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 約一週間後。

 五月の休日。


 午前。

 砂原屋敷の縁側で、橙花は座って外を見ていた。

 黒猫と並んで、一緒に目を細めて。

 黒猫は喉を鳴らして尻尾をゆっくりと揺らし、橙花はその尻尾の先に手を伸ばして、揺れに従って手をなでるその感触を感じながら。

 青い空には、のどかで陽気な白い雲。

 暖かな光。

 うん、思わず歌いたくなるような、いいお天気!

 まるで自分が日の光で真っ直ぐに育つ植物になったみたい。

 そんな満足感を堪能しながら、時計を見た。

 くぼやんと遊ぶ約束をしていたので、待ち合わせ場所までの移動の時間を考えて。

 うん、そろそろ出発。

 いつものバッグのファスナーを開けると、黒猫があくびをしながら、のそのそと中に入った。

 バッグを持って、橙花は屋敷の廊下を玄関のほうへ向かった。

 そのとき、ようやく寝室から出てきたあさぎとすれ違った。

「おはようございます、いってきます」

「……」

「? どうかしました?」

「いいえ、なんでもないわ」

 あさぎは首を振って、橙花を見送った。


 門の外では、エドガーが車を用意して橙花を待っていた。

 一週間前にさらわれそうになってから、念のため、橙花は外では長く一人きりでいないようにしていた。例えば、砂原屋敷から学校や他の家々がある山の下の盆地までの間。どうしても人影の少ないところが続くので、エドガーの車に乗せてもらうようにしていた。

 ただ、今日まで何も起きなかったので、今はもうあくまで念のためといったところだが。

「エドガーさん、お願いします」

「やあ。山の下まででいいんだね?」

「はい」

 エドガーが開けてくれたドアから入って後部座席に。

 窓の外の動き出した景色を、橙花は眺めた。

 ちなみに好みの話をすると、本当は車で運んでもらうよりも自分の足で歩くほうが好きだ。

 自分のペースで歩いて、自分の気になったところで足を止める。そんな散策が好きだ。それは、以前の母親二人の影響もあるかも。うらら母さんとはよく一緒に歩いたし、みいね母さんも健脚家だった。

 気ままに立ち止まっては思いついたことを口にするうらら母さんの話を聞くのが好きだったし、橙花の手を握って嬉しそうに始終気遣ってくるみいね母さんと歩くのも、照れくささを覚えつつ楽しかった。

 母さんたち、どうしてるかなあ。

 そういえば、あさぎ母さんとも散歩がしてみたいな。

 窓の外で木々の景色が前から後ろに流れていくのを見ながら、橙花はバッグのファスナーを少し開けた。

 中にいた黒猫がバッグから顔だけを出して、橙花と同じように窓の外を見た。景色に興味はあるがバッグの外に出るつもりはないらしく、そのままでいた。亀みたい?

「そういえば」

 ふと、運転席のエドガーに向けて橙花は聞いてみた。

「結局、エドガーさんの本名って何なんですか?」

「……」

 後部座席の橙花の位置からは、見えているのはバックミラーに映るエドガーの口元だけで。

 笑うでもなく、困るでもなく。

 なんの反応もなく。

 無表情?

 しばらく見ていると、やがて、無表情のまま口元が動いた。

「ジョン・ドゥ」

「ジョンさんですか?」

「という名前を聞いたことがある」

 あ、やっぱり本名じゃないんだ。

「いわゆる身元不明を表す名前だそうだね。

 だが、そのくらいの名前でいいと思うんだ。

 名無しの権兵衛、何野某、ジョン・スミス、アラン・スミシー、ネモ……まあ、なんでもいいんだ。

 いっそガガスバンダスとかズンドコベロンチョみたいな、誰かが作った造語でもいい。

 名前なんてものは記号だ。

 なんでもいいんだと俺は思うね」

 えっと。

 よく分からないけど。

 やっぱり本名は言ってくれないってことかな?

 でも、なんでもいいと言われてもズンドコベロンチョさんと呼ぶのは無いと思う。

 そう思っていると、エドガーが言った。

「君の名前は誰がつけたんだい?

 その名前が違えば、今の君は違う君だったのかな?」

「わたしの名前ですか?」

 そういえば、誰がつけたんだろう。

 うらら母さん?

