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存在理由〜The meaning of existence〜  作者: 吉田伊織
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愛逢月




愛逢月めであいづき


 

その夜、地下都市はどこも殺戮の宴に酔っていた。


その様は、まさにギリシャ神話の酒神、ディオニュソスの騒乱を伴う儀式のようで、宴に迷い込んだ者に、嫌悪と恐怖……そして、人が知らなくていい歪んだ快楽を見せつける。


ディオニュソスの美酒がもたらす強烈な陶酔は、我が子の見境もつかなくさせるという。


彼の冷酷で人を嘲笑うかのような行いは、神話の中でも有名だというのに……。


この地下都市の一角では、その美酒に酩酊したかのような兵隊が群れ、彼等の軍靴の音と声が交じり合う。


そんな中、二十三〜五歳に見える青年は、同じような軍服を身に付けた同胞達を、死んだように無感情な瞳で見ていた。


喧騒の中で、誰のものともつかない悲鳴だけが、常に彼の耳にまとわりついてくる。


———嫌な任務だ———


頭の隅で考えたが、彼の右手は、命じられた標的を的確に探し、殺し、喰らって行く。


まるで彼自身には、なんの意志も必要ないかのように。


ただの殺人兵器として、彼は必要とされ、生きるために、この奇妙な刀を利用してきた。


軍人をやっていれば、彼のような傭兵は前線での殺戮を命じられる。


好むと好まざるとに関わらず、人殺しを続けるのだ。感情を失った人形のように……ただ殺される前に、殺す。この右手は彼の感情を必要としないし、彼にとっても、都合の良い命綱に過ぎない。


幸運にも彼は人殺しに、罪悪感も、快楽も見いだせる人種ではなかった。

なので上官の命令に従い続けてこれた。人として、同じ人間を殺す苦痛など感じる事も無く、狂う事もなく、ただ義務的に任務をこなした。


守護刀と上官達が呼ぶこの刀は、選ばれた持ち主……いや、正確に言えば、宿主とも言える人間が抜かなければ、ただの古い刀でしかない。


選ばれる事は名誉な事だと、肥大した体にいくつもの勲章をぶら下げた上級軍人共は言うが、彼にとっては、事故と同じ。


選ばれた事すら、ただの災難にしか、未だに思えなかった。


空いていた左手で、胸のポケットからタバコを取り出し、火をつけ、深く吸い込んだ。


右手に粘り付く、人間の血と内臓の生臭い臭気を薄めるように、ゆっくりと紫煙を吐き出す。


哀れな老夫婦を喰らった彼の右手が、何かに引かれるように、ズルズルと焼け落ちる家の裏へと彼を導く。


〘……この感覚。血族か……純血はこの家の、祖父母と孫と言っていたな。孫に当たれば、今日はこれで俺の任務は終了か……さて、何処へ飲みに行くかな。このまま地下の繁華街も悪くないな……〙



先刻、彼を巻き添えにして爆死しようとした、勇敢なる老夫婦は、彼の右手がほふってしまった。あの家に集まっていた、血の薄いその他の連中は、犯され殺されて喰われるか、集められて何処かへ移送されるだろう。血族の奴隷は、食肉でも高く売れるし、掃討命令が出ている血統は、特殊な例を除き、持ち主の手から離れ、全て軍の管理になる。


まさに、煮るも焼くも好きにできるのだ。


右手が導くまま、裏庭の一角にやってきた彼は、血糊や内臓の一部とおぼし固形物に汚れた足を、はた、と止めた。


右腕から生えている、不気味なモノが、グジュグジュと奇妙な音を立てる。何かを咀嚼する音にも似ているが、肉や腱の塊のように見えるソレに、目鼻や口は見当たらない。


彼はタバコを地面へ投げ捨てると、血に濡れた靴底で踏み消した。


「……出ておいで。向こうで、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが、待ってるよ」


抑揚の少ない低い声は、落ち着いていて、家の反対側で殺戮をしている軍人達のような、狂気も殺意も感じさせない。


そっと棘だらけの柊の茂みから、幼い子供がおずおずと顔を出す。


黒々とした無垢な瞳に、焼け落ちる家の炎が映り込んで、何処か哀愁を感じさせる、澄んだ黒いオパールを思わせた。


そっと這い出してきた子供は、五歳ぐらいだろう。短い髪で、男の子の服を着ている。


しかし彼の(いにしえの者達が造ったとされる、必要に応じて自ら器官を作り出す事が可能な、ありえない肉の塊と化す刀は、間違い無くこの子供だと告げている。


すでに人のものではない彼の右腕は、この子供に強く感応し、激しい食欲に近い感情を伝えていた。


〘……純血だな。しかも、ただの純血じゃないのか?……男の子の姿をさせて、逃げていた訳か。俺のような人間でなければ、『五〜七歳の娘』という情報しかないこの子供は、除外されただろう。何度、間抜け共のお陰で命拾いした事だろうな。逃げ回るのにも、疲れただろう。ましてや、この子の保護者は、もう誰もいない……〙


「おいで……」


視線を合わせようと、片膝を付いた瞬間、彼は目を極限まで瞠った。


一瞬で全身を見えない糸に、きつく縛り上げられたように、動けなくなっていたのだ。彼の意思と関係なくイブリスの血族を喰らう、彼に取り憑いている過食症の守護刀も、ぴくりとも動かない。


ゆっくりと立ち上がった子供は、漆黒の冥府へとつながる闇を思わせる瞳で、じっと彼の灰青色の瞳を見つめる。


柱石はしらいしの瞳だね。変わってる」


「……そうでもないだろう」


視線を逸らさずに彼が答えると、子供は笑った。


その笑顔に、彼の眉間には、わずかに不快気な皺が寄る。


地上うえでは、この瞳はたまに見かける色だし、軍人には多い。


よく居る色だ。この黒い髪のほうが珍しがられる。あまりにも珍しがって、喜んで触ってくる女が多いから、伸ばしてみたが、血糊を洗うのが面倒になっただけだった。


「かなり薄いけれど、あなたと僕は同じ〝白の血族〟だからね。髪が黒いのは当然だけど……その瞳。何処かで〝緑〟が入ったんだね。今はもう、純血は一人も生き残ってない。あなた自身が、今、生き残る事で、この都市を支える螺子のひとつになってる。僕達って、滑稽な出逢いだね」


独り言を呟くように、話し続ける子供を見据えたまま、彼はなんとか、動けない状況を脱しようと試みる。しかし、凶暴な右手ですら、ぴくりとも動かない。


 嫌な、冷たい汗が肌をつたう。


〘……この子供。初めて目が合った時と、印象がまるで違う。子供のくせに、傭兵として、数え切れない程の人間を殺してきたが、今まで出会ってきた誰よりも、感情の失せた、虚空のような……恐ろしい目をしている……〙


「ふぅん。お兄さん冷静だね。だいたいの人達は、守護刀の能力を過信していて、僕のような“選ばれし者”に会うと、パニックになるのに」


「“選ばれし者”か。子供がなる事もあるんだな」


「そう。少しは知ってるみたいだね。普通はある程度成長した人間が渡される、二つあるイブリスの“鍵”のひとつ。でも、残念な事に、今“白の鍵”を受け取れるほど、血の濃い人間は、この体だけ。この体は、〝白の血族〟純血で最後の一人。〝緑〟の血が絶え、“鍵”が失われてすでに半世紀。この都市も、白のイブリスが、全てのイブリスに干渉できたから、保っているようなもの……〝黒〟も“愛されし者”の〝鍵〟が、現在、受け継がれていない。この状態でこの体が死ねば、エア・クロイツの都市機能は、少なく見積もっても六割が機能しなくなる。嘘だと思う……?」


少年は口の両端を、ニイッと引き上げて笑う。


その瞳は暗いままで、可愛らしい外見に不釣り合いで、大人というより老人のような、人生に疲弊した気配を宿している。


彼の言葉が嘘だとか、そんな事よりも、この妙な刀に取り憑かれて以来、初めて感じる、己を包む死の恐怖に、呼吸を調える。


そんな青年の様子を、さも可笑しげに目を細めて見ている少年が、ゆっくりと口を開いた。


「取引をしない?三日月宗近みかづきむねちかさん……?」


「……」


自由にならない躰に、内心舌打ちしながらも、絶対的に不利であろう取引に応じるしかなかった。自分の生殺与奪権は、目の前の子供が握っている。


〘こんな所で死にたくはない……〙


「好きにしろ」


彼は力を抜いて、静かに言った。


少年姿の子供は、満足そうに笑い、三日月宗近の体を自由にして、静かに話し出す。


「僕は銀桂。この子……桂花が“鍵”を二つ受け取った瞬間から、二人でひとつになった。桂花は僕の事を兄だと思っているけれど、実際は一人。三歳になるかならないかの子供が受け取るには、負担が大きすぎたんだろうね。僕は桂花のもう一つの人格であり、桂花に“鍵”の一つを任されている」


