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 7、


 子供の頃、父親と母親が死ぬ未来を見た。

 あさぎが今の橙花と同じ年の頃だから、もう二十年も前のことだ。


 あさぎの予見の力はその前からあって、それまでは、ちょっと負担はあるがいざという時には便利な力だと彼女自身は思っていた。

 例えば。

 学校のテストの選択問題。選択肢の中に、必ず正解の答えがある問題。

 あさぎがその時、一つの答えを回答欄に記入しようとしたとしよう。

 記入した答えをじっと見ていると、予見が見えて、その未来を知ることができる。それは、正解かもしれない。不正解かもしれない。

 不正解の未来を予見した時。

 あさぎは記入する答えを変えようとすることもできる。できるのだ。

 ただ、ひどい頭痛がする。目を開けていられないほどの頭痛が。意識が途切れるほどの頭痛が。

 その頭痛に耐え、目を開いて回答欄を書き換えると、今度はその答えを選んだ未来が見える。頭痛に耐えた先の未来。その予見でまた答え合わせ。正解かもしれない。不正解かもしれない。頭痛に耐えたからといって、その答えが正しいものかどうかはまた別だ。

 この頭痛があまりにひどいので、一度予見した未来を変えようとすることは、あさぎはあまりしないようになっていた。学校のテストの例でいえば、進学校でもないどころかそもそも勉学にそう熱心でもない神砂原郷学校のテストで数点を稼ぐために、いちいちそんな頭痛と戦うつもりなんてなかった。


 だが。

 十四歳の時、見たのだ。

 砂原屋敷の居間で、時間に厳格だった両親との毎朝決まった早い時間の朝食の席で。

 両親の顔を見て。

 父親と母親が数日後に死ぬのを予見した。

 思わず、変えようとした。未来は少しのことで変わるはず。死ぬはずの場所に近付かないようにとそう伝えれば、それだけで変わるはず。火花が出るような頭痛に耐え、それを伝えようと、した。

 のに。

 口からその言葉を出そうとした瞬間に、変化した未来が見えた。大事な結果の変わらない未来が。死因と死んだ場所こそ変化したものの、両親の死ぬ未来が。

 半狂乱になって、口から出る言葉を変えようとした。また頭痛。頭痛。未来の変化。だが両親の死ぬ光景。頭痛。未来の変化。だが死ぬ両親の光景。頭痛。頭痛。

 悲鳴を上げて、あさぎは朝食の席から逃げ出した。強制的に予見を呼び起こす両親の姿を見ずにいられる自分の部屋に逃げ出した。何の言葉も言えないままに。両親が心配して追いかけてきたが、入ってこないでと喚き立てることしかできなかった。

 頭を抱えて。

 だが、どうすれば未来を変えられるのかをさらに考えようとした。そうだ、諦めることなどできるものか。大切な両親だ。頭痛がなんだ。

 私が何をすれば未来が変わる? 何を言えば未来が変わる?

 ああ、何をしても未来は変わる。何を言おうとも未来は変わる。だが、肝心な部分が変わらない。頭痛に耐えて予見したどの未来でも、両親は死んでいた。

 テスト問題の四択なら、基本的に四つに一つは正解だ。

 一つが間違いなら次を試して、それが間違えなら次を試して、それが間違えなら次を試して、それが間違いなら最後の一つが正解だ。

 だが。世界の選択肢は無限で。

 そして、どういうわけか、正解にたどり着けない問題が、あるらしかった。

 両親が死ぬ未来を、十通り見て、百通り見て、千通り見て。

 頭痛と惨めさに涙でぐしょぐしょになって。

 それでも変えようと、切り刻まれるような頭痛の中に飛び込んで。

 意識を失った。


 その日、友人二人が見舞いに来てくれたのを覚えている。

 同年代の親友二人。

 笑顔でいることが多かった、当時の親友二人。黒石うららと彩土みどり。

 だが二人とも、笑顔もなく、頭痛と意識の断絶に憔悴したあさぎを見ていた。

 いつもならけらけらと笑う黒石うららは、怒ったように言った。

「言わせてもらうぜ。

 何をしようとしてるんだか知らんが、今すぐやめろ。

 あんた自身がくたばるくらいなら、そんなものは諦めろ」

 いいえ、とあさぎは言った。

 もう一人の友人、異人館のある山に住む彩土は、いつも口元に浮かべているいたずらっぽい笑みもなく、いつもそんな口元より雄弁に感情を語る目に悲しそうな色を込めて、言った。

