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 8、


 何年前のことになるか。

 思い出したくもない。

 その頃、月山は今とは違うヤクザの組に属していた。日野と、ジンの兄も同じ組に属していた。

 その日の昼。ジンの兄からの切羽詰まった口調の電話を日野が受け取った。同じ内容の電話を、月山も受け取った。

 いわく、『弟を頼む』。

 それ以上の会話を、彼から聞くことはできなかった。

 翌日の夜、月山は当時の組の事務所に呼び出された。

 デスクに座る組頭と、扉を開けて入ってきた月山の間には、床に倒れて動かない人影があった。

 組頭は言った。

「コイツとテメエは仲が良かったな。

 死体はテメエが始末しろ」

 それだけのことだ。

 親友の死体を運んで、始末した。

 それだけのこと。

 善悪をどうこう言うつもりもない。

 ジンの兄が善人だったわけでもない。明らかに違法だが莫大な稼ぎのある仕事を独り占めしようとして、それが組にバレて殺されたのだ。本人からすれば弟のためもあっただろうが、客観的に見れば、多数の人間を食い物にする悪党の仕事の金を独り占めしようとした小悪党が一人、組の中でケジメをつけて始末されただけだ。

 世の中そんなもんか。

 そう思った。

 だが。

 反吐が出る。そう思った。

 親友の死体を運んで処理した後、残ったもう一人の親友である日野の所に行き、無言で酒を飲んだ。

 反吐が出る。

 ディモールト・クソくらえだ。

 結局の所、月山は組織に心服して行動できる人間ではなかったのだろう。法律はひとまず置いておいて、組の認識から言えば明らかな悪は裏切り者のジンの兄の方だったが、しかし、そんなことはどうでもよかった。

 その日から、月山は一層軽薄に笑うようになり、一年もせずに日野と共に組を抜けた。誰も追って来ないように、組を完全に潰した上で。ずいぶん危ない橋を渡ったもんだと思う。

 その後、今さら他の職種に就く気にもなれなかったから、つてを頼って同じヤクザな仕事に就いた。

 だが比較的真っ当な、違法部分のかなり少ない、組員が事務所にプラモデルを飾ったりアニメやゲームの話をしたりして喜んでいるような平和ボケしている組を選んだ。組長も、そんな雰囲気に相応しい間の抜けた男だった。ディモールト・クソな世の中だが、たまにはこんな、ぬるま湯な場所もいいもんだと、そう思った。

 月山も日野も、裏では以前いた組が潰れたのを見殺しにしたロクデナシという評価をされていたが、それは当然だと思ったし、それ以上は望まなかった。

 ただ、ちょっとした誤算は、ジンを近くに置きすぎたことだ。

 前の組にいた頃は事故死扱いの兄の代わりに金を振り込んでやるだけで、たまに顔を合わす程度の縁だったが、今の組に来てから気が緩んてしまったのか、ちょうど学生寮を出た後の部屋を探していたジンを引き取ってしまい、最終的にはそのまま組に転がり込むのを許してしまった。

 まあ、いいか。

 そう思ってはいたのだが。


 今。

 いや、正確には少し時間を遡って。

 助けに来たうららの手を橙花が握るよりも前。

 地震がおさまった、その直後。ジンたち。

 祭壇のある地下空間。

 人工灯の明かりが失われて、薄暗闇になっていた。発光キノコを思わせるような淡い緑色の光だけが、光源もなく周囲をぼやけて映していた。

 ジンは少し意識が途切れていたらしく、自分が今どこにいるのか認識するまでに時間がかかった。

 気がついたのは、倒れていた自分の周囲に何か軽い物が被さってくる違和感があったから。その何かは、うつ伏せに倒れたジンの顔のところにも流れこんできていて、口に入りそうになったので、ぺっぺっと吐き出した。

 なんだ? 紙切れか?

