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 5、

 

 白く不吉な紙の人型は、膝を折り畳むように崩れた。


 時間を前後して。

 その少し前。 

 ジンと橙花が白い人型を目撃した場所よりも、少し西にずれた場所。

 そもそも最初に車から降りた場所では。

 ヤクザ三人組の残りの二人、月山と日野が、自分たちのレンタカーの陰に座って、緑の空とその下の紙の人型の様子をうかがっていた。

「あのデカブツ、こっちに来なきゃいいんだがな。

 あといい加減、この空もディモールト見飽きたぜ」

「だな」

 二人は橙花が森の中に逃げ込んだ後、彼女を見失った時点ですぐに諦めて、この場所に戻ってきていたのだった。足場も視界も悪い森の中で女の子を走って追いかけるなんてのは、若いジンにやらせればいい。

 そして車を止めた場所で休んでいたところで、白い紙の巨人の出現に驚き、車の陰に隠れ、いざとなったらすぐに車に乗り込んで発車するか、または車を捨てて森の中へ走って逃げようと身構えながら、そこにいたのだった。

 だが、巨大な人型はこちらに向かってくる様子はなさそうで。

 なので、警戒の糸をゆるめた。すると、どうにもこの景色全部が改めて冗談じみて感じられた。

「なンだかなァ。どう思うよ、おィ」

「ディモールト潮時って気がしてきた。この件からっていうんじゃなく、人生設計とか全部オールで」

 月山はポリポリと頭を掻いた。こういう時にタバコとか取り出して火とか点けたらディモールトかっこいい気がするなあ、などと思った。

 だがタバコは持っていなかったので、手持ち無沙汰な気分を持て余していた。

「……。

 なあ、いろいろ馬鹿げてると思わないか?」

「ンだァ?」

「いやいや、いろいろ潮時だって話だ」

 肩をすくめた。

「まあ、俺らは年を食ってるんで今さらめんどい気もするがな。

 だが、若いのを引き連れてこのままってのもディモールトなんだかなあと、そう思ったわけさ」

「追っ払うわけにもいかんだろ」

「いかんだろって思うのも潮時だって話さ。

 いなくなったヤツは、文句は言わねえよ。

 と言うか、文句は聞こえないふりをすりゃあいい」

「……ここまで付き合やァ、もう義理もねェか」

「付き合い続けるだけが義理じゃないってことさ」

 あんまり手持ち無沙汰なので、タバコを吸うふりだけしてみることにした。口元にタバコを持っているふりをして、ふかすマネをしてみる。

 ぷかー。

 うん、ディモールトいい感じだ。

 空想のタバコを足元に落とし、踏み消す。

「さて、ジンはどうしてるかね」

 思い出して、携帯電話を取り出した。月山も日野も現代人だし、ジンももちろん現代人だ。携帯ぐらいは普通に持っている。

 こちらからかけようか、それともジンからの連絡を待つかと考えていると、日野が言った。

「おい」

「ん、ジンが戻ってきたか?」

「いや、あのデカブツを見ろ」

 日野が促した先を月山が見ると。

 白い紙人形は膝を折り畳むように足元から崩れ落ちて、消えた。

 

 さらに、前の時間。

 さらに、時間を前後して。

 赤い空と拮抗する、西の緑の空の下。

 時の流れの感じられない、彫刻のような緑の森。その中の、少しだが開けた場所。

 有栖真冬は無機質に、無表情に、人形のようにそこに立っていた。

 けれど、自分を支える糸に不安な目を向ける人形のように。

 そっと、緑の木の幹に手を触れた。

 どこまでも停止した、彫刻のような緑の木の幹。

 しかし。

 真冬が手を触れた箇所だけが、わずかに時間の流れを取り戻し、いつか変化して終わりを迎える生命としての性質を取り戻したような気がした。

 なぜだろう。

 分からない。

 神砂原町で橙花に逃げられたときに、はじめて、真冬はそのことに気付いた。全てが停止するはずのこの景色の中で、なぜか、真冬自身が触れたものだけが、その束縛から外れてしまう。

 なぜ?