「休んだ方がいいわ。

 眠って。

 目を閉じて」

 いいえ、とあさぎは言った。

 だが目を閉じた。涙があふれるのを止められなかったから。


 親友二人が見舞いから帰った後も、あさぎは頭痛の中で数百数千の予見を見た。何度も意識を失った。

 そして数日後、そうしてあさぎが意識を失っている間に両親は死んだ。

 結局は、そんなものだ。


 もう両親が死ぬ未来を予見する必要もなくなって、放心して過ごした。

 その後の数日のことは、あまり記憶に残っていない。

 ただ怒ったような顔のうららがやってきて、あさぎの予見の力のことを細かく聞きに来た記憶がある。

「あんたの予見はつまり、演算だな」

 うららは言った。

「ラプラスの悪魔ってやつだ。今起きている事象の全てを計算機にぶち込めば、未来は計算できる。

 世の中のすべては論理的にできているからな。論理を読み解けば、未来も見える。あんたの目は、それを無意識にやっているんだろう。

 だが言っておくぜ。

 あたしは自分が論理を読み解くのは好きだが、自分が論理の中に組み込まれるのは嫌いだ。

 従わないぜ。

 もしあんたがあたしの未来に何を見ても、あたしは知らん。

 あたしはあたしの未来を勝手に歩く。

 気に入らない未来なら、勝手に変えてやるぜ。

 だから。

 あんたもそんなものに縛られるな。

 論理的な未来なんてものは、利用できるなら利用しろ。利用できないなら笑ってそっぽを向け。楽しく生きようぜ。

 ……つっても、あんたには難しいだろうがな」


 それから数年後。

 うららは神砂原郷を出て行き、彩土とは疎遠になった。

 距離の離れてしまった友人と入れ替わるように、異人館の主である伽耶と親しくなった。

 その頃には、変えられない未来かどうかは変えようとする前になんとなく分かるようになっていた。未来を変えようとした時の頭痛の気配とその大きさで、判断がついた。

 あさぎは自分の予見と折り合いをつけるようになった。

 変えられない未来には、目をつぶるようになった。

 口をつぐむようになった。

 予見者として人々から時おり相談を受けるようになっても、変えられない不幸な未来は黙っているようになった。心は痛んでも。

 例えば。

 橙花の友人である窪屋八重子の祖父。娘夫婦を失って孫娘と二人暮らしになって、自分がいつまでその孫娘を見守っていられるのか、心配でたまらないのだと、相談を受けた。

 あさぎは口をつぐんだ。

 彼はひどくショックを受けたようだった。声を荒げてあさぎを問いつめようとしてきたし、胸ぐらをつかまれて凄まれた。知っていて教えようとしないなんて血も涙もない、と罵倒された。

 孫娘が待つ家に帰宅した後も、彼はひどく荒れた。死ぬまで見守ろうと決めていたはずの孫娘にすら、衝動的につらく当たった。あさぎはそれを予見していたし、人づてにも聞いた。

 数週間後、彼は死んだ。

 孫娘の窪屋八重子にはひどく恨まれることになったが、それも予見していたので、あさぎはただ受け入れた。


 今。

 あさぎは頭痛の予兆を感じながら、砂原屋敷の居間にいた。

 だが首を振る。

 もう未来は予見した。

 変えたいとは思っても、変えようとはもう思わない。

 既に見た光景の中で、決められた役割を演じるだけ。

 決められた未来を選択するだけ。

 目を閉じた。

 そうしていると、足音がして、部屋に入ってくる者があった。

 年齢不詳のジョン・ドゥ。聞き慣れぬ名前の、見慣れた男。

 ……また変な名前を選んだものね、とあさぎは思った。名前を変え続けるこの男を屋敷に住まわせるようになったのも、もうかなり前だ。

 ジョン・ドゥはあさぎに気づき、言った。

「ああ、奥様。

 マクガフィン、って言葉をどこかで聞いた覚えがあるんですが、なんでしたっけかね。

 マクガフィン、マクガフィン……映画監督の発言だったかな……?」

「知らないわ。

 マフィンの仲間か何かじゃないの?」

「マフィンか。いいですね、おしゃれな感じで。

 神砂原町まで行って買ってきましょうか。橙花ちゃんも喜ぶでしょう。

 でもマクガフィンはマフィンではなかった気がしましたね。なんでしたっけかね」

「マクガフィンがお菓子でも宝石でも何かの用語でも、なんでもいいわ」

 ただ、

 と、あさぎは言った。

「マフィンを買いに行く必要はないわよ。

 私は食欲が無いし……橙花はもう、ここには帰ってこないから」



 今。

 砂原屋敷から、神砂原郷の盆地を挟んで反対側。

 異人館のある山の、地下。

 気を失っていたらしい橙花が目を開けると、そこは、ひんやりした空気の洞窟の中だった。

 鍾乳洞。

 淡い赤色光で赤く染まった石灰石の地下空間。

 薄明るい赤い光がどこから来ているのかは、よく分からなかった。光源があるというよりも、赤い液体の中にいるような。

「わあ……」

 天井からは、橙花の身長よりも長さがありそうなつらら石や、停止したオーロラのように幾重にも重なった幕状鍾乳石。

 そこから時おり落ちる滴の下には、巨大な石筍。

 すぐ近くには、段々畑のようになった床面を静かなせせらぎとともに水が流れ、赤い光に照らされた地下の泉に流れ込んでいた。泉に動く小さな影は、魚だろうか。

 思わず見とれた。

 それから。

 やっと、自分の肩にずっと置かれていた手に気づいた。

「!」

 慌てて身を離してから、振り向いて、その手の主の姿を見た。

 黒い喪服の女性。

 ただ、服の色が黒であることを除けば、つい少し前に見ていた姿にそっくりでもあった。

 いたずらっぽい笑みを浮かべたままの口元。

 彩土さん。

 本物の方?

「あ、えっと、こんにちは」

「……」

「……あの、えっと?」

 彩土さんは何も言わず。

 じっと、橙花を観察しているようだった。

 少し前まで一緒にいた偽者さんとは違って、その目はヴェールに隠されておらず、そして、感情が感じられなかった。ガラス玉のような。抜け殻のような。

 いたずらっぽい笑みを浮かべた口元もまた、そうしてみると抜け殻のようだった。それは、彼女がかつてよく浮かべていた表情なのかもしれない。人の表情は顔の筋肉に残り、影響を与えるそうだ。よく浮かべた表情は、その後の人生にも長く残る。きっと彼女は、よく笑う女性だった。

 でも今は、その目に感情は無い。

 居心地が悪くなって、目を逸らして、ふと、バッグの中の黒猫が気になった。

 そういえば、初対面の人間がいるのを感じると必ず顔を出してうさんくさそうな目を向ける黒猫が、妙におとなしかった。

 ?

 おとなしいというよりも。

 全く動きがないような。

 バッグのファスナーを開けようと手を伸ばそうとしたところで、いきなり、彩土さんにその手をつかまれた。

「開けないで。

 わたしとその猫は、一緒にはいないことになってるのよ。

 わたしといる間、その猫は動かない」

 ?

