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 3、 

  

 四月下旬。天気のいい日曜日。

 朝の明るい日差し。

 砂原屋敷の入り口。

 橙花は外出着で門を内側から開けた。深美とくぼやんと約束があって、バスで神砂原町まで出かける予定。黒猫の入ったバッグを持って門の前を見ると、一文字が道に車を出して、ホースで水をかけて洗っていた。

 結局この人って一文字さんでいいんだよね、と、そう思いながら挨拶。

「いってきます、一文字さん」

「……エドガー・エンデ」

「は?」

「エドガー・エンデ、という名前を聞いた気がする。誰だか忘れたが」

「はあ」

 これは。

 つまりあれだろうか?

「えと、じゃあ、いってきます。エドガーさん」

「うん」

 故・一文字、現・エドガーさんは、特に呼び名が変わったことを気にする様子も無く、うなずいた。

 うーん、これでいいのだ。

 と内心でつぶやいてみたものの、やっぱり本心では首をひねりながら、橙花は下り坂の山道を降りて神砂原郷の盆地の底へ向かった。

 砂原屋敷の門の前で、現・エドガーは、しばらく橙花の後姿を見送った。

 黒猫の入ったバッグを持った、花のように可憐な少女の後姿を。

 ショートヘアを夏草のようになびかせ、橙色のスカートを着て絵画の中の人物のように歩き去っていく、風のように軽やかな少女の後姿を。

 朝の明るい日差しの中、山道の下り坂の向こうに、そんな少女の後姿はやがて消えた。

「あれだな。こう無意味に長く立ち去る人の見送りを描写するっていうのは、映画的に言うと、その後どちらかに何か起こるとかの伏線にするとかっこいいんだよなあ」

 どうでもいいことを言いながら、現・エドガーは洗車に戻った。

 しばらく後、あさぎが門の前に顔を出した。現・エドガーは洗車の手を止め、挨拶した。

「あ、奥様。おはようございます」

「おはよう」

 一応は挨拶を返しつつ、物凄く不審な相手を見る目で、あさぎは現・エドガーを見た。

「……まあ、エドガーと呼んでおくわね。

 これが初めてじゃないけど、せめて日本の名前にして欲しいわ」

「思い出せなくて気になる名前なんだから、仕方ないじゃないですか」

「エンデっていったら有名な童話作家じゃないの」

「? そうでしたかね」

「そしてそんなことはどうでもいいわ」

 首をひねるエドガーには取り合わず、あさぎは話を変えた。

「今日の夜、出かけるから。車を出せるようにしておきなさい。いいわね」

「ああ、はい。あさぎ奥様」


 一方。

 橙花は神砂原郷の盆地に下り、くぼやんと深美と合流すると、一日に一桁の回数しか走らないバスに乗って、神砂原町へと向かった。所要時間は約三十分。バスは異人館を遠く横目に見ながら山間の長い一本道を走り、一応は都会の部類に入る神砂原町に到着。

 目的は、五月のゴールデンウィーク明けに赴任してくるという大隈先生の恋人で新しい先生の歓迎会用の花束の注文。深美の案内ですぐに花屋を見つけ、用事は済んだ。

「花だけじゃなんだし、何かないか見てまわりましょ」と深美。

「都会は好かんなあ」と、くぼやん。

「あ、そうそう先週ぐらいに岡山テレビでやってた北海道ローカルの旅番組で、岡山市が映ってたんだけど、食べてた吉備団子のお店がほんとおいしそーだったのよ。

 今度、橙花とくぼやんも一緒に行かない?」

「都会は好かんって言っとるぢゃん」

「その番組、エドガーさんも見てたけど、はやってるの?」と橙花。

「エドガーさんって誰ぢゃ?」

 アスファルトの道を歩きながら、友人たちと楽しい会話をする、のどかで平和な一日。

 だったのだが。

「あ」

 橙花とくぼやんが、足を止めた。

「?」

 と深美。

 それから。

 道の向こうに、橙花とくぼやんの視線に気付いたらしい青年の姿が一つ。

 新人会社員に見えないこともない濃紺のスーツを、少しガラが悪そうにラフに着ている。

 ヤクザ三人組の一人。若一点。

 確か、ジンと呼ばれていた青年だ。

「あ」

 と彼も言った。

「深美、こっち」

「え、ちょっと?」

 くぼやんと橙花が両側から深美の手を掴み、回れ右して走り出した。急に両側から腕を引っ張られた深美はかなりバランスを崩したが、運動神経がいいらしく、どうにかバランスを取り戻して一緒に走り出した。

