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つつがむし

作者: 三崎 剛史
掲載日:2016/06/15

 俺には釣りの師匠がいた。

 カイコ老人。そう呼ばれているのを耳にしたことがあるが本名は知らないし、年齢も知らない。だが見た目から老人であることは確かだ。

 つき合いはもうかれこれ二十年近くになるが、その見た目には不思議と、あまり変化はない。それほど長くカイコ老人は老人のままだった。

 彼と出会ったのは俺が小学生の頃だ。

 彼はは多摩川の河川敷のどこかを根城とするホームレスだった。そして、ホームレス仲間からも釣りの達人として一目置かれているらしい。

 カイコ老人はもっぱら鯉を狙って釣っていた。ある時は一メートル近い鯉を釣り上げているのを見たことがある。

 それに対して俺が狙っていたのはブラックバスだ。ジャンルも年齢も違えど、釣りを愛するもの同士、自然と話すようになっていった。

 俺の同級生の釣り仲間たちは、カイコ老人のことを「くさい」だとか「気味悪い」というふうに言って、彼に近づこうとはしなかった。確かに、それは仕方がないことだったと思う。俺はそういう仲間たちとは次第に距離をおいた。なぜなら、俺はカイコ老人が嫌いではなかったからだ。そして、俺はなるべく一人で多摩川に釣りに出かけるようになっていった。カイコ老人が語ってくれるおとぎ話を独り占めしたかったからだ。カイコ老人が教えてくれる、釣りの技や、河の生き物の知識、彼の故郷に伝わる伝承を聞くのが好きだった。

 彼の話に登場する、水辺に潜む人をさらう妖怪の話や、牛を食らう怪魚の目撃談、彼の故郷に伝わる古の釣りの話は、俺の子供心をわくわくさせた。それらはまるで、遠い異国の物語を聞くような驚きと、新鮮さがあった。どこまでが本当で、どこまでが老人の戯言なのかは今となってはわからないが……。


 秋の気配が濃くなりつつあるある日の夕方、突然「面白い釣りを教えてやる」とカイコ老人が言ってきた。

 カイコ老人に案内されてやってきたのは、自分の背の高さ以上の蘆が茂る場所にある、小川の流れこみだった。

 その場所は流れが速く、鯉もブラックバスもいるようには思えない。

 するとカイコ老人はビニール袋から一握り砂のようなものを取り出した。

「見てろ……」そういうと泡立つ奔流の中にその砂のようなものをまき散らせた。

 バシャバシャバシャと水面がさざめく。何かが水面下で暴れ回り小さな魚が跳ねる。その異常な光景に恐れおののき、一歩下がってしまったほどだ。

「何を撒いたの?」

「鳥の餌だよ。粟とか稗とか、そういう雑穀を煮て乾燥させたもんだ。ハヤどもはこいうのが好きなんだ」

「ハヤ?」

「よし。釣ってみるぞ」

 老人が取り出したのは三カ所に継ぎ目のある竹の釣り竿だった。

 素早く仕掛けを施す。竿先から垂れたテグスには木製の浮きが一つその下に毛針が五つつけられ、最後に玉状の小さな浮きがもうひとつつけられている。

 毛針はおそらく手製のものと思われた。毛針とは釣り針に糸や鳥の羽を巻き付け小さな羽虫に似せた疑似餌のことだ。

 老人は竿を片手で素早く振り下ろし、テグスの先についている仕掛けを水面にたたきつけた。

 一秒もしないうちに竿をあげる。竹竿が大きくしなる。水面から魚が引き上げられる、一匹、二匹。三匹もついている。

 魚がついた仕掛けを地面におろすと、三匹は元気にはねまわる。全部十センチちょっとの、色あざやかな小魚達だった。

 俺はそのうちの一匹、緑とピンク色で派手に着飾ったような模様のある魚をつかみ上げた。

「すげー! これなんていう魚」

「オイカワっちゅうやつだ」

「え? でもさっき、ハヤとかなんとか言ってなかった?」

「そいつはまあ、外道だな。オラどものとこだと、チョウセンブナって呼んでたな……。ほれ、やってみ」そう言うと老人は竿を俺に渡してきた。

 俺は水面に向かい竿を振り下ろした。カイコ老人がそうしたように、すぐに仕掛けを引き上げる。しかし、竿を握った右手に手応えはない。何もついていない毛針達が手元に戻ってきた。

