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 2、

 

 四月の朝。

 穏やかな春の気候。

 ぱちっと、橙花は目を覚ました。とても目覚めが良かった。

 まるで高級旅館のような古風な木目の天井を見上げていた後、畳の上に敷かれた布団の上で身体を起こした。昨日、緑色の奇妙な空の下、車の中で眠りに着いたのは何時頃だったか。あの後、車は無事に神砂原郷の家に着いて、誰かが橙花を運んでこの布団に寝かせてくれたらしい。

 あの紙の巨人はなんだったのかな、としばらく考えた。

 うーん。

 心当たりないし。

 部屋の扉を開けると、目の前は縁側になっており、中庭が広がっていた。うわー。きれいな景色!

 朝の日差し。小鳥のさえずり。緑の山々。

 絵に描いたよう。

 うん。

 気分がいい。よく分からないことを考えるのはやめよう。

 縁側をぺたぺた足音を立てて歩いていくと、土間があって、洗い場があった。

 一文字さん(仮名)が、少し眠そうな顔で歯を磨いている。彼は、どうやらこの屋敷に住み込んでいる人間のようだった。

 というか、結局、この人の名前は一文字さんでいいのかな?

 ……。

 まあ、いいか。

「一文字さん、おはようございます」

「……一文字ぐるぐる」

 ?

「という単語を聞いたことがある気がする」

「ああ。それ、熊本のお土産品です」

「? そうなのか?」

「はい」

「ふーん、物知りだな。

 ああ、忘れてた。おはよう」

「おはようございます」

 そんなやり取りの後、一文字に案内されて、橙花は朝食が用意された居間に向かった。あさぎの姿は無い。

「あさぎ奥様は朝が弱いので、昼過ぎないと起きてこない。まあ、一日中寝てることもあるな」と、一文字。

 朝食は、白いご飯にアジのひらき。それと、あまり馴染みの無い種類の魚の煮付け。純和風。なかなか美味しかった。

 誰が作ったのかと聞いたところ、ご飯を炊いたりアジを焼いたりぐらいは一文字。煮付けはもらいものだそうだ。

「食べ終わったら、学校まで案内するよ」

「あ、はい」

 今日は月曜日で平日。十四歳の橙花は学校に行かなければいけない日だ。長旅の翌日ぐらい休みたい、と思う人もいるかもしれないが、橙花はそうは思わない。新しい場所の生活には、出来るだけ早く馴染みたい。

 黒猫の入ったバッグを持ち、外に出る。

 うわー。

 改めて、目の前の風景に感嘆した。砂原の屋敷は山の中腹にあって、盆地が目前に広がっている。その盆地に広がる家々が、神砂原郷。

 四方を緑の山々に囲まれた神砂原郷には、古い建築様式を残した家々が建っている。そのうちの六割は、きっと江戸時代からの建物なんじゃないかと思う。山の森の濃い緑から、盆地のあちらこちらにある畑と空き地の草の明るい緑。それから、古い建物の屋根の、ほんのり緑がかったような焦げ茶色。そんな緑色が基調の風景の中を、透明な青翠色の水を湛えた細い川が一筋、涼やかに横断している。

 川の一端をたどる形でさらに見回すと、向かいの山の中にぽつんと、緑の中で目立つ紅色の屋敷が見えた。

 異人館、だっけ?

 その異人館の見える位置から推測すると、昨日橙花が降りた新幹線の駅とその周囲の町、神砂原町は、異人館の方角のさらに向こうのようだ。ただし、この位置からでは山に隠れて見えない。

 大きく息を吸い込む。月並みな感想だけれど、空気もとても美味しい気がする!

 晴れやかな気分で家の近くに目を戻すと、一文字が車の前に立っていた。

「車で行くんですか?」

「歩くと一時間ぐらいかかるよ」

 車に乗り、出発。山の森の景色の中を降りていく。

 明るい春の光。空には、青さを引き立たせる白い雲がちらほらとあるばかり。晴れの一日のようだ。

「帰りは、午後三時には迎えに行くようにしておくよ」

「あ、いえ」

 外を流れていく景色を楽しげに見ていた目線を一文字に移して、橙花は首を振った。

「歩いて帰ります。道順も覚えられそうだし、色々歩いてみたいんです」

「そうかい?

 じゃあ、気が変わったら連絡をくれ。

 携帯電話、持ってるよね」

「はい」


 山間の底まで降りていくと、明緑色の草の空き地や畑でところどころ大きく視界が広がっていて、盆地ながらも広々とした印象だった。散らばる家々は、山の上からの景色で感じていたように古いものが多かった。けれど、意外に良く手入れされている。上品な老人のような郷、と言えるかもしれない。

 学校は、都会の学校のような堅苦しい校舎ではなく、親しみやすい公民館か村役場のような印象だった。

 車を降りた所で一文字と別れ、門を過ぎ、建物に入った。辺りを見回すと、すぐに職員室のドアが目に入った。

 中に入って、挨拶と用件を言うと、教頭先生の所へと案内された。教頭先生は大きなメガネをかけたおじさんで、金魚みたいだがどこか愛嬌のある目をして、橙花に「ようこそ」と言った。