 ???

 橙花にはよく分からなかったが、バッグを大事に抱え直し、ひとまず落ち着いて、彩土さんと話してみることにした。

「あの、わたしを助けてくれたんですよね」

「そうね」

 感情のない目。

 観察するような。

 居心地の悪さに耐えられなくなって橙花が思わず一歩後ずさると、彩土さんは少し目を伏せた。

「だめね。

 あなたを見れば何かを感じるかと思ったけれど、それでもわたしは何も感じない」

 ?

 ???

 分からないことばかりだ、と橙花は思った。

「あの、このままわたしを逃がしてくれますか?」

「……」

 返答はなく。

 だが、否定されたわけでもなかったので、橙花は周囲を見て、出口を探した。

 この地下の泉がある空間からの出口は二つ。

 片方は、橙花たちがいる場所にやや近い位置。

 もう片方は、泉に流れ込む浅い川を越えた反対側。

 赤い光はその向こうには無く、暗闇が黒く口を開けていた。

 取りあえず、近い方の出口に行ってみよう。

 そう思って、向かう前に彩土さんにも聞いてみた。

「あっちから地上に出れます?」

「……ええ」これは答えてくれた。

「じゃあ、わたし、帰ります」

「……」

 沈黙を背後に橙花が歩き出そうとした、そのとき。

 声。

「手間をかけさせてくれるわね」

 声がしたのは、今まさに向かおうとした先。

 誰の声かはすぐに分かったので、橙花は立ち止まった。

 姿を現したのは、有栖真冬。

 鍾乳洞を満たす赤い液体のような淡い光は、真冬の来た方角から緑色に変わっていた。彼女が足を進める度に、緑の領域が広がってくる。

 真冬は彩土に言った。

「今更、あなたが邪魔をするとは思わなかった。

 どういうつもり?」

「……」

「その子は、うらら先輩に言うことを聞かせるための人質。

 うらら先輩があなたと『神様』から奪ったものを返してもらうための、ね」

 うらら母さん?

 なんとなく薄々感じてはいたが、真冬は、みいね母さんに用があるのではないようだった。あのヤクザ屋さんたちとはそもそも別。

 用があるのは、うらら母さん。

 だけど。

『神様』?

 それに、うらら母さんが奪ったもの?

 なんだろう?

 橙花がそう思っていると、真冬が橙花を見た。

「でも、ここにあなたが来たのは好都合でもある。

 もともと、あなたをここに閉じこめるつもりだったのだから」

 赤い光はなくなって。

 今や、鍾乳洞は緑色に染まっていた。

 近付いてくる真冬から後ずさると、すぐ後ろに、緑色に染まった地底の泉が広がっていた。

 あとどのくらい後退できるかの距離を測るために泉を見ると、その中に住む小さく細い魚に気づいた。その魚は、不自然に水の中で停止していた。

 泳ぎもせず。

 浮きもせず、沈みもせず。

 時間が止まったように。

 前方に視線を戻すと、真冬が距離を詰めてきていた。

 コートのポケットに入れていた手を、左右対称の動作で外に出して。

 その手から、紙片が落ちた。

 紙片は、緑の水に濡れた地面に落ちて。

 翡翠でできた鱗片のように緑色に染まって。

 そして、まるで蛇腹に重なっていたものが姿を現すかのように長さを増して、増やして、増えて、幾条もの縄のように、蛇のように、それぞれのその長い体の一方の端をもたげ、這って、橙花との距離をさらに詰めた。

 紙の蛇縄。

 橙花を逃がさないように。

 橙花を時間の静止した緑の泉の中に追い落とすように。

 泉に流れ込む水の流れに足を踏み込んで少ししたところで、橙花は急に足に違和感を覚え、足を滑らせ、尻餅をついた。

 手を、緑の水に濡れた床面についた。

 ……?

 足が、うまく動かなかった。まるで麻酔の効き始めのように、感覚がうまく通らなくなっていた。

 続いて違和感を覚えて、水に浸っていた手を慌てて水面から離した。

「この水……?」

「死ぬわけじゃない。

 止まるだけ。

 止まった世界で、止まった時間に居続けてもらうだけ。

 不幸では、ないはずよ。それを感じる時間もないんだから」

 彫刻のような、緑の世界。

 橙花は泉の中を見た。

 水が流れ込んでいるはずなのに、まったく動きの無い孔雀石のような緑色の泉。

 泉の中の、時を止めた小さく細い魚。

 なんとなく、神砂原町のファミリーレストランで閉じ込められていたときに見た光景を思い出した。緑色に染まったガラスの向こうの、太陽さえも停止した緑色の世界。

 全部が停止した世界。

 逃げないと。

 手足が動かなくなり始めている。向かおうとしていた先の方向には、真冬がいて、その足下からは、幾条もの紙の蛇縄。

 今にも絡みつこうと。

 橙花はとっさに、この地下空間のもう一つの出口を見た。流れ込む川を挟んだ反対側に、光も無く黒く口を開けた別の出口。

 間に流れる緑の川に一度深く足を浸すことになるけど、それは仕方ない。

 そう判断して、そちらに走った。

 足につかまれた感触があり、見ると、紙の蛇縄が絡みついていた。緑の川の水の中でそれはさらに水を吸い、重さを増したが、無我夢中で駆けた。一度転んだが、黒猫の入ったバッグをかばい、なんとかすぐに起き上がって、黒く開いた出口へと走り込んだ。

 その間際に背後を見ると、真冬が焦りの無い歩調でこちらに向かってきていた。感情の無い目の彩土さんが、そんな真冬と橙花のことをただ目に映していた。彼女は動かなかった。