 振り返ると、カイコ老人は草むらの中で周囲数メートル四方を踏み固めている。どうやら自分の居場所を確保しようとしているようだ。

 もう一度やってみる。仕掛けが水面をたたく。竿を引き上げる。またもや毛針たちは手ぶらで帰ってきた。

「いいか。水を叩いちゃダメだ。それじゃハヤが逃げちまう。あいつら食い意地がはってる癖、案外臆病なんだ。やべー、水に飛びこんじまった! っていう羽虫を思い浮かべろ。毛針に演技させるんだ」とカイコ老人は演劇の監督のようなことを言った。

 そうだ。釣りっていうのは案外クリエイティブなものなのだ。バスフィッシングだってそうだ。プラスチックでできたルアーをいかに弱った小魚のように演技させられるかがポイントだ。

 水面をじっとみる。そこに羽虫が飛び込んでゆくイメージ。さっと竿を振る。着水のその瞬間まで集中する。わずかに右手の力を抜き、微妙に軌道を修正する。

 見えた。五つの毛針のうち、一つは見事に演技している。

 水中でキラリとなにかが光る。毛針がふわりと着水する。

竿を引き上げようとしたとき、もう一カ所でキラリと光る。ワンテンポ遅らせる。よし今だ。

 竿をひきあげると予想以上に重い。竿を立て、仕掛けを手元に寄せる。二匹釣り上げた。うち一匹は二十センチを超えている。

「よっしゃ!」

「よーし。やっぱりお前は勘がいい。お前、二匹目がくるの見えたのか? 糸をちょっと送ってやったろ?」

「うん。見えた! でも、送るってなに?」

「なんていうか、こう……糸をあちらさんにくれてやることだな」 

「うーん。そうかも…、たしかにそう。くれてやったかも」

「そうか。んじゃその調子でバンバン釣ってくれ」

 カイコ老人はどこからか一斗缶を持ってきて、その上に金網を乗せ、そこで釣った魚を焼きはじめた。さしずめ即席の七輪といったところだ。気づくとカップ酒も用意してある。

 俺はひたすら小魚を釣った。当たりが鈍くなってくると、老人はまたビニール袋から鳥の餌を一握り取り出し、水面に散らした。するとまたも釣れ始める。そうか、あれは撒き餌なのか。

 二十匹目を釣り終えた時だ。「もう充分だろ。お前も食ってみろ」とカイコ老人が声をかけてきた。

「大丈夫なの? 食べても」

「昔は工業廃水が垂れ流されて、この河も〈死の河〉とか呼ばれたそうだけど。今は大丈夫だ。現に、ここに住む魚も鳥もピンピンしとるだろ?」

 俺はおそるおそる一匹をかじってみた。

「おいしい!」

「だろ。これで一杯やるのがたまらん……。ほれ、お前にも用意してある」老人はコーラの缶を差し出してくれた。ホームレスであるこの人が、どうやってこれを買ったのだろう? と不思議に思ったが、これを買えるくらいの、なにかしらの収入源はあるのだろうと、当時、あまり深くは考えなかった。

「ありがとう、じいちゃん!」素直に受け取る。

「じいちゃん? オラはオメーのじいちゃんじゃねーよ」吐き捨てるように言ったつもりだろうが、照れているのがまるわかりだった。今思えば下手な演技だ。毛針に演技させるのは得意なくせして……。