 ……。

 いや、もしかしたら。

 生みの親?

「分からないです。うらら母さんなら知ってると思うけど。

 でも、名前が変わってもわたしはわたしだと思います」

 姓が変わっても自分がうらら母さんの子供で、みいね母さんの子供で、あさぎ母さんの子供であるように。

 名が変わっても、わたしはわたしだと思う。

「そうか」

「そういえば、エドガーさんの親って、どんな人でした?」

「……」

 ?

 また無反応。

 うーん?

 しかも、さっきと違って今度はしばらく待ってみても何も言う様子がなかった。

 ……?

 橙花は考えてから、言ってみた。

「……ジョン・ドゥさん?」

「なんだい?」

 名前が上書きされたらしかった。

「ジョン・ドゥさんの親って、どんな人でした?」

「さあ、覚えてないねえ」

 ジョン・ドゥは、なんでもない会話のようにそう言った。

 やがて、車は山のふもとまで下りてきた。窓の外は、畑と古い家々の景色。畑では、郷の人間が身をかがめて作業をしているのが見えた。

「あ、この辺りで大丈夫です」

「そうかい?

 じゃあ、帰りは電話をおくれ。

 迎えに行くから」

「はい。じゃあまた帰りに」

 橙花は道に降りて、車が離れていくのを見送った。


 くぼやんとの合流場所は、神砂原郷に唯一のコンビニという名の駄菓子屋っぽい雑貨店。

 車の入れない、畑と家屋との合間の近道を進んで向かった。

 と、

 雑貨店から少し離れた位置の家屋の物陰で、くぼやんを見つけた。

「どうしたの?」

「しーっ。あのヤクザもんがおる」

 くぼやんと並んで、物陰から顔を出して覗いてみた。

 えっと?

 うん。雑貨店の前に置かれたベンチに座って、ガラの悪い新入社員のような濃紺スーツ姿のジンがいた。

 手持ち無沙汰そうに。

 なぜか缶詰を持って、ため息などついて。

「何しとんぢゃろな。まだ橙花を狙っとんぢゃろか……」

 そんなくぼやんの声を聞きながら、さらに周囲の様子を観察。

 ジンだけで、残り二人のヤクザさんはいないようだ。

 ジンもなんだか覇気がないし、橙花を狙ってきたわけじゃ、なさそう?

「どうする?

