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世の中のすべては論理的に出来ている。
自然はもちろんそうだし、人の心だって、蓋を開ければ論理的なもんだ。歴史も政治もそうだなあ。
でも。
まあ、あれだぜ。
そんな世の中だが、その上をさらにノリで上書き出来るぐらいの生き方でなきゃ、楽しくないぜ。
. 1、
山陽新幹線のアカマツ号に乗って、大阪府から西へ。新神戸、西明石、姫路、相生と駅を通過。兵庫県を越えて、岡山県へ。
駅と駅の合間には起伏の多い緑の山々が続く。
そんな景色の中を、新幹線は幾つものトンネルを通って真っ直ぐに走っていく。
今年十四歳になる砂原橙花は、窓の外の景色を見ながら目的地までの時間を過ごしていた。
目的地は、岡山県の南西部。広島県との県境にある、神砂原郷。
「あ、こら、ダメでしょ。顔を出しちゃ。
めっ。
駅に着くまで大人しくしてること!」
大きな旅行バッグからは品の良さそうな黒猫が顔を出していて、橙花はその猫に対して指を立てて大人ぶって注意の言葉をかけていた。
カゴではないただのバッグで直接猫を車両内に持ち込むのは本来はよくない行為だが、誰も、橙花がバッグの中に黒猫を住まわせているのを見ても何も言わなかった。
隣に座っていた会社員(佐藤某。岡山県倉敷市在住の三十八才。二児の父。広島県の福山市に仕事で向かう途中。橙花とは、たまたま隣の席に居合わせただけの赤の他人)も、盛大に鼻血を垂れ流しながら黙認していた。
だって、可愛いじゃないか!
オレンジ色がかった亜麻色の綺麗な目! 触ってみたくなるショートヘア! 小猫みたいに柔らかそうな小柄な身体! そんな外見によく似合うオレンジ色の少女服! 全部キュート!
「あれ?
えっと、知らないおじさん、鼻血出てますけど。
ティッシュ、使います?」
「お、おおう。ありがとう」
至福の表情でティッシュを受け取る会社員。
黒猫が、物凄く嫌なものを見る目で会社員を見ていた。
「とにかく、ちゃんとバッグに入ってなさい。
いいわね!」
黒猫は渋々バッグの中に身を隠し、橙花はまるでお姉さんぶるみたいにニコニコし、隣の会社員は、貧血になりそうなぐらいの量の鼻血を出しながら恍惚と微笑んでいた。
「お嬢ちゃん、何処まで行くの?」
「あ、はい」にこにこ。「神砂原です」
「神砂原かあ」会社員の知識では、神砂原は観光に訪れるような場所ではない。何もない田舎だ。「親戚か誰かが住んでるのかな? それとも、家に帰るところかい?」
「あ、お母さんが住んでるんです」
「そうなんだ」
屈託の無い橙花の笑顔に、思わず会社員は鼻血まみれのニコニコ笑顔を返してしまったわけだが、後で考えてみると、あの言い方だと普段は母親と離れて暮らしているのかと、かわいそうにも思った。大きな旅行バッグを持って一人で新幹線に乗っていたということも、健気さ&可憐さの印象大幅アップ。
だが、実際にはさらに奇妙な家庭環境であって。
神砂原で待つ母親とはその日まで会ったこともなく。
その母親は、未来を見る予見者で。
橙花にとっては三番目の母親であったりするのだ。
三番目の母親。もちろん、義理の母親。
……。
ん?
あれ?
えっと。
訂正。
生みの親を含めると、四番目の母親だ。ただ、橙花は生みの親のことを覚えていないので、いつもカウントから忘れてしまう。
橙花にとって最初に母親として認識した女性は『黒石うらら』という名前。八歳の半ばまで、橙花も黒石橙花だった。
黒石うららはとてもあっけらかんとした女性で、いつもけらけら笑う。
笑った、という過去形ではなくて、笑う。現在進行形。つい数時間前にも、新大阪駅の新幹線ホームでけらけら笑いながら見送られた。
橙花が幼少期に言われた、記憶に残っている一番古い台詞はこんな台詞。
「あたしはあんたを産んではいないけど、ばっちしあたしのことを母親と呼んでいいぜ!」
けらけら。
いいぜ!?