 それから、学校に関する説明。

 学校の名前は、神砂原郷学校。見ての通りこぢんまりとした学校で、見かけこそそれなりに大きいかもしれないが、実は、この建物一つで小学校と中学校の両方を兼ねている。子供の数も少なく、一学年に十人程度。そのため、授業によっては複数の学年で合同に行ったりもするそうだ。

「君は東京から来たんだから、随分と新鮮に思うと思うよ。驚くと思うと思うよ」

 と、金魚みたいな目の教頭先生。

 思うが少し多いと思いますよ。

「でも君の同級生になる子供たちはみんないい子だと思うから、君もすぐに仲良くなれると思うと思うよ。

 あと、思うことは……。

 これは学校に関することじゃないと思うし、君は砂原さんの養子になったということだから砂原さんから聞いていると思うと思うけれど、異人館の方角には遊びに行ったりしてはいけないよ。無闇に山に遊びに行くのは良くないことだし、それは君も分かっていると思うと思うけれど、特に異人館には、子供だけではダメだよ。分かっていると思うと思うけれどね」

 ?

「あれ? もしかして何も聞いてないと思う? それは、良くないと思うと思うのだけれど」

 やっぱり、思うが少し多いと思うと思いますよ。

「はい。聞いてないと思うと思います」

 と、橙花は答えた。

「むむむ……」

 と、教頭先生。

 しばらくして。

「じゃあ、ひとまず私と約束しておいてもらおうと思うよ。多分、砂原さんからもまた聞かされると思うと思うけどね。

 異人館には、みだりに近づかない。

 約束してくれると思うけれど、そう思って構わないね?」

「はあ」

 異人館。

 そういえば。

 神砂原郷に来る途中の車の中で、一文字も似たようなことを言っていた気がする。異質な建物。文字通りの『異人』館。だからあまり近づいちゃダメ。そんなこと。

 あとで、あさぎか一文字に詳しい話を聞いてみよう。

 そう思いながら、橙花は教頭先生にうなずいた。 

 

 教頭先生に案内されて、自分が転入することになるクラスの教室に来た。

 話によると、この時間は朝礼で、中学三学年を一教室合同で行うそうだ。二年生である橙花の同い年とその前後の年の生まれの人間が同じ教室内にいるわけだが、それでも四十人いないらしい。

 がらがら、と、木製のドアを開ける。

 中には橙花と同年代の少年少女たちと、それから、教壇に一人の大柄な男性がいた。

 男性はのっそりとした風貌で、背も高ければ肩幅も胸板も広く厚く、まるで二足歩行の熊のようだった。灰色の薄汚れたスーツを着ているので、灰色熊さんといったところ。

 熊さん、とさん付けなのは、その顔が実物の熊より漫画の熊さんを思わせる愛嬌のある顔だから。目なんかパチクリとまん丸で、間が抜けている。

 年齢は、三十ぐらいかな。

「大隈先生、彼女が転校生。聞いていると思うと思うけれど。というか、言ったと思うけれど」

「む?」

 大隈先生は、のっそりとした動きで、橙花を見下ろした。

 じーっと、高い位置からの目線。

 この先生、身長二メートルありそう。

 と橙花が目測していると。

「うん、らぶりー!」

 巨大熊さんが、臆面も無く橙花に対する感想を述べた。

「は?」

「うん、君、とってもらぶりーだ。ささ、入って入って」

「はあ」

「じゃあ、後はよろしくやってくれると思うと思っているよ」と、教頭先生。

「うい」と、大隈先生。「じゃあ、君、まず自己紹介から。あ、ちゃんとクラスのみんなの方を向いて」

「はあ」

 上機嫌な大隈先生に促されて、生徒たちのほうを向く。

「砂原橙花です。

 これからよろしくお願いします」

 同じ学校の生徒になる同年代の少年少女たちに、ぺこりとお辞儀した。

「砂原?」

 と、つぶやき返す声が聞こえた。

 つぶやき声に答える形で、大隈先生。

「うん、砂原のお屋敷の親戚の方だそうだ。しばらく、神砂原郷に住むことになる。

 じゃあ、空いてるそこの席に座ってくれるかな」

「はい」

 窓際の一番後ろの席が空いていて、そちらへ向かった。途中、すれ違う席の子供たちの、好意的な好奇心の目に少し照れながら歩いていく。

 が。

 一番後ろの、橙花が示された席の隣席の少女だけは、ちょっと視線の質が違った。なんだか敵意が入っているっぽい。

 一番後ろまで近づいていくと、その少女が、がんっ、とこれみよがしに足を橙花の通り道に突き出した。

 えと、転んでくださいということでしょうか。

 でも、ちょっとタイミングが早すぎたのと、あまりにこれみよがしなので、橙花はその突き出された足の前で立ち止まってしまった。

 えと、どうしよう。

 ちゃんともう一回歩き出して、躓いて転びそうになってから怒ったほうがいいのかな?

 そう橙花が思っていると。

「……冗談じゃ。

 砂原の家の人。冗談じゃ」

 と、少女はぷいっとそっぽを向いて、足を引っ込めた。

 はあ。

 よく分からないなあと思いつつ、橙花は席に座った。

「くぼやーん、そういうことは良くないと思うなー」

「じゃーかしぃ」

 足を出された直後こそ周囲の雰囲気がまごついたものの、すぐに教室は和やかな雰囲気に戻った。

 橙花の前の席の少女と、さっき足を突き出した隣席の少女の間で交わされた会話で分かったことが一つ。どうやら隣席の少女のあだ名は『くぼやん』のようだ。苗字が久保さんとか、その辺りなのかな?