 関わらんようにしとくか?」と、くぼやん。

「ちょっと話聞いてくる。

 一応、逃げる準備だけしてて」と、橙花。

「大丈夫なん?」

「たぶん」

 悪い人じゃ、ないと思うし。

 むしろ、いい人だと思うから。

 橙花が近づくとジンがそれに気づき、少し腰を浮かせた。だが思い直したらしく、また座り直した。

「えっと、ジンさん、こんにちは」

「……ああ、こんにちは」

 ジンは肩をすくめて挨拶を返してくれた。

 橙花は聞いてみた。

「こんなところで何をしてるんですか?」

「何もしてない」

「そうなんですか?」

「そう。

 やることが無くなって、暇を潰してる。

 君を狙ってもいないよ。

 突然クビになってさ。月山さんたちにも置いてかれてさ。

 ただ、東京に帰る気にもならなくてね。

 で、どうしたもんかとずっと考えてた」

「はあ……」

「食べる?」

 唐突に、手に持っていた缶を差し出された。中身はトマトのようだ。買ってはみたものの、食べる気がしなかったらしい。

「えっと、私はいいです」

 トマト缶はやっぱりパスタかなあ。でも道端で唐突に差し出されてもちょっと困る。

 トマト缶を遠慮した橙花の横で、少し遅れてやってきて会話を聞いていたくぼやんが言った。

「なんか知らんけど、さっさと帰りゃいいぢゃろ。

 帰って真っ当に働かんと、故郷の親が泣いとうで、きっと」

「親、ねえ……」

 ジンは、煮え切らない顔をした。

「食べる?」と、ジン。

「いらん」と、くぼやん。

「ジンさんは、故郷はどこなんですか?」

「東京、になるね。

 親はいないが」

 ジンは肩をすくめた。

「……。

 施設育ちでね。

 兄貴はいたが、他は家族ってのがいなくてさ。

 月山さんたちは兄貴の友人でね。今は、兄貴の縁で同じマンションにいさせてもらってた」

「その兄貴は、どこにおるんぢゃ?」

「もういない。楽しい話じゃないから、これでおしまい」

 おもむろに、またトマト缶を差し出された。

「よし、こうしよう。ジャンケンで勝負しよう。

 君らが買ったら賞品としてこれをあげよう。

 君らが負けたら罰ゲームとしてこれをあげよう」

「えと、賞品も罰ゲームもいらないです」と、橙花。

「そんなに食いとうないならなんで買うたんぢゃ」と、くぼやん。

 ジンは、肩をすくめてコンビニという名の駄菓子屋っぽい雑貨店に目をやった。

「最初は店の中で時間を潰してたんだが、冷やかし扱いされて追い出されたんだ。そのときに買わされた」

「あー、そこの店番の小学生、商魂たくましいけんなあ」

 肩をすくめて、あきらめてジンはトマト缶をポケットにつっこんだ。

 会話が一段落。

 そこで、声がした。

「ねえ、ちょっといいかしら」


 大人の女性の声。

 誰の声?

 振り向くと。

 いつの間にか、道路脇の濃い緑の草の上に、女性が立っていた。

 白い服を着た、白い肌の、帽子も靴も白一色の女性。

 帽子には、白いヴェール。手には白い手袋。丈の長い白いマキシスカートで、その裾で足元は隠れていた。まるで花嫁衣装のようでもあったが、それにしては飾り気が無く、むしろ、白い喪服のように見えた。

 その目はヴェールで隠れてよく見えなかったが、口元には、妙にいたずらっぽく子供っぽい笑みをずっと貼りつけていた。

 綺麗な人だ。

 そう思っていると、橙花が持っているバッグの中で休んでいた黒猫が、もぞもぞと動いた。

 少し開いたファスナーの隙間から、白い喪服の女性をうさんくさそうに見た。橙花は落ち着かせるためにバッグの上から黒猫をなでてから、ファスナーを閉じた。

 不満そうなうなり声がしたが、無視した。

「そこのお二人さん」

 女性が、橙花とジンに笑顔を向けてきた。

「先週、山にいらっしゃってましたよね。わたしはお会いしてませんが」

「? あの山のことか。なんで知ってるんだ?」

「わたしもあの山に住んでいる者なので」

 異人館のある山に、彼女は顔を向けた。もっとも、白いヴェールのせいで確かな視線はよく分からなかった。

 それから、橙花を見た。

「それに、あさぎとは友達だから。

 橙花ちゃんのことも、聞いてるわ」

「そうなんですか?」

「ええ」

 いたずらっぽい笑み。

 楽しそう。

「それでね、先週はゆっくりしてもらう時間も無かったみたいだし、改めて山にご招待できればと思うの。

 どうかしら?」

「えっと……」

 なんだろう。

 なんとなく、橙花は彼女の何かが気になった。初対面のはずだが。

 誰かに似ているとか、そういうこと……かな?

 橙花が迷っていると、いったん、白い喪服の彼女はジンに話を移した。

「それからそちらのお兄さん。

 失礼かもしれませんが、先ほどまでのお話をお聞きしていたのですけど、仕事をなくしたところなのですよね。でしたら、わたしが異人館でお仕事を紹介できるかもしれません」

「あ、いや、オレはべつに仕事先を探してるわけじゃないんだが」

 ジンは顔をしかめた。

 その表情を観察するような様子の後、彼女は言った。

「そうですか。

 あ、でも都会から来た男性お二人も、今は山にいらっしゃっていますよ?

 おそらく、あなたのご友人では?」

「月山さんと日野さんか?」

 ジンは、興味を引かれた様子だった。

「ええ、おそらく」

 白い喪服の彼女はいたずらっぽく笑うと、次にくぼやんを見た。

 気さくな言動。

「橙花ちゃんのお友達、あなたもぜひ。

 今から、どう?」

「ん……。

 あんた、ずいぶん気軽に誘いよるけど、ええん?