あまりに超楽天的に愛情直球勝負で言われたので、橙花はショックを受ける隙間も無かった気がする。
このうらら母さんは病的な旅好きで、半月以上一箇所に定住することはほとんど無かった。全国津々浦々をくまなく歩き回ってなお飽きることが無い様子で、そんな彼女に付き合わされて、橙花もしょっちゅう幼稚園や小学校を長休みし、北へ行ったり、南へ行ったり、山へ行ったり、海へ行ったり、モンゴルの平原を渡り歩いたりした。
旅から旅への身空に幼い橙花をずっと付き合わせるのもどうかと思ったのか、二番目の母親に引き合わされたのが八歳の頃。
「こいつが浅雲みいねだ。
今日からこいつがあんたの母親だ。
よろしくだぜ!」
だぜ?
そうして紹介されたのが、二番目の母親、浅雲美祢(正しい読みは、みや。みいねは愛称)。初見は、ぶっきらぼうな女性だった。男物のように見える厚手の和服を着こなして、長い黒髪を侍のように頭の後ろで結っていた。職業は剣術家で、道場のある完全和風の大きな家に住んでいた。どこまでも非現代的。
彼女はうららよりも六歳若かったが、雰囲気は晩秋の風のように冷たく鋭く、子持ちでは決して無い風情だった。母さんというより、遠縁の無愛想なお姉さんという感じ。きっと結婚する気なし。やぶにらみで無愛想な彼女を見て、最初は不安に思ったことは確かだ。
「ほら、橙花。挨拶するんだぜ!」けらけら。
「あ、うん。
と、橙花です。八歳です」
みいねは、晩秋の冷気を帯びたような目で橙花を鋭く見た。
剣術家の、いかなる動きも見逃さない目。
ただし。
そんな目をしていたのは数瞬。薄氷を踏み割ったように唐突に出てきたのが、次の台詞。
「か、可愛いな!」
凛としていた顔が、表情こそ涼やかなままをかろうじて保っているものの、頬を臆面も無く薔薇色に染めていた。
急にぬるい風が吹いたみたいに橙花は感じた。
「気に入ってくれたようで、あたしも安心だぜ」けらけら。
「考えてみれば!
結婚もせずにこんな可愛い子供を持てるんだな! 幸せだな、わたし!」
「世の中の風潮はどちらかと言えば子供は作らずに結婚生活だけ楽しみたいっていうのが流行な気もするが、おまえがそう思ってるならそれはそれでいいことだぜ」
「ほ、頬擦りしていいか?」
「あたしに聞かずに橙花に聞け」
「うん?
そ、そうだな。
……。
ほ、頬擦り、
いや、橙花、頭を撫でていいか?」
いきなり頬擦りして変なヤツに思われないかと不安になったらしかった。手遅れなのに。世の中には無駄なことをする人間が多くいる。その見本。
「あ、うん」
「!!
うらら先輩! この子は本当にいい子だ!」
「あたしはちょっと心配になってきたぜ。
主に、おまえのことが」
その後、二時間ほど頭を撫で続けられた。みいねは、晩秋にコタツを出して入った人みたいに幸福そうだった。
成長した現在から考えてみると、戸籍まで移して浅雲姓に入る必要は無かったのではないかとも橙花は思う。うらら母さんが旅に出かける間だけ預かってもらえばいい話だし。他人の家に預けられたことなら、それまでの年月にも何度かあったわけだし。
いや、すぐに浅雲の姓にもなじむことになるのだが、ともかく。
「こういうのは思い切りが肝心なんだぜ!」
けらけら。
という一声で、橙花はそれから十四歳になるまでの年月を、浅雲橙花という名前で過ごした。
ちなみに。
みいねに預けられた翌日には、うらら母さんは外国に旅に出るので長く会えないだろうという話だった。