 とりあえず、手当たり次第に曲がり角を曲がって走る。

 どのくらい走ったのか。

 どのくらい追いかけられていたのか。

 というか、そもそも最初の段階でジンが追いかけてきていたのかどうかも確認していなかったのだけれど。

 立ち止まって後ろを振り返ってみると、どうやらもう安全のようだった。

 急に走ってきた少女三人組を、ちょっと奇異の目で見ている通行人がいるぐらいのもの。

「なんなのよ、もう」

「あいつら、神砂原町にいるんぢゃな」

「そうみたいね」

「ま、そぢゃな。神砂原郷は人目ですぐばれるけん、おれんし、ここに陣取るよな」

「だね……」

「なーんーなーのーよーもーう。

 聞ーいーて~え~え~る?」

 深美はぷんすかして……るようではあったが、なぜか意外に楽しそうだった。アクシデントに出会うと嬉しくなるタイプらしい。

「あいつ、やくざぢゃ。拳銃持っとる。近づいちゃいかん」

「ほんと? ふ~ん」

 半信半疑な深美。

 まあ、説明して完全に信じさせるのは面倒くさい。

「とにかくこれからどうするかぢゃな。さっさと帰ったほうがいいんぢゃなかろか」くぼやんは実は慎重派。

「うーん、せっかく三人で遊びに来たのになー」深美は、半信半疑なのでそんな反応。あと、今日は遊びに来ました。担任の先生の恋人のために花を注文したのはついで。

「とりあえず、駅のほうに戻ろ」と橙花。

 神砂原郷に戻るバス停も駅のほうにあるし、それなりに栄えていて人の目も多くなるから、もし見つかっても手を出されづらいと思う。遊んで帰るにしても、町の中心である駅の方が店も多いし。

 そんなわけで、一応さっき走ってきたのとは違う道を選びながら、町の中心部へと向かった。

 すると、また見たことのある姿があった。

 大柄で、熊みたいな背格好。間の抜けた表情。

 今度は、橙花とくぼやんも立ち止まらずに声をかけた。

「あ、大隈先生」

「ん。おう。お前らか。うい」

「うい」

「……」視線。

 大隈先生は一人ではなく、隣には女性がいた。多分、年齢的には大隈先生と同じくらい。

 均整の取れた外見の女性だった。体格も、少し高めの背に、無駄な贅肉も無駄な筋肉もないプロポーション。運動する人でもなく、怠ける人でもなく、見ようによっては、生活することのない彫像のように過不足の無い体つき。その上に、偏りも無く左右対称にきっちりと着こなした白いスーツと赤い靴。

 黒いロングのストレートヘアは、額の正面で分けられて、きっちり左右対称に流れていた。

 黒い目が、なぜか、はっきりと橙花に向いていた。

 それからその視線を切って、彼女は大隈先生に言った。

「今の『うい』は何?」

「うい?」

「私、あなたのそういう意味の無い言葉が嫌いだって、言ったと思うけど」

「あー。

 いや、あれだ。『やあ』とかいうのと同じだよ。『やあ』っていう言葉は、単なる呼びかけ以上の意味は無いが、使うだろ? 『やあ』って言葉なら、君も気にせんだろ?」

「まあ、気にしないでしょうね」

「だろ?」

「でも、私が聞いたのは『うい』よ。『やあ』ではなくて。そして、フランス語の『ウイ』だとしても間違った使い方。

 それ以上に気にしてるのはね。

 この子たちが何も考えずに『うい』って返したことなのよ。文法的にも意味的にもまったくなってないのに。

 それが、あなたの教育の結果なのよ。教育者として、良くないわ」

 大隈先生は、ミツバチの生態の説明を昆虫学者から学術用語たっぷりで聞かされた漫画のクマのような顔をしていた。どんな顔かは想像でどうぞ。

「あっちょんぶりけ」意味無し言語。

「何か言った?」

「いや、言ってない」

 大隈先生は、無駄に大物っぽいおおらかな表情で、彼女に笑顔を向けた。

「まあ、とにかく、まずはこの子たちに君のことを紹介しなきゃだろう? うい?」

「隆……」心底冷めた目。隆は、大隈先生の名前。

「何か言ったかい? はにー」

「『はにー』はやめなさい」

 と言いつつ、彼女は顔を背けた。呆れ百パーセントに近い顔だった。

 ちなみに、百パーセントに近い、ということは、残りの数パーセントがあるということ。数パーセント分、微妙に顔が赤かった。

 大隈先生が、橙花たちに言った。

「彼女は真冬。

 あー。

 有栖真冬先生だ。五月にうちの学校に赴任することになってるから」

「あれ、じゃあ……」

 今日注文した花をあげる相手だということであり。

 それってつまり。

 大隈先生と結婚が決まってる相手ってことですよね。

「まだ四月ですけど、もうこちらに来てるんですか?」

「真冬の実家は神砂原町でね。今月頭に岡山に戻ってきてからは、その実家に住んでる」

 大隈先生の紹介を受けながら、なぜか三人の少女のうち橙花をまっすぐに見つつ、真冬は言った。「ええ。前は静岡にいたのだけれど、もともとはこちらの人間だし、こちらに戻ってくるって決めてたのよ。