体が自由になった宗近は、右手の守護刀を刀の形に戻して、血糊を払って鞘に収め、その場に座り込む。


「成程。で? 俺にどうしろと……?」


「桂花と僕がその気になれば、エア・クロイツの機能を止めてしまうのは、酷くたやすい。貴方にも、親兄弟や家族が居るでしょう?」


「家族はいない。誰がどうなろうと、知ったこっちゃない」


「そうなの。じゃぁ、取引にはならないかな。一応、頼んでみるけど。僕を殺して欲しいんだ」


宗近は興味なさげに、タバコを取りだし口にくわえ、火をつける。


「……僕、ということは、その本体の子供を殺さずに、ということか……?」


「そう。僕は“鍵”ごと桂花の中で眠るよ。いつか、“鍵”を渡せる誰かに出会うか、桂花がこの都市の全てを拒絶するまで。そうしておけば、この都市が危険にさらされる事はない。本来、二つの鍵を一人が持つ事は、すでにその血族の破滅を意味する。〝緑〟の最後の一人がそうであったように、二つの鍵を持つ者は、この都市へ復讐を始めてしまう……」


少年は、宗近から視線を逸らし、悲しそうに目を伏せて、地下都市の何の変哲もない雑草を、じっと見つめて言う。


「でも、僕達の血統が絶えてしまったら、ここで暮らす何の罪も無い子供や、たくさんの人々が、住む場所を失う。だから……貴方に桂花を守って欲しいんだ……」


少年の黒い瞳が、初めて感情を宿し、縋るように宗近の瞳を捕らえる。


「……その桂花という子供に、お前がいなくなった事を、どう説明する」


「貴方に食べられたと言う事にしておいて。桂花には僕が暗示をかけておくよ。騙されやすい子だから、大丈夫」


そう言って微笑んだ少年に、短くなったタバコを捨てた宗近も、微かに口元をほころばせる。


「集団行動には向いてないと、つくづく感じていた所だ。退屈しきってたしな……」


そう言った宗近に、少年が歩み寄ってくる。


近づいて来る少年は、何故か一瞬、小さな老人のようにさえ見えたが、瞬きをすれば、間違いなく幼い子供の姿をしている。


「了承してもらったと思っていいのかな? 三日月宗近さん」


「……ああ」


「ありがとう。ただし、桂花に変な事したら、僕が貴方を殺すよ?」


「はっ。悪いが、ロリコンなんて殺されてもゴメンだ」


呆れたように少年を見ると、少年は澄んだ青空を見るような、どこか晴れやかな笑顔を見せた。


次の瞬間、小さな細い躰が傾いで、咄嗟に伸ばした宗近の腕の中に倒れ込んでくる。


腕の中の小さな子供の顔を見て、宗近は何とも言えない奇妙な顔をした。


眠っているようだが、あどけなく無垢な顔は、先刻の少年とはまるで別人だ。どちらかと言うと、始めて見た時の子供の印象だった。


〘最後の〝白の血族〟か……〙


子供を落とさないように抱えて立ち上がると、予想よりもはるかに軽く、宗近の眉がわずかにしかめられたが、そのまま悠々と軍用車の方へ行き、そこにいた数人に車を明け渡してもらった。


宗近は特殊な命令を受けている事が多く、単独で行動する事も珍しくないせいか、小さな少年を抱えて車に乗せても、誰も何も聞いてはこなかった。




子供が目覚めた気配に、宗近はサイドシートを横目で見る。


「……なにか飲むか?」


宗近の問いに子供は無言で、じっと宗近を見ている。


金属ともセラミックともつかない、未だに未解析物質で出来ている地下から地上への通路は、オレンジ色の淡い光に満ちている。


子供は、何か言いたそうに口を開いたが、焦ったように喉に手を当てる。


そこからは声ではなく、ヒーという風が鳴るような、空気が通る音しかしない。


「口がきけないのか?」


宗近のわざとゆっくりとした問い掛けに、子供は黒々とした瞳を濡らして、こくりと頷いた。


以前まえからか?」


子供は、勢いよく首を横に振った。


自分でも途方に暮れているのか、喉に手を当てたまま、深く俯いてしまった。


その膝の上に、宗近が水のボトルを置く。

 

子供は、戸惑うように、何かを探すように、宗近の横顔を見つめてくる。


「……心配するな。お前の兄と約束した。“鍵”持ちじゃ、そう遠くまでは行けないが、取りあえずこの都市まちを出る……おまえの名前は……ケイカ、でいいのか?」


子供は、じっと宗近を見たまま、先程よりも落ち着いてしっかりと頷く。


「俺は……三日月宗近みかづきむねちかだ。守護刀の名だから、嫌なら何とでも。好きに呼べ」


そっけなく言った宗近の手に、小さくて頼りない、白い手が重なる。


ちょっと眉を上げて、その手の主を見ると、けれんみのない笑顔を浮かべた子供が、宗近の手を取ろうとしているので、左手を子供の手にまかせる。


子供は、宗近の手を取ると、その手にゆっくりと、指を這わせ、『桂花』という字を書いた。 


その後、平仮名で『むねちか?』と書くので、小さな手のひらに『宗近』と書いてやって、手を引っ込めた。


ただそれだけで、車内はエンジン音と路面とタイヤの摩擦音しかしなかったが、しばらくして、子どもが……桂花がそっと、遠慮がちに水を飲む気配がした。





うるさいい子供のお守りなんて、面倒だと少々思っていた宗近だったが、口がきけない所為なのか、桂花と一緒にいる事は、全く苦痛ではなく、それどころか随分久し振りに、声を上げて笑ったりもした。


追っ手はかかっていたし、何処にいても身の危険から安心など出来ず、軍からも政府からも逃れられはしなかったけれど、無心に自分を信じて、頼って付いてくる桂花の存在に、宗近はいつの間にか、我知らず逆に救われていた。

 





街の屋根が、満ちた月の明かりに照らされて、奇妙な陰影を作っている。


道路にぽつぽつと灯る、街灯の明かりと明かりの隙間に落ちる闇は、普段の数倍、濃く感じられる。


エアクロイツから千八百キロ程離れた、港町レンリョウの安アパートの一室で、宗近は小さめのカップに温かいお茶をいれて、背後を振り返る。


かろうじて洗濯物が干せる程度の、狭いベランダの柵に、五歳ぐらいの子供がつかまって、飽きもせず夜空を見上げていた。


先刻、シャワーを浴びたばかりの子供の横に、カップを持って並ぶ。


「……風邪を引くぞ。何を見ている」


宗近の差し出したカップを受け取って、嬉しそうに笑った子供は、夜空に浮かんだ月を、小さな細い指でさした。


宗近も誘われるようにして見上げ、胸ポケットからタバコを取り出し、火をつけると、ゆっくりと煙を肺に入れる。


子供がその場に座り込んで、お茶を飲み始めたので、宗近も傍らに腰を降ろし、まだ少し湿っている子供の柔らかい黒髪を撫でる。


すると子供は、懐っこい猫のように目を閉じて、宗近の手の温もりに甘えてくる。


「……お前は月が好きだな」


宗近の言葉に、肩につく程に伸びた黒い髪と、黒曜石のような瞳の子供は、少し首を傾げてから微笑むと、胸に手を当てるようにして、声の出ない口をゆっくり動かす。


 それを、洩らす事なく読み取るように、宗近は子供の口を見ていた。


———ムネチカがシアワセであるように。ずっと、そばにいてくれるように。おいのりしてた———


「馬鹿か……好きなだけ居てやる。お前が俺を必要ならな……」


そう言った宗近の腕に、額を擦り付けてくる子供の頭を、宗近が優しい手つきで撫で、髪を梳く。


無数の命を奪ってきた、血に濡れた手。この子供の祖父母も殺した。


それなのに、この子供といると、そんな事さえどうでもいいように感じられて、いつも宗近の口元は微かに緩む。


桂花と行動するようになって、自分がずっと、何を探していたのか、どうしてあれ程、世界を虚しく感じていたのか、やっと分かった。


宗近はずっと……同じカインの印を刻まれ、あの都市に縛られ、あがき苦しむ、同じ罪人つみびとの〘誰か〙が欲しかったのだ。


———俺も、月に祈ろう。この子が倖せであるよう———


月の中を彷徨う人類最初の殺人者、弟アベルを殺したカインのように。堕落の象徴である荊を手に、人間の獣性を表す犬を連れて行こう……この子供が望む場所へ、この命を懸けて……。