だが、その翌日には忘れ物をしたとかで戻ってきて、気が変わったとかで半月ほど普通に浅雲家に滞在していた。が、その後は本当に旅に出て、二年ほど会えなかった。次に会ったのは橙花の小学校の授業参観の日で、なんの前触れも無く、みいね母さんと一緒に教室の後ろの父母の列に混ざってけらけら笑っていた。その横では、みいねが鋭い眼光で橙花の周囲をにらんでいた。
本人いわく。
「橙花をいじめるような奴がいたら、痛い目にあわせて気絶させた後によくよく言って聞かせてやろうと思っていた」
「バっカ。そういう時は気絶させる前に言って聞かせるんだぜ。それから気絶させるんだ」けらけら。
そんな愉快な母親たちは二人で充分な気もするが、そうもいかなくなったのがここ数週間のこと。
それはなんだかとってもインチキに思える出来事で、浅雲みいねの家が地上げ屋に目をつけられ、インチキ書類とインチキ契約書を持ったインチキ不動産屋が現れて、そいつは追い返したものの、背後にいるちょっと大きな暴力団な組の方々とちょっと危険な状態になったのだ。
浅雲みいね自身は暴力団の一つや二つを敵にまわした所で動じもしない人(はっきり言ってトンデモな人)なのだが、さすがに、娘である橙花が狙われるのではないかと考えると、一日中守るのには不安があった。
そんな時に、うららがやって来た。
「じゃ、橙花は他の家に預けよう」
というわけで。
「橙花。
母さんはちょっと(ヤーさんな方々を一人一人この木刀でタコ殴りにして全滅させて二度とわたしの家に手を出させないようにぶちのめしに)出かけてくる。安心しろ。わたしは傷一つ負うわけも無い。
だから、おまえはわたしの遠縁にあたる家に行くんだ。
新幹線に乗って……えっと……」
「東海道線で新大阪まで。んで、そこから山陽新幹線の各駅停車に乗り換えて、岡山の先、広島の手前だぜ」
「む……。
わたしは道案内は不得手だ……」
「みいねは方向音痴だからな。
なあに、心配するな。新大阪まではあたしがついてくし」
みいねは、しゅんとしていた。
それから橙花は、うららから、自分の戸籍が既にその岡山の先で広島の手前にある神砂原という場所の、みいね母さんの遠縁の家に移されたということを聞いた。
その家の姓は砂原で、あさぎという名前の、うららと同い年の女性の一人住まいだそうだ。橙花は既に戸籍上はそのあさぎの娘になっていて、砂原橙花ということになる。また突然なので驚いたが、たぶんまた「思い切りが肝心だぜ」で済まされるんだろうなあと思った。
「みいねに橙花を預けた時の約束だからな。橙花を安全無事に育てていけなかったら、いつでも母親役は取り上げるって。
今回は、橙花の無事をおまえの家では保障できなくなったわけだから。もちろんその約束どおりというわけだぜ」
「くっ……。
わたしのせいじゃないぞ! あのでくの棒どもが、よく分からん書類を持ってきて、よく分からんことを言ってきて、さらによく分からん連中を連れてきて……。
くぅ、橙花ぁ。母さんはおまえと離れたくないのにぃ」
「はいはい、泣くのはみっともないぜ。
文句言う前にそいつらをぶちのめして潰して来い」
「くっ……。
橙花! 母さんはすぐに会いに行くからな!」
「うん。お母さん、怪我しないでね。あと、相手に大怪我させすぎないでね」
「!!
おまえはまだわたしを母さんと呼んでくれるのか! なんていい子なんだ!!」
「えっと……」うらら母さんのこともまだ普通にお母さんと呼んでるし、橙花にとっては別段変わったことではないのだが。
「橙花! わたしはすぐに帰ってくるからな!」
あいうぃるびーばっく!
ダダダダダダっ!