 そんなことは、この世界の望みではなく。

 全ては。

 あるべき場所に固定され安定され決定されねばならず。

 それは動かされてはならない。

 不安定であってはならない。

 未決定であってはならない。

 ……。

 ……。

「あらあら。嫌な空だと思ったら、なるほど、嫌な空にぴったりのお客さんだわ。

 こういうときはなんて言うのだったかしら?

 ぶぶ漬けを召し上がれ?

 うーん。イマイチ風情が無いかしらね。わたしの流儀じゃない気がするわ」

 !

 森の中から聞こえてきた、鈴の鳴るような女性の声に、真冬はそちらを振り向いた。

 その女性は薄紅色の衣服を身にまとい、赤い帽子をかぶって、赤い地面に主然として立っていた。

 一見柔和そうな、外見はまだ二十歳に満たないと思われる女性。だが赤い森を背景に、年齢を見通せない笑みを浮かべ、赤い瞳をしていて……

 ……赤い背景?

 赤い地面?

 真冬は眉をしかめ、改めて彼女を見た。

 赤い空と赤い景色は、ここにはまだ入ってきていない。ここは彫刻のような緑の森。木の幹は硬玉のように堅牢な緑で、地面もまた緑だ。

 目の前の少女は、帽子こそ赤く、瞳も赤かったけれど、服は薄紅ではなく白だったし、彼女の立つ地面は緑であり、背景もまた緑だ。

 それなのに、一瞬だが周囲が赤く見えたのは……。

 知識が理由にたどり着き、真冬は警戒心を保ったまま、だが表向きは礼儀正しく、言った。

「あなたの領域に踏み込んだことは謝りましょう。でも、必要なことなのです。

 ですから、手を出さないでください」

「あら。

 なるほど、私に手を出されたくないというわけね」

 まるで王侯貴族のように、見下し小馬鹿にする笑みで。

 にやりと。

 人のものではない赤い牙を見せて。

「いえいえ」赤い少女は言った。「全てはあるがごとくにあり、輝くごとくに輝くもの。それを司るあなた様に、たかだか数百余年を一館の番人として生きてきた程度の私がどうして抗えましょうか。

 すべてはあなた様の手の上。あなた様はずっと、そう言い張ろうとしてきたではありませんか。

 だから。

 ここで私が手を出してあなたの邪魔をするのも、あなたの手の上のこと。

 あなたはそう言い張るべきじゃないかしら?」

「邪魔を……」邪魔をするのかと、真冬は言おうとした。

 が。

 赤い少女は、小馬鹿にしたようなへりくだった顔から一瞬にして傲岸不遜な顔へと表情を変え、真冬の言葉をぴしゃりと払いのけ、言った。

「『あなた』の言葉なんて聞く気はないわ、人間風情」

 それから、にやりと笑って。

「あら。この場合は、人形風情、と言っておくべきだったかしら。

 お人形さん。あなたとおしゃべりするほど私は暇ではないの。ついでに言うと、人形もうまく操れない裏方に気を遣ういわれも全く無いわ」

 緑の森と緑の空。そしてそれを背景にして立つ白い巨大な紙の人形に、彼女は冷たい目をくれた。

「私は邪魔なものを邪魔だと感じ、なぎ払うまで。あなたがそれをされたくないと言うのなら、力を見せてそうすればいいのだわ」

 唐突に。

 彼女の語気に呼応するように。

 再び真冬の目には彼女の服が薄紅に見え、彼女を中心とした地面が赤く染まった。

 元より赤かった瞳と牙がさらに赤く彩られ、右手が血に染まったように赤く染まっていた。爪が、硬く鋭く、赤く、伸びていた。

 力に満ちた赤。

 生命の赤の色彩。

 くるりと優雅に踵を返すと、少女は赤い足跡を残しながら、緑の森の中へと分け入っていった。

 白い紙人形のそびえ立つ方向へ。

 

 しばらくして。 

 