 そっぽを向いたままでこちらを向こうとはしない隣席の少女を見ていると、今度は、前の席の少女が橙花に話しかけてきた。メガネをかけていて、一見大人しそうだが、よく見るとそうでもなさそうな女の子だ。

「くぼやんのことは気にしないでね。すぐに仲良くなれると思うから」

「じゃーかしぃ」ぼそり、とくぼやん。

「で、私は浅口。浅口深美。よろしくね」

 教壇から、大隈先生の声。「おーい、浅口。後ろ向いてんな。朝礼を続けるぞー」

 ただし、大人しそうなメガネをしてやっぱり大人しくないらしく、浅口深美は完全無視。「砂原のお屋敷の親戚なんだよねー。これまで、どこに住んでたの?」

「おーい、浅口ー」と先生。

「えと、浅口さん、先生がこっち見てるけど」

「えー。ほっといていいんだけどなー。クマ先生、甘々だし」

「んーと」

 困ったなー。

 どうしたものか。

 このまま、先生を無視し続けていいのかな。

 なんとなく、隣席のくぼやんを見た。もちろん、そっぽを向いていて何も助言してくれる訳もない。

 しばらくするとさすがに見かねたのか、大隈先生がその巨体で机の間をのそのそと縫って近づいてきた。ただ、どうするのかと思ったが怒るでもなく、ぽんとその大きな手で浅口深美の頭を撫でるように小突いただけだった。

「はい、浅口、黙る」

 甘々。

 迫力とか威厳とかは無い先生だなー。

 ただし、そのわりに意外に慕われているようでもあり、深美が先生を見る目は好意的だった。

「はーい、先生」

「まあ、朝礼はすぐ終わるから。一時限目は、少し遅れることにしよう。

 だから、それまで黙る。うい?」

「うい、です」

 くすくす、と浅口深美は笑っていた。

 そのまま、大隈先生は教壇に戻るでもなく、浅口深美の席の傍らに立ったままで朝礼を続けた。時おり深美の興味がそれてしゃべりだしそうになると、軽く小突いて口を閉じさせた。まあ、威厳は無いが、そもそも教壇にこだわらないところから見て威厳はあまり気にせず、地味な面倒見のよさで生徒たちには好かれているらしい。

 朝礼の時間が終わると、大隈先生は出ていった。

 教室には生徒だけになり、橙花の周囲に好奇心たっぷりな様子で人が集まった。そんな相手に自己紹介をしたりされたりしながら、時間が過ぎる。

「クマ先生だけど」

 と、会話の流れの中で、浅口深美が言った。

「ロリコンっぽいけど、まあ、そうじゃないらしいから。

 安心していいよ?」

「えと、うん」

 橙花は、とりあえずうなずいておいた。

 ちなみに大隈先生が、うい、とか、らぶりー、とか、そんなことを臆面も無く言っていたあたりでは、みいね母さんを思い出したのは内緒だ。まあ、みいねは、うい、とか、らぶりー、とかは言わないが。

 そんなみいね母さんと比べて、と言ってはなんだが、大隈先生は言葉が臆面も無いわりには態度はさらりとしたものだった。だから、浅口深美に言われるまでもなく、橙花の中ではロリコン疑惑は頭に無かった。

 浅口深美はにっこりとうなずくと、話を続けた。

「クマ先生、もうすぐ結婚するのよ。結婚式がいつかはまだ決めてないらしいけど。なんか、婚約者がいるんだって。

 その人、もうすぐ神砂原郷に来るんだって。その人も教師で、うちの学校に赴任してくるらしいの。

 で、歓迎会とかしなきゃいけないから。砂原さんも転校してすぐで悪いけど、歓迎会費にカンパよろしく!」

「あー、うん、わかった」

「うん。あ、そのうちプレゼントとか用意しに神砂原町のほうに行くんだけど、一緒に行こうね。日にち決めたら誘うから」

「うん」


 それから、授業。ただ、初日ということで、今日はほぼ見学という扱いだった。

 朝礼は中学全学年合同だったが、授業によっては学年ごとに分かれる必要もあったりして、学年ごとに移動教室が違ったりとか、少し新鮮だった。なお、くぼやんと浅口深美は橙花と同学年。なので、授業の移動先は一緒。

 転校生の初日としては、格別大きな出来事は無い。

 バッグの中の黒猫がさっそく見つかって、一悶着あったくらい。黒猫はうさんくさそうに教室の生徒たちを見ていたが、生徒たちは、興味津々で黒猫の周囲に集まった。男子生徒の中の数人は、なぜか学校に持ってきていた水鉄砲でちょっかいを出して、黒猫の興味を惹こうとしていた。もっとも黒猫の側は興味を惹かれなかったらしく、バカにした目で見ていた。

 黒猫を見つけた大隈先生はさすがに難色を示したが、「授業中には外に出さないように」とだけ言った。

「大人しい猫だし、授業中も出していいように先生に頼んでおきましょ。

 大丈夫。すぐに言い含めれるから」

 と、深美がくすくす笑いながら、ら抜き言葉で言った。

 

 給食を食べて、休み時間があって、掃除があって、午後の授業があって、学校は終わり。

「私は部活あるから。

 橙花ちゃんはどうする?」

 と深美。

 んー。

 橙花は、窓の向こうの明るい外を見た。

 窓の外は日が高く、春のいい天気。

 こんな日は。

 外を歩きたい!