そして、みいねは木刀を片手に浅雲邸を走り去っていった。
「最後の台詞が思いっきり死亡フラグ立ってたが、まあ、あいつが死ぬわけも無いな。ホラー映画の死亡フラグは、ギャグ漫画じゃネタの一つでしかないんだぜ。
ま、しかし、しばらく帰って来れるまい。
方向音痴だからな。勢い込んで走っていっても、標的を探すのに時間がかかる。
さ、行こうか」
こうして橙花は、神砂原に住む三人目の母親の家に預けられることになったのだ。
新幹線はもう数分で神砂原駅に着くということだったが、そんな放送が聞こえた後も、窓の外は緑の山また山だった。新幹線は高架線路の上を走っていて、山を貫くトンネルとトンネルの合間には深い谷間を挟んでいたが、その谷間もまた、底の底まで緑の森。
起伏の多い山谷。緑の風景。
家の一軒も見えてこない。
緑山の風景を現代科学の塊である新幹線に乗って進むのは確かに風情のある場景だったが、こうも家も何も無いと、本当に駅があるのかと不思議になる。
と、
新幹線は大きく減速をはじめ、駅にさらに近づいたことが分かった。さらに少しすると、薄灰色が基調色の新幹線のホームへと着いた。結局、ここまで緑の山谷の景色は変わらず。
何も無い森と山ばかりの景色の中にいきなり新幹線のホームがあった、という印象だ。
「じゃ、知らないおじさん、わたしはここで降ります」
「うんうん、気をつけてね」にこにこだらだらにこだらだら。
おじさん最後まで鼻血だらだらだったなあ、と思いながら、橙花は新幹線のホームに降りた。
高い天蓋のある、とても大きな新幹線のホーム。作りそのものは巨大で金がかかった作りを感じさせるものの、少し埃っぽく、懐古的で、現代的であるよりも前近代的に大きく傾いていた。
ガラス窓の向こうには新幹線の高架線路上から見えていたのと変わらずの緑の山谷の景色が見えていた。なんだかこの駅は、鬱蒼とした自然の中に作られた人工の温室のように見える。
ちなみに、この山陽新幹線神砂原駅は、一九七五年の完成。前年まで岡山駅までしか敷かれていなかった山陽新幹線が、九州の博多駅まで拡張されたのに合わせて作られた。それから少々の改修は受けたものの、大体においては当時そのままの建物。
新幹線が発車してしまうと、ホームには橙花がぽつんと一人だった。
いやいや、ほんと。橙花の他にはだーれも今の新幹線から降りてないし、だーれも次の新幹線を待ってたりしない。
てくてくと、出口があるらしい上り階段へと向かいながら、考えた。こんな利用者の少ない駅は新幹線じゃなくても珍しい。そもそも、なんでこんな山の中の、何も無いようなところに新幹線の駅があるのだろう。
まあ、しかし。
世の中のすべては何かしら論理的な説明がつくはずだ。
それが、うらら母さんの口癖だった。それに照らし合わせると、こんな辺鄙な場所に新幹線が止まるのにも何かしら理由があるはずだと思う。あるいは、昔は理由があったのかも。
昔の話になるが、小学生の時に立ち寄ったことのある駅で、やっぱり寂しい駅なのに隣の栄えた町を差し置いて始発終着の電車がある駅があった。で、なぜなのだろうと思ったことがあった。
すると、うららが説明してくれた。
「昔、江戸時代の街道の宿場町だったんだぜ。
江戸に住んでいた人間がお参りで有名な成田山新勝寺に歩いて向かおうとすると、この辺りで一泊することになる。んで、ここいらじゃ宿が出来て、栄えてたんだ。大正時代になってから出来た電車もその流れで、この駅始発終着の電車が出来た。それが今でも残ってる。
でも、今となっちゃあ東京から成田なんて二時間ありゃあ済む話なんで、ここでわざわざ足を止めようと思うヤツはあんまいなくなっちまった。それよりは、昔は栄えていなかった分だけ土地の余っていた周囲の土地が、電車の整備に伴い都心への交通圏内に入ってどんどん人が住むようになって、今じゃすっかり立場が逆になったんだぜ」
そういうことをしゃべっている時のうららはとても賢い女性という印象で、橙花は感心して聞き入っていたものだ。
そういう考え方をするのなら、やっぱり、この神砂原に新幹線の駅があるのにも、何かしら理由があるはず。
そんなことを考えながら階段を上り、改札を見つけると。
自動改札の向こうに、女性が立っていた。
うらら母さんと同じくらいの年齢の女性。
橙花が自動改札を抜けると、真正面にいて橙花を見つめていたその女性が声をかけてきた。
「待ってたわよ」
彼女は、浅雲みいねとはまた違った感じで目つきの悪い女性だった。みいねは剣術家らしく鋭く踏み込むような目を(対外的には)していたが、神砂原駅の改札口で橙花を待っていた女性は、眠そうだった。
眠いので余計なことは話しかけてくれるな、とでも言いたそうなジト目。
そんな印象をさらに強くしているのは、多分、その服装のせい。
パジャマだった。
……。
新幹線の駅の改札口で、パジャマ姿。
いや、その上には上着を着ているし、靴もちゃんとした外靴なのだが。
上着の中は、眠そうな薄紫の縦縞の入ったパジャマだった。
ついでに、その長い髪も、どこか乱雑な整え方。
「そんな変な人を見る目で見ないでよ」
「あ、すいません。 その、どなたでしょう?」
「砂原あさぎ」
そっけなく、彼女はそう言った。
砂原?