 そもそも祭りでもないのに山の人が郷に下りて来よる時点で、珍しゅうて驚いとるんぢゃが」

「ふふふ、特別です。

 今回は先週のお詫びにそちらのお二人を誘いに下りてきたので。

 で、どうかしら?」

 彼女はジンと橙花を見た。

「オレは他に用事も無いし、構わないが」と、ジン。

「まあ、異人館のことは気になっとったしな」と、くぼやん。

「……はい。じゃあ、お言葉に甘えて」

 迷ったが、橙花も一緒に行くことにした。


「そうそう、わたしは彩土といいます。彩りの土と書いて、あやつち」

 そう名乗った白い喪服の彼女を先頭に、異人館のある山へ。

 どういうわけか彼女はずっと、土の道は歩かず、その横の緑の草の上を歩いていた。

 狭い十字路では、土の道をジャンプで飛び越して、その先の緑の草の上に楽しそうに着地した。

 不思議そうに橙花たちがそれを見ていると、彼女は言った。

「決められたルールに則って歩くのって、楽しいと思うんですよね。

 あなたたちも、したことありません?」

「ま、確かに子供の頃はそういう自分ルールの遊びをよくやりましたね。

 道路の白線の上を歩いたり、ずっと同じ石を蹴って歩いたり」と、ジン。

「子供の遊び、ですか。

 ふふふ、じゃあわたしは、年甲斐もなく遊んでるように見えてるのかしら。

 でも、ずっと子供のように気楽に自分ルールに従って遊べたら、楽しいと思いません?」

 いたずらっぽい笑みで、彼女は笑った。

「決められたルールで、決められた未来を歩いて。

 そういうのは、お嫌いかしら?」

 そう言った。

「……あんまり好かん」と、くぼやんが小さくぼそっと言った。


 家々のある郷の盆地を横切って、山すそに到着。

 彩土さんはためらいもなく、歩き慣れた様子で道から外れて傾斜へと入っていった。木々に覆われた山の中で少し開けた、日光が地面まで射して緑の草が生えた自然の傾斜路。

 歩きやすい近道を先導してくれているのだろう、とは思ったが。

 ……。

 何かが、心に引っかかった。

 ずっと緑の草の上を歩き続ける彩土さん。

 ついて来てしまって、よかったんだろうか?

 橙花がそう思いながら最後尾を歩いていると。

「ん? なんか落ちとう?」

 先導する彩土さんの次を歩いていたくぼやんが、通り過ぎた地面を振り返ってそう言った。

 くぼやんと、最後尾を歩く橙花との間。その地面。

 緑の草の合間に、白色の何かが見えた。

 厚みのない、白色の何か。

 一辺二センチ程度の。

 菱形の。

 紙?

 ……。

 視線を動かして周囲を見ると、ほぼ一定間隔の数メートルおきに、同じ紙切れが左右の先にも散らばっているのが見えた。結べば線を描くように、山の等高線をたどって囲むように。

 なんだか、キノコのフェアリーサークルを思い出した。菌糸で増えるキノコは、こんな感じで点線の円を描くように増える場合があるんだとか。もっとも、これはかなり広範囲に散らばっているようだが。

 ……。

 紙。

 白い、紙。

 橙花は立ち止まっていた。紙片で形成された点線を越えるのを、なんとなく、ためらった。

「どうした?」と、ジン。

 ……。

 紙。

 緑の景色の中で真冬が操っていた、紙。

「あの、わたし、やっぱり今日はやめておきます」

「どうしたんぢゃ? 帰るん?」と、くぼやん。

 橙花は、彩土さんと視線を合わせていた。

 白いヴェールの向こうの、見えない瞳。

 口元には、いたずらっぽい笑み。

「ねえ、橙花ちゃん。

 何が気になるの?」

「……彩土さんは、本当にあさぎ母さんと友達で、本当に好意でわたしをここに誘ってくれたんですか?」

「あら、疑うの?

 これでもわたしとあさぎは、本当に古い友人なのよ」

 いたずらっぽい笑みのまま、近づいてきた。

「……」

 橙花は後ずさった。そして、草の地面から外れて木々の下の茶色い土の地面に立った。

 彩土さんは、いたずらっぽい笑みの口元のまま、緑の草の地面の端でそこから進まずに立ち止まった。

 しばらく。

 お互いに距離を測っていた。

 ……。

 ……。

 が。

 唐突に、彩土さんが視線をはずした。

 ?