 来月からあなたたちの学校の先生になるわ。よろしくね」淡々とした声。

「あ、はい」

 返事をした三人の顔を見てうなずいて、大隈先生がいった。

「立ち話もなんだし、どこかに入るか。

 浅口たちも、大丈夫か? おごるぞ?」

「うい」と深美。


 近くのファミリーレストランに入って、大隈先生と真冬の向かいに三人の少女が座り、メニューを見て、注文した。

 ちょうどお昼時だったので、大隈先生のおごりで昼食。大隈先生は生鮭たっぷり海鮮丼を注文。真冬は、ダイエット中の女性にどうぞという売り文句の小さなステーキ定食。橙花は、面白そうだったので鮫ステーキ。くぼやんはトーストセット。深美は讃岐うどん岡山産(そういう商品名)。あと、少女三人はそろってデザートにパフェ。大隈先生のおごりなので。

 食事をしながら会話。大隈先生と真冬の馴れ初めの話を聞いたりなんかした。

 まあ、馴れ初めというのとはちょっと違うかもしれない。話によると、親が決めた結婚なのだそうだ。だから、出会ったときには既に、将来の結婚相手だった。

「あれ? そうだったんですか?

 でも、それなら結婚するの、遅くないですか?

 そういうのって普通、もっと早くに結婚すると思うんですけど」

「あー……」

 大隈先生は、視線こそ向けなかったものの傍らの真冬を気にするような様子を見せて、言葉を曖昧に濁らせた。大隈先生は現在三十歳。考えてみると、そんな間柄であったなら大学卒業後とかに同棲をはじめても良かったはず。

「全てを即決してしまう必要は無いと思ったのよ」

 と、静かな声で、真冬。

「それに。

 ……。

 まあ、少し距離を置いてみるべきだと思ったのよ」

 淡々と、真冬は食後に頼んだコーヒーをスプーンでかき混ぜていた。

 だがなぜだろう、橙花はふと、そんな真冬の様子は『淡々と』というよりも『しみじみと』と表現してもいいもののように思った。

 わずかに。

 本当にわずかに首を振って、真冬はコーヒーをかきまぜるのをやめた。

「お互い三十歳までって期限を決めてね。

 それまでにお互い、結婚をやめる理由が見つかったらやめてしまおうって、そう話したのよ。

 隆だって、他に結婚したい相手が出来るかもしれないと思ったし」

「……まあ、その、あれだ。

 そんなこんなで俺は三十になったし、真冬も八月で三十だ。

 あー。

 そういうことだ。うい」

 大隈先生が、話を早送りするようにしてそう結んだ。

 よく分からないけど、本当はもっと色んな感情があったんじゃないかなあと橙花は思った。そんな期限付きの約束をして、真冬は岡山を出て、一方の大隈先生は岡山に残っていたわけだ。どんな感情があって、どんな感情が育って、二人はここにいるんだろう。

 一方、その隣の深美は、単純にこう言った。

「でも、結婚するんですよねえ。

 二人はやっぱり、そういう運命だったってことですよね♪」

 なぜか微妙な微笑を、真冬は深美に返した。 


 食後。

 適度に空いている店内は、そのまま時間を潰すのにちょうどいい雰囲気で、空になったパフェのグラスを前に、大隈先生と真冬が自分たちのことを話したり、あるいは雑談したりするのを聞いた。

「でも本当に、大隈先生、浮気したりとかはしなかったんですかー?」

 と、深美。

「そういうこと聞くのはどうなんよ」

 と、呆れた顔のくぼやん。

「んー? はっはっはっ。しなかったなあ」

 別に動じた様子も無い大隈先生。こういうところはやっぱり無駄に大人物っぽい。

 真冬は、まったく気にしていないふりをしていたが、じーっと大隈先生を見ていた。

 大隈先生がふと視線を向けると、つんと視線をはずした。

 そうした自分たちとは年の違う恋人たちの様子に好奇心をかきたてられつつも、橙花は立ち上がり、言った。

「ちょっと失礼します」

 黒猫の入ったバッグを座席に残し、店内を見回して目的のドアを見つけて、てくてくとそちらへ移動。

 ……。

 個室は空いていたので、そのまま入り、ドアを閉める。

 ……。

 ~~。

 …………。

 ええっと!