 黒猫を連れて、さんぽさんぽ!

「いろいろ歩いてみたいから、帰るね。

 じゃ、また明日」

「うん、明日」

 教室の前の廊下で深美と別れ、外へと向かう。

 玄関口。

 すると。

 ?

 隣席の少女、くぼやんが立っていた。誰かを待っているようだ。そう思っていると、橙花を見て近づいてきた。橙花を待っていたらしかった。

 むっとしたような、怒ったような、それでいて目を逸らした状態で、立ち止まった。

「よお」

 ?

 どうしたのかなと思っていると。

「……その、まあ、朝はすまんぢゃったな。足なんぞかけようとして」

 あー。

 うん、そんなこともありました。忘れてたけど。

「うん、その、気にしなくていいよ」

「そうか? うーん……」

 くぼやんは中途半端そうな顔をしていたが、しばらくしてようやく気持ちの整理がついたらしい様子になって、こちらを向いた。

「うん、じゃ、気にせんことにしとくけん、その、一緒に帰らん?」

「ん、いいよ」

 どういう心境の変化なんだろうなあとは思ったが、悪いこととは全く思わなかったので、うなずいた。

 校舎の外へ。

「砂原の屋敷に住んでるんよな。

 結構遠いちゃろ。道、分かるん?」

「まあ、だいたい。でも、少し迷うぐらいが楽しいと思うな」

「そうなん?」

「そうなん」

 穏やかな気候の盆地の底を、のんびりした気分で歩いていく。

 道すがら、くぼやんは、神砂原郷にある少ない店のことなどを教えてくれた。

「あそこが、唯一のコンビニ。というか、駄菓子店というか。うーん。

 あたしのじいちゃんが言うにゃ、昔はほんとに駄菓子屋ぢゃってんが、今でも中身はそう変わらんて言うてた。冷え冷えの棚がついて自動ドアがついたらコンビニなんぢゃろかね、て。

 今日だと多分、店番はうちの学校の小学生の子ゃよ。婆さんと父親と交代で店番しとる。生意気な奴ちゃ」

 なぜか自動ドアだけ真新しいそのコンビニの前を通りすがると、店の奥に小学生らしい女の子がレジ台で頬杖をついているのが見えた。あまりやる気があるようには見えない。

 盆地のだいたい中心にある学校から、そんな神砂原郷の風景を歩いて、外縁の山の近くへ。

 ちなみに、くぼやんの本名は窪屋八重子だった。久保ではなかったが、より『くぼやん』にふさわしい苗字かもしれない、うん。

 くぼやんは、こうして並んで歩いていても時々顔を若干伏せたり逸らしたりして、少し口元を隠そうとするような癖があった。ふとした拍子に、口の中に小さく八重歯が見えた。どうやら、その八重歯を気にするのが普段からの癖になっているらしい。何か話題に詰まったり、考え事をしたりすると、その癖が顕著に出るようだ。八重歯、かわいいと思うけどなあ。

「あのさ。

 砂原の家に、親戚の子供がいたって話、聞いたこと無いんぢゃが、えと、どういう親戚なん?」

「んー。親戚っていうか、養子」

「そうなん?

 ふーん。

 じゃあ、砂原あさぎとは血はつながっとらんのんか。

 じゃあ砂原のことはどのくらい知っとるの?」

「砂原のことって?」

 くぼやんは、少し、そっぽを向いた。話を続けようかどうか、迷ったらしい。

「砂原あさぎが予見者ってのは聞いとる?」

「うん」

「でも、予見したことをよう言わんことがあるのは、知っとる?」

「?」

 ふーん。

 そーなんだ。

 という顔を橙花はしていたので、聞いたことは無かったということはすぐ伝わったらしかった。

「砂原あさぎは、よう自分が見たことを黙っとるんよ。見えてるのに、分かってるのに、言わん。

 ……そりゃあ、それには理由があるってことは聞いとる。

 でも、納得できん」

 予見を言わない予見者。

「理由って、どんな理由で言わないの?」

「砂原あさぎが口にするのは、良い予見だけ。

 悪い未来は言わないんよ」

 悪い予見は口にしない予見者。

「悪い予見は口にした時点で確定して避けられんようになるんぢゃて、そう言いよる。で、郷の人間も、砂原あさぎが黙ったらそれは悪い予見が見えてるんぢゃて、それだけ理解して、それ以上は聞かんようにしとる。

 でも、それって違うと思わん?」

 思いのほか真剣な目で、くぼやんは橙花を見つめた。

「予見を口にしたからって、ほんとに避けられんようになるかなんて分からんぢゃん。

 むしろ、悪い未来が見えたらいくらでもそれを変えようと努力出来るはずぢゃろ? 変えられんほうが、おかしいぢゃろが。

 それを、言わんなんて……」

 苛立たしげに言葉を続けようとしたが、言葉に迷った後、くぼやんはそっぽを向いて顔を伏せた。

「まあ、あんたは来たばかりぢゃし、親戚の人間のことを悪う言われたら気分悪いよな。

 すまん」

 橙花は、昨日の新幹線の改札口でのあさぎとの会話を思い出した。

 寝坊するのは分かってたけど、やっぱり寝坊したのだと、あさぎは言っていた。寝坊ぐらいの小さいことなら笑い話だけれど、もっと大きなことだったらどうだっただろう。本人は、周囲の人は、どう思うのだろう。起こってしまったらずっと後悔するようなそんな出来事を、先んじて知っていても、変えられはしないのだとしたら。