 俺はそれに気づかないふりをして、老人が最初に釣り上げたオイカワを食べてみようとした。

「それはダメだ!」怒声に近い声で老人が言った。俺はビクっと手を引っ込めた「そいつは泥臭くて食えたもんじゃない」

 老人は網の上のオイカワをつまむと、ひょいと河の方へ投げ捨てた。

「こっちのならいい?」

「ああ、それは脂がのってて旨いはずだ」

「おいしい魚と、そうでない魚ってどうやって見分けてるの?」

 そう言って、俺はウグイという魚をかじった。

「そりゃ、知識だ。どの種類の魚がどの時期に一番うまくなるか、それを知ってるのさ。でもな、年中うまいのもいる。オラが好きなのは、アブラハヤってやつだ。オラのとこじゃアブラッパイとか、アブラッパヤって呼んでた」

「アブラッパヤー?」

 訛りなのだろうが、その語感が面白くてつい笑ってしまった。

「そう。川釣りにおいて、外道中の外道とされてる。あいつら何でも食うからな。釣ろうと思えば簡単に釣れてしまう、面白くもなんともない。そんでな、川岸に浮いている狸なんかの死骸をアブラッパヤの群れが啄んでるのを見た。なんちゅう話もあるから、忌み嫌われておるんだが……。オラは存外、やつらが嫌いじゃないんだよ」

 確かに、動物の死骸を食らう魚なんて不気味だ。食べたいとは思わない。

「今釣った中にアブラッパヤはいないの?」

「このへんじゃアブラッパヤはみたことないな。オラのいたところでは、どの川でもよく釣れたども……」

 その時、茂みの中でガサガサ、バサバサバサと大げさな音を立てるモノがいた。驚いて振り返ると、何かが羽音を立てて飛び去った。

「サギだな。ここらは、あいつの狩り場でもあるんだろ」カイコ老人は、よっこらせと言って立ち上がった「さあて、よろっと帰らんばね。おそくなるとツツガムシに食われる」

 ツツガムシ? それに食われる? 当時、その得体の知れないものを妖怪か何かだと思った。ついさっきサギに驚かされた心臓がバクバクと高鳴っている最中にその名前を聞いただけに。よけいにそれが恐ろしいもののように感じられた。それにこのあたりでは、〈人さらい〉が出たという噂もあった。母親には早く帰るように言われていたのを思いだした。

 帰り道は別世界だった。俺はよほど怯えた顔をしていたのだろう。それを察したカイコ老人は蘆の茂みの中で俺の手を引いくれた。背の高い蘆に子供だった俺の視界は阻まれ、上には空が見えるだけだ。夕闇がせまる空はオイカワのまだら模様のように朱色に濁ってゆく。

 知らない世界に迷い込んでしまったような寂しさと、覆い被さるような草たちの圧迫感。しかし、そこから救いだそうとしてくれているカイコ老人の手だけは、ゴツゴツしていて、頼もしく、その手につかまってさえいれば安心できた。

 その後もカイコ老人との交流は続いた。しかし、あの場所へまた行くことはなかった。ツツガムシ。その目に見えない恐ろしい存在が、子供だった俺の心の隅に小さな恐怖を植えつけたのかもしれない。

 あの日の別れ際、土手を駆けあがっていく俺をカイコ老人は呼び止めた。

「ほーれ、餞別だ。持ってけ!」

 カイコ老人が投げてよこしたのは、あの三継ぎの竹竿がくるまれた風呂敷だった。

「センベツってなに?」

「プレゼントだ。じゃあな。帰り道、つつがなく……」

 つつがなく……。その語源を知ったのはずっと後になってからだ。 


 社会人になっても。たまの休みの日に多摩川へ釣りに出かける。あの頃ほどではないが、カイコ老人と会えることがあれば話をする。

 しかし、今日は休みではない。

 陸橋下のテトラポットにカイコ老人の背中を発見した。

 彼は釣り糸を垂らすわけでもなく、ただ水面をじっと見つめていた。

 彼は年中この場所にいるわけではない。探せど探せど河川敷のどこにも見あたらないこともあれば、また、ふらっと現れることもある。そんなふうにして一ヶ月以上姿を見せないこともあった。