 地震で転倒した時に打った頭の痛みに顔をしかめて、身を起こした。

 あと、腹も痛い。

 いや、悪いもんを食ったとかじゃなくて、物理的に。

 なぜだろう、と、さすろうとしたところで、手が服のポケットに入れっぱなしだったトマト缶に触れた。山に来る前にコンビニっぽい雑貨店で買わされたトマト缶。

 ああ、倒れたときに地面と腹との間に缶を挟んだのか。地味に凄く痛い。

 缶を取り出して、腹立ち紛れに放り投げてから、顔を上げた。

「月山さん、日野さん、無事すか!?」

 そう言いながら周囲を見て、その様子に気づいた。

 周囲はまるで砂漠か砂場のように紙片の堆積に覆われていて、それはジンのいるところで既に数センチもの深さになっていた。先ほど倒れていたときに何かが体に被さってくるのを感じたのは、この紙片の嵩が増してその中に埋もれそうになっていたからのようだ。

 なんだこりゃ。

 そう思いながら、紙片の量が今もさらに増して流れてくるのに気づき、その源流の方向を見た。 

 紙の源は、祭壇。

 祭壇の上、宙に浮かんでいた人型の紙片。

 それは今、巨大な大きさになっていた。

 地震の前に見たときは、手の中に納まる程度の紙だったはずだが。

 今や、見上げるほど巨大になっていて、五メートルはあるように見えた。

 厚みの無い紙の人型。頭部が無く、片方の肩のラインがそのままもう片方の肩につながる人型。

 そして胸には円形の穴。

 奇妙なことだが、この場にどんどん増えて堆積していく菱形の紙片は、その穴から絶え間なく外に流れ出していた。厚みの無い紙に開いた穴のはずなのに、まるでその穴がどこか別の場所につながっているかのように。そこから止めどなく。

 そして、巨大な人型そのものも、見る間にさらに巨大になりつつあった。

「どこまででかくなるんだ?」

 ジンは一週間前に、森の中で遠くに見た巨大な人型を思い出した。形は同一のもののようだ。

 ということは。

 もしかして、この洞窟に納まる大きさどころではなくなるということか?

 勘弁してくれ。

 巨大な人型はもう既に、この空間の天井にその頭部の無い肩をぶつけていた。

 そして、腕の部位を上げて天井をがりがりと削った。

 と、

 削られた天井の一部が、崩れて落ちた。

「うわっ!?」

 危なっ!?

 ズシン、と音がして、テーブルほどもありそうな岩が落ちてきた。下敷きになった紙片が、水しぶきのように盛大に周囲に舞った。

 思わず、心臓の大きくバクバクいった。冗談じゃない。あれの下敷きになっていたら死んでいただろう。

 ここは危険だ。

 逃げないと。

 ジンは、慌てて周囲を見た。

 そのとき、ほとんど真上に近い方向から声がした。

「おィ、ジン、無事か!?」

 日野の声。

 ジンのすぐ真後ろが崖のようになっていて、声はその五メートルほど上からだった。

 どうやら先ほどの地震の際に、祭壇に近いジンのいた側がそれだけ陥没したらしかった。ああ、そういえば落下した感覚があった。

「オレは無事です! 月山さんは?」

 それと、女の子二人は?

 そう思って声の方向を見て、女の子二人は無事に日野の傍にいることに気づいた。

 良かった。

 だが、月山は?

「こっちにはいねェ。そっちにいねェか!?」

 ジンは周囲を見た。

 見あたらなかった。が、一つ、気になった。

 祭壇の上の巨大な人型から溢れ出る紙片は大量で、今や十センチを超える水嵩、というか紙嵩になっていた。だが、それはこの場にただ溜まり続けるのではなく、水流のように方向を持って流れていた。どうやらその先に穴があって、そこに流れ込んでいるのだと分かった。

 嫌な予感がした。

 紙片の濁流をたどって、穴に近づいた。流れに足を取られないようにしながら、呼んだ。

「月山さん!?」

「……よお」

 月山が、そこにいた。

 底の見えない穴に流れ落ちる大量の紙片の滝の合間で、今にも落ちそうになりながら。

 穴の縁の岩につかまって。

「こんな漫画みたいなシチュエーションに俺が遭遇するとは思わなかったぜ。いやあ、長生きはディモールトするもんだなあ。

 ところであれだよな。人一人の体重を支えるのって本当に力が要るよな。フィクションの人間はみんな平気でぶら下がるし引っ張りあげるけどな。実際にやるとディモールトつらい」

