ヘレナさんは私の母と同じ“食用母体”で、何人かの食用人間を産んでいます。シアン様のお母様が亡くなられて、旦那様がシアン様のお世話が出来る人間を、地下から買われたんだと思います。ヘレナさんは保育所で子供達の保育をしていましたから」


「そうか……ヘレナの娘の映像なんだ。見せてもらっていいかな?」


「はい。勿論です」


桂花の長い指が、先刻の頑丈そうな銀色のケースから、器用にメモリーを取り出し、シアンへ差し出してくるので、シアンも少々身を乗り出すようにして受け取る。


一見ただの黒いガラス板のようなメモリーは、右端に赤い印がついており、触れると中の映像の情報が出る。見たい映像に触れれば、そのままメモリー上の空間に、十五㎝四方程度の立体映像が現れる。


このメモリーには一つしかデータが入っていなかった。


シアンはちょっと躊躇ためらってって桂花を見たが。桂花は微笑んでうなずく。


「それしか入っていないんです。最後の日にこっそり撮ったので」


〘最後の日。簡単に言うけど、本当はそうじゃないのも、今はもう分かってるから。なんだか複雑だけど……〙


シアンの指が触れると、小さな中庭のような場所が映し出され、女の子の声が聞こえる。片方は桂花だとすぐにわかった。


もう一つの、桂花よりも高くて可愛らしい声が、ヘレナの娘のユリナという子なのだろう。


中庭らしい場所にピンクのスカートと、白いブラウスのまだ幼い、十歳ぐらいの少女が現れた。赤い髪はヘレナにそっくりで、瞳は鳶色で顔立ちもどことなくヘレナに似ている。


立体映像の少女は無邪気に笑って、シアンを見ている。


正確には、これを撮っている桂花を———。


少女の口は笑みを絶やさず、鳶色の瞳も輝いている。


少女の口ははっきりとした口調で、ゆっくりと、一言ひとこと話しだす。



〘大好きなお母さん。ユリナだよ。大きくなったでしょ? お母さんは元気ですか?……桂花ちゃんに、お母さんの事を聞いて、私はとても安心しました。お屋敷にも、同い年の男の子がいるんだってね!お母さん『男の子も欲しかったわ〜』なんて言ってたもんね。よかったね!いっぱい、いぃ〜っぱい、私の分までその子の事を抱っこしてあげてね〙



映像の中の少女はちょっと奇妙な、今にも泣きだしそうな目で、それでも顎を上げ、にっこりと笑う。



〘私はもう、今日でさよならです。けど、桂花ちゃんに、このメモリーを、お母さんに渡してもらう約束をしました。だって、私の友達の中では一番長生きしそうだし、チャンスがありそうだから。桂花ちゃんも色々大変みたい。だから、お母さんに渡せるか不安みたいだけど、私は絶対にお母さんに見てもらえるって、信じてるの。だって、桂花ちゃんは約束、やぶらないもの…………無事に届いたら、桂花ちゃんを褒めてあげてね?それじゃ、お母さん。体に気を付けて。私や、お姉ちゃん達の分まで、長生きしてね!産んでくれてありがとう。さよなら……〙



ユリナは小さな手を振って、桂花に妙にはしゃいだ声で何か言うと、飛び立つ小鳥のように、映像から消えてしまい、そこで再生も終わった。


無言で薄いメモリーカードを手にしたままでいるシアンに、桂花の手が伸ばされる。


「十一年前に、同じ保育所で同室になって、右も左も分からない私を、面倒がらずに、親切に色々教えて面倒をみてくれたんです。ユリナはとても優しくて、明るくて……私はすぐに好きになりました。それで……色々あったんですが。二年後に私がそれを頼まれたんです」


そう話す桂花の手に、シアンは小さなメモリーカードを返した。


それを笑顔で受け取った桂花は、首の鎖に付いている銀色のケースへ、メモリーカードを丁寧にしまう。


「あの日から、ずっとこうして持っていました。もし、渡せたらと願っていたんです。今日、地下都市でシアン様にお会いしたのは、本当に偶然でしたし、お屋敷までご一緒出来るとも思っていなかったのですが……これで、渡せると勝手に希望を持って、逆にヘレナさんを傷つけてしまいました。もう屠殺されて、無残に死んでしまった我が子の映像なんて、受け取れないですよね。ましてや、頼まれた私はこうしておめおめと生き延びていると言うのに…………」


服の中に鎖を戻して、ジッパーをきっちりと上げた桂花に、思わずシアンが口を開く。


「俺から、もう一度頼んでみようか?俺はそれをヘレナが見たほうが、その子は喜ぶと思うし、渡そうとした桂花を間違ってるとは思わないから、手伝うよ」


シアンの心からの言葉に、何とも言えない、複雑な微笑みを浮かべた桂花は、泣きだしそうなのをこらえているようにも見えたが、すぐにその表情を隠すように、深くうつむいてかぶりを振った。


「いいえ。私がいけないんです。ユリナの母親が、ここで働いているヘレナさんだと気付いて、ユリナに言ってしまったから。だから、ユリナだけじゃなく、ヘレナさんまで傷つけて、悲しませてしまった。私が死んだ時にユリナに謝ります。『渡せなかった』って……」


顔を上げた桂花は、穏やかに笑っていた。


見ていたシアンが、思わず微笑み返してしまうような、優しい包み込むような温かさを感じさせるのに、奇妙に哀しい、不思議な笑顔だった。


〘桂花は地下都市で育って、周りの自分と同じ人間が、屠殺されたり、酷い労働を強いられたり、奴隷として売られて行くのを見ながら、それでも、ユリナという子の為に笑ったように、いつも笑ってみせてきたのだろう。どんなに哀しくても、何事もなく生きているだけで、嫉まれ、罵倒されようと、自分には他には何もしてあげられないから、いつも笑っていたんだろうな。“さよなら”を言ってくれる、誰かのために……泣きたい気持ちを堪えて、笑ってきたんだろうな……桂花って、変に純粋っていうか、バカなところがあるんだな……〙


胸の奥からツンと切ないような感情が、体中にじんわりと広がってゆく感覚に、シアンは溜め息を吐いて立ち上がると、桂花の座るソファーの後ろに立った。


不思議そうに振り返った桂花の漆黒の髪をそっと撫でてから、シアンに比べたら華奢で、頼りなくさえ感じる肩と、小さな頭を、掻き抱くようにした。


「シッ、シアン様ッ?!あのっ!な、なんでしょうかっ?!」


「ちょっとだ……だって、桂花があんまりバカだから、力が抜ける。呆れたよ。本当に……」


「申し訳ありません。あの、あまり、きちんとした教育とかを受けていないんです。その……逃げ回ってた時とか、一応は宗近むねちかに教わってはいましたけど……本当は、宗近って子供嫌いみたいで、なんていうか……一緒にいても、あまり話しもしませんでしたから。私が口がきけなくなってたっていうのも、あったんですけど……」


ちょっと桂花の体に回した腕をゆるめて、顔を覗き込むようにしたシアンが問う。


「……なんか。今、一気に聞きたい事が出てきたんだけど、聞いても良いかな……?」


「いいと思いますが?」


「いや、だから、俺が聞きたいんだけどさ……」


笑いながら、シアンは桂花から離れて、はす向かいにある、一人がけ用のソファーに腰を下ろし、改めて桂花を見るが、射干玉のような瞳は真っ直ぐに輝いている。


「桂花が喋れなくなっていたって、どうして?それと、宗近って、地下都市の人?ひょっとして、桂花の家族とか?それに、さっきヘレナが、桂花が軍の機密部隊に狙われてる様な事を言ってたけど、今も桂花は『逃げ回ってた』って言ったよね?一体何なの。どういう訳なのかな」