 無人の洞窟の中を、橙花は逃げ続けた。

 つかまったら、どうなるのだろう。真冬は橙花を、さっきの緑色の泉の場所に閉じこめるのだと言っていた。泉の中にいた動かない魚のように、ずっとそこにいることになるのだろう。緑の世界でファミリーレストランの窓の外に見た、動かない緑の太陽のように。

 そして、二度と誰にも会えないのだ。ずっと一人でいることになるのだ。

 そう思った。

 誰にも。

 うらら母さんにも、みいね母さんにも、あさぎ母さんにも。

 この神砂原郷に来てからできた友人たちにも。

 会えなくなる。

 ……それは、嫌だ。

 会えなくなるなんて、嫌だ。悲しい。

 そう考えると、急に怖くなって心臓が大きく動いて、せきたてられるように早足で歩いた。

 本当は闇雲にでも走り出したかったが、洞窟の中は暗く、手探りで、焦りながらも早足で歩くしかなかった。

 完全な真っ暗闇にならずに済んでいたのは、皮肉なことだが、手足に絡みついた紙の蛇縄が放つ緑色の不思議の光のせいだ。これが無ければ、本当の真っ暗闇で歩くことすらできなかっただろう。

 だが緑の水を吸った蛇縄は今も橙花の手足を動きにくくさせていて、それは段々とひどくなっていた。引き離そうとは試みたが、できず、諦めて橙花は蛇縄を手足に絡みつかせたまま先へと進んだ。

 途中、ふと気づいてバッグの外ポケットに入れていた携帯を取り出した。だが、圏外で、誰にも連絡をとることはできなかった。

 諦めて、また歩き出した。

 歩いた。

 歩いた。

 四肢に絡みついた紙の蛇縄が放つ緑の淡い光。それは、後から追ってきているであろう有栖真冬にとっては見つけやすいことこの上ないだろう。

 それは橙花にも分かっていたから、焦った。少しでも追いつかれないように、暗闇の中で足を進めた。

 だが。

 手足の不自然な麻痺はさらにも強くなり、

 気づくと、足を滑らせて転んで、地面に倒れていた。

 ……?

 特に痛みもない。

 でも、動けない。

 いつからだろう、それは手足だけではなかった。意識が、動かない。

 ……?

 ……。

 ……。

 …………。

 手足を動かそうとしたが、その意味もよく分からなくなった。これも緑の水の効果なのだろうか? きっとそうなのだろう。

 心の半分で、どうにかしなきゃと思ったけれど、もう半分がまるで石のように動かなくなっていて。

 そして、そのまま。

 ぼんやりと、暗い地面を見ていた。

 ……。

 ……。

 視界が、閉じた。


 ……。


 時間を遡って。

 地上。

 橙花が彩土に連れ去られ、真冬がそれを追って去った後。

 残されたジンは、どうしたものかと考えていた。月山さんと日野さんを探すべきか? そうだな、そうしたい。合流できたら、気分的には落ち着くだろう。

 一方、くぼやんは葦葉に話しかけていた。

「何しとるんぢゃ?」

 葦葉の目の前の地面には、赤い花。

 直径一メートルほどの円内を、埋め尽くしていた。

 それは直前までは無かったもので、植物を操るらしい葦葉がその不思議な力を使って生成したものだった。

 だが、葦葉自身は浮かない顔をしていた。次に、出入りを阻む結界の紙片の近くまで移動した。その途中で、くぼやんの質問にも律儀に答えた。

「伽耶様を呼びたいんだけど……やっぱり結界の中じゃダメみたいね」

「伽耶様?

 あの、祭の時に一番楽しそうに出店を回ったり金魚すくいに熱中したりしてる人ぢゃろか?」

「そう、その人」

 そういう人らしい。

 葦葉は、結界の外に先ほどと同じように赤い花の地面を作った。どうやら、植物を成長させるだけなら結界の外にも力を行使できるようだ。

 すると。

 その赤い地面から、女性の姿が現れた。まずは、赤い帽子をかぶった頭から。次に、薄紅色の服を着た肩。

 ジンは少し前に見たばかりの橙花を地下にさらった女性のことを思い出したが、そちらが土の地面から直に出現したように見えたのに対して、目の前の女性は、まるで赤い花の香気から実体化するように、半透明から実体化して姿を現していた。

 ふわっと、浮かぶようにそのまま全身を地上に現して、軽やかに、地面に足を着けた。

 綺麗な女性だ。

 あ、でも、祭りになると一番騒ぐタイプの人なんだっけ?

 そんなことを考えているジンに、彼女は言った。

「ごきげんよう。

 そちらの殿方は初めまして」

「あ、どうも」

 彼女。異人館の主人。伽耶と名乗った。

 伽耶の軽やかなお辞儀に答えて、ジンも頭を下げた。

 葦葉が聞いた。

「伽耶様、この結界、どうにかできます?」

「……ダメね。

 言霊が邪魔をしてる。

『あいつ』よりも後に名前を得た者は、誰も外からこの結界に手出しはできないでしょう。

 悔しいけど、あいつの方が私より年長なのよね。ものすごい癪だけど、どうにもならないわ」

「『あいつ』って誰だ?」と、ジン。

「全能気取りのお馬鹿さんよ。

 うららに一度完全に鼻をあかされたのに、まだ全能気取りでいるお馬鹿さん。お人形さんを通さないと力も使えないくせに」

 伽耶は、説明するのも嫌だというように肩をすくめた。

 うららって誰だ? と、ジンは内心で首を傾げた。

「けど、迂闊だったわ。

 あいつのお人形さんの動向には気を配っていたつもりだったけど、いつの間にこんな結界を用意したのかしら。……ああ、まだ仲間がいたのかしら。狭量なあいつに従う人形がそんなにいるなんて思ってなかったけれど」

 伽耶は巨大狼を見た。

「ちょっと、テタ。

 この結界を置いた者のにおい、分かるかしら?」

 テタという名らしい巨大狼はその言葉に従い、結界に近づいて、現れた紙の壁のにおいをかいだ。

 次に葦葉を見て、伽耶を見た。

 葦葉が言った。

「男の人のにおいがするって言ってます。

 最近、山で嗅いだことのあるにおいだって」

「男の?」と、ジン。

 月山さんと日野さんだろうか?