 橙花は彩土さんに警戒を残しながら、彼女の視線を追って山の傾斜の上方を見た。

 すると。

 人影。


 木々の合間に、見たことのある姿が見えた。一週間前に見たときは赤一色の景色の中で、白い巨大な狼と一緒にいた少女。

 ワンピースを着た、花のような赤毛と赤目の少女。

 清楚なその服装からは浮いた印象の重厚なヘッドフォンをつけていて、そのコードが服の腰のところの大きめなポケットの中まで伸びていた。一週間前に会ったときと同じだと考えると、コードの先には携帯ゲーム機がつながっているのだろう。

 ジンが、身構えて少女の周囲を見た。巨大狼がいるのではと警戒したようだ。いないと判断してから、改めて少女に警戒の目を向けた。

 一方、くぼやんは少女と顔見知りらしく、言った。

「葦葉、久しぶりぢゃな。祭んとき以来ぢゃな」

 葦葉、というのが彼女の名前らしい。少し前に神砂原郷でくぼやんが彩土さんと話していたことも考えると、どうやら、郷と異人館とは完全な没交渉というわけではないようだ。

 だが、花のような赤毛の葦葉は愛想も無く言った。

「あんたたち、何してんのよ。

 止まれなさい。止まれ、なさい」

 なぜか、少し変わった言い回しで二回言われた。彼女は以前に会ったときも橙花にはよく分からないジョークらしきものを言っていたし、これも何かそういう、分かる人だけ分かる類のジョークなのかもしれない。ゲームの台詞とかかな?

「ここはあたしらの山。侵入者お断り。

 彩土も、なんでよそ者をつれてくんのよ」

 そこで、葦葉は顔をしかめた。

「そういえば珍しいね、彩土。あんたがそんな服着てんの。

 いつもは辛気くさい黒服しか着ないのに」

「……」

「……?」

 彩土さんは何も言わず、葦葉はそれを怪訝そうに見た。

「あんた、なんか変?」

「まあ、もういいかしら」

 彩土さんは肩をすくめた。

 それから。 

 山から立ち去ろうとするように、緑の草の上から出て、橙花の横を通り過ぎた。

 茶色の土の地面を歩いて。

 ……奇妙なことに、その足の触れた場所に色の付いた足跡を残しながら。

 蛇紋岩のような緑色の。

 足跡。

 緑色!

 先月に遭遇した不思議な緑一色の景色のことを、橙花は思い出した。思わず、距離を取ろうとした。

 だが。

 この場合、必要だったのは距離ではなくて。

 位置関係。

 自分が橙花よりも山の低い位置に来たのを確認して。

 橙花が自分より山の高い位置になったのを確認して。

 彩土さんは、くるっと橙花に正面を向けて、笑った。

「じゃあ、さようなら。短い時間だったけど、楽しかったわ」

 見えたのは、紙吹雪。

 彩土さんの白い喪服の裾が、はらはらと細かく崩れて散るのが見えた。

 帽子のヴェールが、はらはらと崩れて散るのが見えた。

 いたずらっぽい笑みの口元が、はらはらと崩れて散るのが見えた。

 崩れて、白い紙吹雪になって舞い落ちるのが。

 !?

 橙花たちは、驚いてそれを見ていた。

 彩土さんは、数秒も経たずに全て白い菱形の紙片になって舞い散った。

 葦葉だけは、そこまで驚かずにそれを見守り、それから別の方向を見た。

「ドッペルゲンガーってわけ?

