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 4、


 神砂原町を出て、一本道の県道を東へ。

 白いレンタカーの運転席には髭面の大男の日野。後部座席の右のドアの側には隻眼痩身長髪軽薄な月山。左のドアの側にはガラの悪い新入社員みたいなジン。

 その月山とジンに挟まれて、真ん中に橙花が座っていた。

 ちょっと狭い。

 右側にいる月山はなれなれしく肩に手を回してきていて、橙花としてはかなり困る。左側にいるジンは、逆に必要以上の接触を避けようと壁のようにそっけない態度でそっぽを向いていて、これはこれで困ってしまう。普通に座っているだけで肩が触れ合ってしまう状態なのに、どうにかこちらも触れ合わないようにしなきゃいけないのかなと思ってしまう。

 困ったなー。

 でもそれを口にする場面だろうかと橙花が考えていると、月山が言った。

「困ったことはないかい?」

「あ、えっと、今とても困ってますって言ったら、どうにかしてもらえるんでしょうか」

「いやあ、どうだろうなあ」楽しそう。「人さらいは人質にそんなトークをするもんだと思って言っただけだからなあ。その意味じゃあ、人質から本当に何か困ったことがあると打ち明けられても聞かんのがそれっぽい感じがするなあ。

『それは聞けないな』

 とかなんとか言うのが実にそれっぽい。うん、そんな気がとてもディモールトする」

 この人、なんだかなあ。

「どうでもいいけど、ここからどうするんですか?」

 と、ジン。

「この車、レンタカーなんですけど」

「まあいいだろ。このまま東京までストレートだ。こっちは人さらいで、さらわれたかわいい女の子を連れてるんだ。電車や飛行機で大勢の中を行くよりは、車でこの子を見張りながら行くほうがずっとましだ。うん、リアルに人さらいっぽい。

 レンタカーの期限についてはケセラセラ、延滞金ぐらいどうにでもなるさ」

 そう言って、月山はぽんぽんと気安く橙花の肩を叩き、軽薄に笑った。

 困ったなー。

 そう思いながら前方を見ると。

 公道としては一本道のこの県道の、神砂原町と神砂原郷の間における唯一の分岐、私道への入り口があった。ただし、入り口にやや見にくく神砂原郷への道を示す案内板と、さらに見にくく「こちらは私道」という案内板が出ているだけ。緑の山谷の景色の中で、見かけとしては県道とそう変わるわけでもない。

 車は。

 その分岐点へ。

 やや見にくい位置にある看板を通り過ぎて。

 そして。

 えーと。

 私道のほうへと入った。

 あれ?

 と橙花が思っていると。

「あれ?」

 とジンが言った。

「日野さん、今の道、間違えてませんか?」

「あ?

 そうか? いや、こっちの道路の先に人が見えたぜ? こんな田舎だ、人がいるのが村のある方向だァろが」

「人なんて見えませんけど?」

「なんか地面に穴掘って潜ったみたいに消えた」

「……なんすかそのモグラ人間」

「まァそこは俺の見間違いだろ」軽い口調で、日野は自分の前言を否定した。「まァとにかく、んなのが見えた気がしたんでハンドル切っちまった。間違ってんのか?」

「間違ってますよ、多分」

 日野は肩をすくめた。

「まァ、どっかには着くだろよ」

「東に向かっていて、左に曲がったってことは北だなあ」と月山。「次の分かれ道で右に曲がればまた東だろう。分かれ道がしばらく無かったとしても、せいぜい島根に出るぐらいだ。日本海が見えたら東に行けばいい」