砂原橙花は、快活な目をぱちぱちさせて、それから、理解した。
砂原って。
今のわたしと同じ苗字だし。
あさぎ、って。
それって、うらら母さんとみいね母さんから聞いていた、砂原家の主の名前。
「あ、じゃあ、えっと。
お母さん、ですか?」
「……まあ、そうなるわね」
彼女は気だるげに肩をすくめた。
「分かってたけど、つくづく変な会話だわね、これ」
「? そうですか?」
「どう聞いても、そうよ」
「あ、それはそうと、えっと、待っていていただいて、ありがとうございます」
あれ、でも、どうしてこの人はわたしの到着時間が分かったのだろう、と橙花は思った。
橙花は、彼女に到着予定時間を連絡していない。新幹線はその場まかせの自由席に乗ってきた。なのになぜ、ちょうど到着時間に改札口にいたのだろう。
それと、もう一つ疑問。
橙花自身は彼女とはこれが初対面。電話ですら話したことが無い。そんな間柄で橙花を一目で見分けたことも、考えてみれば奇妙だ。
うらら母さんが、新大阪駅で別れた後に電話したのかな? 写真か何かを先に送っていて、それでわたしのこともすぐに分かった?
そんなことを考えていると、あさぎはどうでもよさそうにぽつりと言った。
「それはね、私が予見者だからよ」
「?? ふーん……」
予見者。
未来を予め見る人。
ノストラダムスとかみたいな?
すごいなあ。
パジャマ姿の予見者。
「やっぱり疑わないのね」
「?」
橙花が不思議そうにあさぎを見ると、彼女は言った。
「まあ、うららが育てた子だし、そんなことで驚いたりはするわけ無いか」
「あ、でも、一つ聞きたいです」
「……。
…………。
何?」
あさぎは、露骨に表情をしかめた。もしかすると何を聞かれるのか分かってるのかもしれないなあと思いつつ、橙花は聞いた。
「なんでパジャマなんですか?」
あさぎは、心底苦々しげな顔をした。
「寝坊したのよ」
「はあ」
「ええ! 寝坊したのよ!
でもね、言っとくけど、自分が寝坊するのもちゃんと分かってたのよ! ちゃんと見えてたのよ! 目覚まし時計をセットし忘れるのも分かってたのよ!
あー、ねむーっ! まだ眠いーっ! それでもアナタの来る時間に間に合うように急いで来たのよ。着替える暇が無かったのよ! というか、急いでて忘れてたのよ!
それも全部、見えてたけど、やっぱり寝坊したのよ!」
「はあ」
予見ってそういうものなのか。
もうちょっと要領よく活用出来そうな気もするんだけど。
「……まあ、それはもういいわ。
行くわよ」
そんなあさぎに連れられて、駅内を移動した。
出口。
山陽新幹線神砂原駅は地面からかなり高い位置にあるので、駅の外に出るには長い下りのエスカレーターを降りていく。二十秒ぐらい乗って、ようやく外に出た。
すると。
駅や電車の中から見えていた緑の山谷の景色とは大きく違う、大都市とは言えないまでもそれなりの駅前風景が目の前にあった。駅や電車からは、高さと方角のせいで完全に灯台下暗しの死角になっていたらしい。
三階建て以上の高い建物はほとんど無い、そんな町並みだったけれど、少なくともそれなりの数の店舗や建物が並んでいた。一軒だけとはいえ、或る程度の大きさの駅前デパートもある。
幅の広い道路が目の前に通っている。ただし、道路の幅に比べると交通量が極端に少ない気もするけれども。
路肩に一台の車が止まっていて、あさぎは少し早足でそちらへと歩いていった。
運転席には一人の男がいて、あさぎに気づくとドアを開けて外に出てきて礼儀正しく出迎えた。態度や服装からすると、どうも車付きの運転手に見える。うららやみいねからは詳しく聞いていなかったのだが、どうやら砂原家はそんな人を雇うぐらいの富豪らしかった。車も黒光りする高そうなのだし。
運転手の男と目が合った。
「えと、砂原橙花です」
「うん」
しばらく、間があった。お名前を聞くべきなんだろうなあと橙花が思っていると、彼が言った。
「一文字ハヤト」
平坦な、まるで気が乗らない文章を読み上げるような口調だったので、それが人名に聞こえるまで間があった。
「?