ちょっと迷うようにして、桂花は視線を床の絨毯へと落とした。


シアンが何も言わずに、その桂花を見て言葉を待っていると、すっと顔を上げてシアンを真っ直ぐに見つめる。


「十三年前にあった“絶血運動ぜっけつうんどう”を、ご存知でしょうか?」


「絶血?……いや、聞いたこともないし、習った事もないと思う」


「“絶血運動”とは、エア・クロイツで定期的に起こってきたモノだそうです。軍による都市公認の大々的な虐殺です。彼らが絶やしたい“血”とは、この都市を創った初代から続く一族の血です……あの……初代の一族というものの存在は、ご存知ですか?」


「ああ。父さんから聞いた事があるよ。この都市を支えてる、ものすごい人工脳を作った人達の一族だって」


「はい……ただ、一部の人々は初代の一族の存在によって、この都市の平和が乱されると、軍や組織に信じ込まされているんです…………初代から続く一族は彼らの手にかかって殺されてきました。十三年前、やはり“絶血運動”が起こり、初代から続く純血の血族である私も、地上のこのお屋敷にお世話になっていたにもかかわらず、結局は命を狙われました。だから、私は地下へ帰されました」


淡々と語る桂花は、真っ直ぐにシアンの紫色の瞳を捕らえている。


「ですから、シアン様とご一緒に過ごせたのは、ほんの二・三ヶ月だったと記憶しています。このお屋敷に来る以前……本当に幼い頃は、ひっそりと地下に住んでいたり、父と母と兄と追われては逃げる生活でしたが、両親を殺され六歳ぐらいの時です。兄と祖父母の家の地下室に隠れて住んでいたんです。それでも、恐ろしい刀を持った軍の特殊部隊の人が、私達を見つけました。それが、三日月宗近みかづきむねちかです。祖父母は私と兄を逃がし、家ごと宗近を道連れに死のうとしましたが、この都市を護る力のある守護刀しゅごとうであり、それに選ばれた人間なんて、簡単には殺せません。祖父母も殺され三日月宗近と言う守護刀に喰われました。追ってくる宗近の気配に気付いた兄は、私を庭の柊の繁みに隠すと、追いついた宗近に、自分の命とを引きかえに私を護るよう頼んでくれました。宗近は何故か、私を見ると盛大に溜め息を吐いて、私を助けてくれました。その時、兄を目の前で守護刀に喰われた衝撃からか、言葉が出なくなってしまって…………精神的なストレスのような物で、失声症だから良くなると、宗近が連れてっ行ってくれた、地下の闇医者が言ってくれました。それから宗近は……軍や私を利用しようとする人達から、ずっと私を護ってくれました。兄同様〝鍵〟を持っているので、この都市からあまり遠くへ離れられない私を連れて、逃げ回って、人を殺して…………その後も私を保育所へ預けて、一緒に居るフリをしてまで、逃げてくれたりもしていたんです。私がこのお屋敷から地下へ返されるまでの間も、ずっと一人で、私を匿っているフリをしてくれていたんですが……」


桂花は視線を落として、躊躇ためらううようにしながら口を開く。


「宗近は、私をあの時兄と一緒に殺していた方が、倖せだったんじゃないかと思うんです。そう思うんですけれど、それでも、兄や……屠殺されていった人達の事を思うと、宗近に申し訳ないと思うのに、今日まで生きてこれた感謝と、喜びで、悲しいのに、嬉しさで……胸がいっぱいになるんです」


桂花はこちらがうっとりする程優しく哀しくて胸が詰まるような、不思議な微笑みを浮かべて話す。


その口から紡ぎ出される桂花の過去の出来事は、シアンが想像するだけでも、すさまじいと言ってよく、シアンはどう答えていいか分からず、ただ頷いて先を促した。


聞きたい事はたくさんある。


刀で喰らったとか、“守護刀”だとか、シアンには全く耳にした事などない言葉が出てきたけれど、それを尋ねる事で桂花を苦しめてしまうのなら、今は、取り敢えずこのまま話しを聞いた方が良いように思えた。


桂花は、少し躊躇うようにしてシアンを見つめる。


「あの。今、私がお話しした事で、シアン様がご存知ではない事とか、説明が悪い所とか、ありますでしょうか?」


数瞬考えるようにしてから、シアンが微笑んで言う。


「知らない言葉がなかった、と言ったら嘘になると思う。ただ、俺はそんな疑問よりも、桂花が地下でどうやって暮らしてきたのか、その……宗近って人がどんな人で、桂花にとって何なのか。その方が気になる」


黒い黒曜石のような瞳はそのまま伏せられ、シアンは問うように見つめるが、桂花は視線を落としたままで、シアンを見ようとはしない。


「桂花……?」


シアンの優しく問い掛けるような声に、かぶりを振って、桂花は自らの膝を掴む。


その手が何故か微かに震えていた。


「申し訳ありません……シアン様。お話、したいのですが……でも、宗近の話をしてしまっては、シアン様の身に危険が及ばないとも限りません。旦那様に、お伺いしてみませんと、私からお話する事は出来ません」


弱々しい声ながらも、きっぱりとそう告げた桂花にシアンの心の中に苦く焼けるような何かが、じわり、じわり、と広がっていく。


〘我ながら情けない……嫉妬なんて莫迦らしいだけなのに。だいたい、その宗近というヤツが、桂花の何なのかはっきり聞いてもいないのに、ヤキモチなんて馬鹿らしい。女性かもしれないし。男だとしたってだいたい桂花が六歳かそこらの時に、すでに軍の特殊部隊に居たのなら、どんなに少なく見積もっても、もうゆうに四十近いオヤジだしな。いくら助けてもらった護ってもらった、って言ったって、両親や祖父母や目の前で兄まで殺した男だ。しかも、子供嫌いだとも言ってたし。でも、今の桂花は子供、じゃ、ないよな……?ちょっと天然入ってるし、子供っぽいけど……〙


知らず知らずのうちに、足を組み手を顎に当てて部屋の隅を見たまま、沈思するシアンに、桂花はまだ震える手でさらに強く膝を掴む。


「……あのっ、本当に申し訳ありません」


深々と頭を下げられて、やっと自分のらちもない考えから現実に引き戻されたシアンは、あわてて桂花の肩に手を置き、顔を上げさせる。


「違うよ。桂花が悪いんじゃない。地下の事も今日まで桂花の事を忘れてた俺が悪いんだし。今ちょっと考え込んでたのは………桂花に怒ってたとかじゃなくて、俺の勝手な感情を反省していた所だから。夕食の時にでも父さんに聞いてみるよ。桂花に色々話しをきいてもいいか……」


シアンの言葉にやっと肩の力を少し抜いた桂花は、微笑んでシアンを見た。


その時、話しが終わるのを見越していたように、扉がノックされる。


「シアン様。お茶をお持ちいたしました」


立とうとした桂花を制して、シアンが返事をすると、先刻の銀髪のメイドが入ってきて、二人にお茶をいれてくれる。


ティーカップも何もかも、二人分だった。


〘ウチのメイドってみんな結構仲がいい上に、仕事が出来るんだよなぁ……いつも気が利いてて連絡が行き届いてるんだよ〙


シアンがぼんやりと彼女の手元を見ていると、ふと目が合う。


「他にご用はございませんか?」


「ああ。いまの所いいよ。ありがとう」


頭を下げて出て行こうとする背中に、シアンの声がかかる。


「あ、ちょっといいかな」


シアンの言葉に、くるりと振り向いた女性は、数歩シアンに近寄った。


「はい」


「君の名前さ、サーナだったよね。名前で呼んでもいいかな?」


銀の髪のメイドは、少々驚いた顔をしているが、シアンはにっこりと笑う。


「いや、変な意味はないよ。俺が子供の頃から居てくれてる人達はさ、なんでだか呼び方が出来てたんだけど、最近入った人には名前で呼んでいいか聞いてるんだ。呼び捨てられるの嫌なら、〝さん〟とかを、ちゃんと付けるよ」