 岡山の北って鳥取じゃなかったかなあ、と橙花は思った。ただし、どうでもいいと言われそうなので口には出さなかった。

「岡山の北って島根でしたっけ?」とジン。

「そのクエスチョンはディモールトどうでもいいぞ、ジン。意味の無いアリスよりもっと意味が無い」と月山。

「なんすかそれ」と、うんざり顔のジン。

「そういう題名の歌があってな。ディモールトいいぞ。今度聞かせてやる」

 会話はそこで切れて、次に見えてくるであろう分かれ道を目指して車は一本道をひた走った。

 だが。

 道は長く伸び。

 無限に不自然に伸び。

 永く伸び。

 そして。

「この道、変じゃないですかね」

 そうジンが口にした頃。

 いつ頃からか日の傾きで赤橙に染まっていた夕空が、しかし日の傾きにしては異常なほどの赤紅色に染まっていることに、橙花は気付いた。

 西の空から東の空まで、等しく紅。

 夕空のオレンジではなく。

 斜めの太陽光の屈折による赤橙ではなく。

 赤紅の液体で均一に染めあげたような空。

 そして。

 道の両側に並ぶ緑の木々までもが、いつしか幹からその葉の先まで赤く染まっていた。

 赤い森。

 赤の空。

「なんじゃぁこりゃあ」

 さすがに景色の異変に気付き、月山と日野も慌てだした。だが、前方を見ても、振り返ってみても、赤い風景。

 それ以外の色がこの世界にあるとも思えないほどに、赤く紅。

 一本道の道路はただ前へと続き、ありえないほど長い。

 赤い風景。

 ふと赤い山の上方を見ると、赤い森の中に、紅色の館が見えた。異人館。元から紅色だったその建物だけは、この景色の中でも色を変えていない。

 むしろ、主然としてそこにある。

 日野はしばらく車を走らせていたが、終わる様子を見せない一本道と景色に狼狽した様子を隠さず、言った。

「おィ、どうするよ」

「知らん。あれだ、中国地方の夕焼けはきっとこんな風に赤くて、紅葉はこんな風に赤いんだ。プラバブリィそうだ」

「月山さん、本気で言ってます?」

 今は四月。紅葉ではなく新緑の季節。

 日野が、バックミラー越しに視線を月山と合わせた。

「……どォする?」

「……とりあえず、止まって落ち着いてみよう。落ち着けば何か変わるかもしれん。

 標識を見つけて、『なんだもう島根県に入ったのか、島根県ってのはこんな景色だったんだなあ、始めて知ったぜ、旅はしてみるもんだなあ、ディモールト驚いたぜ、あはは』というオチになるとかな」

 それはオチなのかなあ、と橙花は思った。

「オチですか、それ」とジン。

 人影も車の姿も見えない景色の中、日野は道路の真ん中にそのまま車を止めた。路肩に寄せようとは考えもせず、道のド真ん中に車を止めたのだが、月山もジンも何も言わなかった。後続車も対向車も来るわけが無いと、全員が直感的にそう思っていた。

 車の中で、しばらく誰もドアを開けようともせずに赤い外を見ていたが。

「……。

 降りてみるか」

 月山がドアを開け、続いてジンも反対側のドアを開け、外に出た。

 変色した景色を見つめる。

 赤。

 色の濃い赤から。

 色の薄い赤まで。

 頭上の空は液体のような紅。

 雲はそこに浮かぶ薄紅の綿雲。

 朱色の木々に、緋色の葉。

 焦げ茶色に近い濃い赤橙色の森の地面。そして気が付けば、これまで車が走ってきたアスファルトまでもが赤味を帯びて、赤灰色。

 めまいがしそうなほどの赤い景色。

 ……。

 運転席に座ったままドアだけを開けて外を眺めている日野も含め、しばらく無言。

 この偏った色彩の景色。

 なんなのだろう。

 もちろん橙花はつい数時間前、これによく似た体験をしている。緑一色の景色。これは、緑と赤の色の違いこそあれ、とてもよく似た現象に思える。

 だとすると。

 また真冬が関係しているのだろうか?

 彫刻のようだった真冬の、緑の景色を思い出す。

 そして目の前の、時間が無限に引き伸ばされたような赤い景色。

 ……。

 だが。

 そういえば。

 ずっと以前。最初に緑の景色に今と同じように車で行き会ったとき。確か一文字(当時)はこう言っていた。「まるで異人館じゃないか」

 まるで異人館。

 赤く染まった山の上方を見ると、赤紅色の異人館が見える。

 情報をつなぎ合わせてみると。

 緑の景色が『まるで異人館』のようだったとするならば。異人館ではもともと、緑の景色によく似た現象が起こるということになる。だとすると、この赤い景色がその現象なのではないだろうか。

 それならば。

 この現象が真冬のせいだと考える必要は、むしろ少ないのではないだろうか。

 これは、偶然行き会った現象。

 車が道を間違えて異人館に近づいたから。それで迷い込んだ景色。

 なら。

 少なくとも橙花にとっては、緑の景色ほど明確に自分が狙われている危険ではない、はず。

 ……。

「どうします? 月山さん」

 ジンが、車の車体越しに、反対側にいる月山に聞いた。

 車体越しに。車高の上で。ということは、車内にいる橙花は完全に死角。

 今なら。

 逃げられる!