「悠長なこと言ってないでくださいよ。つか、そんなところにいたんなら最初に声をかけたときに答えてくださいよ! こんなとこで死にたくないでしょ」

「……」

 なぜか、間があった。

「そうだなあ、死にたくねえなあ」

「?」

「ジン、てめえも死にたくねえだろ。

 なら、俺を見捨ててさっさと逃げろ。若いもんが生き残るべきだ。ヤングは生きて、ロートルは死ぬべきだ。俺は恨まねえ」

「何言ってんすか!」

「こんな、わけ分かんねえことにつきあう義理はねえんだ。ましてや、自分が不幸になるようなことにはな。

 てめえはさっさと帰れ。

 よく分からんことばかりの世の中だ。いろいろ理不尽な目に合うこともあるだろうが、さっさと独り立ちして自由気ままに楽しく生きやがれ」

「……」

 何を言ってんだこの人は。

 ジンは、無言で。

 だが、怒ったように、うんざりした顔で。

 穴の縁まで移動して、月山の手をつかんだ。

「おい」

「……月山さんがオレの兄貴の最期にどう関わったかなんて、今さら知ったことじゃないすよ。

 月山さんには何かができて、それでも兄貴を見捨てたのかもしれない。じゃなければ、本当にどうにもできなくて見捨てたのかもしれない。月山さんはそれを悔やんでるのかもしれない。だから今、見捨てられても当然だと思ってるのかもしれない。

 ですけどね、それこそ、そんなの今のオレにはどうでもいいんすよ。

 今、月山さんを見捨てるほうがオレにはよく分からないです。助ける義理がどうとかそんなんじゃない、嫌なんすよ。

 ……。

 ああ、オレはクビになったんでしったけね。じゃ、好き勝手にさせてもらいますよ。アンタを勝手に助ける。そんだけです」

「……馬鹿な奴だ。阿呆だ」

 月山がそう言うと、ジンが答える前に、背後で別の声が答えた。

「アホはてめェだ、月山」

 日野が、ジンと並んで月山の手をつかんだ。

 紙片の濁流の中で気合いを入れながら、引っ張り上げた。人間一人を濁流に逆らって持ち上げるのはきつい動作だったが、どうにか果たした。

 穴から距離を取りつつ、三人は荒れた息をどうにか整えた。

 涙が出ているのではなく汗だくなだけだという顔をして、月山は言った。

「いいや、阿呆どもはてめえらだ。ディモールトそうだ」

「うるせェ黙れ」と、日野。

「さっさと逃げましょうよ」と、ジン。 

 ジンが見ると、祭壇の巨大な人型はさらにも大きくなり、天井に肩と腕の部分をぶつけ続けては、がりがりと削っていた。まるで外に出たがっているようだ、とジンは思った。

 ジンと日野は有無を言わせず両側から月山と肩を組み、引きずるように、移動した。月山は抵抗しなかった。どこか痛めたらしく、力が入らないらしかった。

「そっちだ」と、日野。

「はい」

 とにかく、出口があるはずの方向へ。

 その方向には数メートルの崖があり、この状態の月山をどうやって引っ張り上げるかを考えなければいけないことは分かっていたが、しかしまずはともかく、そちらへ移動しようとした。

 そのとき。

 崖の上で待っていたくぼやんと葦葉が、こちらの真上を見て、驚いた顔をした。

「あ……!」

 何を見てそんな顔をしているのか、と思う間もなく、巨大な重量を、真上に感じた。

 天井が、崩れた。

 そしてその崩落した岩盤が、真上から迫り来るのを感じた。


 ああ、死ぬのか、とジンは思った。


 岩は、ジンと月山と日野を押しつぶして。

 橙花は真冬から逃げられず、彫刻のような緑色の世界の中で、もう確かな時間を生きることもなく。

 それが、あさぎの見ていた未来。

 あさぎが諦めていた未来。

 だが。

「気に入らない未来なら、そっぽを向いて笑ってやるだけさ」

 けらけらと笑って、うららは言っただろう。


 その瞬間。

 鬼が、現れた。

 鬼。

 非現実的に思えようとも、確かに。


 昔話そのもののような鬼。

 身の丈、少なくとも四メートル。

 赤銅色の肌に、赤紫色の剛毛。黄色く変色した牙に、黄金の瞳。紫色の角と、口から漏れる紫色の吐息。

 鬼は、崖の上で待っていたくぼやんと葦葉の後方、地上への入り口の方角から現れ、その場の何者にも目を向けず、祭壇の上の巨大な紙の人型に真っ直ぐにつかみかかった。

 その途中で。

 偶然に、進行経路にある岩を弾き飛ばした。

 ジンたちの上に、今こそ落ちようとしていた岩を。

 !?