銀髪のサーナは、クスクスと笑いだす。


美人なのに、そうして笑うとちょっと年より幼く見えて、可愛かった。


「それで、庭師の憧の事を〝ショウさん〟って、呼んでいらしたんですね。ずっと不思議だったんです。私の事はどうぞ呼び捨てにしてください」


「ありがとう。サーナ。夕食の事なんだけど、父さんも一緒なんだよね」


「はい。そう伺っています。そちらの、桂花さんもご一緒に、とのお申し付けですが……お疲れなら、旦那様にそうお伝えしますので、お部屋でお食事をされても構いません。そう言いつかっております。どうなさいますか?」


桂花を柔らかな色を宿した、サーナの薄紫の瞳が捕らえると、桂花は一瞬驚いたようにしてから、優しい笑みを返し、頭を下げた。


「旦那様とシアン様と、ご一緒させてもらいます」


「じゃ、その時に父さんとも話せるな。ありがとうサーナ」




そう言ったシアンはサーナを下がらせた後、今地上の都市で流行っている、かなり良く出来ていて、触感まで電気信号で伝えてくる体感ゲームを桂花とやったりして、それ以上〝宗近〟や〝守護刀〟の事は一切口に出さなかった。


桂花も、シアンにに誘われるまま、笑い声を立ててゲームを楽しんで、たまにあまりにも笑いすぎたのか、苦しくなってシアンに呆れて、笑われいた。


どうやら地下都市には、こう言ったゲームは無いらしかった。




いつもは忙しく、食事を共にする事はめずらしいサリエルを交えて、シアンと桂花は、和やかな雰囲気に包まれた夕食の席に着いていた。


「そういえば、桂花ちゃん」


サリエルがまるで、飼っている猫の事でも話すような、気軽な口調でそう切りだし薄い青い目に、桂花を映して話しだす。


「先月八日に地下の賭博場で開催された、半年に一度の超大掛かりな〔女子格闘技大会〕で優勝した時に出た賞金だけど、桂花ちゃんに頼まれた通り、君を一時養育していた地下都市の施設と学園。地上の孤児院と…………まぁ、桂花ちゃんが思うような所に、適当に寄付しておいたから、安心するといい」


「はい。有り難うございます、旦那様。私が変な事ばかりお願いしてしまって、お忙しい旦那様にご面倒をおかけしました。申し訳ありませんでした、ありがとうございます……」


「いいや。とんでもない。いくら賭博場での賭け試合とは言え、優勝したのは桂花ちゃんの実力なんだし。とにかく、怪我も無く済んで本当に良かったよ」


にっこりと笑い、ワインの注がれたグラスに手を伸ばす父を、ぽかんと見ていたシアンが、正面に座る桂花を睨むような勢いで見た。


しかし桂花は、不思議そうに首を傾げたのだ。


シアンだって、地下の賭博場で様々な賭け事が行われているのは知っていたし、中でも格闘技は地上に籍がある人間で、16歳以上なら誰でも賭ける事が出来るから、シアンの周囲にもハマっている人間は少なからずいた。


彼等曰く、同じ格闘技でも、闘技用のロボットもダイナミックな大技や、アクロバティックなせめぎ合いが見られるので、人気だそうだ。だが、やはり、彼は人間の格闘技の方が、断然に面白いのだと言う。


『やっぱ、血とか出てさ〜すんごい事になっても、まだ殴ったりしてるのが面白いんだって!!人間だからこその逆転劇とかも、たまんないぜ〜〜?!特に、女の奴隷のなんかさ、結構かわいい子が相手の事本気で血だるまにして、もう、女神様って感じよ?!闘いの女神サマ〜!!奴隷だから、面白いんだけどな。なぁ、一度一緒に来いって、面白さが分かるからさ』


そんな事を力説して、しきりにシアンを誘ってきた事もあったが、興味が無かったので、一度も彼と地下格闘技場へ出かけた事は無かった。


〘……あの、地下格闘技は、確か持ち主が自分の奴隷なりを、鍛え抜いて出資金を出して参加登録をするはずだ。一試合ごとに客も持ち主も金を賭ける事が出来て、持ち主が勝つとそれなりに賭けられていれば、かなりの金額になる。しかも、半年に一度の大会は大きくて、一口の額も一桁違ったはずだ。準決勝に行く頃には、何百倍にもなって奴隷の持ち主に返ってくる。もし優勝すれば、賭けで得られた金とは別に、持ち主にかなりの賞金も付与されるはずだ〙


「桂花っ?!なんで格闘技大会なんて出たんだ!だいたい僕は今日まで桂花の事すっかり忘れてたのに、どうやって参加を申し込んだんだよ!?」


「も、申し訳ございませんっ!あの、旦那様に格闘技大会に出たい事を相談しましたら、未成年のシアン様では、手続きが煩雑との事で保護者ですから、自分が参加を申し込んで下さると……」


「父さんっ!どういうつもりだよっ!!?」


マイペースにも、優雅に食事を続けていたサリエルは、食器を皿へ一時置くと、息子を見て一点の曇りもない青い空のように微笑む。


「あの地下格闘技。地上のマフィアや活動家の資金源にもなってるし、最近女子の方は特に派手にやりすぎだったからからねぇ……桂花ちゃんが調べて見たら、やっぱり試合前に薬物を各持ち主や、場を盛り上げようとするマフィアが選手に投与しててね。格闘場に出される頃には、半分正気じゃないから、痛みにも強いし骨が折れてようが、戦い続ける……」


驚いてシアンが桂花を見ると、悲しそうに目を伏せる。


「脳を異常に興奮させる麻薬効果と、精神を高揚させて異常な興奮状態に持って行く薬物が主なようでした。私も、決勝戦の時に見知らぬマフィアに、多分賭けの為でしょうね。妙な薬を打たれたんですが……私は、大抵の薬物は効かないんです……私と対戦した相手の子は気絶させて戦闘不能にしただけだったので、試合が盛り上がらなかったんで薬を打ってきたんでしょうね……」


「……桂花ちゃんの親友の子が、半年前にアレに無理矢理出場させられて、亡くなったそうだよ。お客も最近は白熱し過ぎているから、桂花ちゃんも皆の興味を少しでも削ぎたいみたいだったしね」


そう言ったサリエルは、ワイングラスを手にちょっと息子を非難するように見る。


「地下格闘技は女子の方が特に、見物する人も、賭ける人も、過激な人が多いからね。やる方も金になるから見た目のいい奴隷に、武術や格闘技をやらせて、薬で殴られる事が快感に近い様な、異常な興奮状態まで持って行くんだ」


問うように淡い青の瞳を、息子へ向けるが、シアンは業腹だとでも言いたげに、父親を睨んでくる。


「あの賭け格闘技大会は、一戦ごとに持ち主が互いの選手に賭け金を出さないと、その戦闘での持ち主への報酬はゼロ。つまり儲け無しって事だ。私は桂花ちゃんに参加費以外は一度もお金を出していないから、相手の儲けはゼロだっただろうし。今回手に入ったのも、優勝賞金だけだよ。それも、桂花ちゃんがそうしたいと言うから、全額寄付してしまったからね。桂花ちゃんが頑張って手に入れたお金なんだし、ね?」