 当人は、それでも何かが変えられたのではないかと後悔し続けるだろうし。

 周囲の人は、それでも予見者には何か出来たのではないかと心の底で予見者を責め続けるだろう。

 変えられないと、しても。

 なら、いっそ口を閉じる。自ら方向性を狭め、目を閉じ、全ては成るようにしか成らないのだと、何度も自分に言い聞かせる。

 ……そんな気持ちは、分からないでもない気がする。

 自分の母親になった砂原あさぎは、どんな思いを抱えて生きてきたのだろうと、ふと、橙花はそう思った。

 盆地は終わり、まだなだらかながらも道に勾配がついてきた。そういえば、くぼやんの家はどのあたりにあるのだろうなと思った時。

「ちょっと、君」

 と、声をかけられた。


「君、ええと、浅雲橙花、だよな」


 砂原姓ではなく、浅雲姓で呼び止められて、橙花は足を止めた。

 見ると。

 声をかけてきたのは若い青年で、この土地にはどうにも似つかない濃紺のスーツを着ていた。スーツだけを見ると、新人の会社員といったようにも見える。ただしスーツの下はラフなシャツで、ネクタイもしておらず、あまり真面目な会社ではないか、もしくは彼本人が真面目な社員でないといった様子だった。

 髪は少し長め。人によっては『かっこいい』と判断する人もいるぐらいの見かけ。

 ただし、愛想はあまり良くなさそう。

 それほどの顔でもないのにクールを気取ってると判断されるか、それとも、そんな態度がそれなりに似合ってると判断されるかは、微妙な感じ。

 あまり気が乗らないような、事務的な様子で、言葉を続けた。

「話があるんだけど、ちょっといいかな」

「なんぢゃ、見ん顔ちゃな」

 と、くぼやん。

「あんま見ん顔が三人もぞろぞろと、珍しな」

 スーツ姿の青年の後ろには、二人の男がいた。年齢はたぶん、三十代。

 一人は、背よりも横にがっしりとして、屈強そうで、アゴからモミアゲまで濃く黒々と生え揃った髭面で、単純で豪快磊落そうな男だった。なんだか中国の時代劇とかに出てきそう。なんだっけかな、えと、三国志の、主人公の兄弟の一人の豪快な武将っぽい。

 もう一人は、背が高くて、やせぎすで針のようだった。顔は、こずるそうで頭がまわりそう。長髪で、無精髭で、片方の目を眼帯で覆っている。ついでにこちらも三国志っぽい観点で言うと、武力もあるかもだが、知略策謀もある程度はありそう。三国志に隻眼の人っているのかな。いるなら、きっとその人に似てる、かな?

 変な組み合わせ。

 三者三様。

 一人だけ年齢の離れた濃紺スーツの若い青年が、くぼやんに言った。

「君には用はなくてね。そっちの子に用がある。

 その、東京での知人の知人といったところになるんだが。

 おとなしく、君は帰ってくれないかな」

「なんぢゃ、おとなしく帰れって。めっそ怪しいやん」

 一歩引いて会話を聞いていた長髪片目の男が、面白そうに言った。「うん、めっちゃ怪しいぞ、ジン。すごくいい。すごくこの場にぴったりだ。

 でもまあ、それは俺の主観であって、この場をうまくまとめられるディモールト・ベネ・グッドな言葉であったかといえば、断じて否だ。

 というわけで、お前のトーキングに対する採点を述べよう。

 下手くそ。

 そんなんで人さらいが務まるか」

 傍らにいた、単純そうな髭面が言った。

「ってか、めんどくせェだろ。

 無理やりでいいだろが。

 そんなガキ、さっさと帰らせろ」

「無理やりオレにまかせて押し付けたのは月山さんと日野さんじゃないですか!

 ってか、月山さん、『人さらいが務まるか』って名乗ってる月山さんのほうがNGじゃないですか!?」

「む? うん、そうだな。俺としたことが。ははは」と長髪片目の男。愉快そうだった。

「どうでもいいぞー。うぜェぞー。早くしろ」と単純そうな髭男。

 ここまでの会話からすると、長髪片目の男は月山。単純そうな髭男は日野。若い青年は、彼だけは姓では無いかもしれないが、ジンというらしかった。年齢どおりにジンだけ力関係で劣っていて、気安く扱われているが、口調から見る限り、そこまで上下関係が厳しいというわけでも無さそうだった。