あ、えと、かっこいいお名前ですね」
「……という名前を、どこかで聞いたことがある気がする」
「は?」
「どこで聞いたんだったか。
アニメか何かだと思うんだ。三体合体の古い名作ロボットアニメだったかと思ったんだけど、そのハヤトは苗字が違ったような気がするし……。
詳しくないんだよなあ、俺」
ロボットアニメ?
橙花は男子の友達がやってたゲームの中の題材としてしかその分野を知りません。
ナントカびぃぃぃむっ、とかそういうノリだよね、確か。
男は、平坦な口調で考え込むように他方を向いてぶつぶつ言っていた後、同意を求めるようにまた橙花を見た。年齢は三十近いようだったが、目だけはなんだか年齢不祥だった。
同年代に無遠慮に話しかける少年のようでもあり。
孫の代のことを理解しようとする老人でもあるような。
「思い出せない名前って気になるだろ?」
「はあ。ところで、あなたのお名前は……」
「一文字ハヤト。特撮だったかなあ。役者の名前だったか? 役名だったか?」
「あの……」
本名はなんでしょうか。
橙花はそれを続けて尋ねようとしたが、あさぎが会話をさえぎって、運転手の男に言いつけた。「行くわよ、一文字。あまりぐずぐずしているべきじゃないの」
え? 一文字さんでいいんですか?
戸惑う橙花をよそに、あさぎは後部座席に座り、一文字さん(仮名)は運転席に座った。
「乗って、橙花」
「あ、はい」
一文字(仮名)の運転で車は発進し、やがて山陽新幹線神砂原駅の近郊から郊外へと出た。現代的な建物の風景はすぐに終わりを告げ、自然一色の中を、あまり使用されていない道路だけが伸びていく風景へ。
後で知ったことだが、新幹線の駅があるのが神砂原町。そして、砂原あさぎの家があるのは神砂原郷。町と郷とで、示している地域が違う。神砂原町と神砂原郷は同じ神砂原郡にあるが、間にはそれなりの距離がある。そこを、私道への分岐が一つあるだけの一本道の県道がつないでいる。
後部座席の柔らかくて高価そうなシートに座りながら、橙花は窓の外を見ていた。
緑の木々に覆われた山々。
人の手が触れていない、というような景色。
そんな山々の向こうに、ぽつんと、紅色の目立つ洋館が見えた。
その周囲には他に何もある様子が無い。
「あれは異人館よ」
「異人館?」
橙花はあさぎを見たが、もう別の窓からまったくの逆方向を見ていて、説明してくれようとする様子は無かった。代わりに、運転席の一文字が言った。
「まぁ、ちょっと異質な建物だよ。
文字通り『異人』館だからね。
君は近づいちゃダメだよ」
やがて、遠く見えていた異人館は山の陰にまわって隠れた。来たばかりの橙花には何も目印のない木々と山々の風景が、延々と道路の両側に続いていた。
ずいぶん時間がかかるんだなと思った頃。
一文字が、焦った様子で言った。
「くそっ。どうなってる?」
延々と続く木々の風景。
前も後ろも無く続く山々。
その中を永遠に伸び続ける道路。
そして。
急速に緑色に染まる空。
「一文字さん?
まだ着かないんですか?