そう言ったサリエルに、敵意をむき出しにするような息子の視線が投げつけられ、サリエルはクスクスと笑う。


「今回の大会では、桂花ちゃんの参加で、皆、非常〜〜にがっかりしてくれてね。こちらも出てもらったかいがあったというものだし、とても楽しませてもらった。以前に十四歳以下の男女混合で準優勝しているのに、みんな桂花ちゃんの顔を忘れてしまっているみたいだったね……まぁ、あの頃は桂花ちゃんの事を、マダム達が綺麗な男の子と勘違いして、頑張って応援して、賭けている人が居たぐらいだったけど……桂花ちゃんは随分綺麗になったから、今じゃ間違われようも無いけどね……?」


薄い青い瞳に桂花を捕らえ、にっこりと笑ったサリエルにそう言われると、桂花は慌てたようにかぶりを振るが、頬どころか首まで真っ赤になっていて、シアンはムッとして父親を睨む。


「何で桂花にそんな危ない事させてるんだよ?!いくら俺が興味ないって言ったって、アレに参加した奴隷の七割はその場で死ぬか、使い物にならなくなって、酷い場所に売られてたり、処分されたりしてるって、俺だって聞いて知ってるんだぞ?!」


シアンが身を乗り出すようにして言ってくるので、サリエルは微笑んだまま、頷く。


「そうだね。でも、私は桂花ちゃんの実力を知っていたし、格闘技大会になんてでるのなら、イザという時には、己の命に代えても助けに入る人間が傍で見て居るだろう事も知っていた。それは、抗い難い真実だからね。大丈夫だと思って」


「はぁっ?なんだよそれっ!……あ、そうだ、父さんなら知ってるんだろう?〝守護刀〟とか、それに選ばれたってヤツの事とか。桂花は父さんの許可が無いと話せないって言うんだけど、話してもらっていいだろ?」


サリエルは、一瞬なんとも言えない微笑みを浮かべたが、すぐにその表情を消して、穏やかに微笑む。


「困った子だね……エバが死ぬ前に、シアンにたくさんの事を伝えようとしていたのに、キミは全く憶えようとはせず、泣いて逃げ出していたのに……今頃になって…………ねぇ?桂花ちゃん。桂花ちゃんは、ご両親から〝守護刀〟や、それを使う者の存在。ひいては、この巨大な化け物都市の真実を、何歳ぐらいから習い始めたのかな?」


「二歳ぐらいだと思いますが、物心つく前から、両親にも祖父母にも、色々と言い聞かされてきました」


「……だよね?まったく、エバが———母さんが生きているうちに、ほんの少しでも憶えてあげてくれていれば、どれほどの母親孝行になった事か分からないのに。いざ、その時がきたのが、身近に同じ〝イブリスの血族〟が現れてからだなんて、父さんは悲しいよ」


言うなりワザとらしい溜め息を吐いて、眉間に指を当てるサリエルを、シアンが睨みつける。


二人の間でおろおろする桂花を見て、サリエルは眉間から指を離すと、ニッコリと桂花に微笑んだ。


「この馬鹿息子に話して理解出来るかどうかはさておき、なんでも話してくれて構わないよ。シアンは少しモノを知らなさ過ぎるからね」


「い、いいえっ!私も、よくは理解出来ていないんです。ただ、シアン様は、私と契約している宗近や、今日地上で遭ったフリーの『紅雪左文字こうせつさもんじ』さんの事、知っておいた方が安全なようには思います。とても優しい方で、もしも契約をするなら、シアン様かな?と、仰っていましたが、誰も選ばないような事を仰っていて……敵意も無かったんですけれど……」


「ほう。地上で守護刀に、しかも、軍関係者ではない自由な刀に出会うだなんて、さすが桂花ちゃんだね」


「シアン様が治療を受けている間に、病院の外で待っていたら、突然現れたので、私も驚いて逃げようとしたら、『何もできないよ』って笑って。宗近とも顔見知りのようで、私の事もご存知でした。私の事を気配で分かったみたいで困っていたら、助けてくれようとしたらしいんですが……」


「運命というものがあるのか、あるいは、互いに引力が働いているように〝守護刀〟と〝イブリス〟は引きつけあってしまうのか……不思議だね……」


穏やかに笑ったサリエルは、僅かに身を乗り出し、桂花の漆黒の髪を優しく撫で梳くと、再び何事も無かったように食事を再開する。


それに習うようにして、桂花も夕食の皿に手をつける。


あまり食べ方が上手い方ではなく、ましてや、こういった食事に慣れていないらしい桂花は、ちょっと戸惑うようにしながらも、サリエルやシアンの真似をして、なんとか食事をしている。


サリエルはといえば、最近地上で流行しているブランドの服で、桂花に似合いそうなものを、今度の休日に探しに行こう。

ついでに映画を見て、食事でもしようか?

それとも桂花ちゃんは、遊園地とかの方が好きかな? 

とさりげなく、当然のように誘う。


「父さん!」


〘俺の死んだ母さんだけを愛してる、なんて言っておいて、なんで息子と同じ年の女の子口説いてんだよ?!〙


そんなシアンの心の内など、知っていてもしらんぷりのサリエルは、シアンを見てにっこりと笑う。


「ああ!そうか。まだまだシアンもお子様だったんだね。『お父さんが取られちゃった〜!』とか、心配しちゃったのかい?可愛いなぁ。大丈夫だよ?パパはシアンだけのパパだからね?勿論、シアンも一緒に連れて行ってあげるから、安心しなさい」


わざわざ子供の時に呼んでいた『パパ』という呼び名まで出されて、ムカッときて、シアンは父親を睨め付ける。


鋭い大きめの紫の瞳に睨まれても、可愛くて仕方ない、というより……息子をからかって遊ぶのが楽しくてしょうがない、と言いたげな父親の顔をしたサリエルがそこにいる。


「……もういいよ」


諦めとも、呆れともつかない溜め息を吐いたシアンは、それ以上口を開こうとはしなかった。と、いうより、正確にはサリエルがシアンに話しをさせずに、メイド長やらを交えて、桂花の為に用意する部屋の事や、着替えの事を話し始めてしまい、シアンには口を挟む隙が無かったのだ。


そんなシアンを、桂花が心配そうに黒い瞳で見つめる事もあったが、シアンが話しかけようとすると、絶妙なタイミングでサリエルが桂花と話し始めてしまう。


結果として、消化不良になりそうな夕食を、早々に胃袋へ詰め込み、自室へ帰ったシアンだった。




あわてて途中で食事を終え、シアンの後を追おうとした桂花を、サリエルがやんわりとその腕を取ってとどめる。


「放って置きなさい。拗ねているだけだから。桂花ちゃんは遠慮しないで、ゆっくり一緒に食事をして欲しいな。私の実の娘のようなものなんだから————自分の家だと思って、いくらでも此処に居ていいからね。地下都市の三日月宗近みかづきむねちか君には、さっき私の方から連絡して置いたから。宗近君も心配はしていた様子だったけれど、居場所が判ればそれでいいと言っていたよ」


「あ、ありがとうございます……」


礼を言いながら椅子に座り直すと、サリエルも手を離してくれ、シアンなどまるでどうでも良いかのように、穏やかな雰囲気のまま食事を再開した。





食事を終えると、二階の洗面台やバスルームまで付いた、立派な部屋へ案内されて、服や靴までも桂花にぴったりのサイズの物が、いつの間にか用意されていた。


少々面食らいつつも、先刻シアンの部屋へお茶を運んできてくれた、銀髪に薄紫色の瞳をした、サーナが細々とした事を色々と教えてくれ、入浴の用意までしてくれ、笑顔で部屋を出ていった。



恐ろしいほど、自分には似つかわしくない部屋で、心もとなく落ち着かない環境に思えて、桂花はいたたまれなかった。

それでも折角用意までして行ってくれたのだから、無下にしては申し訳ない。この都市では水も貴重品なのだから。バスタブに湯まで張られては、入らなければ罰が当たると言う物だ。