 橙花は勢いよく、ジンの横をするりとすり抜けて車の外に走り出た。本当は、ジンのいた車の左側ではなく月山がいた右側に出たかったのだが、月山はジンと違って車のドアを閉めていて、そしてそのドアを完全に塞ぐ形で立っていたので、ドアごと突き飛ばすかどうかせねば逃げられそうになかった。体重の軽い橙花が大の男である月山をうまく突き飛ばせるとはあまり思えなかったので、こちら側で我慢しなくてはいけなった。

 車の左側は、山の頂上へと向かう方角。

 異人館が前方にある。

 本来の位置関係で考えるなら、神砂原郷は真逆の方向。山を降りる必要がある。だから少しでも可能性のある方向に向かうためには車の反対側に向かいたいのだけれど、贅沢は言っていられない。ひとまず目の前の赤い森へと走りこむ。このヤクザさんたちをうまく引き離せたら、改めて山を降りる方向を目指そう。

 赤味を帯びたアスファルトの道路から、鮮やかな紅の森へ。

 赤い地面と赤い草を踏みながら、赤い木の幹の間を縫って、走る。

 当然、後ろのほうで月山たちが慌てて交わす声が聞こえ、走って追いかけてくる様子が感じられた。

 だが振り向かず、走る。

 走る。

 走る。

 

 どのくらい走っただろうか。

 何度か、足を滑らせて周囲の赤い木立に慌てて手をついた。山の斜面は時として恐ろしく急で、到底のぼれそうもない場所も多く、とにかくまず走れる経路を選んで走ったために、何度も方向を変えて迂回し、方向転換し、迂回し、方向転換し、すぐに、自分が方角を見失っていることを理解した。斜面の角度から、山の頂の方向が判断できる気がするぐらい。

 大丈夫だろうか? 遭難?

 異人館が見える位置にさえ出れば、多分おおよその方角は改めて判断できるから、大丈夫、とは思うんだけど……。

 ……。

 やがて。

 赤い森の木立の中、前方が少し開けているのが見えた。空き地のような場所があるようだ。

 そして。

 赤い木々の向こう、その赤草の空き地には、雪のように白い何かが見えた。

 ?

 橙花は森の中で立ち止まり、後方を確認した。とりあえず、ジンや月山たちは見えない。少し落ち着いても良さそうだ。

 呼吸を整えながら、前方を向く。

 あの白いの、なんだろう。

 ずいぶんと大きいようだ。

 赤い景色の中の白いそれに興味を惹かれ、自分の呼吸が完全に平常に落ち着くのを待ってから、そちらへ向かった。

 赤い木の幹に時おり手を触れながら、歩く。

 あれ? とふと思う。幹の感触は、思ったよりも普通だった。あるのは微妙な違和感という程度。少なくとも、彫刻のようだとは表現できない。気がついてみると、足元の地面も草も、普通の土と草の感触。色こそ赤に染まっているけれど、柔らかな土と草。

 少し前に体験した、真冬の緑色の景色はすべてが彫刻のように硬質だったけれど。

 この景色は、そんなことはないようだった。

 あえて言うなら、ややゴムっぽい感触になっているような気もする。木も土も草も、意識して触ってみると、微妙にどこか、平常よりぐんにゃりしているような気がしないでもない。液体の中で、液体の緩衝を受けながら物体に触るような、そんな感触。でもそれも、気にしなければ気にならない程度。

 赤い緩衝液の中のような、そんな景色だけれど。

 赤い保存液の中のような、そんな景色だけれど。

 思ったより、普通の場所に思える。

 そう思いながら、歩き、森の空き地へとたどり着いた。先ほどから見えていた白い物の、その全体像をとらえる。

 ……。

 狼と、女の子。

 白は、狼の毛皮の白。

 巨大な狼の白。

 それと、女の子の衣服と肌の白。

 女の子は、巨大な狼の毛皮に埋もれるようにして、赤草の地面に座っていた。

 巨大な狼の、銀白の毛皮に埋もれるようにして。

 月夜の雪原のような銀白。

 この赤い景色にただ白く、狼は腹這いに身体を休めている。

 銀白の巨大な全体像の中、ただ一つ金色の、それだけで橙花の頭よりも大きな瞳が、橙花を見ている。

 巨大な銀白の狼。 

 ……って。

 あのっ、ほんと大きいんですけどっ!?