 むしろ、力関係がはっきりしているからこそ態度はフランクでもいいと思っているような、そんな雰囲気。

「というわけで、話を進めろ、ジン」

「なんすか、その閑話休題は。

 まあ、分かりましたよ。

 えと、君。浅雲橙花」

「はい」

 とりあえず、返事はしておいた。

 ジンは、奇妙な年上の男性三人組に話しかけられても全然物怖じしないらしい橙花に少し驚いたらしい。ちょっと黙って、橙花を観察した。

 それから少し、目を逸らした。顔が少し紅くなった。

 一方、こちらは顔を赤らめるような若さも無く、臆面も無く月山が言った。

「お、声も可愛らしいねえ。うん、グッド」

「月山さん、なんすかその感想は」

 ジンは月山の言葉に顔をしかめ、それから橙花に目を戻した。

「そういうわけで、ついてきてもらう」

「はあ、えっと……」

 さすがに、この話の流れでついていくのはまずいかと。

 人さらいと名乗ってる相手についていくのは、さすがにちょっと。

 すると、ジンは手を伸ばし、橙花の手をつかもうとした。気付いて橙花は一歩下がり、間に、くぼやんが割って入った。

「なにすん。気持ち悪いぢゃろが」

「……」

 ジンは、くぼやんを見つめ、うっとうしそうな顔をした。どうやってこの邪魔な子をどかそうかと、そう考えているらしかった。

 今にも、暴力に訴えてもおかしくないように見えた。

 橙花は言った。

「えと、あなたたち、わたしのどういう知り合いですか?」

「どういうって……」

 くぼやんから目を離し、ジンは橙花を見た。

「……」

 なぜか、物凄く顔をしかめる。

 どう説明しようか迷っているというか、言いたくなさそうというか、そもそも何を言うのかを思い出すのもイヤだというか、そんな顔だった。

 ?

 言った。

「どうにかしたいのは君の母親だよ。

 浅雲みいねだ」

「みいね母さんがどうかしましたか?」

「なんなんだ、あれは」

 なんだというか。

 人の母親を『あれ』扱いするのはマナー違反。

 そんなことを思っていると、ふと、橙花は思い当たった。母親の浅雲みいねは今、トラブルに巻き込まれている。橙花が神砂原郷に来る原因になったトラブルだ。

 みいねは住んでいた土地を暴力団系の不動産屋に目をつけられて、暴力団な方々と関係がこじれていざこざになっていた。

 とすると。

 彼らはきっと、その方々だ。

 みいね母さんのトラブルの相手になっている、暴力団な方々だ。

「やくざやさん?」

「昔はこれでも、やくざいやさんになろうと思っていたんだ」と、月山。

「その台詞、なんにもおもしろいとこないですよ」と、ジン。

 それから、ジンは橙花に言った。

「まあ、うん、そういうことだ。

 でもな。

 そりゃあオレらはヤクザ屋さんだが、君の母親は、いったいなんなんだ?」

「?」

「あの女、銃弾を避けたぞ!? どういうことだ? あの女はミスター、じゃなくて、ミセスゴエモンなのか!? 現実の日本のどこに、銃弾を見てから回避する、木刀持った和服女がいるってんだ?」

「彼女、事務所のドアを木刀でぶち壊して入って来たのだが、ドアって木刀の一突きで根こそぎ壊れるものなんだねえ……周囲の壁ごと。

 ってそんなわけないと思うのだが」と、月山。

「あの女は、部屋に入ってきたかと思うと殴りかかるヤツを全部かわし、銃もかわし、一人ずつボコって気絶させては、悠々と、ナイフを取り出して髪を変な形に剃っていきやがったんだ!

 恐怖だった! 三十を過ぎたヤクザが、今さら昔の不良学生みたいにモヒカンにされたり、サイヤ人の王子みたいにM字剃りこみにされたり、バカボンのパパみたいな鼻毛だかヒゲだか分からない感じなヒゲにされたんだ!

 元からハゲのヤツは、もっと不憫だった! あの女、事務所にあったプラモデルとプラモデル用の接着剤を見つけやがって、ハゲ頭の上にくっつけやがったんだ! 俺はズゴックは好きだがズゴックを年がら年中頭の上にくっつけて歩きたいとは思わねえ!

 俺たちゃ組長を抱えて命からがらケツまくって逃げたんだ!」と、日野。

「まあしかし、個人的に気になることを言ってたなあ。

『探したぞ! 駅を降りて一日半かけて探してやっと見つけた! コロス!』って言ってたけど、東京メトロ南北線の駅から徒歩三分、駅出てすぐに見えます極道ビルが売りの事務所を探すのに、どうして一日半もかかったのか。気になったねえ。

 いや、ほら、女は地図が読めないというじゃないか。そう考えると、そういうところは女だなあとは思ったな。どうして女は地図をちゃんと読めないんだろう」と、再び月山。

「あ、それは確か、右脳と左脳の使い方のせいらしいですよ。男の人と女の人とでは脳の使い方に違いがあって、地図を読むのに使う部分を、女性は普段あまり使わないんだとか。

 でも、それはあくまで『普段あまり使ってないので使い方が分からない女性が多い』というだけの話なので、使い方さえ覚えてしまえばどうってことはないんだそうです」と橙花。ちなみに内容はうらら母さんからの受け売り。

「なるほど」と月山。

 ……。

 まあ、なんというか。

 みいね母さんの所業のことに話を戻すと。

 うーん。

 うん。間違いなく、みいね母さんだなあと橙花は思った。

 浅雲みいねはそんな人。

「まあ、そういうわけで」

 月山は肩をすくめた。

「組長たちが命からがら都内を逃げ回ってる間に、俺たちは浅雲みいねの弱味を見つけて探し出す役目をおおせつかったわけなんだ、これが」

「月山さん。なんでいつの間にか、ちゃっかり説明役にまわってんすか」いつの間にかしゃべり役から後退していたジンが、ムっとした顔で言った。

 それから。

 橙花をまっすぐに見た。

「悪いけど、逃がさないぞ。

 手段を選んでる場合でもないからな」

 ジンが取り出したのは。

 拳銃。

「ほ、ほんもの……!?」と、くぼやん。

「そう、本物だぞぉ」と、月山。「間違っても、水鉄砲じゃない。

 というか、さっきコンビニっぽい店に入ったら小学生の女の子が店員してたんで、からかったら水鉄砲で撃たれたんだが、あれはなんのサプライズなんだろうな」

 ? 水鉄砲?