「明後日あたり、この街を出るぞ。エア・クロイツに帰る……お前をそれなりの医者に診せないとだしな。この辺の医者はヤブで使えん」


宗近の体に寄り添い、じっとしていた桂花が、不安そうに顔を見上げてくるので、笑って見せる。


「地下都市の、俺の古い知り合いのヤミ医者だから、安心しろ。多少フッかけられるのも覚悟の上だ。今回はいい値の仕事も入ってる。だから、お前は自分の心配だけしてろ」


少し安心したように頷く桂花をうながし、立ち上がって部屋へ入ると、宗近を追うように桂花も部屋の中へ入った。

 






二人がレンリョウを後にして、丸二日が経とうとしている。


レンリョウとエア・クロイツを結ぶ道の途中に、小さな街があり、宗近むねちかはその街まで運ぶ荷を積んでいた。


急ぎの品物らしく、宗近は短い仮眠を取っただけで、ずっと車のハンドルを握っている。


二人が乗っている車は、この辺りで商売をしている運び屋がよく乗っている、悪路も走り抜ける大型のタイヤを履いた車だったが、限定だか何だか桂花には分からないが、その中でも頑丈でよく走る、良い車種らしい。


それにさらにあちこちに宗近が手を入れ、足下もうるさくかなり注文を付けて車屋で改造していたし、足回りやエンジンも、運び屋としては多少変わっているらしい。外の装甲も有り得ない程に頑丈で、窓も普通の硝子ではない。


たまに荒野のような場所でもある、水や簡単な食料も売っている、休憩用のそういった仕事の人間が主に停まる駐車場でも、ジロジロ眺められたり、興奮気味に指をさされたりするが、理由を聞いても、宗近は答えてはくれなかった。


不要と思う事には、一切答えてくれない人だ。


それでも、桂花が宗近のことがとても大切で、大好きだと言うことに変わりはないけれど……。





宗近はたまに、思い出したようにタバコに火をつけ、紫煙をくゆらせる。


宗近の傍らで、幼い子供は毛布にくるまり、安心し切って、本心から宗近に心を許して眠っている……いつものようにこの醜い世界の、その全てを許しているような、柔らかな気配を発しながら、後部座席で眠れば、もう少し広いと言っているのに、宗近の傍が良いと言い張って、邪魔にならないように、いつのの如く丸くなって眠っている……。


自然に口元に浮かんだ笑みを消そうともせずに、宗近は眠気覚ましも兼ねて、小さなボリュームで音楽を聴きながら、小さく囁くように歌っていた。



体に馴染んだ、宗近の運転のリズムを感じながら、心地よく眠りながら、桂花は奇妙な夢を見ていた………。




布の感触や、頬に当たる風までも感じるような、不思議な夢だった。


何十両も連なった装甲列車が、枯れて埃っぽい錆びたレールの上を走ってゆく。


何十人もの人間が、列車内の簡素な椅子や床に、生気が無くうずくまるように座っている。


皆なにかを諦めたような、寂しい目つきで床を睨み据えるようにしているが、その隙間を軍服を着た人間が、何かを監視するように行き過ぎる。


その中で、ひとつの車両から、『わっ』と喚声とも、怒号ともつかない声が上がった。


軍人らしい人間数人と、民間人らしい男が言い争い始めたのだ。


周囲の人間がはやすような、何かを期待するよううな声を上げながら、騒ぎを遠巻きに取り囲み始める。


民間人らしい人間と、それを擁護した数人が軍人の手にあった、拳銃であっさりと射殺され、騒ぎは途端に収まった。


まるで、悪い夢でも見ていたかのように、人の輪は広がったにも関わらず、そのまま誰も動こうとしない……何かを期待するように。


桂花が、夢の中でそうしようとか、自分で視線を動かした訳ではないのに、引きつけられるように、その人達から離れた場所にいる、黒い髪と瞳の集団を見た。


その中心にいる壮年の男性は、簡素なベッドに横たわり、治療を受けている様子だった。


傍らに付き添っている、自分に何処か似た女性が、その人の事を父親のようによく知っていて、深く敬愛している事が、桂花には自分の事のように心に染みてきた。


静かになったと思われた争いは、誰からともなく殺された数人の人間を、家畜のように解体し、誰彼ともない者の口中へと運ばれるうちに、収束してゆく。


エサの匂いに誘われ、群がるハイエナのように、他の車両からも現れた人々によって、人肉食の晩餐になった。




新たな……豊かな街を造る為に、志願したり、招集された人々の心身の疲労は、随分前にとっくに限界を超えていた。


彼等の前に先発隊が出発しており、街を建設する場所にたどり着いている筈なのだが、彼等との連絡も途絶え、本国とも通信がつかない。


予定では、途中決められた地点で、航空機による食料品などの、補給投下があるはずが、もう5ヶ月間食料も水も投下されていない。


まるで、国からも世界からも見放されたような、無機質な装甲列車の旅は、その中で不自由に暮らす人々に、人としての道徳や、生理的嫌悪感をもしのぐ、生に対する執念を生み出させていた。



ある者達は食料を得られた事に満足し、静かになっていた。


人間を食べるぐらいなら、飢えて死んだほうが良い。どうせ国でも、同じかそれ以下の状況だったのだから…と、うな垂れたまま、床を見つめている人間もいた。


そんな列車の中へ、太った上級軍人らしい、コートにまで階級章やらをごてごて縫い付けている男が、部下を連れて入ってきた。


真っ直ぐに歩んで行くと、一人の青年と何か言葉を交わしている。


次の瞬間、軍人は青年を殴りつけた。


それを機に、わっと軍人と青年の周囲に居た人々で、殴り合いや言い争いが始まる。


桂花によく似た女性は、その青年をこの列車に乗る前から見知っていた。


桂花に似たその人は、チラリと未だに殺された人間の肉を食べている集団を見るが、皆大人しく、もそもそと食べる人々ばかりのようだ。


解体を楽しんで、狂気のように返り血を浴びていた一団は、彼等曰く〈好みは多少あるようだが〉生で食べるのが美味しい場所以外の、一番美味しい所を持って、厨房車へ行ってしまったらしい。


とりあえず、死んだ人間を食べる行為は、ここ一ヶ月で数度行われているし、周囲も馴れたもので、混乱は起きないだろう……。


そう判断して、束ねられていない黒い長い髪を舞わせ、喧嘩騒動の仲裁に入ろうとした時、簡素なベッドの上に寝かされている男性が、彼女を呼んだ。


「…志祈しき……りょう……」


か細い声は、騒がしい車内で、聞き取れなくてもおかしくはないのに、彼女はサッと身を翻し、ベッドに寝ている壮年の男性に駆け寄るなり、その病み衰えた手を取り叫ぶ。


「陵———!! 陵っ! おじさんがっ‼」


どうやら喧嘩騒ぎの中へ入って行ってしまったらしい、グチャグチャに揉み合う人の群れの中に、探している青年を見つけたが、志祈と壮年の男性が呼んだ、軍服姿の女性の叫び声は届かない。


壮年の男性は志祈の手を取って、微かな声で何かを言うので、志祈はその口元に耳を近づけて、神経を研ぎ澄ますようにして聞く。


生来頑丈な人ではなかったのだが、志祈の手を握るその手は青白く浮腫んで、血管が浮いている。それなのに何処にそんな力が残っているのか、何度も、何度も、何か言葉を紡ぎながら、志祈の手を強く握る。


その温もりも、切なさも、それが自分の体験ではないと、分かっている桂花の心の中に、まるで今その場で、自分が体験している事であるように感じられて、胸が苦しくて堪らない。


———苦しい。泣いちゃ駄目なのに。我慢出来ない……涙が出そう———


何度も頷く志祈の頬を、ついに涙が伝った。


壮年の男性は、慈しむように目を潤ませて彼女を見つめ、穏やかに笑った。


志祈は自分の手の中で力を失った手をベッドへ置くと、もう片方の手から点滴を抜いて、両手を優しく組んで胸の上へ置いた。


周囲に集まっていた男女が、喉を詰まらせるように涙と嗚咽を殺しながら、男性の髪の毛を整えたり、汚れた衣服を調えたり。名残惜しく、悲しみとやるせなさを伝えるように、体を擦るようにしている。