 大きすぎるんですけど!?

 狼? ほんとに狼!?

 馬よりも、象よりも大きい。象二体分ぐらい。大きすぎ!

 ここに月山がいたら絶対に、アニメ映画に出てくる巨大な山犬を引き合いに出しただろう。そんな狼だった。

 そして。

 腹ばいになっていたその狼の、その巨大な横腹に寄りかかって座る姿勢の、一人の女の子。

 年の頃は、橙花より少し下に見える。真っ白いワンピースを着ていて、白い花のような白い肌をしている。それらの白は、寄りかかっている狼の毛皮の動物的な銀白とはまた違った植物的な白でありながら、同時に親和性も高い白だった。

 遠目には狼の白と同一化しているようにさえ見えた。

 ただ、髪と目だけは、花のような赤味を帯びた色。華やかな、人とは違う異質な色。咲き誇る植物の花の赤。

 彼女は携帯ゲーム機を持っていて、外で使うにはやや重厚なヘッドホンをそれにつなぎ、外界の音をシャットアウトしてゲームに没頭していた。白い狼の毛皮に寄りかかって座り、裸足の足を地面に投げ出している様子は、まるで自分の部屋のベッドでゲームに熱中している女の子そのままだった。

 うぇ?

 この光景、なんなのだろう。

 巨大な狼の金色の瞳に射すくめられ、けれどゆったりとした様子の女の子の風景に気を抜かれながら、橙花は行動を迷った。

 数瞬の後。

 とにかく。

 狼とは距離をとって警戒したままで、女の子に声をかけてみる。

「あ、あの……?」

 返事は無く、視線もこちらに向かず、女の子はこちらに気付いていないように見えた。

 だが、巨大な狼がまるで問うように頭をめぐらせて女の子を見ると、女の子は言った。

「ちょっと待って。

 ……」

 しばらくゲームの操作に集中していた後、一区切りついたのか、といっても操作する手は止めず、視線だけを時々動かして、狼を見、橙花を見て、また狼を見た。

 問うような様子で、狼が軽くうなった。

 女の子はゲームに視線を戻し、言った。

「うん。いいんじゃない、べつに」

 ?

 それはどうも橙花に向けて言ったようではなく、まるで、狼が何かを女の子に聞いて、女の子がそれに答えたような様子だった。

 何が、べつにいいんだろう?

 一方、狼は女の子の言葉が分かったとでも言うように、嬉々とした様子で頭を橙花に向けた。女の子が狼の横腹に寄りかかって預けていた背中を浮かし、猫背なあぐらの姿勢で座り直すと、狼はのっそりと四つ足で立ち上がった。

 立ち上がると、その姿はさらにも大きく見える。というか、大きすぎ!

 白い狼は、空気音だけでシシシシシと笑った。それから、ぱかりと口を開ける。うーん、白い狼でも、やっぱり口の中は赤いんだなあ。他の赤い景色と同じように赤い。

 でもそれよりも、ずらっと並んだ白い牙のほうが気になりますけど。

「あ、あの! えっと……!?」

 こちらを見ようともせずに携帯ゲームを続けている女の子に、ヘッドホン越しでも聞こえるように、大きめの声で問いかけてみる。

 女の子はちらりと橙花を見た。

「うん?

 ああ、この子、お腹すいてるんだって。で、あんたを食べたいってさ」

 ……。

 えっと。

 え!?

 女の子は既に橙花には興味も無さそうに再び携帯ゲームの画面に没頭していたが、それからふと何かを思いついたように、くっくっくっと笑った。今度はちょっと面白そうに、またちらっと橙花を見た。

「うん、こう言ってる。

『オレサマ、オマエ、マルカジリ』」

 その台詞がなぜか気に入ったのか、もう一度繰り返した。 

「『オレサマ、オマエ、マルカジリ』。

 今後とも、よろしく~」

 マルカジリの後に今後ともよろしくでは前後の文脈が合っていない気がするが、それは女の子にとっては自分ひとりが分かっていればいいタイプのジョークであるらしく、ひとしきり含み笑いをした後、また携帯ゲームに視線を戻してしまった。

 ぅえ!?