 子供の頃は、カイコ老人こそが妖怪で、そうでなければ仙人か何かなのではないか? だから何年たってもその姿が変わることがないのではないかと真剣に考えたほどだ。

 驚かせないように。あえて足音がするようにして、後ろから近づく。

 カイコ老人が振り返る。顔をしかめるように目を細め俺の顔をうかがう。

「ああ。なんだ、お前か。そんな格好してるから誰かわからんかった。今日はどうした背広なんか着て。会社さぼったのか?」

 カイコ老人の老眼は年相応に進行していたらしい。そして、あの頃ほど訛りがなくなったように思う。「わからんかった」などという言い方しなかったはずだ「わがんねがった」と粗野な濁音をがわざわざ多く混じらせたような訛りをしていたはず。

「お元気そうで」

「へっ、そうでもねーよ」

 俺は老人が座るテトラポットの斜め後ろのテトラポットの上でしゃがみ込んだ。

「カイコ老人。あなたは人さらいですか?」単刀直入に聞いてみた。

「へへへ……、なんだ、藪から棒に。それに、懐かしいあだ名で呼んでくれるじゃねーか? え! いつもみたいにジイチャンって呼びゃあいいだろうに」

「失礼を承知でお伺いします。それと、あなたは俺の祖父ちゃんではない」

「……」

 わずかに老人の息が荒くなっているのがわかった。平静を保とうとしている。相変わらず演技の下手な人だ。

「T市男児失踪事件。覚えてますか? 多摩川に釣りに行ってくると言って家を出た、当時十一歳のY.K君。夜になっても帰らず、同日午後十時頃、捜索願いが出されるも発見に至らず。事件、事故両方の線で捜査が進められる。その後も身代金などの要求もないため、身代金目的の誘拐は考えにくく、ある国の諜報員が連れ去ったのではないか? などとも騒がれた……未解決の事件です」

「なんだ、探偵ごっこか?」

「言ってませんでしたっけ? 俺は刑事です。今日は仕事でここに来ました。ごっこ遊びではありません」

「刑事? お前が? そういえば、お前もおっきくなったもんだよなあ。……なあ、煙草持ってないか?」

「俺は吸わない。でもあなたのために買ってきましたよ。これは餞別です」

 安煙草の箱と、百円ライターを重ねて、老人の隣に置いてやった。

「気が利くじゃねーか」

 老人は煙草に火をつけようとして何度も失敗した。あんなに手が震えていては無理もない。

「あの事件は、俺があなたにペンペン釣りを教えてもらった日のちょうど一週間前におきています……」

 老人は細い目を精一杯見開き、振り返った。

「なに? どうしてその名前を? そう、あれはペンペン釣りっていうんだ。誰から聞いた?」

「驚くほどのことはないですよ。今はインターネットを使えば何でも調べられる……」

 老人はやっとのことで煙草に火を着けることに成功した。

「で。なんだ……。その……インターネットっちゅうやつに書いてあったのか? オラが犯人だとでも」荒々しく煙を吹きながら老人は言った。

「そんなに便利なら我々警察はいらないですよ」

「そったら、なんで決めつけっかんば!」

 老人は必死に怒気をこめて凄む。

 しかし、今の俺には恐くもなんともない。むしろその訛りを久しぶりに聞けたことで、懐かしさを感じるほどの余裕さえある。

「あの時頂いた釣り竿、今も大事にとってあります」

「っ……」老人が息を飲んだ。

「あれはY.K君の釣り竿でした。そのことは、先日Y.K君のご両親にも確認しましたので、間違いありません。あれは、Y.K君が夏休みの自由工作で作ったという。この世に一本しかないものだそうですよ……。ご親戚が竹細工の名人だそうで、その叔父さんに習いながら作ったとか……。そう。確かに、子供の工作にしてはよくできている」