桂花は深い溜め息を吐いて、ゆったりとした、足の伸ばせる浴槽のあるバスルームへ向かった。






一通りの雑務を終え、久しぶりに思いだして、寝室でゆっくりと酒を飲みながら、過去の映像を見ていたサリエルは、聞きなれない遠慮がちなノックの音に映像を消して微笑む。


「桂花ちゃんかな……?」


「はい。あの……旦那様……今、大丈夫でしょうか?」


「勿論。構わないよ」


自然と浮かんだ笑顔のまま立ち上がり、扉を開けたサリエルは思わず桂花の全身を、頭の上からつま先まで眺め、こらえ切れずに苦笑してしまう。


なにしろ桂花は、部屋に用意されていたであろう夜着に、ガウンを羽織っただけの無防備な姿な上、まだ乾ききっていない漆黒の艶髪もそのままで、どこか不安げに揺れる夜空のような黒い瞳で、縋るようにこの部屋の主を見上げているのだ。


その様子はシアンと同じ年頃の少女というより、先刻まで見ていた映像の中で、息子と一緒に遊んでいた、七歳の女の子そのままにも見えるが、あの頃とは違い奇妙な凄艶さが少女にはあって、思わず溜め息が漏れてしまう。


「……旦那様?」


「ああ。ごめん。何でもないよ。廊下は寒い、中へ入りなさい」


サリエルに促されるまま素直に、なんの警戒心も無く部屋へ入って来る桂花に、思わず父性から出る言葉が、口をついて出てしまう。


「桂花ちゃんがいくら強いと言っても、女の子なんだから。そうホイホイ男の寝室に入るものじゃないよ?……まぁ、私はキミの父親代わりのようなものだし、桂花ちゃんをドウコウしようなんて、夢にも思わないだろうけどね……?」


少々ワザとらしく肩を竦めて見せるサリエルに、桂花もクスクスと、小さな花が風に揺れるような、可愛らしい笑い声をたてて笑う。


「では、とりあえずは安心して、どうぞお入り下さい。お嬢さん」


サリエルに手で示された、ゆったりと大きくて座り心地の良い、柔らかなロッキングチェアーに、そっと遠慮がちに桂花が座ると、サリエルは当然のように傍らにある小さなサイドテーブルに、琥珀色の液体と氷の入ったグラスを置いた。


正面にあるカウチソファーに腰を降ろしたサリエルの手にも、同じグラスが持たれている。


エア・クロイツの地下都市でも、蒸留酒は多少造られてはいるが、ほとんどが外から仕入れられて来るもので、地下の人間はもとより、地上の人間でも滅多に口に出来ないシロモノだ。


遠慮をしようと口を開く前に、サリエルが桂花を見て笑う。


「気にしなくていいよ。どうせ、なんのかんのと付け届けをして来る輩は耐えないし、いちいち送り返すのも面倒でね。世の中は何事も持ちつ持たれつだし……」


そう言ったサリエルに、桂花はクスクスと笑う。


その笑顔をサリエルは思わずじっと眺めて、知らず微笑んでしまう。


「では、遠慮なく頂きます」


グラスに手を出して、ゆっくりと一口飲むと、桂花はふうっと吐息をついて、肩の力を抜くと、背もたれに寄り掛かった。


その姿は小さな女の子の様なのに、やはり奇妙な程に秀麗な艶があって、一緒にいるサリエルの方が少々戸惑ってしまいそうで、困ってしまう。


〘買った時は、こんな風に育つなんて思いも寄らなかったな……宗近君とどうこうなっているとは、とても思えないし。変わった子だなぁ……〝白の血族〟は特別なのだと、エバが言っていたけれど……こう言う意味ではないだろうねぇ……〙


サリエルは何も言わず、自分も酒を口にしながら、桂花が話しだすのを待っていた。


両手でグラスを持っていた桂花は、その琥珀色の液体に視線を落としたまま、サリエルに質問をした。


まるで、とても重大な秘密を話しだすような、低めた声にサリエルは微かに笑う。


「サリエル様。シアン様は、ご自分のイブリスの暗号コードをお持ちなんですか?」


「ああ。暗号コードね……死んだシアンの母親、エバが赤ん坊のシアンを連れて、“イブリス”に会いにいったらしい。その時に、イブリスの体内に出入りする為の暗号……“コード”と血族の人達が呼ぶそれを貰ってきている。しかし、エバがいくらそれを憶えさせようとしても、さっき話した通りシアンは嫌がって、逃げてばかりいたんだよ」


「っ、では、シアン様は、暗号コードを持たないままなのですか?」


「一応、私が《エバからの遺言》として預かっている。桂花ちゃんに教えておこうか?〝出入り口〟の場所とシアンの暗号コードを」


「いいえ。私は知っても、仕方のないものですから。でも、よかった……とても、大切な物なんです。あれを受け継ぐ者が絶えれば、この都市も機能を停止しますから」


心底ホッとして胸に左手を当てた桂花は、右手のグラスの中身を一口飲んで、話しだす。


「旦那様が、どこまでご存知なのかわかりませんが、私達イブリスの血族には、五つの血統があるんです。今は絶えてしまった〖黄金こがね〗そして地上の人間と迎合する形を選んだ〖こう〗そして現在も地下で暮らす事を選んでいるせいで、極めて血が薄まってしまって〝鍵〟を受け継げる者のいなくなった〖りょく〗と〖こく〗。そして……私が多分最後の一人であろう〖びゃく〗……」


顎に手をあて、少し考えるようにしてから、サリエルは桂花の黒い瞳を見つめる。


「エバにきいて、この化け物都市であるエア・クロイツを機能させ、守っている、生きて意志を持った人工脳の名であるイブリスが、全部で5人居る事は知っていた。イブリスは血族の遺伝情報を取り込んで、新たな自分の細胞を新しく再生させる事で、永遠に近い命を持ったのだとも、聞いたけれど……血が絶えてしまった血統があったなんて…………この都市も、もう終わりという事かなぁ?」


どこか呑ん気なサリエルの物言いに、桂花はほんの少し戸惑うようにしてから、肩をすぼめて笑う。


「黄金は血が絶えても中央を司っていて、他の〝鍵〟がサポートをする限り、命は終わりません。ただし、人の姿になって話せるのは、せいぜいあと80年だろうと自分で言っていました」


「……桂花ちゃん、なんだかイブリス本体と逢った事があるような口ぶりだけど。エバが以前教えてくれた限りでは、自分の血統の“イブリス”としか、接触は不可能で、それすら暗号コードをもらう時だけだと……内部の〘道〙でさえ、自分達のものしか通れないのだと言っていたと思うんだが……」


桂花は、数瞬黙って、床を見つめるが、何かを決意した様子で胸に手を当てる。


〘シアン様は多分〖黒の血族〗だ。父である旦那様———サリエルではなく、母であるエバがその血族なのだろう。血の気配がまるでしないから———紅・緑・黒・の血統は、自分のテリトリーがとてもはっきり区分されている。ただし、五人のイブリスが協議して出した答えとして、特例などで通路や、不可侵の区域を通過出来る場合もあるのだが……黄金と白は、全てのイブリス、つまり、エア・クロイツのあらゆるシステムに干渉する事が出来る。何故そうなのかは、桂花もあずかり知らない。ただ、遥か昔にこの都市を築いた祖先の、考えがあるのだろうとは、理解出来る。でも、詳しい事はシアン様ならともかく、旦那様には、話せない……〙