 橙花はなおも女の子に声をかけようとしたが。

 狼が、のっそりと、橙花に向けて歩を進めた。

 白く、巨大な、狼。

 お腹をすかせている、という台詞が正しいということか、狼の腹部は大きく凹んでいて、胸部はややアバラが浮き出ている。でも、弱っているという感じではない。むしろ、容赦の無い肉食獣そのもののイメージ。

 逃げなきゃ!

 頭はパニックになりかけている。唐突に訪れた身の危険がよく理解できない。ただ、思わず後ずさろうとした。

 その途端、なぜか足元の草に足をとられて尻餅をついた。

 !?

 赤い草が、まるで今突然に丈を伸ばしたかのように、橙花の靴にからまっていた。

 橙花は慌ててそれを振りほどき。

 でも、すぐには立ち上がれず。

 と。

 その時。

「見つけたぞっ!

 ……。

 って。

 ぬぁっ!?」

 タイミング良くなのか、悪くなのか。橙花の背後の森の中から青年が姿を現した。

 着崩した背広姿の若者、ジンだ。


 ジンは、橙花を掴もうと手を伸ばしたところで白い巨大狼を目にして固まっていた。

 視界の悪い森の中を走ってきたので、この時点まで狼に気が付いていなかったらしかった。視界に収まらないほど大きなものは逆に気付きにくい、というのもあるかもしれない。

 橙花は、立ち上がろうとした直前の姿勢で固まっていた。 

 携帯ゲームに熱中していた女の子は、新たな闖入者に気付き、顔をあげてジンを見た。

 白い狼もやはり大した感慨も無く、ジンを眺めた。 

 そんな一瞬の後。

 ジンは改めて橙花の腕を掴んで立たせ、ぐいっと引っ張って、自分の背後に回した。狼と橙花の間に自分を置き、やや焦って慌てた動作で拳銃を取り出した。

 狼に向けて構える。

 震えて定まらない銃口を落ち着かせようとして、まるで自分を叱咤するような口調で狼に言う。

「く、来るなっ、撃つぞ!

 ……って、……ん?」

 それからようやく、開けた野原にあぐらをかいて座っている女の子に気付いた。危険な巨大狼とは場違いなその姿に、ジンは目を白黒させた。

 一方、女の子はやや無表情な様子でジンを見つめていた。それからジンの後ろにかばわれた橙花を興味無さそうに眺め、またジンをじろじろと見た。

 値踏み。

 それから、肩をすくめた。

「ふーん。ヒロインと、それを助けに来たヒーローと言ったところ?

 いいなー、うらやましいなー、あこがれちゃうなー」

 後半、なぜか棒読み。

 そして同じくあまり感情のこもっていない棒読みで、そのくせ、切り捨てるような口調で言った。

「死ねば?」

「……は?」

 だがもう、女の子はまた携帯ゲームに視線を戻していた。

 なんなんだろう。

「なんなんだ、この状況」と、ジンは橙花に言った。

「えーと……」 

 巨大な狼を前に、ジンと橙花は視線を交わした。ジンは軽いパニックに近い様子にも見えたし、橙花もやっぱり不安だった。だが、その一方で思っていた。

 このジンさん、いい人なんだなあ。

 突然に身の危険を感じるよく分からない状況になったのに、躊躇無く橙花を後ろにかばったし、今もまだかばう姿勢を続けている。

 まあ、パニックに陥りかけていてそれ以外の選択肢が頭に浮かんでいないだけのようにも見えるけれど。でもそんな状態でまず橙花をかばうことを選んだということが、何よりもいい人だという証明になると思う。

 ジンは、狼に視線を戻した。呼吸を深く遅くして、無理にでも落ち着かせようとする。その甲斐あって、震えて定まらなかった手に持っていた銃の銃口が確かな定点を持った。よく見ると細かく震えてはいたが。

 巨大狼に、まっすぐ突きつけ続ける。

 もっとも、狼のほうはそれを意に介しているようには見えなかった。そもそも、その銃を武器だと認識してくれているのだろうか? 巨大な狼から見ると、ジンが手に持っていた銃はどんなにちっぽけに見えているのだろう。