 老人は再び水面に視線を落としている。ここからでは表情は見えない。

「お前、オラをつかめーにきだっであんか?」

「どうしましょうね? あなた次第なんですよ。そう決めてきたんです」

「へっ、やなこった。誰が牢屋なんかに入るか……」

「ものは考えようですよ。もう過去の罪に脅えながら過ごすことはなくなるし、ここでこのまま暮らしていたって、明日生き延びれるような保証もない。病気になっても、怪我をしても、病院にもいけないんでしょ? それにあなたほど丈夫な身体だったら、もしかすると社会復帰のチャンスも……」

「釣りがでぎねぐなる!」俺の言葉を遮るように、老人が怒鳴った。

「そうですね。どう考えたってあなたには、ここに戻ってくるチャンスなんてない。かなり前科もあるみたいですしね。空き巣、ひったくり、万引き、自販機荒らし……。あなたは何度かこの河川敷からいなくなっていた期間があった。気になったので調べさせていただきました。留置場にいたんですね。叩けばもっと埃が出そうですよね」

「お前、それでもオラを捕まえんが? そんな殺生なこと、お前にでぎんのな? 第一、そんな釣り竿、証拠になるもんか。オラが拾ったものだって言えばそれまでだろ?」

 その言葉を聞きたくはなかった。自分の中にあったヤワな信仰心がバサバサと音を立てて飛び去っていった気がした。信仰というのは的確ではないかもしれないが、少なくとも俺はこの人の善の心を信じていた。

「殺生だと? ……ふざけるな! 小さな子供の命を奪っておいて、たかが釣りができなくなるだけで、殺生だと?」

「たかがなんていうでねー! たかがなんて!」

 老人の怒りと同調したように、なま暖かい風が吹き抜けた。

「あの時のオイカワには毒が仕込んあったんでしょ? 俺の時と同じように……。Y.K君にも食べさせた。あの時、とっさに俺を助けてしまったのは、あんたの中に後悔の念があったからなんじゃないのか? 俺はそれを信じてみたかった……いや、信じた。なあ? なぜ俺の時は思いとどまった? なあ、教えてくれよ!」

 時が間延びする。風は老人のボサボサな髪をやわらかく揺らすためだけに吹いている。

 かつてこいつには、蘆の影に怯える少年の手を引く優しさがあった。俺はそれを知っている――。

「……そうさなあ……お前は釣りが上手かったからな……、あの子は下手くそだった……」

「な、に……」

 老人の答えは信じがたいものだった。こいつは演技が下手くそだ、だから今の答えが本気のものだとわかる。

「で、どうすんだ? 今の会話だって証拠にはならんだろ?」

 俺は立ち上がり、スーツの内ポケットを探る。

 それを取り出す。老人はまた目を細め、それをよく見ようと身を乗り出す。

「なんだそりゃ?」カイコ老人が聞いた。

 俺の人差し指の先に銀色の輪っかがはめられている。そこには輪っかと同じ大きさほどのおにぎり型をした金属片が連結されている。

「懐かしいでしょ? 古いプルタブですよ。昔、缶のジュースなんかはみんなこれだった。フタを引き剥がすタイプのやつです。当時、俺はね、これを集めていたんですよ。俺だけじゃない、学校のやつらはみんな集めていた。これを集めると車椅子と交換できる、それを老人ホームに寄付しよう。とかいう活動があったんですよ。本当に車椅子と交換できるのか知りませんがね……。単なる噂だったのかも。いつのまにかそんな活動も忘れ去られましたがね」