「……申し訳ございません。私は、それ程、沢山の事を知っている訳ではないんです……」


器用に片方の眉を上げたサリエルは、芳醇な香りを放つ蒸留酒を1口含み、それからゆっくり口を開いた。


「そうだね…………もし、出来るならシアンには、もう少し話してくれると嬉しいね。父親として、あんな年齢になっている息子の身の安全を願ってしまうなんて、過保護だと笑われそうだけれど」


「い、いいえっ」


桂花は漆黒の髪が乱れるほどに、首を横に振って言った。


「それはっ…………それは、親としては、当然の事だと、少なくとも私は思います。それに、シアン様には、危険な目に遭って欲しくないのは、私もおなじですからっ」


そこで口をつぐんでしまうと、桂花は持っていた酒を、呷る(あおる)ようにして半分ほど胃へ流し込んだ。


その様子を、サリエルは無言で見つめていたが、何も言わず、目を伏せたままの少女を正面から見る。無言の桂花が、ひと口ずつゆっくりと酒を飲み終わるのを待ってから、優しく労るように言う。


「……今夜は色々あって疲れただろう?ゆっくり休みなさい」


サリエルの言葉に、桂花は頷き、グラスをテーブルへ戻し、少々戸惑うような笑顔で頭を下げ、挨拶をしてから、ゆっくりと扉の外へ出て行った。


サリエルはその華奢な後ろ姿を眺めながら、一応心配で見に行った格闘技場で、見事な戦い振りと、身軽な身のこなしで相手の攻撃を食らわず、相手の鳩尾や首などの急所に打撃を与え、ほとんど相手も傷付けず試合を終わらせていた、見事な身のこなしの少女を思い出す。


ただ———あの動きは、武術で何々流とかで習ったのではなく、明らかに軍隊の実戦組みのやる、一歩間違えれば人命を奪う技だ———


溜め息をひとつ吐いて、サリエルは落ちてきた髪をかき上げる。


〘護身術は必要だったんだろうし、教えた人間の予想もつくが……〙


あの時地下に返さなければ、もっと少女らしく様々な事を楽しめたのかもしれないのに……。


桂花が今までサリエルに頼んできた事は、まるで正義感の強い男の子が望むような願いの、その手助けばかりだった。






一人、広い廊下を自室へ向かって歩いて行く桂花は、奇妙な胸苦しさに、服の前を押さえた。


小さい頃から、軍や桂花を欲しがる人間達から逃げ、それでもこのエア・クロイツから離れられない運命の桂花の為に、この都市からそれほど離れず、危険な運び屋の仕事をしていた宗近と、ほとんどの行動を共にしていた桂花は、我知らず自然とこういったカンを、研ぎ澄まされてきた。


自分の身の危険が迫ったり。あるいは、宗近にとって良くない事が起こる時に、決まって、この嫌な悪寒が身体を走るのだ。


胸が切ない、恐怖のような…………得体のしれない感情に襲われて、唇を噛む。


用意された部屋へ辿り着くと、桂花は豪華なベットの隅に腰掛け、溜め息を吐いた。


〘……私の身に何かが起ころうとしているようには、思えない。万一そうであったとしても、それは構わないけど……〙


「……宗近……」


そっと呟くと、不安がさらに増してくる。


宗近に兄を殺されたあの日から、独りぼっちになった桂花にとって、宗近は兄であり父のようでもあり、何よりも唯一の〝家族〟だった。


自分に用意された広い部屋に入って大きな窓を開ける。


広いバルコニーへ出た時、上から声が降って来た。


「こんな夜更けにそんなカッコで、ドコに遊びに行くつもり?女の子が一人じゃ危ないよ」


声につられて上を見た桂花の目に、細い青白い手と腕が、何千という数でり合わされ、翼のような形になってうごめいて、羽ばたいている異形いぎょうのモノが飛び込んでくる。


〘っ守護刀!!〙


身を引こうとした刹那せつな、桂花のからだは目の前に舞い降りたそれに、目にも留まらぬ早業で捕らえられていた。


ヒンヤリとした感触の、無数の細く青白い手や腕は、冷たい感触とは正反対の優しさで、桂花をそっと抱きしめるようにしてくる。


首や体を締めつける事もない様子に、逆に恐怖を感じて身がすくむ。


「そんなにビックリしないでくれないかな。傷つくじゃんか〜オッサンのに比べたら、全然グロくないだろ?オレだよ。桂花ちゃん」


無数の腕と手で作られた、ある種不気味な翼が、ふわっと、桂花を優しく解放した。


目の前には、無数の青白く細い小さな手を、翼のように背中から生やし、体の一部からも同じモノを生やした、紅雪左文字の姿があった。


ほっとして、肩から力が抜けた桂花を見て、紅雪は笑う。


「誰か知らない守護刀が来たと思ったんだろ?安心しな。オレがずっと守ってたから、他の守護刀に桂花ちゃんの気配は悟られてないよ」


邪気の無い笑顔で、青い空のような澄んだ瞳の青年は桂花を見ている。


〘昔、お父さんに聞いた通りの、姿……本当だったんだ。お父さんが言っていた白き翼の話……〙


紅雪左文字は守護刀としてはめずらしく、他の〝守護刀〟よりも防御に優れた力を発揮するため、真実守りの守護刀と呼ばれ、この都市がエア・クロイツとなるまでは、白きイブリスの血族を代々守ってくれていた刀だった。


紅の血族を守る守護刀、三日月宗近とは正反対の性質だと桂花が聞いていた通りに、不気味な翼が発する気配は、優しく温かくてそっと包み込んで守ってくれる、凪いだ海のようだった。


「あの、驚いてしまって、すみません」


深々と頭を下げる桂花に、紅雪は笑い返しながら、左手を刀を握るようにした。


すると砂鉄が磁石に付くように、青白い手が集まって、鳥の翼のような形態をしていたものは、スルスルと左手に集められていく。


瞬きをする間に、美しい日本刀へと変化したそれを、慣れきった動作で腰のさやへ収め、紅雪は桂花を見て首を傾げる。


「地下のおうちに帰りたくなっちゃったのかな、お譲ちゃん?それなら、オレが送ってってあげてもいいけど……何に困ってんのかな?」


「い、いいえ。あの……」


何かを言い出そうとして、躊躇ためらい下を向いてしまった桂花の言葉を、少しのあいだ待っていた紅雪だったが、すぐにじれたらしく、いきなり両手で桂花の顔を挟み込むと、上向けた。


「っ、なっ?!」


「な、じゃねぇよ!うじうじされんのって、イライラすんだろうが!吐け、オレ様が手伝ってやるって言ってんだよ。何が気になってんだ?どうしたいんだよ……ゲロってくれないと、このままスカイタワーを見せちゃうぞ?」


スカイタワーというのは、エアクロイツの中心街にある、この地上の都市で一番高い、都市を一望出来る建造物だ。


だが、高級住宅地ではあるが、市外に近いここからでは、三十階建ての超高層マンションでもなければ、見えないはずである。


黒々とした目を瞠って紅雪を見る桂花だったが、紅雪はおもむろに桂花の顳顬こめかみから顎までを、手の平でしっかり捕らえると、肩を腕で挟み込むようにして、なんと、そのまま高々と持ち上げた。


「スカイタワー見えたか〜?ほーら、桂花ちゃーん、高い高ーい」


「やっ! やめてください!」


「イヤだね。このまま吐かねぇつもりなら、守護刀抜いてでも吐かす。気になって眠れなくなるからな。んじゃなかったら、オレと契約しよっか?うん。そうしよう。ね。そしたら地上でも安心だし」


頭を引っぱられている苦しさと、わけの分からない紅雪の言葉で、桂花の顔面にどんどん血が集まってゆく。


「……んっ、な、んで、そうなるん、ですかっ……」


紅雪の腕を外そうと、必死でもがきつつ紅雪の腕をつかんで、自分の顔から引きがそうとそうとする桂花だったが、宗近よりもずっと華奢に見える青年の力は、かなりのもので、まったく彼が本気ではないとわかるのに、桂花の力ではびくともしない。