 呆気にとられて、ジンはその光景を見た。

 鬼は、巨大な紙の人型に真っ向からつかみかかった。

「………………!」

 鬼が吠え、その手が、巨大な人型の胸に空いた無限に紙片を吐き出す円形の奇妙な穴の、その奥に、伸ばされた。

 そして。

 その腕の筋肉が隆起し、穴の奥で何かを強く握りつぶしたように見えた瞬間。

 何かが、割れる感覚がした。

「!

 結界が消えた!」

 葦葉の声が聞こえた。

 同時に、鬼のうなり声がした。苦しげな、狂ったような。言葉は人の言葉ではなく。目は血の涙を流し、異界を見つめて。

「………………!」

 次の瞬間、鬼は消えていた。跡形もなく。痕跡もなく。

「なんだったんだ……?」

 呆然としたジンの前では、祭壇の上の巨大な紙の人型だけが残っていた。結界が壊れた瞬間、くたっと一時的に力をなくしたようにたわんでいたが、また体を持ち上げようとしていた。結界は壊れたが、人型の紙そのものを保持している力はそれとはまた別のようだ。

 これは、やっぱり逃げなきゃまずそうだ。

 そう思ったジンに、葦葉が崖の上から声をかけた。

「ねえ、あんたに渡した枝は!?」

「枝がどうしたって?」なんで今そんなことを聞くんだ?

「あの枝には赤い花が咲くの! 赤い色が、必要なの。

 伽耶様を呼ぶのに、必要なのよ!」

 伽耶様?

 ああ、赤い花の地面から姿を現していた、お祭り好きの女性か。

 枝。枝。どこにやったろう? 地震で一度意識を失ったときにはもう、持っていなかった気がする。

 だが。

 うーむ?

「赤ければなんでもいいのか?」

 そういえば。

 さっき投げ捨てたトマト缶はどこにいったっけ?

 と、ジンは思った。



 その頃。山の別の場所。

 地上。橙花とうらら。

 橙花はうららに抱き上げられて、洞窟の入り口から外に運ばれた。

「こうしてあんたを運ぶのも久しぶりだぜ。

 大きくなったなあ」

「うん」

「ま、疲れたろ。ゆっくり休みな」

 うららの肩の上には黒猫が乗っていて、橙花を見て、にゃーと鳴いた。

 少し歩いて、開けた場所に出た。橙花は草の地面の上に下ろされた。

 気がつけば、手足に絡みついていた紙の蛇縄は無くなっていた。あれ? いつの間に? そういえば、重く沈みそうになっていた意識も今はずいぶん楽になった。

 でも、確かに疲れた。

 橙花は深く息をついた。

 その様子を満足げに眺め、うららは晴れた春の午後の景色の中で伸びをした。

 それから。

 後にしてきた洞窟の入り口を振り向いて、言った。

「さて、あたしの勝ちだ。橙花は渡さないぜ。

 おとなしく地下に帰るなら、見逃してやるぜ」

 ?

 誰に向けて話をしているのだろうと、橙花がそう思ったとき。

 洞窟の入り口から、人影が出てきた。

 清潔なコート。

 左右対称の容姿。

 有栖真冬。

 うららを強くにらんで、黙っていた。

 一方、うららは真冬が出てきたのが予想外だったらしく、けらけらと楽しそうに笑って肩をすくめた。

「なんだ、見逃してやりたかったのに、出てきたのか。

 ん?

 おまえ、見た顔だな。ああ、真冬か?

 あたしのこと、覚えてるか? うらら先輩だぜ!」

「……」

「相変わらず愛想の無い奴だな。十何年ぶりに出会った同郷の先輩だぜ。愛想を見せようぜ」

「私は、あなたを忘れたことはなかったです」

 楽しそうなうららとは対照的に、真冬はひどく苦々しそうにうららをにらんでいた。

 うららは、けらけらと笑った。

「覚えられてたのは嬉しいが、そんなににらまれる理由はよく分からんな」

「あなたには、分からないと思います」

「ふーん。

 ま、いいや。

 今は必要な話をするか。

 あんたが彩土の代わりをしてたってことでいいんだよな。

 彩土の代わりに『あいつ』の巫女をやってたってことで」

「……」真冬は返答しなかったが、否定もしなかった。

『あいつ』って誰だろう? と、聞いている橙花は思った。

 うららは真冬から返答が無いのは気にせず、続けた。

「で、『あいつ』はまだおまえの中にいるのか?