 白い狼の金色の瞳が、面白そうにこちらを見ていた。

 突然。

 ジンが引き金を引いた。

 パン!、と破裂音。

 橙花が見ると、ジンは銃口をずらし、狼にではなく少し離れた木に向けて、一発だけ拳銃を撃っていた。素早く狼に銃口の向きを戻しながら、言う。

「痛い目に合いたくなかったら……」

 だが、その先は女の子と狼の声にかき消された。

「銃だ! それ、本物だったの!? すごい! わお! 猟銃じゃない銃って初めて見た!」

「ワオオオオーーーン!」

 楽しそう。

 女の子は嬉々として、ジンが撃った木へと駆け寄った。一緒に、同じように巨大狼も楽しそうに走り寄った。木の中心に開いた銃痕を、一人と一匹で、ためつすがめつする。

 鼻を近づけて、銃痕のにおいをかいだりとか。

 大きな金色の目と小さな赤色の目で、銃痕の奥にめり込んだ銃弾を見ようと覗き込んだりとか。

 ……。

 狼に銃口を向けたまま、ジンは橙花に目くばせし、二人は少しずつ後ずさった。このまま逃げられれば、それが一番いい。

 だが、数歩後ろに歩を動かしただけで、狼はこちらを向いた。こちらはほとんど音もたてていないはずなのに。聴覚が桁違いなのか、それとも動物特有の他の感覚なのか。

 ジンは後ずさるのをやめ、立ち止まり、改めて言った。

「痛い目に合いたくなかったら、こっちに来るな。銃が分かるんなら、撃たれたくないだろ?」

 だが、狼はまったく怯む様子も無く、こっちに体の向きを変えた。

 続いて女の子もこちらを振り向き、言った。

「そんな小さい銃で、この子が怯むとでも思ってんの? こんな小さい穴しか開けられない銃じゃ、この子には意味無いわよ」

 それから女の子が狼に目を向けると、狼はシシシシシと笑い、銃痕のある木に噛み付いた。見るからに頑丈な木が、あっという間にかじり取られた。狼は口の中の木片を噛み砕き、ぺっぺっと吐き出すと、こちらを向いて舌を出した。

 巨大な狼の舌の上に、ちょこんと、銃弾が乗っていた。こうして見ると、銃弾がものすごく小さく見える。

 うん。

 確かにこれでは、女の子が言うように、狼を怯ませるなんて無理に思える。

 こんな小さな銃弾がこんな巨大狼に効果があるなんて到底思えない。

 銃弾の大きさは、本当に巨大な狼の舌の先ほどの大きさしかない。人間で言えば、ボールペンで突き刺した程度かそれ以下の細い傷しか与えられないだろう。通常、ボールペン程度で人は脅さない。

 狼が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。いつこちらが走り出したとしても、一瞬の間もなく対応できると言いたげな、緩みの無い歩調。

 ジンが、少し後ずさった。気圧されている。そんなジンの様子を見ながら、橙花は思った。

 このままでは。

 八方ふさがり。

 走って逃げても絶対に追いつかれる。

 銃でただ攻撃しても、きっと無駄に終わる。

 ……。

 やっぱり、言葉に頼るしかないのではないか。

 もしも相手が本当にただの狼だったとしたら。人間の言葉など意に介さず思考経路も違う野生の思考そのままの狼なら。

 これほどの大きさでなくても、もっと前に、もっとはっきりとした結末にたどり着いていただろう。それがまだ猶予のある状態なのは、この狼が曲がりなりにも女の子と行動を共にし、どうやらその意を介し、その意志を尊重するらしい立場を取っているからだ。銃に喜んでいる様子などを見ていると、狼自身の思考経路も人間に近いもののように思える。

 なら、言葉はきっと有効だ。

 女の子を躊躇させる言葉を投げかけられれば。

 あるいは、女の子を通じて狼の人間的な面に訴えかけられれば。

 ……。 

 銃が、ボールペン程度かそれ以下の脅しにしかならないというのなら、どうすればいい?

 ……。

 ボールペンでは普通は人を脅せないと、そう思ったけれど、厳密にそうだろうか? よく考えてみると、脅せないわけではない。要は、状況を選ぶこと。子供相手にボールペンで「刺すぞ」と言えば普通に怯むだろうし、もし大人相手だとしても、怯ませる方法はあるのではないだろうか。

 例えば。

 刺す場所をより具体的に指定すればいい。

「でも、こんな小さい銃でも、目に入ったらとても痛いですよ?