桂花の背中に、恐怖と共に嫌な冷や汗が伝う。


それを察知したかのように、紅雪はそっと桂花を降ろして、解放してくれたが、不満そうに桂花を見ている。


熱い痛みを訴える耳の辺りを押さえながら、紅雪を見あげると、紅雪も、ただじっと桂花を見つめ返していたが、ほんの数秒で盛大な溜め息を吐く。


「……わーかったよ。オッサンが心配なんだろ。はいはい。ちょっくら地下まで行ってきてやるよ。オレが帰ってくるまで、この屋敷から一歩も出るなよ?他の守護刀に見つかったら面倒だからさ。この屋敷の回りは大丈夫なようにしてある。すぐ帰ってきてやるから」


「え?あのっ……」


桂花が何かを言おうとしているのに、その言葉を待たず、紅雪は守護刀を抜く。


すると一瞬のうちに、夜空の色を吸い込んだかに見える刀身が、繭がほどけてゆくように、あの青白い腕のようなものを生み出し、紅雪を飲み込むと、次の刹那には、不気味な化鳥のような姿になった紅雪が、バルコニーからふくろうのように音もなく飛び立ち、夜空に消えて行った。




エア・クロイツの周囲は岩の砂漠で、背丈の低い木とわずかな草しか生えておらず、昼夜の気温差は激しい。


暖かい室内へ入り、窓を閉め、寝台の上から毛布を剥がした桂花は、窓際へ一人掛けの椅子を持っていき、毛布にくるまって座ると、そのまま自分の膝を抱き込むようにした。


馴染んでしまっている心もとない寂しさと、もう誰も自分の所に帰って来てくれないのではないか、という不安の中で、桂花は、うつらうつらと浅い眠りを繰り返しながら、周囲の気配に耳を澄ませるようにしていた。






正規の通路ではなく、地下へと続くイブリスの通路(胎内などと呼ぶ人間もいる)を使って、素早く桂花と宗近が現在暮らしている家の側へやってきた紅雪左文字は、ちょっと眉をしかめて額に手をかざした。


その瞳には生き物のように蠢き、先刻まで家であったモノを、その舌で舐めとるように燃やし尽くそうとする炎が映っていた。


「焼き打ちか〜?オッサン生きてんのかな〜……ま、死んでくれてても、オレは一向に構わないんだけど」


アハハ。と、明るく笑った紅雪の背後で、静かな靴音がした。


「クソ餓鬼がきが。人を勝手に殺すな。何の用だ」


「ありゃりゃ、生きてんのかよ。殺されても死なない人間って、オッサンみたいな人の事言うんだろうな」


桜色の唇に指を当て、楽しげに微笑む紅雪とは対照的に、紅雪でさえ少し見上げてしまう程長身で体格のいい男は、にこりともしない。


がっしりとした肩幅のある、いかにも軍人らしい体躯と、腰の辺りまである漆黒の長い髪と、柱石のようなのに不透明な、奇妙な瞳を持った、凍てついた印象を受ける男だった。


年齢は二十八歳前後に見える。


射ぬくような鋭い視線で、睨むように見据みすえられても、紅雪は笑顔のまま肩をすくめる。


「オレは用ないんだけどさ。桂花ちゃんがオッサンの事、心配そうにしてたから、様子見て来てあげるって言っちゃったから、来ただけ」


「成程。こちらは問題ない。桂花はどうしてる」


「だから、オッサンの心配はしてたけど、オレが側で守ってんのに、どうこうさせるかってーのよ!なんか心配だから、地上に慣れるまではオレがついてるけど。オッサンも地上うえに来んのか?」


一瞬、視線を逸らした三日月宗近だったが、口端を僅かに片方上げてわらう。


「おい餓鬼。桂花に変な手ぇ出すんじゃねえぞ。殺すからな?」


「きゃぁ〜イヤ〜!変態よ〜!奥様、ちょっと聞いて下さるぅ〜?!ここにロリコンで、うっかり『選ばれし者』を喰っちゃったせいで、年もとらないままで、守護刀に取り憑かれてる、お馬鹿で変態なヒトがいますうぅ〜〜桂花ちゃんが身の危険よ〜?!きゃぁぁ〜怖ぁ〜いっ」


燃え落ちる家を横目に、一人でどこぞのおば様のように、手を打ち振りつつ、そんな事を言う紅雪を、凍ったような宗近の瞳が見つめる。


「……なんだよ、無視かよ。つまんねーの」


「事実だからな」


「げっ!オッサン、マジでっ?!まだいたいけな幼児だった桂花ちゃんに一目ぼれして、その上マジ契約した、ロリコン野郎だったのかよ?!ぎゃぁ〜悪霊退散〜〜!!ロリコン菌が感染するぅ〜!!」


「……阿呆か……」


眉をしかめた宗近は、燃え盛る家の炎でタバコに火をつけると、それをくわえて、歩き出す。


「あ、ちょっと待てって、冗談だって。年取ると気が短くなるって言うけど、オッサン短すぎ。人の話きかねぇしさ。ヤサ⦅居場所⦆替えるんだろ?桂花ちゃんに場所教えてやりたいから、オレもついて行く」


宗近は足も止めずにそのまま歩いているが、横に並んだ紅雪を見て、タバコを指に挟むと、トンと弾いて灰を落とす。


「あのクソ野郎の元部下の上、軽薄で頭の足りない貴様にしては……めずらしく親切だな。どういうつもりだ……?」


「うわっ、何?そのおっそろしい目。ワタクシ下心なんて微塵もございませんのコトよ?ただ、桂花ちゃんを守ってあげたいだけ。やっぱ、因縁が深すぎんのか、気になっちゃって仕方ないんだよね〜。もうさ、いっそのこと契約してもらおうかと目論もくろんでるんだ。だから、心証良くしとこうと思って」


無邪気とさえ言える爽やかな笑顔の青年に、ふっと宗近がうつむいて目を伏せる。


「……下心ありまくりじゃねぇか……まぁ、俺には関係ないけどな。新しいヤサはまだ決まってない。桂花に〖N28/E86/11946/0〗と伝えてくれ」


「ええっ!?なんだよそれ。ちょっと待って。メモとる。ええとN28/E86……なんだっけ?」


宗近は淡々と同じ言葉を告げると、さっさと地下都市の歓楽街の方へ足を向ける。


地上には、こういった歓楽街やカジノ、売春宿がない代わりに、全て地下に集まっている。それゆえに地上の人間も地下の人間も、入り交じって存在していて、ある意味、エア・クロイツで一番混沌とした場所だ。


「オッサン!ちょっと、待てよ!コレ何の暗号なんだ?」


広い背中が立ち止まりもせず、答える。


「暗号なんかじゃない。桂花ならすぐ分かる」


軽く手を上げて見せ、紫煙をくゆらせながら宗近は遠ざかって行った。


「……なんつーか、相変わらず無愛想で、マイペースなオッサンだよなぁ……何考えてんのかも、サッパリわからん……あんなのの何処がイイのかねぇ………」


炎を映して朱金に輝く髪をかき上げ、紅雪もその場を立ち去った。






夜の静寂を破る事も無く、屋敷の一切の警報装置も作動させず、静かにバルコニーに舞い降りた怪異で巨大な鳥は、一瞬のうちに音もなく窓を開けると、奇妙な翼を持った青年の姿へと変化し、翼達はざわめくように動きながらも、無音で背後で窓を閉じる。