 白い紙人形は足元から崩れ落ちて、消えた。


 同時に、背景である緑の空が、急速に西の地平へと領域を狭めて。

 その分だけ赤い空が、どこまでも伸び続けるように広がって。

 赤方偏移して緑の空を飲み込んで。

 やがて景色を完全に赤色が飲み込んで。

 それから。

 今度は赤い空が、気が済んだように異人館のある北の方角に潔く下がっていった。

 赤い世界が潮の引くように元の世界にその場を譲り。

 全天に、日没からそう間もない夜の空が現れた。

 

 緑の風景も赤い風景も消えて、明かり一つもない夜の森の中に、真冬は一人で立っていた。

 

 緑の風景も赤い風景も消えて、橙花とジンはあっけにとられ、やや気の抜けた気分で、夜の木立の間からアスファルトの道路に出た。

 周囲を見回す。

 既に夜なので、やたらめったら広い間隔にぽつんぽつんと設置されている道路灯の他には、ほとんど明かりが無かった。

「どうしましょうか」

「ん? うーむ」

 しばらく行動に迷っていると。

 車のライトが近づいてくるのが見えた。

 ジンと橙花は、とりあえず、そのライトが近づくのをそのまま待った。月山たちだろうか?

 橙花は、先ほどまでの緊張が抜けてぼんやりとした気分だった。

 正直な話、近づいてくる車のライトを前に警戒心を保ち続ける気力もややなくなっていた。車がもし月山たちのものならどこかの時点で逃げなければいけないが、でも今は、ちょっと疲れた。人里に出るまでは、大人しく車に乗せてもらうほうが懸命かもしれない。そう思った。

 一方のジンは、単純に、あのライトが月山たちの車のものだったら楽でいいなと思っていた。見も知らぬ他人の車だったらどうするべきか。どうにか頼んで乗せてもらって、その後うまく橙花を確保したままの状態でどこかで月山たちと合流できるだろうか。

 車はなおも近づいてきて。

 橙花とジンが見ていると、だんだんとスピードを落とし始めた。最初からそんなに速くもなかったスピードが、さらにもゆっくりとしたスピードになって、やがて、橙花たちの前でぴたりと止まった。

 声。

「やあ、迎えに来たよ」

 橙花には聞き慣れた声で、ジンは初めて聞く声だった。

 そして。

 ドアを開けて出てきた顔は、橙花には見慣れた顔で、ジンは初めて見る顔だった。

「あ! ……えっと」 

 橙花は安心して、その姿に駆け寄った。

 名前がすぐには思い出せなかったのはご愛嬌。えっと、なんだっけ。

 そうそう。

「一文字さん、じゃなくて、エドガーさん!

 どうしてここに?」

「ん? あさぎ奥様に言いつけられてね」

 そう言って、エドガーは車内の後部座席を示した。

 後部座席には、あさぎが座っていた。頬杖をついて、あさっての方向の窓の外を眺めて。

 何度も見た一幕喜劇を前にしているような、目の前の出来事にはさして注意を払うつもりがないというような態度。

 ただ、ちらりと橙花を見たその目が、冷たくはなく優しいものであることを、橙花はちゃんと分かっていた。だから嘘偽りなく、笑顔を橙花は彼女に向けた。

 それからふと思い出して、橙花はジンのほうを見た。

「あ、えっと……」

「……」

 ジンは、肩をすくめた。

 なんというか、多勢に無勢で、ここにいる人間の中で自分だけ余所者なわけで。本当は橙花がエドガーに駆け寄る前に制止して確保しなくてはいけなかったのだろうが、機会を逸してしまっていたし。

 橙花をさらっていくのは、どうも難しそうだ。

 そんなジンの思考にまったく思いが及んでいないらしく、橙花は言った。

「えっと、神砂原郷まで、車に乗っていきます?」

 自分に迎えの車が来たので、ジンを置いていってよいものかと思っているらしい。

 ……。

 どうにか機会を見て、橙花をもう一度さらってから月山たちと合流することはできるだろうか?