 失明して、一生ずっと目が見えなくなりますよ?」

 小さいボールペンだって、目の前に突きつけられたら普通は怯む。命に別状は無くても、そんなことは関係ない。

 ……まあ、さらに考えると、もし医学的な知識があって重要な血管や神経の場所が分かるならボールペンで命を脅すこともできるだろう。ただし、その考えは今回は除外。巨大狼を一撃必殺で銃殺できる確証なんてあるわけ無いし、確証のない行動では相手をきっとうまく脅せない。

 だから、命で脅すのではなく目という器官に限定し、そこに意識を向けさせよう。

 巨大狼と女の子は橙花の言葉を聞いて、考え込むように目を見合わせた。ジンの銃口は最初から巨大狼の頭部の中心に向いていたので、金色の目にほぼ真っ直ぐ向いている。

 それに。橙花の言葉を聞き、立ち止まった狼の様子を見て、ジンも微妙に銃口をずらして、はっきりと巨大狼の金色の目へと狙いを定めた。

 女の子が、言った。 

「……この子、素早いわよ。ちゃんと当てられるつもりでいるの?」

「銃をかわすなんて、そんなの非現実的ですよ。無理です。ありえないです」

 あれ? という顔をジンが微妙にした。多分、こう思っているのだろう。この子が言っていること、以前と違わないか? 銃弾を避けるなんて簡単だとか、前に言ってなかっただろうか?

 ジンの表情は無視して、とにかく自信たっぷりの様子を装い、巨大な狼と女の子に笑顔を向ける。

「だから、動かないで。

 狼さんにそう伝えてください。いいですね?」

「……ちぇっ」

 女の子は不服そうな表情で、狼に目を向けた。

 巨大な狼は眉間にしわを寄せようとするような表情をして、不満そうにうなった。一応脅しが効いている、ということでいいのだろう、多分。

 橙花とジンは再び視線を交わし、後ずさって少しずつ狼から距離を離した。態度からすると、ジンは橙花が先に去るのを待っており、それまで巨大狼に銃を突きつけて行動を抑えてくれるつもりのようだ。やっぱりいい人なんだなあ。

 空き地から森の中へと入り、完全に距離を離したところで、橙花は身を翻し、山を駆け降りた。 

  

 背後で橙花が走り去っていったのを確認し、彼女が充分にこの危険な狼の視界から離れていったことを確認して、気持ち的に一息ついた後で、ジンは思った。

 しまった。自分は彼女を捕まえに来たんじゃなかったか。自分から見失ってどうすんだ。

 やや自分にげんなりした。

 いつも年上の月山や日野に対してげんなりしてばかりだったので、自分に対してげんなりするという感覚はなんだか久しぶりだった。むむむ。

 ため息。

 よし。さっさとここを離れて、彼女を追いかけよう。

 狼と女の子に対し、銃を誇示。

「追ってくるなよ。

 次に見かけたら即撃つぞ」

「なんなのよ、もう。女の子を助ける男の人なんて、どこのゲームの登場人物かっての。リアルにいるなんてありえないって。

 ヒーロー気取りってわけ?」 

「知るか」

 ジンは女の子との会話には興味を持たず、少しずつ、狼と女の子から距離を離した。森の中へ。

 その時、狼が空の一隅へと目を向けた。「?」という表情。

 続いて、女の子も狼と同じ方向へと目を向けた。

 なんだ?

 ジンは、警戒しながらもそちらを見た。

 空の一隅。

 ジンから見て左の空。

 森の中を抜けてきたジンにははっきりとした方角は分からなかったが、正確には西の方角。

 空が、不自然に緑色に染まっていた。時の流れを遅く引き伸ばしたように赤く偏移していた空が、時を無くしたような緑色に。

 緑色の空? 赤ならまだしも、空がそんな不自然な色に染まるなんてあるのか?