青年はそれを確かめようともせず、ゆっくりと傍らに置かれた椅子の前に片膝をついて、その椅子の上で、毛布にくるまれた死体のように動かない少女の肩に手を置こうとして、その手が空中で止まった。



幼子のように無心に眠る白い頬に、長い黒髪が張り付いている。


守護刀と一体になり、さらに闇に慣れた紅雪の目には、はっきりと頬を伝う涙が見て取れた。


〘……そんなに、あのオッサンに懐いてんのか。両親や兄貴を殺して祖父母を喰った張本人だって言うのに……一体どうゆう精神構造してんのかねぇ、この子は……可愛い顔しちゃって……なんであんなオッサンの為に泣くのかねぇ……〙


紅雪の手指が、頬に流れる涙をぬぐうようにして、月明かりにも艶やかな黒髪を払うと、少女はぱっと目を開いた。


「あっ……紅雪さん」


「うん。ただいま。泣くほど淋しい思いさせてごめんね。ちょっと家が焼けちゃっててさ」


「えっ?宗近はっ!!宗近には会えましたかっ?!」


身を乗り出したひょうしに毛布が肩から落ちたが、それにも構わず桂花は紅雪の腕をつかんだ。


「だーいじょーぶ、あのオッサンは殺したって死なないよ。燃えてる家の火で、タバコふかして平気な顔してた。桂花ちゃんに伝言も預かってきたから。ダメだよ〜こんな所で寝たら、風邪引くでしょうが」


そう言いながら紅雪の腕は、するりと桂花の膝裏と背中に入る。


驚いて紅雪を見た桂花を、紅雪はまるで、小さな子供のように軽々と抱き上げるとベットの方へ歩き出すので、桂花は慌ててしまう。


「紅雪さんっ、あのっ、降ろして下さい!歩けます、自分で歩けますからっ!」


頬どころか、項から下まで血の色をにじませて、紅雪の手から逃れようとする桂花を、冷たくて優しい翼がつつむように抱きしめてくる。


「泣いてる女の子には、誠心誠意親切にする。困ってる女の子は命がけで助ける。これ、常識」


「ええっ! 確かに、困ってる人には親切にするのが、常識かも知れませんが、私はべつに困ってないです。今の方が困ってます!降ろして下さいっ」


さすがの桂花も、守護刀に逆らう気は無く、大人しく運ばれながらも、つい紅雪にそう言ってしまう。


すると紅雪は、クスクスと可笑しそうに笑う。


「いいや。どう見ても、迷子の迷子の小猫ちゃんだよ。あんまりオレに爪たてて威嚇してくると……」


ふっと紅雪の顔が近づいてきて、お互いの鼻先が当たる。


慌てて身を引こうとしたが、青白い無数の手と紅雪の腕が、桂花に身動きすら許さなかった。


「このまま、契約しちゃうよ?女の子を傷付けて、血をもらうとかっての嫌だから、キスでいいよね……?しよっか?オレと契約。紅雪左文字は元から、代々白の血族専属みたいなもんだったんだし。そのせいなのか桂花ちゃんの事も、すんごく心配なのかな〜って、思ってたんだけど……なんか、ちょっと違うみたいだし……ね?」


闇に慣れていた桂花の目は、優しい青い色の瞳を間近で見ていたが、困惑というより、混乱で、思考が止まってしまう。


生まれてから今日まで感じた事のない、奇妙な……恋やときめきなどというものとは、かけ離れているのに、紅雪をほっする感情が、心というより、脳を捕らえてくる。


それなのに、嫌だと心が何故か、哀しく訴えてくる。


それは裏切られた恋人に対するような、そんな感情をもし知っていたのなら、似て居るんじゃないかと思った……切なく強い何かが、桂花の体の細胞を支配して、紅雪左文字という存在全てを、桂花の細胞の全てが貪欲に求め、それが自然のことわりであるかのように、引きつけ、取り込もうとしている。


なのに、拒絶する。


〘怖い……心が勝手に高揚していく………でも、悲しい。慟哭どうこく……?そんな言葉が近いのかも知れない……こんなの、知らない……〙


心細くて泣きたくなってしまうのに、心の深い場所に、そっと、細い青白いあの指先で触れられて、その感触が水面を伝わる波紋のように、桂花の心に、ゆっくりと幾重にもなって広がって行くのを、自分でも止められずに、ただ傍観者になるしかない桂花がいた。


自分の心だというのに、まったく制御できない。


大声で泣きだしたいほど、半ばパニックに近い桂花の心などまるで知らないかのように、紅雪は近づけていた顔を離し、何事もなかったようにベッドの上にそっと桂花を降ろしてくれる。


何も知らない、穢れの無い子供のような黒曜石の瞳に見上げられて、紅雪は微笑んで、小さな子供にするように桂花の頭を撫でて、柔らかな髪をそっと指に絡めて、弄ぶように何度も梳く。


「桂花ちゃんの呼ぶ声が聞こえるぐらい、近くにはいつもいるから、安心して寝なよ。まぁ、簡易な契約すらしてないのに、こんだけ共鳴が強ければ、エア・クロイツの中なら何処にいても、呼んでくれれば、すぐに、傍に来るよ……?」


何が起こったのか分かっていないらしい桂花の髪から手を離し、三日月宗近の言った、奇妙な暗号のような伝言を書いたメモをポケットから出して、放心している桂花の手を取る。

紅雪が握りつぶしたら、骨が砕けてしまいそうな細く頼りない長い指のついたその手の中へ、そっとにぎらせてやる。


「オッサンからの伝言だよ。居場所の事らしいけど、わかる?オッサンは桂花なら分かる、って言って、さっさと歓楽街のほうへ行っちゃってさ〜」


のろのろと握らされたメモを見た桂花は、心底安心したように、小さな溜め息を吐いて、メモを胸に抱きしめるようにして、紅雪に礼を言ってくる。


そして、一人で納得するようにうなずいた。


その様子を見た紅雪はにっこりと笑って、桂花に手を振る。


「じゃぁ、またね。オヤスミ。桂花ちゃん……いい夢を……」


そう言うと、すぅーっと音も無くバルコニーへ出た紅雪は、異形の鳥の姿になり、夜空に溶け込むように飛び去った。


その様を、ベッドに座ったまま見送った桂花は、受け取ったメモを両手で握りしめるようにして、その手を胸に当てたまま眠りにつこうとした。



紅雪左文字という守護刀が、傍に居てくれる。


桂花は肌でその気配を感じられて、そうすると慣れない豪奢ごうしゃでやわらかなベッドへ入っても、安心して体の力を抜く事が出来た。


〘宗近が傍にいてくれる時とは、まるで感覚が違う………こんなに違うものなんだ……本当だった……だから、何振りもの守護刀が最初は造られ、選ばれた人間がその能力に見合った血族を守ったんだ……〙


それでも、毛布に包まるようにして、体を小さく丸めた桂花は、目を閉じて、先刻の紅雪の言葉を考えていた。


〘……契約しようって、言われても、私にはどうしたらいいのか分からない……宗近は、命が懸かっていたし仕方なくて……それに、私なんかと契約してしまったら、紅雪さんも宗近と同じように、軍に追われてしまう……私のせいで……〙


不安な気持ちを閉じこめるように、両手を組み合わせ、桂花は祈るように胸元にその手を抱き込み、強く、目を閉じた。


「もう、誰にも迷惑をかけたくない。できたら、私のせいで誰かが傷ついたり、死んだりして欲しくない…………私は、どうしたらいいの……?」


誰にも聞き届けられる事のない桂花の呟きは、宗近と共に過ごした、繁華街や歓楽街の路地裏にあるような、薄汚れていつもうるさいアパートや宿屋とは違う、静かすぎる部屋の中で、桂花の耳にだけ淋しく響いた。






               〜つづく〜






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