志祈は頬の涙を手の甲でぬぐい、長い黒髪をきっちりと束ね、躊躇いの無い足取りで争う男達の中へ入って行く。


誰彼構わず殴ろうとしてくる男達を難なく躱し、中心にいる兵士と白金色の髪と青い瞳の青年の前へ行くなり、その細い体の何処から出るのかと思える声で、周囲を一喝した。


「やめなさい! 無用な争いはするなと厳命が出ています!」


装甲列車の窓でさえ、びりびりと震えそうな、すさまじい気合いのこもった声だった。


醜く太った軍人とその部下、そして彼等と揉み合うようにしていた民間人も、黒髪に黒い瞳の女性を見た。


太った軍人が何か言いかけるた時、どこからか背の高い体格の優れた軍人が二人現れ、志祈の両脇に立ち、太った軍人を見下ろすようにして言った。


「ピアーズ中尉。このようなもめ事は、五回目だったと思いますが?」


「いや……私は、ただ、この若造が、この列車内の風紀を乱すような事を言うので、注意してやったまでの事だ」


「申し開きはミラード中将にお願いします。自分達のような一兵卒に言われても、判断いたしかねます。少佐、後の判断はお任せして構わないでしょうか」


「後の判断も何も……中尉殿がこの場からお立ち退き下さって、ミラード中将に面会の手続きを取って下されば、騒ぎは収まる。中将殿は寛大なので、特にお咎めは無いと思いますが、ご自身で申告されないのでしたら、貴殿の上官と言う事に現在はなっていますので、私から中将殿に報告させていただく事になりますので、よろしくお願い致します。ああ、脇坂。ついでに我らが准将殿がご帰還されたら、報告をお願いします」


「ですってよ、軍曹さん」


やや若い青年が、脇坂と呼ばれた黒髪の青年にそう言って、冗談っぽく肩を竦めて見せると、彼は心底嫌そうに溜め息を吐いた。


「まったく、志祈はいつも無茶ばかり言う。あのクラゲみたいな人がそうそう捕まるもんか……」


「……そうでも無いと思いますけど。私なんて気がつくと、あの人に取っ捕まってますよ?」


「それは、志祈がお気に入りだからだよ。からかって遊ぶのに丁度いいから、暇つぶしに捕まえてるんだね。鼠獲って遊ぶ猫みたいにさ。この中は退屈だ。私でさえいい加減飽きてきた」


笑ってそう言うと、脇坂はもう一人の青年と一緒に、ピアーズ中尉とその部下を連れて出て行った。



志祈と呼ばれた黒髪の女性は、騒ぎの中心で大声で色々と主張していた、青い瞳と白金髪の青年の手首を掴み、無言で壮年の男性が横たわる寝台へと、青年を連れていく。


男性の力を失った手を取って、騒ぎを止めて連れてきた、白金髪と青い瞳の———陵と呼ばれた青年の手に重ねる。


青年は事態が飲み込めていないのか、しばし呆然としてから、両手で男性の手を包むようにして、何ごとか呟く。


青い瞳が潤み、何かを問うように志祈を見た。


「……くだらない喧嘩なんてしているから、大切なものを、大切な瞬間を、取りこぼしてしまうのよ。私達はこんな所で争っている場合じゃないのよ。軍人だとか、科学者だとか、生物学者だろうが、建設労働者だろうが、関係ないのよ。そんな事を言っている余裕なんて無いはずよ……違う?おじさんが……私達が夢見た緑の都市を、誰も飢えなくていい都市を創る。その事に集中しましょうよ。簡単じゃないって事ぐらい、私にだって分かるわ。でも、私達の代で出来る事が目標じゃないでしょう?!最初から、覚悟して乗ったんじゃないの?!じゃなかったら、今すぐ降りなさいっ!陵の分の食料で、誰かの命が助かる!私は戦場でずっと仲間を見捨てて来た!貴方にだって、容赦はしない!甘えるのもいい加減にしなさい!!」


陵と呼ばれた青年は、その場に膝をつき俯いてしまったので、表情は見えないが、泣いているのだと小刻みに震える肩が伝えている。




夢の中とは思えなくて、桂花はその人の傍へ行きたかった。


———なにを悲しんで泣くの?あの人が死んでしまった事?なんでそんなに苦しそうに、我慢しなくちゃいけないの?泣かないで———私まで、哀しくなるから———




志祈はそんな青年に背を向け、先程の騒動で一緒になって、中心で騒いでいた青年の前へ行く。


青年は壁に背を預けて座り、金色の髪を自らの膝に埋めるようにして、深く俯いている。


自分の前で止まった軍靴に気付き、青年は顔を上げ睨みつける。


しかし、その軍人が優しく微笑む女性だった為、一瞬視線のやり場に困って階級章を確かめようとしたが、青年の記憶の中にある物とは、襟章も肩章も一致しない。


出発時に、この隊の責任者と言っていた、ミラード中将の傍らにいた、やけにヤル気の無さそうな、《テペロム戦争の英雄》だとかで、実戦経験が一番多いらしい、厳つくて大柄な准将がつけていた階級章と、同系統に見える。


〘実戦組か……下手に逆らわない方がいいな。皆そう言ってるし。噂じゃ、食ってかかったヤツが、簡単に腕の骨を折られたとか……〙


青い瞳で眺めまわすようにしている青年の前に、志祈はなんの警戒心もない笑顔のまま、しゃがみ込んで言う。


「久し振りだね、ボク。ああ………もう立派な大人だよね。キミの猫、ずっとウチで飼ってたよ。テラスで日向ぼっこするのが大好きだった。なんでだか、犬みたいにくっついて来る猫で、でも家族の誰かが落ち込んでると、いつも慰めてくれる、そんな優しい子だったよ。歳をとって死んでしまったけど。最後まであの子が大好きだった母さんの腕の中に居てくれた、いい子でね。苦しそうにはしていなくて、でも、とても弱ってはいたから、傍に居た弟も、抱いてた母さんまで一瞬気付かなくて、疲れて少し眠っちゃったんだと思ってたら、息してなかったんだって……楽に天国に逝けたんだって、私は信じてる……」


青年は目を瞠ってから、黒い瞳の優しい笑顔を浮かべる、いかにも軍人という服装と、ミスマッチな笑顔の女性を、しっかりと確かめるように、その青い瞳に捕らえる。


「あの時の……よかった……ありがとう。オレ、二度も捨てたから……父さんが勝手に捨てたんだけど」


口端についた血を指で拭いながら、微かに笑ってそう言う青年に、志祈はコートの前を開いて、ポケットから清潔なハンカチと止血帯を出し、青年に差し出す。


「……軍人なのに、こんな事していいのか…?さっき亡くなった、遺伝子工学者とかって人にも、アンタは特別に配慮してたよな。ケンカ騒ぎ起こしてた人体工学者の人とも、なんか仲イイみたいだけど……」


「昔からの知り合いなのは本当だけど。特別な事なんかしてないわ。当然の事をしたまでよ。だいたい私達軍人は、貴方達のような人を警護する為に乗ってるのに、民間人やら研究者やらを脅したり、殺したりって……阿呆かしらね……?」


苦笑して肩を竦める志祈から、青年も笑ってハンカチを受け取ったが、止血帯は遠慮した。


「もっと必要になる人間がいるだろうし、不吉な事は言いたくないけど、他国の軍が来た場合、一番危険なのはあなた達だろうから……」


「ふふっ。心配してくれて嬉しいわ。ありがとう。でも、これでも、私結構強いのよ?ダテに人殺ししてまで、生き残ってないわ。今度の作戦では、今まで浴びてきた血の分まで、きっちり一般人や研究者を守るつもりで居るし、無事に目的地へ着けば、私の植物学者の脳ミソも、多少は役に立つと思うしね……出来たら、仲良くしてもらえると嬉しいわ。私は津久井志祈つくいしき。聞いてよかったら、貴方の名前は?」


久保田緑琅くぼたろくろう。建築工学が専門」


「建築士の久保田さんね。私は現在は研究もしていし、何処かの研究所に籍があって、最新の知識が入ってる訳じゃないから、正確に言うと、元って付いちゃうんだけど、植物学者で軍人。一応少佐だから、何か困った事とかがあったら、遠慮なく相談してね。力になれる事もあると思うから」