 いや、違うか。とにかくよくできた偽者ってわけね。

 そこのあんたの仕業?」

 橙花がそちらを見ると。

 真冬がいた。


 清潔な白いコート。

 左右対称の髪。

 几帳面すぎるほどに真っ直ぐな姿勢の立ち姿。

「時間をかけて本物を写した紙人形も、消えるときはすぐね。

 役割は果たしてくれたから良かったけど。

 だけど、余計な子たちまでついてきちゃったわね」

 真冬はそう言った。

「くぼやん、こっち!」

 と、橙花は言った。

 橙花は、とにかく逃げてしまおうと、そう思った。

 状況が分からずに戸惑ったままの友人に声をかけて。

 真冬に背を向けて、山の下へ。

 だが。

「あっ……!」

 壁にぶつかりそうになって、慌てて足を止めた。

 紙の壁。

 森の中で突如、目の前にその壁は現れていた。思わず横へ避けようとすると、紙の壁はそちらにも伸びた。

 それは、本来は橙花が踏み越えなかったはずの紙片の点線に沿って作られていた。左右の地面を見ると、今では紙片の周囲の地面がぼんやりと暗緑色に染まっていた。

 後ずさって離れると、紙の壁は崩れて元の一枚の紙に戻った。周囲の地面を緑色に染めていること以外は、ただの紙片に見えた。だが近づくと、一枚のはずの紙片が二枚になり、四枚になり、八、十六、三十二の六十四と、倍の倍のと増えて、瞬く間に目の前を塞いでしまう。

 そして、彩土さん(ただし偽物だったらしい。本物はどんな人なんだろう?)が消えて散らばって残した紙も、同じく緑色の地面を伴う点線を作っていた。そのせいで、点線の中には踏み入らなかったはずの橙花まで、その中に閉じこめられてしまっていた。

「こりゃ、なんぢゃ?」

「逃げられないみたい……」

 どうしたものかと橙花が思っていると。

 ジンが真冬に言った。

「アンタも浅雲橙花を狙ってるのか。

 だけど、なんでだ?

 アンタ、うちの組の関係者ってわけでもないよな」

 ジンが橙花を狙っていたのは、彼の属していたヤクザな組織のため。その組織に平然と武力行使をしてきた橙花の母親の一人、浅雲みいねに対する人質のためで。

 だが。

「ええ、違うわ」

「じゃあ、なんでだ?」

「説明する必要はないわね。

 ただ言っておくけど、あなたの上司二人は私を手伝ってくれているわよ」

「月山さんと日野さんが?」

「だから、あなたも私を邪魔しないでくれると助かるんだけど」

 ジンは、迷っている様子を見せた。

 ジンからすれば、クビにされたとはいえ月山たちの側に気持ちが傾く、ということなのだろう。

 次に、葦葉が苛立たしげに言った。

「あんたらの都合なんかどうでもいいっての。

 ただ、他人様の山で好き勝手しないで欲しいんだけど?」

 真冬をにらんでいた。

「館の伽耶様から聞いてる。

 あんた、神様気取りの『あいつ』の手下でしょ?

 見かけたら嫌がらせしとけってさ」

 神様気取り?

 ともかく。

 気づけば、その背後にのっそりと、巨大な白い狼。

 足音も無く、突然に。

 ただ、錯覚かもしれないが、その足元の地面が数瞬だけ赤く染まっていたように見えた。さっきの偽彩土さんの緑色の足跡のことを、橙花は思い出した。

 葦葉の背後に現れた巨大狼は、シシシシシと空気音で笑った。

 ジンは、さっきまでいなかったはずの巨大狼の姿にぎくりとした。くぼやんは、狼の大きさにあっけに取られて口を開けていた。

 だが、真冬は動じた様子は無かった。

「他人様の山、ね。

 いいえ、異物なのは、あなたたち。

 邪魔なのは、あなたたちよ」

「ふん、偉そうに。

 死んじゃえ」

 突然、巨大狼が飛びかかった。

 真冬はまず、冷静に後ろに下がろうとしたようだった。だが、足が動かなかった。

 見ると、足元に草が絡んでいた。赤い草が。

 しかし。

 どうということもなく真冬は狼に目を向け直すと、ポケットに入れていた両手を左右対称の動作で外に出した。

 その手には、紙片。

 左右対称の動きで手から舞い落ちて。

すると、紙片は橙花たちの脱出を阻む紙の壁がそうであったように、あっという間に増えた。紙片の半分は、石筍のように尖って伸びた。

 自分に向かって伸びてくるその紙の石筍を、巨大狼は事も無げに噛み砕こうと、したが。

 紙でできたそれは噛みごたえもなく崩れると、舞い広がって巨大狼の頭を覆うように張り付いた。視界が覆われた。

 !?