 コンビニっぽい店、というのは、さっき前を通りかかった店だろう。小学生の店員だったし。

 水鉄砲? とさらに首をひねったが、思い出してみると、橙花も学校で水鉄砲を見かけていた。男子生徒が持っていて、それで黒猫の注意を引こうとしていた。半透明の黄色とか緑色とかのプラスチックで出来た、一目でおもちゃと分かる水鉄砲。

 流行ってるのかな?

「……知らんわ、んなこと」

 ジンが持つ、おもちゃには見えない拳銃に明らかに怯みながら、くぼやんが言った。

 強がってはいるけれど、少し震えている。

 それは、当然。拳銃なんて、映画の中だけで充分。

 本物の拳銃を前に平気でいられるのは、浅雲みいねぐらい。

 だけれど。

 だからといって、この脅しにそのまま屈するのはどうなのかと、橙花は思った。

「あの。

 わたし、そのみいね母さんの娘ですよ?」

「……は?」

「拳銃の弾を避けるというのはですね、理屈さえ分かってれば、そんなに非現実的なことじゃないんです。

 弾は、銃の銃口からしか出ないんですから。

 変なとこから発射されるわけじゃなくて、ちゃんと、手に持った銃から発射されるんです。だから、銃口の向きが分かっていて、銃を持つ手の動きが分かっていれば、その銃口の前にいなければいいだけの話なんですよ。

 発射された後の弾丸を避けるのは、そりゃあ非現実的ですけど、発射される前にその射線の前から避ければ、それでいいんです。

 で、それには相手の手の動きという、所詮は人間の動きでしかないものさえ避ければいいんです。それさえ分かっていれば、出来ますよ」

 と、ここまでは、実際にみいねが言っていた内容。ちなみにいつ言っていたかというと、昼間に海外ものの刑事ドラマの再放送を眺めながらだった。橙花が素直に「凄いね」と感心したら、みいねはこう言った。「そうだ!! 母さんは凄いだろう! そう、凄いんだ! フハハハハハ!」物凄い得意満面だった。

 それはともかく。

 銃口の前にいなければ、銃弾に当たるわけは無い。

 それは、当然。

 論理的に、正しい。

 ジンと、月山と、日野が、ちょっと目線を交わした。

 普通なら、銃弾がかわせるなんて話をそう簡単に信じるわけも無い。

 でも彼らは実際に、銃弾をかわす非現実的な浅雲みいねの行動を目の当たりにしていて。

 目の前に立っているのは、かわいらしい少女とはいえ。

 その浅雲みいねの娘なのだ。

「みいね母さんほどの腕前は無いですけど、わたしもみいね母さんの教えを受けました。

 拳銃なんて、脅しになりませんよ?」

 ざわ……。

 三人の男は明らかに不安を覚えた顔で、橙花を見つめた。

 この可愛い女の子が。

 銃弾を避けるほどの非常識さを持ち。

 ハゲ頭の上に接着剤でズゴックをくっつける残酷さを母親から受け継いでるのだろうか?

 橙花は怖がる様子も見せず、銃口の前に立っていた。

 そんな、こう着状態の続く中。

「あ、車」

 と、くぼやんが安堵した顔で言った。

「車。あんたら、銃をしまったほうがええんぢゃん?」

 ジンがそちらに目をやると、確かに車だった。もちろんこんな風に銃を突きつけているのを通行人に見られるのが良い状況なわけもない。

 ひるみ、立ち位置を少し移動して、車に背を向けて銃を死角にして見せないようにした。背中越しに、車を警戒する。

 当然、橙花たちへの警戒は甘くなる。

 そして、車がある程度の距離に近づいた瞬間。

「逃げよう!」

 橙花は、くぼやんの手を掴み、車に向かって走った。

「わわわ」と、くぼやん。

「あ」とジン。

 速度を緩めていた車に向かって走ると、車もさらに速度を落とし、停車した。その車に橙花は見覚えがあったし、乗っている人間にも見覚えがあった。一文字だ。

「やあ。必要ないという話だったけど、一応迎えに来たんだ」

「乗せてっ!」急いで扉を開け、後部座席に入る。「発車させて! 逃げて!」

「?」

 要領を得ない顔をして、一文字は橙花を見た。

「あの男たちなら、逃げてるよ? こちらも逃げるのかい?」

 見ると。

 ジンと月山と日野は、さっさとこの場を放棄して遠ざかっていた。やがてその姿が建物の陰に見えなくなると、しばらくして白いレンタカーが姿を見せて、神砂原町の方角へ遠ざかっていった。あれが、彼らの車らしい。