「……元植物学者、で…軍人? しかも、アンタみたいなのが、少佐?」


「一応ね。初めて配属させられたのが、テペロム戦の最前線で。植物の知識があったせいだったんだけど、その部隊の副隊長が恐ろしい人で、それでうっかり、昇格し———」


言いかけた志祈の襟首を、ごつい手が捕らえるなり、猫の仔のようにヒョイと立ち上がらせ、少々強引に、引きずるようにして歩き出そうとする。


志祈はそうされながらも、緑琅に軽く敬礼をしてみせ、ちょっとおどけた笑顔で、別れの挨拶をした。


反抗する意志がないと判断したのか、志祈の襟から手を離した男を緑琅が見ると、魁偉な軍人だった。


軍服をかなり着崩していて、特殊な迷彩柄の上衣を羽織っている。


緑琅は、すぐに彼が《テペロム戦争の英雄》と言われる、あの准将だと分かった。


体温が無い、宝石のような灰青色の瞳が、緑琅を一瞥いちべつして、一瞬、視線が合う。


すぐに逸らされた瞳は、緑琅に興味がない事を告げた。


「志祈。お取り込み中の所悪いが、ちょっと来い」


言い終わらぬうちに歩きだす彼を、志祈も大股で追いかけ、ついでに口も動かしながら追いつく。


「ちょっと来いってなんですか? 私は今、強制的に呼び出しを受けた、と感じたんですが。それに、彼とは世間話をしていただけです……聞いてらっしゃいますか? シュウスイ・ヤノ・エマーソン准将殿」


「フルネームで呼ぶんじゃねぇ。いつも言ってんだろうが、この野郎」


「私、野郎じゃなくて、一応、女なんですけど———」


二人の声が遠くなった頃、先刻亡くなった、遺伝子工学者の枕頭に集まっている人々の辺りから、女性と思われる、数人の、こらえ切れないような嗚咽が、緑琅の耳にまで届いてきて、再び壁に身をあずけ、そっと深い溜め息を吐いた。





その後、口を開かなかいシュウスイに、無言でついて行った志祈は、最後尾まで装甲列車の中を歩きながら、周囲をさりげなく、だが注意深く見回していた。


日に日に、憔悴と疲労の匂いの強くなる車内の空気に、思わず出そうになる溜め息を飲み込み、脚の運びにまで気を付けて歩き、顔見知りがいれば、明るい笑顔を見せて、手を振った。


そんな志祈とは正反対に、シュウスイはいつも通りだ。


最前線の塹壕ざんごうの中だろうが、売春宿に居ようが、親しい部下にまで〈半分は冗談だが〉、『なにを怒ってらっしゃるんですか?』と問われる、無表情に近い顔をしている。


志祈が入隊する前から、『まるでゴーレムのような男だ』とか、『怒らせると、何をされるか分からない人だ』等という噂を聞かされていた人で、その噂を知ってから出会ったにもかかわらず、志祈のシュウスイに対する第一印象は、《噂に聞くより随分格好良い人だわ。優しそうだし。上官が若くて格好良いだなんて、ちょっと得した気分だわ。皆何がそんなに怖いのかしら?》というものだった。


ギスギスしていて、血の気の多そうな傭兵達や、口ばかりで役に立たなそうなデブ士官のオヤジ連中よりも、志祈は逆に好感を持ったし、シュウスイに親しみと安心感をおぼえ、良い上官の下に配属になった幸運に感謝した。シュウスイにとっては、不運な人事だっただろうけれど……。


実際、充分な訓練を受けず、実際に体験するのは初めての、熱帯雨林の最前線の戦地へ送られた志祈は、もしシュウスイの部下にならなければ、あの過酷な戦場で、三日と生きていなかっただろう。


志祈は自然とシュウスイへ敬慕の情が強くなっていったし、寛厚かんこうな心のありようも、見習いたいと思うようになった。


自分にに部下ができてからは、シュウスイならばどう判断するだろうと、最初に考えてしまう程に……。


ただ、その気持ちが、上司に対する尊敬からくるものなのか、兄のように思ってしまっていて、それを許してくれる、シュウスイへの甘えなのか、それとも、もっと違う感情なのか、その辺りが志祈自身、理解できないでいた。


〘シュウスイさんには、本当に何度も命を救われてる。感謝なんていう、そんな言葉ですら軽く思えて、きちんとお礼も言えていないけど……言わせてくれるような人でもない、っていうのが分かるぐらい、付き合いが長くなっているのも、困りものよね……死ぬまでに言えるかしら……?でも、頼りになる人だし、傍に居て嫌じゃないから、つい、何処へでもくっついて行っちゃうのよね。それもよくない様な気がするんだけど……仕事なんだか、プライベートなんだか、訳がわからなくなるのよ。でも、シュウスイさんの中では、きちんと私と距離をとって、線引きしてるみたいなのよねぇ……〙


ふと足を止めたシュウスイが、振り返って志祈を見下ろす。


その左の上顎から目尻にかけて、かなり目立つ傷がある。ろくに手当ても受けないまま、肉と皮膚が再生した傷跡だ。同時に肩にも同じような傷を受け、跡が残ってしまっている。他にも、シュウスイの体には、大小無数の傷跡があるのだが、この顔と肩の傷は、確実に志祈のせいで付いたものだ。 


植物のサンプリング等を、任務として命じられていた志祈が、採取に気を取られすぎたせいで、敵のトラップに掛かってしまい、シュウスイが間一髪の所で助けてくれた。


あの時もシュウスイは、出血が酷い自分の傷の事など、気にも留めず、志祈に怪我の有無を訊いてきた。


そして、『あぶねぇな。ここは戦場なんだよ、お譲さん。死ぬ所だ。任務も分かるが、命あってのモノダネだろうが』そう言って微かに苦笑しただけで、一切志祈を責めたりはしなかった。


医療班の人間が、神経も腱も傷付いていないのは、幸運としか言いようが無い、と感心したほど際どい位置で、もし深さも場所も僅かにズレていたら、麻痺が残ったり、不自由な身体になりかねなかったらしい。


手当てをした若い軍医が、『さすがシュウスイ殿。殺されても死なないとは聞いていましたが、無意識で致命傷にならないよう、庇っているんでしょうね』と、驚愕を通り越して呆れて言っていましたよね……。


「…なんだ。オレの顔に何かついてるか。ジロジロ見るな」


「それは、失礼致しました准将殿」


「……イヤミか。お前に言われると、どうもそんな気がして腹が立つ。名前で充分だ」


「はいはい。シュウスイ殿は、まったくもって、ご注文が多いですねぇ」


「その気色悪い喋り方もよせ。脇坂の真似か?」


言いつつ最後尾の、装甲板の重い扉を開け、一段高くなっている狭いデッキに、ゆうゆうと一足で上がるので、志祈も同じように続こうとした。


その時、列車がちょうどカーブにさしかかり、バランスを崩してしまう。


刹那、志祈は反射で、列車から転落しないよう、内壁に掴まろうと身体をひねって、腕を付き出す。


〘まずい! 足りない! 落ちる!〙


無意識に掴める物を探し、宙を彷徨った志祈の腕を、シュウスイの手が危なげなく捕らえる。と、同時にもう片方の腕は志祈の体を引き寄せ、ヒョイと幼子を抱き上げるようにして、デッキに引き上げてくれた。


「……どうも、ありがとうございます」


「なんだ。親切にしてやったのに、その不満そうな顔は。可愛くねぇな」


腕を離したシュウスイは、列車のドアを閉めると、格納できるように設計された柵に手を掛け、周囲を眺める。


白茶けて養分も水気もない土と、岩……その隙間に、わずかな成育場所を確保した、乾燥に強い植物が、ぽつぽつと生えている。


〘味気ねぇ風景だな……所詮俺達エストランダの国の中。どこへ行っても変わらねぇか。それに比べてテペロムは、熱帯の森がまだあって、水が豊かだった。戦地で戦った人間にしてみれば、水ほど厄介で怖いものは無かったがな。だからこそ、エストランダは欲したんろう。あの緑の大地を……確かにあそこは戦場になった場所で、顔も忘れてしまう程、仲間が死んだ場所だ。俺は嫌な記憶しか残ってねぇ……だが、息が詰まるようなあの緑を焦がれる気持ちは、分からなくも無い、か……〙


柵に掴まったまま、シュウスイは、どこかぼんやりとした目で、流れてゆく景色を見ている。


彼と親しくない部下なら、見落としそうなその鉄面皮と呼ばれる、シュウスイの表情の変化に、気付く事が出きる部下は、こんな時は彼をそっとしておくだろう。


陰で鉄面皮とまで言われているシュウスイだが、実は情に篤い性格で、本人はその事を他人に知られたくないが故に、無表情がすっかり身に染みついている。


しかしそれでも、気の置けない人間となら、多少は気を抜く事ができるらしい。


そんな時に、こういう表情をよくするのだ。


特に志祈よりも付き合いの長い脇坂などは、『志祈が下に就くようになってから、シュウスイさんは大分表情が出てきましたよ。昔はもっと酷かったんです。嫌な上官に当たったと、我が身の不運を嘆かない日はありませんでしたからねぇ』などと、未だに大真面目に志祈に言う程なのだ。