 ジンは、エドガーを見た。どこか、不可解なものを感じさせる男だった。エドガーという名前であるからには外人だろうか? 日系人? 黒髪で、手足こそ蜘蛛を思わせるように長いが一応日本人的な外見の範疇であるように見えた。たぶん日本人なのだろうと思う。けれど全く日本人の血の入っていない黒髪の外人だと言われても、そうかもと思えるような範囲でもあった。年齢も、いまいち外見からははっきりしない。

 そしてその目。

 ……。

 ジンは、車の後部座席の砂原あさぎを見た。

 あさぎはジンと目が合ってもニコリともせず。

 むしろ。

 何か、鈍い頭痛をこらえるような、そんな顔をした。

 ジンは、内心で肩をすくめてため息をついた。

 どうにも自分は余所者で、彼らの警戒心を解いて橙花をうまくさらうなんて、できそうもない。

「いや……月山さんたちとどうにか合流するよ」

 ジンはそう言った。

 橙花も無理強いはせず、エドガーの開けたドアから車に入り、あさぎの隣の後部座席に座った。どういうわけか最後まで、あさぎの目が、ジンをじっとにらんでいた。

 警戒されてるのか?

 ジンは肩をすくめ、発車を見送った。

 

 鈍い、

 鈍い、頭痛をこらえるような。

 そんな顔をしながら。

 あさぎは車の外に立つ青年から視線を逸らした。

 近い、

 近い日に死ぬ人を見るのは、いつも嫌な気分だ。

 予見者あさぎは、そう思った。

 

「おい」

 日野に声をかけられて。

「ん、ジンが戻ってきたのか?」

 そろそろこちらからジンに連絡してみるかと携帯を操作しようとしていた手を止めて、月山はそちらを見た。

 森の中から出てきたのは。

 彫刻のような、均整は取れているがどこか無機質な、そんな女性。

 今は過ぎ去った、緑の世界の主。

 有栖真冬。

 真冬は月山と日野を見ると、少し考えた後、真っ直ぐ月山たちのほうに向かってきた。

 月山が言った。

「誰だ? 何か用か?」

 真冬はすぐ目の前まで来ると、じっと、表情の薄い顔で月山たちを見た。

 まるで、他の誰かと二言三言言葉を交わしているかのような短い時間の後。

 真冬が言った。

「あなたたちもあの子を……あの母親の娘の橙花をさらおうとしてるのよね」

「……お?」

 月山はどう答えるべきか迷ったが、いつものノリでおどけてみることにした。

「いやいや、さらおうとしてるだなんてディモールト人聞きが悪い。そういうことはぜひ声を潜めて言って欲しいぜ。耳元で囁いて言ってくれるとベター。それこそ耳の穴に息を吹きかけるぐらいの近さでな。

 ま、こんな誰もいねえ森の中じゃ、声を潜める意味なんざ無さそうだが。

 で、そんなことを聞いてくるあんたは何者だよ」

「私もあの子をさらおうとしてるのよ。

 それで、あなたたちにも手伝ってもらうわ」

「へえ。そりゃまた強引な」

「お互い損は無いと思うけど?

 それに。

 私には、あなたたちにはできないことができるわ」

 真冬がそう言い切った瞬間、唐突に、違和感が月山を襲った。なんだ?

 気づくと真冬の足元を中心に、約一メートルほどの範囲で、灰色のはずのアスファルトが緑灰色に染まっていた。さっきまでの緑色の空を、月山は思い出した。

 真冬がポケットに入れていた両手を左右対称の動きで外に出すと、握っていた紙片を左右対称にばら撒いた。紙片は地面に落ちた後、不可思議な動きで一所にまとまると、急速に嵩を増し、人の形を形作った。少女の形。表情と色こそ無かったものの、その姿は橙花にそっくりだった。

 月山と日野があっけにとられて見ていると、すぐにその紙でできた人型は元の紙に戻って地面に落ち、地面の緑色も消えていた。

「こりゃまた……すげえ手品だな」

「今はこれで終わり。でも、もっと大きなこともできる。さっきまでの緑の世界と、私の大きな式神を見たはず。

 私と組んだほうが得よ。

 もし私に従わないのなら、邪魔な要素として排除するわ。でもそれはこちらも望んではいない。どうかしら」

「なぜ望まないのかを聞きたいね。俺なら、真面目にやるときはなるべく邪魔を排除する。まあ、真面目にやることなんざ、ほとんどなくなっちまったが。賭け麻雀をやるときぐらいかね?