 あたしの知ってる『あいつ』は小心者だからなあ。結界が壊れた時点で諦めて、式神の方に意識を乗せて伽耶にやられるまで腹立ちまぎれに暴れてるか、それともさっさと自分のねぐらに帰ったか、とにかく手駒のあんたのことなんか置き捨てて居なくなってそうな気がするぜ。

 ま、だからこそ厄介な奴なんだが」

「ええ」

 いっそ晴れ晴れしたように、真冬はうららをにらんだまま自嘲的に笑った。

「見限られたみたい。声も聞こえなくなってしまった。

 でも」

 コートのポケットの中から左右対称の動きで手を出して、不思議な紙片を地面に落とした。

「まだ力は残っている。

 あなたをつかまえて力を奪えば、きっと戻ってきてくれる」

「なんだか、あたしはよっぽど嫌われてるみたいだぜ」

 地面に落ちた紙片は蛇腹が開くように伸び、蛇のように縄のように、うららに向かって地面を走って。

 だが。

 うららは平然とその場に立ち、四肢に蛇縄が絡みつくに任せていた。

 代わりにうららの肩に乗ったままだった黒猫が、蛇縄を向けて、勝ち誇ったようににゃあと鳴いた。

 すると。

 あっけなく。

 紙の蛇縄は細切れになって元の紙片に戻って散った。

 真冬は驚いた顔をした。

 うららが、けらけらと笑った。

「そう驚くんじゃないぜ。

 あんたは元々、この力をあたしから取り返しに来たんだろ?」

「……ああ、そういうことね。

 あなたが彩土さんから分離させた『神様』の力は、その黒猫の中に隠していたのね」

「正確にはいろいろと違うが、まあ大体はそんなとこだな。

 そう思ってくれればいい」

 それから、うららは橙花に言った。

「橙花、少し待ってな。お母さんに任せていれば、すぐ終わるぜ」

 橙花には二人の会話は分からない内容が多かったが、頷いた。


 そして。


(……。

 地下。泉のある場所。


 彩土みどりはぼんやりと、地上の方角を見た。

 思った。

 うららが来ているのね。

 黒猫も一緒みたいね。


 黒猫が動いていると、彩土みどりの存在は希薄になる。もともと一つだっもの分を、分離した存在だから。

 十五年前の出来事のせいで、今はそうなっている。

 その出来事については、いつか橙花に話すことがあるかもしれないし、無いかも知れない。


 黒猫とうららに意識を譲るように、彩土は目を閉じた。

 預けたものを、うららが大事にしてくれればいいと、そう思った。

 感情もなく、そう思った)。


 そして。


 橙花はしばらく、うららと真冬が争う様子を見ていた。

 ただ、それは一方的だった。

 真冬が紙を使って石筍を作っても、うららが手を触れてその肩の上の黒猫が目を向ければ、それは元の紙片に戻って散った。

 紙の壁も。

 紙で作り出した鰐も鮫も。

 全部同じ。

 うららが触れて黒猫が見つめた時点で、全て無為に帰して、元の紙片に戻って散った。

 うららは、そうして全てを打ち消しながら、真冬に向かって平然と歩いて距離を縮めていった。

 真冬は最後まで、諦めずにその力を使っていた。

 うららをにらんで。

 だが、

 やがて、

 その場に膝をついて顔を伏せた。

 両手を、ゆっくりと、コートのポケットから出した。その手にはもう、紙片は無かった。きっとポケットの中にも、もう無いのだろう。

 うららが、すぐ目の前に立っていた。

「気が済んだか?」

「……」

「ま、結局おまえがなんであたしにそんなに突っかかるのか分からないんだが……。

 あ、そうだ。クマ公にでも聞いてみるか。おまえの許嫁の」

「!