 

せっかく寛いでいるようなので、志祈もシュウスイに声をかけず、並んで景色を眺めた。

 

この列車は移動距離としては、ほぼ予定通りに進んでいる。


先発隊が線路の修繕もしてくれているので、今のところ食料その他の補給が、約五ヶ月行われていない事と、断片的な情報しか入らず不確かだが、補給物資どころではない、何か大事が国を襲っているらしい事……。


その事を除けば、この列車は、問題無く新天地へ向かっている……。


そんな事を考えていると、志祈の胸底に不気味ものが、じわり、じわり、と広がってくる……それが空恐ろしくて、耐えきれず、傍らの上官の横顔を見上げる。


「……シュウスイさん。別動隊で近郊の街へ、食料や医薬品の確保に出ていたんですよね。どうでしたか?」


「あぁ……ほらよ」


どこにしまっていたのか、興味なさそうに、タバコのカートンを二箱取り出して、志祈に放ってきたので、慌てて両手で受け取ろうとするが、取り落としそうになり、胸に抱きかかえるようにして、なんとか逃げようとするタバコを必死で捕まえた。


なにしろ、列車は今も走っているし、柵は簡素で、タバコの箱など、あっという間に線路に落っこちてしまう。


ほっと息をついて、腕の中のカートンを抱え直す。


その様子がおかしかったのか、シュウスイが喉の奥で、くつくつと押し殺したように笑う。


「また笑うんですね……そんなに私って変ですか?」


少々ムッとしたように尋ねても、シュウスイはもう素にもどって、何事もなかったように空を見上げるので、志祈も無かった事にした。


「……タバコを買ってきて下さったのは、あり難いんですけど、肝心の食料はどうだったんですか?嗜好品があったって事は……」


「まぁ。コイツに積んであったフェデルバイクじゃ、十人程度で出た所で、たいして荷物は積めねぇな……」


それはつまり、また、ほとんどの食料が、最低最悪な上級士官の胃袋へ入って、そしてもしも余裕があれば、学者と研究者が優先、民間人は後回しと言う事だ……。


暗い気持ちで唇を噛む志祈の傍らで、シュウスイは上衣の胸ポケットから、タバコを取り出し銜えると、ゆっくり火をつけた。


ふっと、煙を吐き出し、思い出したように志祈へ視線を移すと、箱から器用に一本を滑り出させ、志祈の目の前に無言で差し出してくれる。


「あ、結構です。買ってきて頂いたのを吸いますから」


「なんだ。生意気になったな。俺のタバコじゃ不味くて吸えねぇ、とでも言う気か」


「同じ銘柄でそんな事はありませんよ。けど、悪いですから。次はいつ手に入るか分かりませんし」


「……それで。その入手困難な嗜好品を、誰かれ構わず分けて……自室に一般人を引き入れて……お前は何がしたい……?」


「酒やタバコを分けた事は認めます。でも、買収とかそういった目的では、決してありません。皆さん疲れてて、もう、限界なんです……だから……」


なおも差し出されたままのタバコに、仕方なく志祈が手を伸ばすと、タバコを懐に入れたシュウスイの手が、当然のようにライターの火を差し出してくれる。


いい加減怒られそうなので、素直に厚意に甘える事にして、タバコを吸い付けた志祈だったが、シュウスイが任務中に、志祈を甘やかしてくれる時は、決まってなにか大事な話しがあったり、お叱りを受けるので、つい身構えてしまう。


そんな志祈の心を知ってか知らずか、シュウスイが目を細めて微笑する。


「……美味そうに吸いやがって……」


「すみません。なにしろ久し振りで……脳貧血起こしそうですよ」


「シアワセすぎて、か……?」


くくっ、と身を屈めて笑ったシュウスイは、そのまま閉じた扉に寄り掛かり、うつむいた。


その途端、乱雑に伸びた砂色の髪が風に舞って、シュウスイの横顔を隠してしまう。


「おい」


「はい?」


「ここは戦地の最前線の塹壕の中じゃねぇだろうが。その仕事面づら見てると、落ち着かねぇ。俺の前で……あぁ。少なくとも、こうして二人の時ぐらいは、その面をなんとかしろ」


顔を上げたシュウスイに、真っ直ぐ睨まれ、志祈は溜め息をこぼす。


〘なんとかしろって言われても、こっちがなんとかして欲しいわ。だいたい、立派にここは最悪の戦場だと思うんだけど。気のせいかしらね?当たり前みたいに人を殺して食べて……こんな所で普通にしていられる、シュウスイさん達の神経の方が、私より変じゃないかしら?……戦場も狂気に飲み込まれそうで、最悪の居場所だったけど、定期的にキャンプへ帰る事ができただけ、まだマシだったわね。こんな逃げ場も無い空間で、どうしろっていうのよ。誰だって、普通に防衛本能が働くと思うけど……まったく、シュウスイさんも無茶苦茶言うわ……〙


何も言わず、碧空へ紫煙を吐きだし、シュウスイの傍らの装甲板へ寄り掛かった志祈を、じっと灰青色の瞳が捕らえる。


志祈は、無視を決め込んで、列車の速度と乾いた風で、一瞬でどこかへ散ってしまう煙を見るともなく、目で追い続ける。


「……相変わらず、アホみたいに強情だな…」


「たった三日会わなかっただけで、人間の性格なんて変わりませんよ。死ぬような目に遭ったって、私はたいして精神的にも、戦場で生き抜く術も身に付かなくて、シュウスイさん達に守られっ放しで、成長もしませんでしたから。ただ、任務的にはやる事やって、階級が上がってしまっただけの、能無しです。でも、ついでに言わせて頂くと、強情やら鉄面皮は、シュウスイさんよりかは、私の方が貼るかにマシです。脇坂のお墨付きですよ」


「ったく。お前らは……仮にも上官に向かって、ひでぇ言いようだな」


シュウスイの小さな笑い声が、志祈の吐き出した煙と同じように、あっという間に線路の軌道を辿って、後方へ消えて行く。


ずっと、何日も、何日も辿ってきた、祖国とつながっているであろうレールだった。


タバコを吸い終えた志祈は、携帯していた薄い小型の吸い殻入れに、吸い殻を捨てる。


一見その辺に吸い殻を投げ捨てそうなシュウスイは、志祈よりも丁寧に火を消して、志祈と同じような吸い殻入れへ、律義に詰めた。


武骨そうな指は、意外なほど器用で、銃や計器類の整備を志祈などよりも、ずっと丁寧に正確にこなす。レース編みなんかやらせたら、きっと自分より遥かに上手だろう、と志祈は考える。


ゴリラがレース編みをしている光景と、ゴーレムがパッチワークをしている光景は、どちらのほうが、いつも必要以上に丁寧に、几帳面を通り越して、多分神経質なのかと思われるが、自分の寝袋を畳んでいるシュウスイに似ているか、真剣に考えている自分に気付き、自覚しているよりも、だいぶまいっているらしい、と気付いた。


〘シュウスイさんなんて、泥まみれで食事出来る人だし、蛭だって私が毒のない種類だって教えたら、沼を歩いて渡るとか、信じられない事をさせるんだから、潔癖症とかじゃない。だいたい、シラミとか居そうな売春宿を、平気で普通の宿代わりに使うし……って、やっぱり、私、変だ。あの売春宿の事は、無かった事にするって。脳内から消去した………車内中がこんな状況で、彼等が殺人的な仕事量で無ければ、すぐにでも、軍医のカウンセリングを受けるべき精神状態、といえるわね。でも、判断できているだけ、私はまだマシと考えるべきかしら……?ただでさえ、私よりも激しやすいりょうがいるんだもの、私がしっかりしなきゃ駄目よね……次の、ある訳は無いとは思うけれど……目的のポイントまで、あと、何日だったかしら……いつからカレンダーを気にしていない?日記をつけたのは、いつが最後……?報告書を出している筈なのに……日報だって書いてる……しっかりしろ、私。静まれ……〙


風で解れて舞う髪を、右手で押さえ、左手首の腕時計で日付の確認をしようとした。


その志祈のほっそりとした、白い手首を、シュウスイの大きな手が掴んで止める。


「……お前、いつから祖父じいさんの形見だとか言う、あの刀を差していない。言ってみろ………理由もだ」


「いきなり何ですか?重いし、必要ないからです」 


「……嘘つけ。あの体力も気力も根こそぎ奪っていく、腹の立つ熱帯雨林の中でさえ、バカ丸出しで腰に差して歩いて居たクセに……聞いて呆れる……銃はどうした。見りゃ、服の下にも携帯してないのがマルバレなんだよ。重みで普通は若干肩が落ちるが。お前は銃を下げてようが何だろうが、とにかく、背筋を真っ直ぐに保ちたいみたいで、重い銃を携帯するようになってから、持っていない時に、逆に姿勢がおかしくなってるんだよ。バランスも合わせてるから、狂ってるな?今……さっき、俺に助けられたのだって、そのせいじゃねぇのか?紛失したのなら、報告があって然るべきだろうが……お前の銃は、今何処に有るんだ?」