「決まりね。あの人形女が私の目を引きつけてるうちに、その男たちが準備をしていたのでしょう。

 葦葉。においをたどればきっと、結界の発生源にたどりつくわ。

 どうにかできるか、試してくれる?」

「はい!」

 葦葉は素直に頷いて答えた。

 それから巨大狼を見て、短い意志疎通の時間の後、その巨大な横腹にしがみついた。

 ジンは慌てて声をかけた。

「あ、ちょっと待て。オレも行く」

 走りだそうとした巨大狼とその横腹にしがみついた葦葉が、怪訝な顔をしてジンを見た。巨大狼と目が合って、ジンはたじろいだ。

 一方、くぼやんも、迷ったが葦葉の横で巨大狼にしがみついた。

「ちょっと。

 ついてこなくていいんだけど?」

 と、葦葉。

「知り合いがいるかもしれないんだ」と、ジン。巨大狼に見つめられているので冷や汗が出てきた。

「残されんのは嫌ぢゃ」と、くぼやん。

「むむむ……」と、葦葉。

「連れて行ってあげたら?」と、伽耶。

 葦葉は溜息をついてから、ジンに言った。

「あっそ。じゃ、あんたもさっさとつかまって」

「え? オレも?」

「そのほうが速いから」

 ジンは、おそるおそる巨大狼に近付いた。

 巨大狼がそれを見ていたが、唐突にシシシシシと空気音で笑った。

「くわえて走ろうか、って言ってる」と、葦葉。

「やめてくれ」と、ジン。

 ジンがつかまると、巨大狼は走り出した。伽耶がそれを見送った。

 続く走行時間は一分未満。でも、スリル満点。

 気分はジェットコースター。くぼやんはずっと目をつむっていた。

 やがてジンたちは、険しい傾斜の陰にある場所に着いた。

 そこは岩肌が露出して、深い洞穴が開いていた。

 穴の横にはあまり見慣れない形の石灯籠があって、この場所が自然のままではなく何かしらの人為の領域であることを示していた。石灯籠の土台の竿の部分は四角柱になっていて、その四面には、すり減っていたが何かゆったりした服装らしい人の姿が彫ってあるようだった。石灯籠に彫ってあるということは、地蔵とか道祖神とか、そういう類かな?

 巨大狼の横腹から離れて、ジンと葦葉とくぼやんはその洞穴の入り口に立った。

「なるほどね」

 と、葦葉。

「彩土は……本物の方のことだけど……このずっと奥に住んでんのよ。

 真冬って女もこの先に行ったみたいね」

「真っ暗だな」と、ジン。

「洞窟だからね。

 洞窟探検にはたいまつ、と言いたいとこだけど、入り口からしばらくなら要所要所に明かりがついてる。電気を引いてあるから」

 葦葉が示した洞窟入り口のすぐ傍を見ると、石灯籠のさらに隣に年代物の電源設備の箱があった。棒を上下に動かすタイプの照明スイッチがあって、そこからはコードが洞窟へと伸びていた。スイッチはオンになっていて、中には明かりがついていることを示していた。

「明かりは洞窟の途中までだけど、彩土がいれば、その先も明かりがあるわ。彩土がいればだけど」

「とりあえず、中に入ってみるか」

 葦葉は頷くと、振り返って巨大狼の頭をなでた。

「じゃあ、ここで待ってて。

 うんうん、ごめんね。馬車とか乗り物はダンジョンの中には入れないのが通例なのよ」

「なんだそりゃ」と、ジン。

「ゲームの話ぢゃろか?」と、くぼやん。

 なんにせよ、洞穴の入り口は狭く、巨大狼が入れないのは確かだった。巨大狼は座り込んで、おとなしく待つ姿勢をとった。

 それから、葦葉は手近な低い木の枝を三本折った。その一本を自分で持ち、残りをくぼやんとジンに一本ずつ渡した。

「なんぢゃこれ」と、くぼやん。

「いいから持っててよ」

 断る理由も無かったので、くぼやんとジンはそれを受け取った。それになんというか、こういう時は手に何か持ってる方が落ち着くものだ。

 入る前に、葦葉は手慣れた様子で片手で携帯電話を使ってメールを打っていた。どうやら、待っている伽耶に洞窟のことを連絡したらしかった。

「洞窟の奥に入っちゃうと電波が入らないのよね」

 三人は洞窟の中に入った。

 最初は、手を左右に広げれば両手がすぐに壁に着くほどの狭い通路だった。

 すぐに道は折れ曲がっていて、その先を見ると、なるほど、少し先にぽつんと明かりがあるのが見えた。足元は暗かったが歩きやすいように整備されていて、思ったよりも苦労せずに先に進むことができた。

 しばらく歩いた。

 やがて少し先に、そこまでの小さな明かりとは違う明るい光が射しているのに気がついた。

 進んでいくと。

 洞穴は、急に広い場所につながっていた。

 そして。

「ん?」

 声。

「お、なんだ、ジン。ディモールト久しぶりだな!

 わざわざ俺たちに会いに来たのか?