 事細かに描写するようなことでもないので、描写は省略!

 ……。

 ~~。

 …………。

 個室のドアを開けて、洗面台で手を洗い、鏡に映ったいつもと変わらない自分の姿を見て、身だしなみの乱れが無いかをちょっとだけチェックして。

 級友と先生のいる、店内へのドアを開けた。

 ……?

 無人の店内は、まるで深い森のような緑一色。


 その、だいたい十五分後ぐらい。店内。

「橙花ちゃん、遅いねー」

「ぢゃなあ」

 深美が言って、くぼやんがうなずいた。

「あの子が戻ってきたら、そろそろ店を出よう。だが遅いな」と大隈先生。

「私が見てくるわ」

 真冬は肩をすくめた。

「ちょうど、お手洗いに行きたかったから。

 あなたたちは、ちょっと待ってて」

 すっと席を立った。

 その時、くぼやんが言った。

「ん。橙花のバッグがもぞもぞ動いとる。

 ……なんで橙花、いつも猫を連れて歩いてるんぢゃろな」

「猫?」と真冬。足を止めて、そのバッグを見た。

「そ。猫。見ます?」と深美。

 深美がバッグのチャックを少し緩めると、黒猫がもそっと顔を出した。物凄くうさんくさそうな目で、店内を見た。

 続いて真冬を見て、ぴたっと動きを静止させた。じーっと、うさんくさいものを見る目で見つめて。

 それから、歯をむき出しにしてうなろうとした。

 が。

 ひょいっと、深美に首の後ろを掴まれて持ち上げられた。ので、ぶら下がった姿勢で間の抜けた感じで深美にうなった。

 うかー。

「橙花ちゃんの猫なんですよ。

 可愛いですよねー。とっても可愛げのない猫なんですけど、それが逆に可愛いって言うかー」

「矛盾してるようで分かる気もする理屈ぢゃなあ」

 黒猫に恨みがましげに見つめられている深美に、くぼやんがそう言った。

 うかー。

 と、またうなる黒猫。でもぶら下がった姿勢なので間が抜けてかわいい。

「飲食店だぞ。バッグに戻せ。うい?」

「あ、そうですね。うい」

「そうぢゃな。うい」

 大隈先生の言葉にうなずいて、深美とくぼやんは黒猫をバッグに戻した。うかー。もがもが。

 そんな光景を横目に。

「お手洗いを見てくるわね」

 と真冬は言った。

 

 ばんばん、と音を立てて、橙花は真緑色のガラスドアを叩いてみた。

 う~ん。

 外にも誰もいる様子が無い。

 ガラスの向こう、真緑色に染まった外の景色には、緑色の太陽が光っている。緑のガラス越しだから緑色なのか。それとも太陽そのものまで緑色になっているのか。

 それに。

 不思議なことに、そのガラスドアは、まるでガラスではない材質のようだった。ばん、ばん、と音を立てて叩いてみたその感触が、大理石の壁でも叩いたようなのだ。

 透明な、そう厚くないガラスドアのはずなのに、おそろしく頑丈そうで、ぴくりともせず、壊れそうにもない。このガラスドアだけではなくどのガラス窓も似たようなもので、割って出ることも出来そうも無い。

 もちろん、ドアとしての機能も失われている。押すドアなのに引いてるとか、引くドアなのに押してるとか、そんなんで出れないんじゃなく。そもそも、目の前のこのガラスドア、入ってきたときは自動ドアだった。

 う~ん。閉じ込められてるなあ。

 橙花は踵を返して、店内に向き直った。

 誰もいない。

 黒に近く濃く暗い緑から、白に近く薄く明るい緑まで、様々な緑一色に変換された店内には、友人と先生たちの姿は見えなかった。そもそも、誰もいた形跡が無かった。橙花がお手洗いに立つまで座ってい椅子には、橙花が置いていったはずのバッグも無かったし、パフェを食べ終わった空グラスや飲み物のコップが乗っていたはずの机の上も、何も無い。

 まるで、世界はつい先週の木曜日にでも緑色趣味の彫刻家によって創られたのであって、今までそこに生きていたと思っていたものは全部彫刻家の見ていた夢でしかなかったとでもいうような。

 今見えているのは、余計な夢の消え去った、整然とした彫刻の世界。

 まるでそんな感じ。

 ついさっきまで座っていたはずの、けれどさっきよりずっと硬くなっているような気がする椅子に座って、緑の机に肘をついて頬杖をつきながら、橙花はそんな店内の景色を眺めた。