 そして、真冬の手から落ちた紙片のもう半分は目の前に壁を作っていた。

 視界を失った巨大狼はそのまま壁にぶつかった。巨大な体躯は巨大な質量を伴っていたはずだが、紙の壁は崩れることなく受け止めた。巨大狼はパニックになったらしく、うなり、まだ頭に張り付いて視界を覆ったままの紙を前足で引っかきながら、転げ回った。

 花のような赤毛の葦葉は巨大狼に駆け寄ろうとしたが、足を止めた。目の前の地面に、まるで見えている地雷のように、紙片が散らばっていた。

 動くのをためらい、苦々しげに真冬をにらんだ。

 真冬は言った。

「あなたの力は、ちょっと草を伸ばす程度かしら。

 ただの足止めね」

 冷静に、足元に絡みついた草をほどいた。草はいつの間にか緑色に戻っていて、離れた。

「……館の伽耶様たちが黙ってないからね」と葦葉。

「他人を頼るの?

 子供なのね」

 真冬は冷ややかに首を振った。

「悪いけど、誰も助けには来られないわ。

 発動した結界は、誰も後から入ることはできない。

 異人館は結界の外にある。囲った中に入れる者はいない」

 それから、橙花に目を向けた。

「そして、外には逃げられない」


 真冬は橙花に近づいてきた。

 橙花のすぐ傍にいた、くぼやんが言った。

「な、なんなんぢゃ。

 真冬先生、何がしたいんぢゃ」

「どいてちょうだい」

 くぼやんは、いきなり起こったいろいろなことに驚いていて及び腰だった。自分が住んでいるすぐ近くの山にあんな巨大な狼が住んでいたのにも驚いたし、真冬が使う奇妙な紙にも驚いていた。

 だが。

「せ、説明してくれん?」

 どこうとはしなかった。

 橙花と真冬の間に立ったまま、真冬に聞いた。

 真冬は端正な顔を少ししかめて、言った。

「……説明は、難しいわね。

 私は教師だから、子供には説明してあげたいし、納得させてあげたいと思うけれど……」

 真冬は首を振った。

「ダメね。

 子供に納得できないことでも、正しいことはある。従うべきルールはある。大人の世界は、そういうものなのよ。

 分かってちょうだい。

 これは、決まってることなの。

 未来は、定まったとおりにならないといけない。

 未来は、決まっている」

 決まっている。

 彼女はそう言った。


 大人と子供の体格差で力任せに、くぼやんをどかして。

 真冬が橙花に詰め寄ろうとした瞬間。


「……!」

 真冬が驚いた顔をした。


 なんだろう?

 追い詰められるだけで終わってしまいそうでも結界の中で最後まで逃げ回るべきか、それとも今はおとなしく捕まるかを考えていた橙花は真冬の視線を追って、自分の足元を見た。

 と同時に。

 足を、つかまれた。

 !?

 手。

 地面から生えた、手。

 女性の手。黒い薄手袋の。

 そして。

 水中にいた人が水面から顔を出すように、地面から顔を出した、その手の主。

 口元には、いたずらっぽい笑みの。黒髪の。黒目の。

 でもその目には感情のない。

 女性。

 え!?

 一瞬で見えたのは、それだけ。

 次の瞬間。

 がくん、と落下の感触。

 黒い薄手袋の手に引っ張られて。

 地面の上に立っていたはずなのに、落ちた。

 液体の中に落ちるように。

 地面の水面下、というのも変な言葉だが、顔がその下にまで潜ってしまう瞬間、思わず、橙花は息を止め、目を閉じた。

 どぷん、と音がしたような錯覚がして、後は音が消えて、自分が土の中に完全に潜ったのが分かった。


 ジンは、その瞬間を見ていた。

 手。

 女性の手。

 そしてその手が橙花の足をつかむ際に、確認のためだろうか、一度地面の上に見せた顔も。

「なんなんだ?」

 状況が把握できずにそうつぶやいたジンに聞こえる位置で。

「あはっ」

 すかっとしたように、笑う声。

「逃げらちゃったみたいね!

 誰も外からは入れない?

 なるほどね!

 でも。

 最初から地面の下にいた奴には関係なかったみたいね!」

 花のような赤毛の葦葉が笑うのを、真冬は苛立たしげに見た。


 そして身を翻し、橙花を追うために、真冬は去った。


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