視線を逸らした志祈と、無理にでも視線を合わせようとして、シュウスイが大きな身体を屈める。


「俺の質問に答えろ」


一見何の感情も無い、ガラス玉の様にしか見えない灰青色の瞳は、その奥に暖かな何かを潜ませていて、それが今、志祈だけに向けられていると分かり、眉を顰める。


「……わかりましたから、手を離して下さい」


シュウスイがあっさりと手を離してくれたので、取りあえずタバコのカートンボックスを開け、タバコを1箱取りだし、封を切る。


馴れた手つきで一本取り出すと、火をつけ、外套のポケットにしまう。


シュウスイは、肩が触れる程の距離で、傍らに居て。志祈の言葉を待ってくれている。


「……シュウスイさんが、街へ出発された後の事は、誰かから報告が行きましたか?」


「ああ。無線で脇坂が、すぐにな。お前の武勇伝を教えてきた」


「武勇伝なものですか!」


吐き捨てるように荒い口調で言う志祈の肩に、シュウスイの腕が廻り、幼い妹をなだめるような仕草で、肩を抱き寄せる。


「もし、俺がその場に居たとしても、お前と同じ事をした。脇坂も他のヤツらもそうだろうよ」


「……嘘つきですね。シュウスイさんは………そんな事をする人じゃありませんよ。どんな時だって、私よりずっと冷静です。峰打ちにも出来た状況なのに、私は、丸腰の一般人を……斬ったんです」


「気にし過ぎだ。女性に乱暴したヤツらだろう?」


「……未遂です。私が、彼女達の悲鳴に気付いて、彼女達の部屋へ入るなり、手近に居た一人の頚動脈をはね切りました……血がしぶいて、皆の動きが止まりました。殺す必要なんて、なかったんです!刀だって、抜かなくても、止める方法はあった!通信機で、女の私ではなく、力のある脇坂や藤道に助けを求める事なんて、簡単だった……他の、誰でも呼んで……なのに私はっ、そうしなかったんです!気付いたら、殺してました……」


ほとんど吸われず、短くなったタバコを吸い殻入れへ捨てると、そのまま頭を抱えるようにして、ズルズルとしゃがみ込む志祈の振るえる肩に、腕を回したままシュウスイもデッキに座り込む。


「それで、あの刀……紅雪左文字こうせつさもんじはどうしたんだ。俺は刀の価値なんて分からねぇが、立派な物なんだろうが」


「祖父は本物だと思っていたようですが、ありえませんよ。本物なら紅雪のコウは、くれないではなく、海や大河を表す江。どこかの誰かが、誰かを騙そうと鍛えた一振りか、単なる偶然の銘なのか。責任逃れだと仰るでしょうが。あれは妖刀だとしか、私には思えてならなくて………あるいは、テペロムで、私があの刀を、妖刀にしてしまったのかもしれない……紅雪とは、赤い花のこと……でも、血の雨にその花を例えたりすると、ある人が教えて下さって………本当は、怖いだけなんです。私の弱さで、差していないだけなんです。持っていたら、あの刀に、喰われてしまいそうで……触れているのが怖いんです。祖父は人を活かす為に剣の道を極めたいと思い、道場を開き、人にも教えていましたが。剣術は人殺しの術ではなく、自らの心身を鍛え、己の身を守り、相手を話し合いの場につかせる為のものだと、私に教えてくれていたのに………私は、人殺しにばかり使っている……人をかす為に使わなければ、これでは、駄目なんです。祖父があれ程大切にして、愛していた刀を、私みたいな人間が持っていて、ただの殺人の道具に使い続けていい良い筈が無いんですよっ!」


震える手で、目を覆うように前髪をかき乱す志祈の頭を、シュウスイの手が撫でる。


「やれやれ……お前は、なまじ頭が良いのがいけないんだな。何も考えなきゃいいんだよ。お前は正しい事をした。お前のお陰で、そのお嬢さん達は酷い目に遭わずに済んだ。そうだろう?……それにテペロムでも、もしも、お前が剣術が使えなかったら、お前が生きて帰還する事は無かった。あの紅雪左文字のおかげで、お前が切り開いてくれた活路だってあった。あの時の戦友は皆知ってる……お前が仲間の命を救う為に、体力が無いのと植物採集の目的が有った為とは言え、お前みたいな非力そうなお嬢さんが、自分からしんがり買って出て。俺らは正直、志祈の腕を見るまでは、見殺しにするような物だと思って止めたが、お前は俺達普通の兵隊と違って、トラップや武器の知識は足りないが、背後や周囲に潜む敵の気配を、広範囲でしかも恐ろしい早さで察知して、臆する事なく斬り込んで行ったから、仰天させられた。剣も極めれば、銃弾なんぞ当たらんと聞いてはいたが、そんなのはヨイヨイの爺さん剣客の、ヨタ話しだと思ってたんだが……本当に、擦る程度で、他の仲間が打たれてるような状況でも、防弾スーツの部分にどうしても仕方ない時に食らうだけで、本当にそれも滅多になかったのには、驚かされた……あんな戦場じゃ、傷ついてる仲間なんて、見捨てるのが当然なのに、あの戦場なんぞ知らん、植物学者のお嬢さんは一人でも多く、仲間を守ろうとその命を背負って刀を振るって居たな……」


そこでシュウスイはタバコを取りだし、火をつけた。


「頭冷やして、冷静になれ……お前が、万一剣術も出来なくて、身を守る術をロクに知らないまま、中途半端な訓練だけで最前線に送られて来たらどうだったかって事を本気で考えろ。間違い無く死んでたぞ。いくら俺だって、そうそう仲間や部下全員を気遣っちゃいられねぇよ……そうなりゃ、今の出世もなかった。お前の稼いだ金のおかげで、お袋さんと弟が生活できてんだろ?お前のその剣の腕が、家族と自分を守ったんじゃねぇか。胸張ってりゃいいんだよ……」


かぶりを振る志祈の頭を、シュウスイがぐしゃぐしゃと撫で回す。


「お前と初めて逢った時、俺は速攻で、人事に不服を申し立てるべく、上官に文句言いに行ったんだぞ?……笑えるだろ。植物学者なんていうから、死んでも惜しくねぇハゲオヤジか、お迎えが近いお荷物ジジイが来るもんだとばかり思ってたら……真っ直ぐな目ぇした、まだ17歳のお譲さんが来たもんだから、さすがの俺も、ぶったまげてな……」


ふと志祈から手を離して、空を見上げたシュウスイは、タバコの煙を深く吸い込むと、目を細めて声もなく笑った。


「俺なんかがつついたら、心臓止まって死んじまいそうなお嬢さんのクセに、俺の事を全然怖がりもしねぇで、綺麗な、真っ黒い目で見てきやがって、かわいい顔して笑いやがって……『よろしくお願いします。シュウスイさん』なんて言われちゃ……連れてけるかってぇの。なぁ?」


「っ……あの時は、失礼しました。初対面なのに馴れ馴れしくして。私、階級とか、よく解らなかったんです。簡単な説明しか講義で受けてなくて……訓練では他の事を教えるのが先、って感じでしたし……物知らずで申し訳有りませんでした。シュウスイさんの階級も、知らなかったんです。私が配属になる前日に、昇進されたと聞いたのですが、何故か誰も詳しく、立場とかそういう、上下関係のような物を教えてくれなくて……結局、私はあの時一緒の隊だった方の、どなたの階級も、その時は知りませんでした。どうしてだったんですか………?」