 どうしようかなあ。

 というか、どうしたらいいんだろう。

 閉じ込められていて、することも出来ることもない。

 机に突っ伏してみる。緑色の机の冷えた感触が、しばらくは頬に心地よい。だが、やがて、ちょっと冷たすぎる気がしてきた。パニックとまではならないが、不安な気分になる。

 顔をあげ、席を立って、しばらくきょろきょろしたあと、ふと思った。

 あ、キッチンのほうに行ってみようかな。

 今いる店内と奥のキッチンとは、ただ区画で分かれてるだけのつくり。間に閉まっているドアがあるわけではないので、何も問題なく行けるはず。こういう店のキッチンってバイトでもしないと多分見る機会ないし、ちょっと覗いてみよう。

 それに、勝手口とかあるかもしれない。出られるかどうかは分からないけど。

 キッチンへ。

 キッチンも、無人で緑色。

 うーん、変な景色。加工してない翡翠のような色の床に、どこかの川に旅行したときに見た石(蛇紋岩、だったかな)のような深緑色の調理テーブル。精巧な硬玉細工のようなガスレンジの上に乗った、中身が空っぽの緑の業務用鍋。

 やっぱり、誰もいる気配は無い。

 ガスレンジの上に鍋を乗っける所までは景色を作ってあるのに、ガスレンジの上に鍋を乗っけたであろう人の姿は無く、また、鍋の中身も空っぽのまま。

 空焚きは鍋によくないです。

 てくてくと、興味津々に緑色の調理器具を見たりしながらキッチンを横断し、それから、勝手口を見つけて近づいた。

 開くだろうか?

 ドアのノブに手を伸ばす。

 緑色のノブは、冷たく。

 本来そう機能があるべきと思われる方向にひねってみても、ぴくりともしない。ノブの形だけ精巧に彫刻したけれど、つかんでひねればドアを開けるためにまわるという機能は、つける気が無かったかのよう。

 しばらく試し、橙花はため息をついた。

 あんまり表に出すつもりは無いんだけど、不安がつのる。

 なんなんだろう、これ。

 いつになったら出られるのかな。

 それとも。

 出られないのかな。

 ちょっと。

 怖い。

 そう思っていると。

「出られないわよ」

 と、声がした。

 橙花は振り向き、店内フロアとキッチンとの間の、さっき自分が通ってきた出入り口のほうを見た。

 そこにいたのは。

 白いスーツと赤い靴をはいた。

 左右対称の。

 彫像のような。

 冷たい目をした女性。

「えと、あの……真冬先生?」

 なぜだろう。

 こんな不可思議な場所で、ちゃんと生きてる人に会えたというのに。

 駆け寄ろうとは思わなかった。

 彫刻のような顔立ちをした真冬を、橙花はじっと見つめた。

「悪いけど、出すわけにはいかないわ」

 真冬は、淡々と言った。

「あなたには、彫刻のように眠っていてもらう」

「あの……

 何を、言ってるんですか?」

 真冬は、肩をすくめた。

 それから両手を、奇妙に儀式的な、ゆったりとした動きでコートのポケットに入れた。その両手が左右完全に同じ動きで再びポケットの外に出されると、手の中には小さく四角く切りそろえた白い紙らしきものが、一掴みずつ掴まれていた。

 指を開き。

 そのまま、はらりはらりと床へ落とす。

 両手から規則正しく舞い落ちていく紙は、考えてみればありえないことだが、まったく左右対称の動きで、まったく同じ枚数、床に落ちた。

 左右に十三枚ずつ、二十六枚の白い紙が、翡翠のような緑の床に落ちた。

「形を成せ」

 真冬が小さくつぶやくと、紙がぴくりと動いた。

 どう見てもその一枚一枚は、少々厚みがあるだけの一重の紙だったはず。それが、十重二十重幾重にも折り畳まれた紙であったように、ぱたんぱたんと開かれ広がり、あっという間に、ドミノ倒しの早送りを見るように、面積を広くしながら一方へと伸びていった。それはキッチンと店内フロアとの境にまで伸びると、ずずっと位置をずらして持ち上がり、出入り口としての機能を塞いでしまった。ところどころに切り込み細工の入った紙の壁が、そこに出来ていた。

 ……。

 切り込み細工の入った、紙の?

 最近、似たものを見たような。

 ……!

 ああ、神砂原に初めて来た時だ。神砂原郷に車で向かう途中、真緑色に染まった空の下で、切り込み細工の入った白い紙の巨人を見た。

 なら。

 あれも、この人だったのだろうか。

 この、今日会ったばかりの真冬先生が?