 ようこそ、俺たちのアジトへ! 洞窟といえば秘密基地だよな! 巨大ロボットとか蝙蝠型モービルとか格納したいぜ!」


 葦葉に続く形で、ジンはその空間に足を踏み入れた。

 洞窟のその場所は、小さな聖堂のようだった。人が集まって時間を過ごせるように最低限の環境が整えられていて、多人数用のベンチまで並べてあった。

 なんとなく、ジンは施設で育った頃に手伝いに行かされたことのある近所の教会を思い出した。

 壁には一本の電気コードが走り、その先には人工灯の明かり。

 月山と日野は、しばらくここで暮らしていたのだろう。ベンチの上には毛布があったし、携帯コンロと鍋と、食い散らかしたインスタントラーメンの袋が散らばっていた。

「ゴミは持ち帰れ」と、葦葉がつぶやいた。

 ベンチが並ぶ先、教会からの連想で言うなら十字架でもありそうな場所には石でできた大きな自然の祭壇があって、そこにはまず、真冬が使っていたのと同じような菱形の紙片が円形に並べてあった。

 そして不思議なことに、その並べられた紙片の円内では、風も無いのに別の紙片がはりつけにされたように宙に浮いていた。その紙片は周囲に並べられた紙片とは違って人型で、緑色の淡い光を伴っていた。胸部には円形の穴が開き、頭部は無く、肩のラインがそのままもう片方の肩につながった、見てると少し不安になる人型。

 その光景に目を向けながら、ジンは言った。

「月山さん、日野さん、こんなとこで何してんすか」

「おいおい、おまえはクビだと言ったはずだぞ、ジン。

 わざわざ来てもらって悪いが、退職金は他でもらえ」と、月山。

「だな。さっさと帰れ。

 で、何でもいいから真っ当な仕事に着けってンだ」と、日野。

「なんすかその言い草」

 ジンはうんざりした顔をした。

 月山は言った。「いやいや、おじさんたちは若者の将来をディモールト心配してるんだ。若者があくせく働いて、おじさんたちが年金をたくさんもらえる、そんな素敵な未来が来るように心から願ってるんだ」

「おゥ、素敵な未来だ」うなずく日野。

「そういうのは役所にでも言ってくださいよ」と、ジン。

「いや、誰がクビで無職でも知ったこっちゃないし、役所とか年金とか、今はすっごいどうでもいいんだけど」と、葦葉。

 葦葉は、この場所で静かに異彩を放っている祭壇の上の紙片を示した。

「それが結界の源でしょ。どうにかすれば結界が消えるってわけね」

 葦葉が近付こうとすると、月山が前に出て道を塞いだ。

「まあ待て待て。ポコアポコ待て」

「何よ、ポコアポコって」

「音楽用語だ。意味は『ゆっくり』。ポコアポコしていけ!

 ともかく待て。

 嬢ちゃんの立場は知らないが、俺らは俺らで必要があってその結界ってのを守んなきゃいけなくてな。

 お引き取り願おう」

 軽薄に笑った。

「つまりあれだ。

 俺らは中ボスだ。

 ダンジョンの仕掛けのとこにいて解除を邪魔する奴だな」

「なるほど。

 じゃあ、あたしらはいわゆる勇者様ご一行なわけね」

「お、嬢ちゃんもゲーム好きか。ゲーム脳仲間か」

「まあね」

 ふふん、と葦葉が笑った。

 ふふん、と月山が笑った。

 なんで唐突にお互いに認めあってるんだ、とジンは思った。

 そんなジンに、月山は目を移した。

「で、おまえもどういうわけか、俺たちの邪魔をしに来たってわけか?」

「オレは……」

「クビにはしたが、逆らえとは言ってなかったはずだがなあ。

 ともかく、だ」

 月山は、背後にある石の祭壇と不思議な紙片を示した。

「あれが反応してるってことは、橙花ちゃんが来て結界が動いてるってことなんだよな。

 で、我らがビューティー女ボスから俺たちが頼まれてんのは、事が終わるまでその結界ってのをそのままにしておけってことなわけだ。ボスの命令は絶対。うむ。いやあ、しがないヤクザ家業が身にしみるぜ。いつだって、したくもねえことをしなきゃいけねえわけだ。はっはっは。

 というわけで。

 ジン、さっさと帰れ。

 それから嬢ちゃん、リトルレディ、セニョリータ、娘々。あんたもな」

「ま、中ボスが勇者様の言うことを聞いておとなしくダンジョンの仕掛けを解いてくれるなんて、あるわけないわよね。

 でも。

 人数ならこっちが多いのよね。主人公側だし。勇者はいつでも多人数でボスをタコ殴りするもんだし。勇者様万歳!」と、葦葉。

「おィ、近づくんじゃねェ!」と、日野。

 ぎょっとした顔で、月山は振り返った。月山からは見えない位置にいたくぼやんが、祭壇に近づいていた。

「うおっと、待て待て、話せば分かる」

 ジンの知る彼らしくない、慌てた動作で月山がくぼやんの方に向かった。

 くぼやんがそれに気づき、慌てて祭壇の方に走った。

「……これ、どうすりゃええんぢゃろか?」

 くぼやんが先に祭壇に近づき、戸惑いつつも紙片に手を伸ばした瞬間。

 同時に、それを止めようと月山が彼女の肩をつかんだ瞬間。

 宙に磔にされていた人型の紙片が、血を吹き出すように急に増殖した。

「うわっ!? なんぢゃ!?」

 湧き出るように紙が増えて、祭壇の上に落ち、山のように積み重なり、やがて、その人型の紙片の山が一つの形を形成した。薄い紙の人型ではなく立体的な本物の人の形になるのを、くぼやんは驚いて見つめた。