なんだか、空が、変なことになってるんですけど……」
「いや、本当はこんなに時間がかかったりしないんだ。もう屋敷に着いてるはず。
……くそっ」
それから、ぼそっと吐き捨てた。
「これじゃあ、まるで異人館じゃないか」
一文字は、イライラした様子で強くアクセルを踏み続けていた。
車はスピードを上げ続け、道路を走っていく。多分、とっくのとうに法定速度を越えていたが、それを咎めるものはなかった。道路には、この車以外には一台も走っていない。
一文字がバックミラーに目をやり、ヒューっと口笛を吹いた。アクセルを踏む足にさらに力を入れる。
橙花は後ろを見た。
なんだろう、あれ。
すでに真緑色に染まった空の下、巨大な人の形がこちらに向かって歩いていた。ずしん。ずしん。恐ろしく低く重く響く足音。
人の形は、白く、厚みが無く、紙で出来ているように見えた。
巨大な紙の人型。頭にあたる部分は無く、肩は、そのまま不吉な平らな線でもう片方の肩に続いている。胴体の部分には、いびつな円形にくり貫かれた穴があり、その向こうの風景が見えている。
ところどころ、神社に飾ってある紙飾りのような切り込み細工がなされていた。足や腕は蛇腹になっていて、人に似ながらも人とは違う動きで、巨体を前へ前へと運んでいた。
ずしん。
ずしん。
紙で出来ているようなのにもかかわらず、重く低く響く足音。足音は、なぜか、人型の足元から聞こえてくるというよりも、緑色の空に反響して全方向から聞こえてくるかのようだった。
「あさぎ奥様、こいつぁ……」
「スピードを緩めないで。走り続けなさい。逃げ切れるから」
あさぎは、後ろから迫る紙の人型の怪異などまるでないものであるかのように、普通の流れる景色を見ているかのように、窓の外を見ていた。
一文字はそんなあさぎの様子をバックミラーでちらっと確認して、いくぶん安堵した様子を見せた。悪人っぽいとも言えるような、にやり笑い。
「そいつは予見ですか?
なら、安心だ」
「スピードは緩めないでよ」
「了解です」
猛スピードで、終わりの見えない不可思議な道路を走り続ける車。
後ろを追いかけてくる、切り込み細工の巨大な紙人形。
橙花は、黙ったまま、黒猫の入ったバッグを強く抱きしめた。バッグの中の黒猫が、もぞりと動く感触がした。
「……。
怖いの?」
「え……」
問いかける声は、窓の外を見続けているあさぎのものだった。ちらっと橙花を見て、またすぐ窓の外を向いてしまったその表情は、ずいぶんとそっけないものだった。
けれど。
その片手は、優しく、橙花の手に重ねられていた。
優しく。
柔らかく。
安心させてくれる感触。
「大丈夫よ。
あの式神はあなたを狙ってきたものだけど、あなたはあれに捕まったりはしない。この車はちゃんと逃げ切れる。
安心しなさい」
「……。
うん」
橙花は手を握り返した。あさぎの手は、握り返してこそこなかったものの、確かにそこにあった。その感触だけで安心できた。
目を閉じた。
視覚を閉じた世界の中で、紙の巨人の足音は、ずしん、ずしん、と、まだ聞こえてはいた。だが、あさぎの手を握る感覚を中心として、それより近づいてくることは無かった。
その手を道しるべにして車に運ばれていくような、そんな感覚でいると、やがて、まどろみに落ちていった。
「眠ってしまいましたねえ」
後部座席の橙花の様子をバッグミラーで確認して、一文字が言った。
あさぎの手を握り、すぅすぅと小さな寝息を立てている橙花は、愛らしかった。その安心したような寝顔を見ていると、今日会ったばかりだというのに無条件で守ってやりたくなる。
ずしん、ずしんと紙の巨人の足音はまだ続いていたが、この車の中だけは、隔離されたように平和な風景に見えた。
「で、あさぎ奥様。
今は、予見どおりに逃げ切れるんでしょうけども……さっき言ってましたよね。これはその子を狙ってきたんだって。
ただ逃げ切るだけじゃあ、また追いかけて来るんじゃないですかね」
「大丈夫よ」
まるで彫像のように、橙花を安心させている手を微塵も動かさず、窓の外をまるで普通の景色のように眺めている視線も動かさず、あさぎは答えた。
「この子はまた襲われるでしょうけれども、今月は大丈夫」
「今月?
その先は?」
「……」
予見者あさぎは、黙ったまま、答えなかった。窓の外を見続けていた。
「ああ」一文字が、合点が言ったようにうなずいた。「悪い予見を、あなたは絶対に言わないんでしたね。了解です」