 それにもう一つ。アナザークエスチョン。

 そんなよく分からん妙な力を持ってるんなら、むしろ俺らが必要ねえだろ。あんた一人でやりゃあいい。

 俺らに何を手伝わせようってんだ?」

 わずらわしそうに、真冬は顔をしかめた。

「手伝ってもらうのは、当然、私一人では打破しにくい状態があるからになるわ。

 手を組めそうなあなたたちとは違って、確実に邪魔になる人たちがこの山にはいるのよ。彼らも、普通の人には無い力を持ってる。だから、私の能力だけでは有利になれない。

 だから、あなたたちに手伝ってもらう。

 何をしてもらいたいのかは後で説明させてもらうけど、内容はあくまで私のサポートになるわ。

 私のサポートをするだけで目的が達成できるのだから、あなたたちには良い取引だとおもうけれど?」

「ふむ」

 真冬側の思惑を考えてみると。

 月山と日野を排除することを望まないのは、この山にいるという対抗馬の連中に対して少しでも有利になるための手駒を得ようという判断でもあるのか。まあ、理解できんこともないか。

「日野、なんか意見あるか?」

「ねェ。任せる」

「相変わらずお前はなんの参考意見もくれねえな」

「あぁ、待て。一つあった」

「なんだ?」

 日野は、真面目な顔で言った。

「親玉が女で子分がおっさん二人ってのは、どこぞのアニメの悪人三人組みてェで悪くねェと思う」

「ふむ」

 月山は真面目な顔で考える時間を取った。

「確かに悪くねえ。ディモールト参考になった。よし、採用」真冬のほうを向いた。「というわけで決まりだ。あんたに従う」

「最後の決定理由がよく理解できなかったのだけど」

「気にするな。男の感性ってやつだ」

 そこで、月山の携帯が鳴った。月山は、手に持ったままだった携帯の表示を見た。

「おっと。

 ジンだな」

「?」真冬が尋ねる視線を送ってきた。

「今日まで三人組でやってきた、若造だよ。だがまあ……」

 そう言いながら、携帯を着信した。

 そして。

 相手の言葉を無視して、先に言った。

「よお、ジン。

 お前、クビ」

はぁ? という言葉が返ってくるのを耳にして、月山は愉快そうに笑った。


 夜の森の中。

 白い紙の巨人が立っていた場所。

 ほんのりと朱色を思わせる白い衣服を着た女性が、優雅に、一人で立っていた。

 ほどなく、森の中から巨大な白い狼と、その横腹につかまって女の子が現れた。白い狼は頭を垂れ、女の子が言った。

「この子、お腹が空いたって。

 白いのがせっかく大きくて食いでがありそうだったのに、消えちゃったって」

 がっかり狼。

「食べてもおなかは膨れないわよ。どうせ、厚みの無い紙だもの。

 ところで他にも誰か紛れこんでいたみたいだけど、あなたは会ったかしら」

「ああ、会いました。

 銃持ってました! 拳銃!」

 女の子の声に会わせて、シシシシシ、と狼が空気音を立てて笑った。

「そう」

 女性は白い狼の口元を見た。血で汚れいる様子は無かったし、その人間はこの狼から逃げ延びたのだろう。

 それから、白い狼と女の子の身体を眺めた。相手は銃を持っていたと言うけれど、それでこの狼と女の子が怪我をしたりとかはしていないようだ。

「まあ、私が会った相手よりは楽しい相手だったでしょうね。私もそっちと出会えれば良かったわ。楽しい一時の会話ができる相手だったかも知れないし。

 さあ、帰るわよ」

 彼らの住居は異人館。

 赤い館。


 橙花たち。帰宅途中の車。

 エドガーさんが運転していて、後部座席に橙花とあさぎ。

 橙花は眠気を感じながらぼんやりしていた。あさぎは窓の外の夜の森を見ていたが、橙花の膝に軽く手を置いて揺すりながら言った。