「あの……わたしに何をしたいのか、なぜなのか、聞いていいですか?」

「ずいぶん、落ち着いてるのね」

「そ、そうでもないですよ?」

 実際、橙花自身はそう落ち着いているつもりも無かったし、後ろ手に触っている勝手口のドアのノブが回ってくれないだろうかと必死で思っていた。

 真冬はそんな橙花を見ていたが、言った。

「あなたには、何の罪も無い、と思うわ。

 ただ……。

 あなたの母親に、示さなければいけないのよ。彼女が思っているほど、自分勝手な行動など出来ないってことをね」

 あー。

 この人も、みいね母さんの関連の人なのか、と橙花は思った。

 みいね母さん、敵が多いなあ。

 ……? ということは、この真冬先生と、この前のヤクザさんは知り合いなんだろうか?

「彼女に自由に歩き回らせておくわけにはいかないのよ。

 だから。

 あなたを捕まえさせてもらう」

 そう言って、真冬は歩を詰めて来た。

 どうしたらいい?

 橙花は、開かない勝手口のドアに背中をぴったりつけた状態で考えた。後ろの扉は開かない。店内フロアへの出入り口は紙の壁が塞いでいる。元が十三枚かける二で二十六枚の小さな紙片だった紙の壁は、分厚そうとはいえ紙素材であることには間違いないように見えたけれど、でもすぐに破れるような紙なら、出入り口を塞ぐのに使ったりはしないだろう。

 それとも見せかけだけ逃げ道を塞いだだけで、突っ込めば簡単に破れる紙の壁だったりするのだろうか?

 試してみる価値はあるだろうか?

 といっても、店内フロアに出られた所で出口も無いはずだし、意味があるとは思えないけれど。

 試してみるだけ試してみようか。

 つかつかと、淡々とした歩調で真冬が近づいてくる間、橙花はそう考えた。真冬がちょうど橙花に手を伸ばそうとした瞬間に、瞬発的に、真冬を大きく迂回するコースで店内フロアへの出入り口へと走った。

 真冬がそれを追うように身体を翻した。急ぐ様子はなく、あくまで、鳥かごの中に手を突っ込んで鳥を捕まえようとする程度の動き。鳥かごの反対側に逃げた鳥に意識を向ける程度の方向転換。

 ただ、橙花を追って動いたとき、調理テーブルの上にあった緑色の鍋に腕が軽く当たり、床に落ちた。鍋が落ちたにしては奇妙な、すとんと床にはまるような音に、真冬は僅かに顔をしかめたが、気にすることでもないと、すぐに橙花を目で追った。

 ……?

 橙花は、むしろその鍋が気になった。

 鍋が落ちたのは、テーブルをはさんだ真冬の反対側。ちょうど迂回した橙花が移動した側だったので、店内フロアへの出入り口へと移動していた走りを止め、わざわざ少しUターンしてまで、床に落ちた緑色の鍋を拾った。

 あれ?

 なんで、この鍋が気になったんだろう。

 緑色の鍋を持って、テーブルの反対側の真冬と向かい合いながら、橙花は思った。

 何かが気になったんだけど、何が気になったんだろう。

 よく分からない。

「鍋では大した武器にならないわよ」

 真冬が、肩をすくめた。

「武器を持って逆らいたいなら、という意味だけれど」

 どうだろう。

 両手持ちの鍋は、あくまで調理用であって、武器には向かない。どちらかというと、漫画的に言えば頭にかぶって兜にするイメージ。だがスープ用の深底鍋なので、頭がすっぽり隠れて何も見えなくなるだけだろう。漫画的に言うと、バケツを頭にかぶった猫みたいな状態になるだけ。かわいいけど間抜け。

 なので、ここは別の用途に使ってみることにした。投げて、店内フロアへの出入り口をふさぐ紙の壁にぶつけてみる。

 形が投げにくい大きめの鍋なので、勢いよくとはいかずにへろへろとした投擲だったが、それでもなんとか届いた。ただの紙なら、これでも破れるはずと思う。

 だがどう見ても、ただの紙の壁に当たったような様子ではなかった。それは奇妙な様子で、紙の壁は凹みもせず、また、まったく音も立てなかった。鍋は紙の壁に当たった時点で位置移動のエネルギーをまったく失ったようになって、しばらくして、すとんとそのまま床に落ちた。

 なんとなくだが、想像できた。自動ドアがまったく開かなかったように、勝手口のドアのノブが回る様子も見せなかったように、あの壁はきっと、触っても紙の感触すら感じられず、壊れもしないだろう。