 や、やめて!」

「ん?」

 突然、真冬が顔を上げたので、うららは怪訝そうにその顔を見た。

「あいつが何か関係あるのか?」

「……」

 真冬は目を逸らした。

 うららはその表情を観察していたが、橙花に言った。

「橙花、大隈隆はあんたの担任だったよな。

 電話番号は知ってるか?」

「えっと、うん。知ってる、けど……」

 橙花は、ためらって、真冬を見た。

 真冬は目を逸らしていたが、言った。

「あの人は関係ないわ。

 ただ……。

 私が、嫉妬、してただけ」


 嫉妬、と彼女は言った。

 うらら先輩には理不尽にしか思えないでしょうけれど、と。


 真冬にとって、未来は決められたレールに乗って進むもので、決められたルールに従って進むものだった。

 恋愛も、その先の結婚も、そう。

 子供の頃から許嫁の大隈隆に不満はなかったし、相手も自分を不満に思っていないのだと、そう思っていた。

 だが。

 もう十五年以上も前。学生の時に、ふと。

 その許嫁の大隈が、先輩であるうららのことを憧れの目で見ていることに気づいたのだ。

 それだけ。

 それ以上、何があったわけでもない。

 大隈隆も、ただ憧れの目で見ただけ。うららの側にいたっては、単なる子分としか思っていなかっただろう。

 ただ。

 自分のことを見るのとは違う目で大隈隆がうららを見ているのが、どうにも耐えられなかったのだ。

 私が許嫁なのに。

 私との未来が、決まっているはずなのに。

 ……。

 それは理不尽な考えだと自分でも分かっていたけれど、でも、耐えられなかったのだ。


 そう、真冬が言った。

 言葉が終わると、沈黙があった。


 ……。

 うららが、肩をすくめた。

「橙花、電話を貸してくれ」

「あ、うん」橙花は携帯電話を渡した。

「クマ公の電話番号はこれだな」

 真冬が、びくっと肩をすくませたが、何も言わなかった。気持ちを一度言葉にしたことで、何かが落ち着いたのだろう。観念したように、顔を伏せたままだった。

 その様子を見ながら、うららは携帯を発信した。相手が出るなり、うららは言った。

「よお、クマ公。久しぶりだぜ!

 単刀直入に聞くぜ。ガキの頃、あたしが好きだったか?」

 大隈先生が電話の向こうでなんと答えたかは、橙花には聞こえなかった。ただ、返答を聞いて、うららは愉快そうに笑った。

 それから。

「それはあんたの真冬に直接言ってやんな。

 ほら、代わるぜ」

 真冬に電話を渡した。

 そこで大隈先生が真冬になんと言ったのかは、後で聞いた。

 いわく。

「子供の頃から、俺には君しかいないよ。はにー」

 真冬先生がその言葉をどこまで信じたかはともかく。(おそらく、嫉妬というものはそう簡単には消えないだろう)。

 それでもこの瞬間は、嬉しそうに泣き笑いして、真冬は言葉を返した。


 それで、この件はおしまい。


 山を降りる途中で、くぼやんたちと合流した。くぼやんも、葦葉も、ジンとヤクザさんたちも無事だった。

 それと。

 橙花とは初対面の綺麗な女性が一人いて、なぜか、ジンをもの凄くにらんでいた。ジンは居心地悪そうにしていた。

 うららは彼女と知己であるらしく、親しげに話しかけていた。

「伽耶、そっちも無事らしいな。

 ……?

 おまえ、なんかトマトくさいぜ?」けらけら。

「ほっておいて」

 そう言って、彼女はまたジンをにらんだ。ジンは引きつった苦笑いしていた。

 この後、ジンは成り行きで異人館に滞在することになるのだが、それはまた別のお話。


 そして。夕方になって。

 砂原屋敷。

 うららと一緒に、橙花は帰ってきた。あさぎは玄関口にいた。橙花たちを待っていたらしかった。

 うららが言った。

「よう、橙花を連れて帰ってきたぜ」

 あさぎは、信じられないというように橙花を見て。

 無言で駆け寄ってきて。

 橙花を抱きしめた。

「あさぎお母さん?」

 これまであまりあさぎからそういう直接的な愛情表現をされたことがなかったので、橙花は戸惑った。

 が。

 嬉しかったので、素直に心から笑顔を浮かべて、言った。


「ただいま、あさぎ母さん」


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