「起きなさい。お友達よ」

「?」

 車のスピードが落ち始めた。前を見ると、もう家に着くところだったが、家の前に車が一台止まっていた。

 ずんぐりむっくりした灰茶色の車の横には、大隈先生の姿が見えた。近づくと、車のドアが開いて、くぼやんと深美が出てきた。

 こちらの車が停止すると、くぼやんと深美が駆け寄ってきた。くぼやんはバッグを持っていた。橙花のバッグ。そういえば喫茶店に置いたままだった。

「おかえり。急にいなくなっちゃったから心配したわ」と深美。

「ほれ、バッグ」と、くぼやん。

 車に近づいたことで、くぼやんの視界に橙花の隣に座っていたあさぎが入った。

 一瞬、くぼやんの表情が険しくなった。

 が、明らかにあさぎを無視して、橙花に笑顔を見せた。

「怪我とかしとらん?

 つか、やっぱりあのヤクザどもぢゃったんか? どうやって逃げてきたん?」

「えっと」

 橙花が戸惑っていると、深美が言った。

「橙花ちゃんがいなくなって、真冬さんが探しにいってくれたのよ。そしたら橙花ちゃんがどこにもいなくて、そのヤクザさんと一緒にいるところを見たって人がいたらしいじゃない?

 で、これは本当にさらわれたんじゃないかって、心配になって。

 あ、でも大隈先生があさぎさんに電話してくれて、あさぎさんが大丈夫だからバッグだけ届けに来てって言ってくれて、私は安心したんだけどね」

 予見者のあさぎが大丈夫と口にしたなら大丈夫。深美はそう思っている、ということだろう。

 橙花はバッグを受け取り、バッグの口を開けた。黒猫が顔を見せた。

 にゃー。 

 黒猫に笑みを返しながら体を撫でる。

 振り返ると、あさぎと大隈先生が軽く話をしていた。

「あさぎ先輩、改めて確認ですが、俺は何もしなくていいんですか?

 警察にも連絡しなくていいんですかね」

「ええ。構わないわ。全部、あなたとは関係ない場所でカタがつくから。

 あなたは、自分の恋人のことでも心配してあげてなさい」

「はあ……

 まあ、うい。了解です」

 あさぎと大隈先生は知り合いのようだった。都会とは違って郷の人間は基本的にお互いに知り合いだし、おかしいことではないのだろう。

 二人は長くこの神砂原郷の住人でいるようだし、年もそう離れていないから、なおさらそうかもしれない。あさぎのことを大隈先生が先輩と呼ぶのも、そういうことだろう。

 あさぎがやって来て、言った。

「橙花。疲れたでしょう。家に入りましょう。

 クマくん。その子たちを送って帰ってあげなさいね」

「うい」と、大隈先生。

「うい」と、橙花。

 くぼやんと深美と軽く言葉を交わしてから、橙花は家の中に入った。深美が大隈先生の後について、茶灰色の車のドアを開けて後部座席に座った。

 くぼやんだけが、まだ足を動かさず、あさぎをにらんでいた。


 言った。

「今日のことも、見えとったんぢゃろ?」

「ええ。

 今日は誰も傷つかずに終わるのが見えていたわ」

「何も起こらんかった。それは結果としてええよ。

 聞きたいんは……

 もし橙花が今日不幸になるんぢゃったら、あんたは今日、それを止めようとしたんか?」

「……」

「あたしはあんたのことを好かん」


 くぼやんは、ぷいっとあさぎから顔を逸らすと、大隈先生の車に向かった。

 大隈先生の車が深美とくぼやんを乗せて発車して遠ざかっていくのを、あさぎは黙って見送った。


 それから、家に入った。


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