くぐもった声で問うてくる志祈の、黒い長い髪をまとめてあった紐に、シュウスイが指をかけて、解いてしまう。


腰まで届く髪が、風に舞い散る。


「なにするんですかっ?!返して下さい!」


驚いて取り返そうと、シュウスイの手に握られた紐を追い、志祈の手が伸びると同時に、シュウスイの笑い声が志祈の耳に響く。


「やっぱりか。泣くならもっと思いっきり泣きゃいいじゃねぇか。そんな所で意地張ったって、仕方ないだろうが」


「泣いてませんよっ!!」


「志祈。人間って言うのは図星を指されると、ムキになるもんだ。それを隠せないようじゃ、まだガキだ。ガキなら、子供らしく泣いてみせろ。泣くまで返してやんねぇからな」


「なっ、どこの悪ガキですかっ?!シュウスイさんの方がよっぽどガキじゃないですか!!」


「ガキで結構」


奪おうとしても、軽々と躱されてしまい、志祈は奇妙に思った。


確かに、シュウスイの方が男性だし、腕力も体力も断然志祈より遥かに上だ。それでも、俊敏さなら引けはとらない自信があるし、実際にシュウスイからも、ずっと『お前はいい筋肉してんだな。瞬発力があるのに、持久力もそこそこあって、踏ん張りがきく。女にしとくのは勿体無いな』そう言われてきた……なのに、全然、紐の端にさえ触れる事が出来ないなんて、信じがたい現実だった。


〘紅雪に……あんな綺麗な刀に、たった一つの祖父の形見に……人斬りばかりさせて、私の心も身体も、腐ってしまったんだ……〙


凍ったように動きを止め、宙を見つめる志祈の頭に、シュウスイの大きくて温かい手が置かれる。


「……さっき、俺が帰ったのとほとんど同時に、亡くなったんだろう? 首藤博士。オヤジさんが亡くなってから、本当の父親みたいに面倒見てくれた、恩人だって言ってたよな。あの、博士の息子で、頭に血が上りやすい男も、弟みたいなものだって、前に飲みながら話してただろ。同じ道場に通う剣友で、勉強もいつも競い合って、喧嘩ばかりしていたってな……俺の記憶違いか?」


突然、何を言いだすのだろう?……という顔でシュウスイを見ている志祈に、シュウスイは初めて見せる、ちゃんとした優しい笑顔で言う。


「親が死ねば、どんなロクでもねぇヤツだって、悲しいさ。俺だって、オヤジが死んだ時は、悲しかったよ。自分でもおかしいんだがな……生きてるうちは、あのクソオヤジ早く死んじまえ、と思ってたよ。クソ真面目で融通がきかなくて、軍人らしいといえばそうかもしれないが、親としてはなぁ……子供からすると、いつも家に居ないしな。想い出もない。悲しくなんてなるはずがないのに、悲しかったな。面倒ばっかりかけて、怒らせてばっかりだったからな。せめてもう少し、親孝行してやりゃ良かったって………なぁ、志祈……俺はそんなに頼りないか?」


「え……いいえ?そんなこと、全くありません。シュウスイさんは頼りになります。おまけに優しいですし。人としても尊敬しています。私も見習いたく思っています……どうして、そんな事を突然訊かれるんですか?」


何とも言えない奇妙な顔で、それでも笑ってシュウスイは言った。


「俺は、お前の事を、本当の妹みたいに思ってるんだよ。気付け、アホが」


「あ、ありがとうございます。嬉しいです……」


「なんだ。嫌そうな顔しやがって。可愛くねぇな。頼りになるって、少しでも思うんなら、俺にぐらい、弱音吐いていいって言ってやってんだよ。素っとぼけた顔するな。面倒くさがりの俺に、こんなに喋らせやがって………まったく……」


「あの……でも、失礼ですが。シュウスイさんって、普段飲みに連れて行ってくれたり、御飯ご馳走してくれてる時とか、結構喋るし、笑うじゃないですか。この任務についてからは、まるで缶詰めの中身ですけど。それにしたって、なんで、私が悪いみたいに仰るんですか……?酷いと思うんですが」


「お前が悪いからに、決まってるだろうが!!」


言うなりシュウスイの手が志祈を抱き寄せて、腕の中へ抱き込むと、ギュウギュウ抱きしめて、頭を撫で回してくる。


「っ?!シュウスイさんっ!苦しいです!!背骨が折れますっ!」


「よし。じゃぁ、素直に吐くか?」


「なにを……」


「何でも。お前が困ってる事でも、腹が立ってる事でも……だいだい、今のお前じゃ、何かあった時に使いモンにならねぇ。銃だってどうせ、自分の部屋を使わせてる女達に貸してるんだろ?まぁったく、馬鹿がつくお人好しのお前のやりそうな事だ。そんで自分は首藤博士につきっきりで、ロクに寝てもいない。違うか?……」


無言の志祈を抱きしめたまま、シュウスイが盛大な溜め息を吐く。


「まったく。呆れるな……今時、その優しさが命取り、なんて間抜けなヤツ、見た事もねぇよ……お前は今日から俺の部屋を使え」


「はい?!」


「なんだ、その顔は。変な期待してんじゃねぇよ。お前みたいなガキに欲情するか。阿呆。うぬぼれんな、ロクに胸も無いクソガキが……人並みの女みてぇに警戒するとはね。まぁ、しばらくは今のお前の顔思いだしただけで笑えるな。俺は脇坂達の部屋へ行くから、好きに使え」


「そんな必要ありません!私はりょう達の部屋で寝ますから、大丈夫です」


まだシュウスイに抱きしめられた恰好のまま、抗議する志祈にまたもや盛大な溜め息が落とされる。


「……あのなぁ。軍人と研究者、しかも男と女で、幼なじみ。俺達はともかく、他のヤツ等がなんて噂してるか、考えもしない程お子様なのか?……まぁ、そんな気もしてたけどな。お前は、そういう所がちょっとズレてるからなぁ……」


本気で呆れているらしいシュウスイの口調に、顔を見たくて、腕から離れようと踠くが、びくともしない。


「あのな、帰って来た俺の顔見るなり『志祈を何とかして下さいっ!あれじゃ身体が持ちません!他人の心配ばかりして、仕事もきちんとこなそうとばかりしている!ですが、体力の内女性で、しかも精神的にもキツイでしょうに、無理ばかりしています。私達には平気な顔しかしないんです。いい加減に、止めさせて下さいっ!曲がりなりにも上司でしょうが!』って、すげぇ剣幕で言って来やがったのは、脇坂とホーカーだ。自分達にツケが廻って来る事も、分かってて言ったんだろうよ。気にするな」


その言葉で、自分が二人に随分と心配をかけてしまっていた事に、やっと気付いたらしく、志祈はシュウスイの腕の中で、うな垂れている。


その志祈の、乱れて風でボサボサになった髪を、シュウスイの武骨に見える手が優しく撫でる。


「……こんな事は言いたくねぇが。まだまだこれからなんだよ。都市建設予定地に無事着けたとしても、終わりじゃねえだろ……あの首藤博士の夢でもあった、緑の、誰も飢えない都市。お前も見てやらなきゃ駄目だろ。生きてる限り……」


シュウスイの身体から、直接伝わってくる言葉と温もりに、志祈の目頭が熱くなって、今まで必死で堪えていた涙が、頬を伝う。


シュウスイは腕の力を緩め、志祈が泣き続けている間、背中や頭を辛抱強く撫で続けて、時折、溜め息のような吐息と共に、志祈に何かを囁く。


その度、志祈は何度も頷く……。





 

その光景を見ていた桂花は、志祈とシュウスイに逢った事があるような、不思議な気持ちになる。


〘……なんだろう。この感じ……安心できる匂い、体温……この人達は誰?……これは、ただの夢じゃないの?〙



ふっと意識が覚醒する。


眠気はまだあったが、車の中に朝日が差し込んでいた。


身体を起こして辺りの風景を見回すと、運転席の宗近むねちかが桂花を見た。


「眠れたか?」


頷いて、宗近の声が、あの人に似ていると思った。


夢の中で、志祈とずっと話していた、シュウスイ……髪の色は違うけれど、体温を感じさせない、宝石のような灰青色の瞳はそっくりだ。


「とりあえず何か飲め。もう少し先に、それなりに安全な村があるから、そこで朝飯食って、また車で移動になる。大変だと思うが、荷物が急ぎなんでな」


かぶりを振って、大丈夫と言うように笑った桂花の頭を、大きな手が優しく撫でてゆく。


〘……この感じ。やっぱり似てる……〙


口がきけたら、もっと私も宗近と話が出来るのかな……宗近が用意してくれた紙とペンを出して、夢の事を書こうとした桂花の手は、ちょっと躊躇うようにしてから、ペンをすべらせ、一字一字丁寧に書きしたためる。


『朝ご飯に、あたたかいスープが食べられたらいいな』


桂花の書いた紙を受け取って、ハンドルは持ったままで宗近が目を通す。


「……ああ。ここのところ、保存食と栄養補助食品ばかりだったからな。期待していいぞ」


口端だけ微笑んでそう言った笑顔も、あの人にどことなく似ている。


そう思いながら桂花は、宗近の言葉に胸に手を当て、にっこりと笑う。


いつか、分かる時が来る。そんな予感がした。





                 〜つづく〜






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