 人の姿は、祭壇の上に倒れていた。

 年は、二十代の青年に見えた。だが、それよりも。

 その顔。

 生気の無い目。

 紙でできた人型だからというのではなく。そもそもの写し元のモデルに生気が無く、だからこの紙の人型も生気が無い、というような。

 それは、生きた人間の模倣ではなく。

 死んだ人間の写し。

「チッ……」

 月山は、苦々しげな顔でくぼやんを祭壇の前から引き離した。その拍子に、くぼやんの手から洞窟の入り口で葦葉から渡されていた木の枝が落ちた。

 月山はそれには注意を払わず、手で、余裕無く祭壇の上の紙の人型を払った。死んだ人間を真似た人型は、抵抗無く崩れ、ばらけて紙片に戻った。

 それから。

 月山はジンを見た。

 ジンは、あっけに取られていた。

 祭壇の上に見えた死んだ人影に、見覚えがあったから。

「兄貴……?」

 と、ジンは言った。


 日野がいつもに増した仏頂面で、ジンから目を逸らしながら言った。

「……見られたくねェもンは、見られちまうもンか。マーフィーの法則ってやつか?」

「懐かしいな、マーフィー。

 ともかくディモールトうんざりだ。臭い物には蓋をしようぜ。そしてゴミ収集に出しておさらばだ。誰も、くせえスリッパにわざわざ顔を突っ込む犬みてえな顔はしたくないだろうに」と、吐き捨てるように月山。

 急に態度を硬化させた二人の様子にジンが言葉に迷っていると、日野が、仏頂面で、だが迷った末に、言った。

「おい、月山。

 てめェが一番の当事者だ。無理強いはしねェ。

 だが言わせてもらうなら、ジンには正直に話せ。

 それが……義理ってもンだろ」

 ぎくりと、月山は日野を見た。

「おいおい、本気かアミーゴ、マイフレンド」

「本気だ」

 素っ気なく、日野は言った。

 ジンが言った。「……どういうことです?」

 月山は、言い渋っていたが、言った。

「……我らがスレンダーな女ボスが言うにはな、この変てこな紙の手品の力の源は、心なんだそうだ。

 結界もそうだ。術者の心が、この紙に形を与えている。あれだぜ、MP。メンタルポイントだ。

 でな。

 この結界は俺の心を利用して作ってる。

 誰でも持ってる、知られたくない記憶や思い出したくない記憶を力にして、だとさ」

「記憶?」

「ある意味、イメージしやすいだろ?

 見られたくねえ記憶があるので、誰も入れたくねえ。

 もし見られたなら、他の誰にも言われたくないから外に出したくねえ。

 結界は、その心の力を使ってるんだとさ。そういう心の拒否反応ってのは、紙の手品にディモールト都合良く力を与えるんだそうだ」

 記憶。

 見た光景。

 脳に焼き付いている光景。

 月山は肩をすくめた。

 日野が補足した。

「ジン。

 月山は、てめェの兄貴の死体を見てる。

 てめェの兄貴は、ニュースに載ったような事故死じゃねェ……いや、それはてめェも納得済みだろうが……どっかの誰かが見えねェところで処理したんじゃねェ。月山が、その場所にいたんだ」

「……ああ、そうだ。

 俺はあいつの死体を見た。

 あいつの死体を片づけた。

 だがおまえに話す必要はねえと思ったから、話さなかった。それだけだ」

 ……。

 ジンは、混乱して月山を見ていた。

 状況のさらに分からないくぼやんは、黙って様子をうかがっていた。まだ自分の腕をつかんだままの月山の手が、何かに耐えるようにきつく握られるのを感じていた。

 ちょっと。

 というか、かなり。

 痛い。

「あ、あの、離してくれんぢゃろか?」

 くぼやんが耐えられなくなって身をよじり、それに気づいて月山がそちらを見て、手をゆるめた時。

 葦葉が言った。

「あんたらの事情は後にしてよ。

 今は、結界を解いてもらう。

 あのね、あんたたちが従ってる女ボスのさらにその上のボスはね、ほっといちゃいけない奴なのよ。力を与えちゃいけない奴なの。

 だから、とにかく邪魔させてもらう」

 しゃべっている葦葉に皆の目が向いていたので、少しの間、祭壇近くの地面で起こっている変化に誰も気づいていなかった。

 変化。成長。

 先ほど、くぼやんが祭壇から引き離された時に落とした木の枝。洞窟の入り口で葦葉が渡した木の枝。

 葦葉の力は、植物を操る力で。

 枝は挿し枝のように急速に成長し、祭壇の上の紙片にその枝先を伸ばした。

 そして。

 宙に磔にされていた人型の紙片に枝先を延ばし、その増殖する根元の最初の一枚、緑の燐光をまとうその一枚を、無遠慮につかんだ。

「やめろ!」

 その動きに気づいた月山が叫んだ瞬間。

「きゃっ!?」

 人型の紙片が爆発的に増殖した。

 まるで熱した油に水を入れて、一瞬で気化して膨張したように。

 流れ出した増殖紙片の波はその周囲に円形に配置された菱形の紙片を一瞬で流し去り、さらに増え、さらに流れ、

 月山はとっさにくぼやんをそこから遠ざけるために突き飛ばし、自分も一拍遅れて逃げ出そうとしたが、飲み込まれ、

 同時に、

 地震が起こった。

 バチン、と音を立てて明かりが消え、ジンは、暗闇の中で自分の足元の地面が失われて体が落下するのを感じた。


 洞窟全体が、大きく揺れた。

 ……。

 ……。


 橙花は、その地震で意識を取り戻した。

 ……?

 何をしていたんだっけ?

 揺れる地面に倒れたまま、ぼんやりと自分の体を見た。

 四肢に絡みついた緑色の蛇。紙の蛇縄。

 ……。

 あ、そうだ。

 逃げないといけないんだった。

 逃げないと。

 お母さんの所に。

 じゃないと、もう会えなくなる。そんな理不尽なことは嫌だ。

 嫌だ。

 ……。

 ……。

 だが、動けなかった。

 絡みついた紙の蛇縄の先の四肢には、まるで感覚がなかった。

 それに、頭が重い。

 意識が重い。

 心が重い。

 重くて、全てが沈んでしまいそう。

 ……。

 ……。

 やがて、地面の揺れがおさまった。

 何もできず、意識がまた沈んでいくのを感じた。

 ……。

 倒れたまま地面に接していた耳が、ぼんやりと音を聞いた。足音。

 誰の足音?