 老人は、俺が何を言いたいのかまだわかっていない。とどめが必要なようだ……。

「コーラ、ごちそうさまでした、このプルタブは、あなたからいただいたコーラに付いていたものです。ここから、微量ですが青酸性の毒物が検出されました」

 カッ、と老人は、見たことがないほど目を見開いた。

「そんな……、まさか……」

「きっとオイカワに毒を仕込んだ時、その毒が少量、手に付いてしまった。その手でコーラを取り出したとき、プルタブにも付着してしまったんでしょうね。俺はね、あの日の夜、食中毒で病院に運ばれたんですよ。あの時は川魚を食べたからだろうと思い、あなたとのことを親には黙っていました。しかし、今になって考えてみれば、あれは毒物による中毒症状にも似ていた。いやあ、まさかこんなモノをまだとっておいたなんて……自分でも驚きです」

「嘘だ! そんなの嘘だ!」

 そう。嘘だった。作り話。刑事というのも案外クリエイティブな職種だ。これくらいの演技ができなくては……。

 ついでに嘘をもう一つ。

「二、三日中にまたお伺いします。任意同行になるか、逮捕になるか……。どちらにせよ、その時がさよならです。では残り少ない人生、〈つつがなく〉お過ごしくださいませ。オジイチャン……」

 老人は目を見開いたまま無機質に表情を凍りつかせている。やがて、首をポキリと前に折るようにして、項垂れた。

 これは罰だ。

 明日からは、怯えて暮らせばいい。いつか捕まえにやってくる俺の影に怯えながら、自分の犯した罪の重さに苦しめばいいのだ。

 こいつに〈つつがない〉余生など送らせはしない。

 俺は立ち去ろうとした。後ろからは、おえっおえっと、老人の嗚咽が聞こえていた。人間のモノとは思えない、気味の悪い泣き声だった。

 そうだ。忘れていたことがあった。聞きたいことがもう一つあったのだ。俺は振り返る。

「Y.K君はどこですか? どこかに埋めてしまったんですか?」

 老人の嗚咽がぴたりと止む。ゆっくりと持ちあげられた老人の顔がニタリと歪む……。

「食っちまった……」化け物の口がそう言った。それが人間の顔だろうか? これほど醜悪な造形を俺は見たことがない。吐き気を催しそうになる。

「冗談だあよ、ヒッヒッヒッヒヒッヒッヒッヒッヒヒッヒッヒッヒッヒッヒヒッヒッ……」

 冗談なのか本気なのか、こればかりは見極められなかった。

 もし俺が拳銃を携帯していようものなら、迷わず老人に向け、引き金を引いただろう。化け物を退治するためでも、自分の正義感のためでもなく。ただその笑い声を止めるためだけに。


 数日後、身元不明の老人の遺体が多摩川に浮かんでいたという。目立った外傷もなく。事件性はないと判断されるのも時間の問題だ……。

 俺は思った。きっと、その老人はツツガムシに食われたに違いない。

 遺体発見現場の近くの橋の上から川面を見下ろす。

 深い緑色をした水が、ゆっくり、ゆっくりと流れてゆく。

 俺はポケットから取り出したプルタブを投げ捨てた。

 手に入れるのに案外骨がおれたものだが、もう必要ない……。

ひらひらと水面に向かい落ちてゆく。

 着水の音は聞こえず、ただ波紋だけが水面に広がった。

 そして、ひらひら、ひらひらと鈍く輝き。沈んでゆく。

 そこに向かって、一直線に魚影が近づく。

 おそらく、餌だと見間違えたのだろう。

 食べれるものではないと気付くと魚は九十度方向転換し、去っていった。

 そんな調子なら、釣ろうと思えば簡単に釣れるだろう。毛針でも、ルアーでも、プルタブに針を付けたものさえいけるかもしれない。演技させてやればいい。

簡単なことだ。

そうか。今のやつが、アブラッパヤというやつかもしれない……。

 だが、釣りたいとは思わない。

 俺はもう釣りはやめた……。


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