 緑色の空は見る間に広がり、空の三分の一ほどを覆い、そこで赤い空と拮抗した。緑の空はさらにも広がろうとしているようだが、赤い空がそれを抑えているようだ。

 そんな空の下。そんな西の方角に。

 やがて、不自然な人影が見えた。

 不自然すぎる。それは生きた人間ではない。そもそも確実に、生きてすらいない。

 紙で出来た巨大な人型。

 首から上にあたる部分は無く、一方の肩からもう一方の肩へ不吉な線を描くのみ。身体は厚みが無く、生気も無く、だが人の形を真似た四肢でそこに立っている。

 そして。

 恐ろしく大きかった。まさしく大入道。見上げるほどの入道。人の何十倍もの高さがあり、森の木々はその膝元の高さにすら届いていない。

 あっけに取られて、ジンはその紙の入道を見上げていた。

 一拍の間を置いて、声を発したのは白い狼。

 自身も人間に比べれば巨大とはいえ、あの白い紙入道に比べれば足元を這うイタチほどの大きさも無い狼。

 だが、金色の瞳で紙入道を見上げて。

 まったく怖気づく様子を見せず、鋭い牙を剥いて、呼吸音だけで豪快に笑った。

 シシシシシ!

 それから、女の子が狼に言った。

「あれ、どう見ても美味しくないと思うけどね。食べれないでしょ、きっと。

 でもまあ、あんなでっかいよそ者をのさばらせておくのは気に食わないわね。行きましょ」

 女の子は狼の横腹に素早くしがみつき、狼は勢いよく、緑色の西の方角へと走り去っていった。

 ぽつんと。

 ジンだけが残された。狼が駆け去っていった森の中を見つめ、それから首を上げ、森の木々のはるか上方にそびえる巨大な紙人形を見上げる。

 まったく。

 なんなんだこりゃ。

 

 視界の狭い森の中を駆け下りていた橙花は、八方に鬱蒼と茂る赤色の森の木立のせいで、緑に傾く西方の景色にはしばらく気付かなかった。

 気付いたのは。

 先ほど狼に会う前に駆け上ってきたのと逆の方角に駆け下り、森を分断する赤いアスファルトの道路に出た時。

 森から出て開けた視界の右方、西の空が、緑色に染まっていた。その彫刻のような緑色には見覚えがあったから、すぐに警戒心が生じた。

 そして大きくそびえる、首の無い白い紙人形。

 道路に走り出ていた自分をUターンさせ、赤い森に戻り、身体を隠す。

 遠くに見える、白い紙の巨大な人型の様子を伺う。その背景は緑の空。その足元は緑の彫刻の森。

 緑。

 緑の空。

 緑の景色。

 様子を伺ってみると、赤の森も、視界の先のある一線を境界として緑色へと変じていた。葉だけではなく幹までもが、硬玉の彫刻のように緑。

 西の空の下に何かがあって、それを中心に景色が緑色へと変じ、赤の景色と拮抗している。

 真冬だろうか?

 大隈先生の恋人の真冬。

 喫茶店の緑の景色は彼女に関係するものだったから、きっと、この緑の場景もそうなのではないだろうか。

 どうしよう。

 ……。

 ……。

 しばらく、何をしたら良いのか判断のつかないまま時間が過ぎた。

「おい」

 背後からの声に、慌てて振り向く。

 だが、慌てる必要は無かったようだった。森の中、傾斜を下りてくるジンの姿が見えた。橙花は少し安心して出迎えた。

 ジンは橙花に足早に近づいきた。そして橙花が彼を警戒もせず逃げもしないことを見て取ると、なんとなくバツの悪そうな顔をした。

 ……結局は彼は人さらいなヤクザ者だし、橙花を逃がさないために追ってきたのだが。そんな安心した顔をされると、実にバツが悪い。

 ジンは自分の気持ちに対して首を振り、橙花に尋ねた。

「何がどうなってるか、分かったりするか?」

「えっと、全然……」

「だよな」

 ため息をつき、目の前の道路を先を眺める。

 ジンにとっては赤い空も緑の空も等しくただ不可解なもの。橙花とは違い、赤の景色よりも緑の景色を強く警戒するような根拠を持ってはいなかった。だから橙花がなぜ赤い森の中に身を隠すようにしていて視界の広いアスファルトの道路のほうに出ないのかがよく分からなかったが、橙花の警戒をなんとなく感じ、同じように道路には入らずに足を止めたままだった。


 微妙な時間の後。 

 のっそりと立っていた首の無い巨大な紙の白い人型が、ゆっくりと、膝を折った。


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