 多分、有栖真冬のだろう。まだ遠いが、こちらに近づいてくる。暗闇の洞窟の中で、距離感がまるでつかめないが、おそらく、長い時間はかからずに見つかってしまうのだろう。絡みついている紙の蛇縄が放つ緑の光が、橙花の場所を彼女に教えてしまうだろう。

 つかまってしまったら、きっと……。

 ……。

 心配させちゃうだろうな。

 お母さんにもう会えないのは嫌だな。

 ……。

 ……。

 …………。


 にゃー。


 ふと。

 黒猫の鳴き声に気づいた。

 それと。

 それ以外の音にも。

 携帯の着信音。

 出所は同じ。橙花のバッグから。

 黒猫の鳴き声は中から。携帯の着信音は、その外ポケットから。

 ……。

 …………。

 鳴り止まなくて。

 それで、ほとんど停止していた意識が少しずつ覚醒した。

 少し考えた。確か、少し前に自分から携帯をかけようとした時は、圏外だった。でも、今は鳴っている。それはどういうことだろう。

 ……もしかして、地上に近い?

 もう少しで、外に出られる?

 ……。

 指が動くか、確かめてみる。

 ……。

 …………。

 動いた。

 動かせる。

 次に、手。それから倒れたままの体をどうにか動かして。

 手探りで、バッグから携帯を取り出して。

 画面に表示された相手の名前を見て。

 涙が出てきた。

 着信して。

 耳を当てた。

 相手の声が聞こえてくるより前に、かすれた声で言った。


「助けて……お母さん……!」

 そして。

 答える声を聞いた。

 けらけらと、笑う声。

「もちろんだぜ!」


 お母さん!

 涙がこぼれた。

 それをまるで見ているかのように、うららが言った。

「おいおい、久しぶりにあたしの声を聞いたからって泣くんじゃないぜ。

 話は後だし、泣くのも後だ。

 もう少し、頑張れ。

 あたしがおまえを助けてやる。でも、もう少しだけ、頑張れ」

「……うん」

 状況を全部知ってるかのようなうららの声に安心して、橙花は頷いた。

 携帯の向こうの声が、いつもの自信たっぷりの声でけらけらと笑った。

「よしよし、それでこそ、あたしの子だ。じゃあ、すぐ後にな!」

 電話が切れた。

 橙花は大きな安堵とともに息をついた。

 お母さんが、きっと助けに来てくれる!

 ……。

 ……。

 ……でも。

 橙花は、足音のことを思い出した。きっと真冬のものに違いない足音。近づいてくる足音。

 ここに来るのは、どちらが早いだろう?

 うららは、きっと助けてくれるだろう。でも、うららは橙花にも『頑張れ』と言った。ただ待っていろというのではなくて。

 蛇縄の緑の光があるだけの暗闇の中で、橙花は状況を確認した。

 まずどうにかしなければならないのは、この手足に絡みつく紙の蛇縄の緑光だ。暗闇の中で、この光は橙花の居場所をきっと真冬に教えてしまうだろう。

 橙花は倒れた姿勢のままで腕を服の中に入れて隠し、足もスカートの中に曲げて隠して、なるべく紙の蛇縄の光が外に出ないようにした。胎児の姿勢みたい、とふと思った。

 すると。

 明かりが隠れて、真の暗闇に近くなったことで。

 視界の一方が、わずかに明るくなっているのが感じられた気がした。

 ?

 ……。

 確かに、少し明るいと思う。

 ……!

 もしかして、外が近い?

 ……。


 なら、少しでも、近づこう。


 橙花は意を決して。

 歩き始めた赤子のように、這って、その方向へと向かった。

 黒猫の入ったバッグは持てなかったから、そのファスナーを開けた。

 黒猫が出てきて、鳴き、先導するようにその方向へと先に走った。


 そして。


(その時、頭痛がした。

 !?

 未来を変える時の苦痛。頭痛。

 でも。

 私は何もしていないのに?

 あさぎは混乱した。だが、確かに、頭痛。

 未来を変えようとした時の、ひどい頭痛。

「どうしました? あさぎ奥様」

 名前の定まらないジョン・ドゥが、あさぎのいる居間に顔を出した。

 その瞬間。

 別の未来が見えた。

 とっさに、ジョン・ドゥに、あさぎは言った。

「お願い、聞いて!

 結界を、壊して。

 あなたなら、結界に拒否されずに中に入れる。

 あなたなら、あの子を閉じこめる結界を壊せる。

 あの混ざり物の神よりも古く、あの混ざり物の神の言霊をも否定できるあなたなら」

 そして、言った。

 彼の名を。

「温羅」

 ……!

 ジョン・ドゥの表情が、こわばった。

「……。

 ……………。

 …………………………。

 その名で、俺を呼ぶのか」

 長い沈黙の後、そう口にした彼の声は、人のものではなかった。

 姿もまた、人のものでは。

 失われる理性に苦しそうに背を丸めてもなお、砂原屋敷の天井に届かんばかりの姿。


 温羅。

 それは、この土地に伝わる鬼の名前。

 名前の無い男に原初の姿を与える、古き名前の一つ)。


 そして。


 這って、這って、

 橙花はどのくらい進んだのか。

 顔を上げる余力も無く、ただ這うことだけに集中して地面を見つめたまま進んだ。

 気づけば、光が周囲にあって。

 安堵させるような、聞きなれた黒猫の鳴き声がした。

 意識を失いそうになりながら、顔を上げた。

 そして、

 母親の顔を見た。母親の笑顔を。

 笑顔を返して。

 橙花が伸ばした手を、彼女がつかんでくれるのを感じた。


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