 あの白い紙の壁は、無理だ。

「大人しく捕まってくれないかしら。

 逃げられはしないんだから」

 出口は無く、逃げられそうもない。テーブルを挟んで真冬と向かい合いながら、それを認めるしかないのかなと橙花は思った。

 大人しく捕まるのも、一つの選択肢なのではないだろうか。

 危害を加えられると決まっているわけでもないし。

 でも……。

 ……。

 さっきはなぜ、あの鍋が気になったのだろう。

 あの鍋は、ただの鍋。

 最初は調理テーブルのレンジの上に乗っていて、真冬が腕で触れて床に転がり落ちただけの、ただの鍋だ。この緑一色の視界の中で、真冬と橙花と白い紙の壁以外の全てと同じように緑色に染まっている、鍋。

 ……。

 世の中の全ては論理的であるはずだ。

 それが、橙花を幼少期から育てた黒石うららの口癖だった。実際には、その後にそれを裏返すような言葉があっけらかんと続くのだが、それはひとまず置いておくことにして、すべては論理的であるとするならば、何かを疑問に思うというのは、見逃しかけている論理に気がつきそうになっている時。なら、何度も見直して、そこに潜む論理性を探さなければいけない。

 疑問が残るなら、それは何か、論理を見逃しているということ。

 何かを理解していない。何かが足りていない。正しい論理の在り処を見つけていない。

 なんだろう。なぜ、あの調理鍋が気になったのか。

 なぜ、調理鍋が床に落ちたのが気になったのか。

 ……。

 それは多分、鍋が、落ちたからだ。

 緑色の石で作られた彫刻のように、ガスレンジの上にあった調理鍋。それはガスレンジの上にしっかりと設置されていた。鍋はそこにあった。

 勝手口のドアのノブは回りもしなかった。店の入り口の自動ドアも、開く気配は無く、ばんばんと叩いても、揺れる気配すらなかったのだ。店で座ったソファーも、今思い返してみれば、まあ最初から固くてほとんど凹まないソファーではあったけれど、それでもなお固く、まったく凹まなかった気がする。緑紋岩製の彫刻の建物に紛れ込んだように、この場所では全てが固まっていて、何一つ動かなかった。

 あの鍋。

 ガスレンジの上に乗ってたとき、それは動かせたんだろうか?

 多分、おそらくだけれど、ガスレンジの上から動かせなかったんじゃないか。

 なんとなくそう思い込んでいたので試しもしなかったんだけれど、そうだったのではないだろうか。ガスレンジから一続きの石で作られた彫刻のように。立体としての形だけが作られた造形物のように。

 そう思う。

 橙花の考えていた論理では、そうだと思っていた。

 この場所で動いているのは、橙花と、真冬。

 そして、橙花はこの彫刻の風景を何一つ動かせない。でも?

 真冬は、まず間違いなく、この彫刻の風景の首謀者だ。まあ本人が作った必要は無いかもしれないけれど、少なくとも、この風景を利用して橙花を捕まえようとしている人だ。紙を動かして不思議な壁を作ったりということも出来る。

 仮定なのだけれど、もしかしたら、真冬はこの彫刻の風景の造形物を通常と同じように動かせるのではないだろうか。だから、ガスレンジの上で動かないはずの鍋が、真冬の腕がぶつかることによってテーブルから落ちた。

 どうだろう?

 論理的に正しい?

 ……可能性はある、というぐらいだろうか。仮定の部分が多い。でも、論理的には、可能性はある。

「あの、こういうことって、どうやったら出来るんでしょう。

 どうやったらこんな風に、全部緑色になっちゃうんですか?」

「私は、決められた正しい手順を踏んでいるだけ。

 あなたの母親のほうが、よっぽど非常識で非論理的でしょう?」

 うーん。母親についてに関しては、反論が難しいかも。

 銃弾を避けられるぐらいの母親だし。

 そんな会話をしながら、橙花は自分と真冬との位置関係をじっと測っていた。

 テーブルを挟んだ位置にいた真冬は、ゆっくりと、落ち着いた動きで、橙花を追う形でテーブルを迂回し始めた。

 元々は勝手口のドアの前に立っていた橙花が、さっきテーブルの周りをまわって逃げてきた移動経路を追う形で。

 ということは。

 勝手口のドアの前を通る。

「わたしを捕まえて、どうしようっていうんですか?」

「言ったでしょう? あなたをどうこうしたいわけではない。ただ、あなたの母親を大人しくさせる人質。それだけよ」

「……わたしは、母さんに心配させたくないです」

 だから。

 真冬が勝手口の前に来たのを見計らって、俊敏な猫のように、橙花は彼女に飛びつき体当たりした。勢いをぶつけてダメージを与えるよりも、抱きつくようにして、勢いを乗せて真冬を後ずらせることを重視して。

 とっさのことで、真冬は橙花に抱きつかれる形で後ずさり、勝手口のドアに背中をぶつけた。

 素早く、橙花は両手で真冬の左手を掴み、勝手口のドアノブに押し付ける。それから、左手は真冬の手を押さえたまま、右手で素早くドアのノブを回す。

 ドアノブは。

 回った!