 ことが大きくなるのがイヤだった、ということらしかった。

「二人はどこかで見た感じの男だったな」

「え?」

 橙花は一文字を見たが。

「……。

 ああ、そうだ。なんだか三国志の張飛と夏候惇っぽい感じだった。残りの一人だけ三国志っぽくないのが実に残念な感じだったなあ」

 はあ。

 知ってる実在の誰かというわけではないらしかった。

 一息ついて、橙花は言った。

「あー、怖かった」

「えと、銃弾って避けれるんぢゃうの?」と、くぼやん。

「まさか」

「そうよな」

「うん、そう」

 浅雲みいねは銃弾を避けれるけれども。

 橙花は普通の女の子。

 

 その後は、念のためにくぼやんを車で家まで送った。

 それから、橙花と一文字も砂原の屋敷へ帰った。

 


「っていうことがあったのよ」

 晩御飯を食べながら、橙花は言った。

 机の向かい側では、砂原あさぎが眠そうな顔をしながら味噌汁の具の春菊を咀嚼していた。

 もぐもぐ。

 ねむー。

 一日の大半を寝ていると、どういうわけか残りの起きてる時間も眠い気分になるのはどうしてだろう。大半を寝て過ごしたのだから、残りの半分はすっきりした気分でいられればいいのに。

 ゆっくりとしたペースで晩御飯を食べ終えて。

 それからぼんやりと、あさぎは未来を見る。

 予見する。

 ……。

 現在から見た未来を見るのをやめて、過去から見た未来である現在に、目を移した。

 目の前の、現在の少女。

 それから、すでに過去になってしまった過ぎ去った未来のことを思う。

「その男たち三人組のことだけれど、もちろん私は知っていたわ。知っていて、黙ってた。ヤクザに拳銃で脅されるから気をつけなさいって、昨日の時点であなたに言うことも出来た。けれど黙ってた。

 どう思う?」

「?」

 橙花はあさぎよりもずっと先に晩御飯をよくかんで食べ終えていて、今はテレビに目を向けていたのだが、話しかけられて、振り向いた。

 眠気も曇りも無い大きな目をして、不思議そうに、あさぎを見る。

「うーん。どうと言われても」

「そう」

 少女の目は、現在とその前後の短い時間しか映っていないけれど本当に純粋で透明で。

 深く。

 自分の目は、どんなにか曇って色褪せているだろうかと、あさぎは思う。

 最後。

 彼女の時間の最後。

 少女のその目が、最後、どのような形で閉じられるか。

 それを、あさぎは知っているけれど。

 見て知っているけれど。

 それでも。 

 ……。

 しばらくして、廊下に置いてある電話が鳴った。橙花は音を聞いてそちらを向き、立ち上がろうとしたが、あさぎが言った。

「私が出るわ」

 急ぐでもなく、音の少ない動きで立ち上がり、なぜか手に座布団を持って、あさぎは廊下に出た。

 ジリリリリリリ。

 ジリリリリリリ。

 近頃の電話ではあまり聞かないそんな音。時代違いと言いたくなる黒電話のところまで歩くと、受話器を取った。

「はい。何かしら。眠いのよ。切るわよ」

「あら」

 電話の向こうの声は、女性の声。

「いつも思うのだけれど、貴方には未来が見えるんですから、『何かしら』と聞くのは失礼じゃないかしら。しかも、そう聞いておきながら返答も聞かずに『切るわよ』とはどういうことかしら。

『何も用が無いのなら切るわよ』という、そういう意思表示? ああ、やっぱりあなたの予見は嘘っぱちというわけね。私がなんの用で電話をかけたのか、貴方にはそんなことも見えていないと。それとも、見えるからこそ聞く必要が無いってわけ? この私の話を、一度予見で聞いたくらいでもう聞く気はないと?

 ふん。

 どうせ、未来が見えたところで何が出来るわけでも無いくせに。未来を見るより先に、目上の者に向ける節度を覚えなさい。

 人間ふぜいが」

「用が無いなら切るわよ、伽耶」

 そう言いながら、あさぎは受話器を持ったまま廊下に座布団を置き、腰を下ろした。長話に対する備え。

 コードを指でいじりながら、言った。

「言っておくけど、私は全知だと言った覚えは無いわよ。見られない未来だってたくさんあるし、見てない未来だってたくさんある。『何かしら』と尋ねるのが、そんなにおかしい?

 私の予見者としてのプライドにケチをつけるのはやめてちょうだい」

 そう言いながら。

 実は、この会話自体は予見していたし。

 電話をかけてきたこの相手が大した用も無く雑談をするために電話をかけてきたことも知っていたし。

 長話になることも知っていたけれど。

「まあ、あさぎ。そんなことよりも、聞きなさい。 

 今日のお昼に岡山テレビで北海道ローカルの旅番組の再放送をやっていたんだけど、ちょうどバイクで岡山を通り過ぎていくところだったのよ。それで……」

「はいはい」

 あまり興味なく聞き流すようなそぶりを保ちながらも。

 内心では、この、人外の時間を生きている友人の長話を不快には思っていなかった。

 電話の向こうにいるのは、人とは違う時間を見る砂原あさぎの数少ない友人。

 友人との長話は、いつだって、とても楽しい。


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