 ドアノブは、彫刻としての無機能さから本来のドアノブとしての機構を取り戻し、がちゃりと回った。押して開くドアだったので、背中を押し付けていた真冬の体重でドアは開き、外へと通じた。

 外だ!

 そのまま尻餅をつく形で倒れこんだ真冬を避けて、橙花は外に出た。

「なぜ! なぜドアが開くの? 開かないはずなのに!」

 ?

 真冬は、ドアが開かないものと思っていたらしい。自分が触れたらドアは本来の機構を取り戻し、開いてしまうと、少なくとも真冬自身はそれを知らなかったということか。

 そこから何か、論理的に導き出せそうな情報がありそうな気もしたが、ともかく今は、橙花は目の前の路地を走った。

 風景は、人間の町の色彩。

 通常の明暗と色彩が太陽の下で色づいている、本当の町。

 出れたんだ!

 路地の向こうには、人の生活感がある。

 人がいる。

 それを感じて走っていくと。

 人にぶつかった。

 

「ぅおっと?」

「あ」


 新入社員みたいな濃紺スーツをガラ悪く着崩した青年が、路地の入り口に立っていた。ぶつかってきた橙花を抱きとめる形で、まじまじと見つめる。

 というか。

 ヤクザ三人組の若一点。

 ジンだ。

 お互い、最初の一声の後、声も無い。

 見詰め合う数瞬。

「どうした? ジン」

 声がして、見ると、目の前の表通りに止まっている車の前に、ヤクザ三人組の残り二人が立っていた。

 月山が橙花に気付き、さも驚いたというように笑った。

「グラッチェ! なんだ、ジン。探しにいったと思ったらもう見つけたのか! つか、お前、探しにいってもないなあ。目を離すタイミングも無かった」

「いや、この子のほうから飛び込んできたんですよ。

 それはともかく、ほら、嘘ついてなかったでしょ? さっきも見かけたんですよ。だから探しましょうって、そう言ったんですよ。

 ほら、ちゃんといた」

「そだな。うん、偶然ってのはあるもんだ。

『奇跡は起きます起こしてみせます』、めでたしめでたし」

「なんすかその名台詞っぽいのは」

「名台詞だぞ。知らねェのかオマエ」と、髭面の大男の日野。

「ああそうすか」少しうんざりした様子のジン。

 橙花はちょっとパニックになりながら、周囲を見た。表通りだというのに、視界には運悪く誰もいない。

 真冬とこのヤクザとは、連携していたのだろうか?

 緑一色の彫刻の景色から逃げられても大丈夫なように、勝手口の外の路地の先で待ち伏せていた?

 いや、さっきの会話だと、どう聞いてもそんな様子はない。ジンたちは真冬とは別。ここにいたのは偶然。

 だとすると。

 どうしたらいい?

 逃げてきた路地を振り返る。真冬の姿は見えていない。追いかけては来なかったらしい。それともあるいは、ジンたちに気付いて引き下がったのか。

 ……。

 ジンはどちらかというと、年長者二人との会話に注意が向いている。少女に対するには無作法に、がっちりと橙花の肩をつかんでいるけれど、今なら思い切って振りほどけば逃げられるとは思う。

 ただ、表通りには彼らの他には誰もおらず、路地の入り口にいる橙花が表通りに出ようとすると、その経路を塞ぐ位置にいる月山と日野をかいくぐらないといけない。多分、とても難しい。

 逆に、彼らとは反対方向、路地の奥へと戻るなら、多分ヤクザ三人組には追いつかれないけれど、おそらくは真冬がいる。

 えと。

 不可思議な力を使う真冬の手の内におさまってしまうぐらいなら。

 言っては悪いけど単純そうなジンたちに捕まるほうが、後々逃げる機会がありそうな気がする。

 そう判断をつけたのと同時に、というより判断をつけるより一歩先に、ジンが、橙花の肩をぐいっと引っ張った。

「とにかく、人が来る前にずらかりましょうよ」

「お! いいぞ! そのセリフ、ディモールトいい! ディモールト小悪党っぽいセリフだ! 脱帽だ! ジン、お前は俺を越えたかもしれん!」月山は愉快そうだった。

「めちゃくちゃ嬉しくないんですけど」と、ジン。

「どうでもいいから行くぞ、オイ」と日野が車に乗り込みながら言った。


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