~交叉~ 2.
「ドッペルゲンガー?」
うん、ドッペルゲンガー。──そう頷く櫻ちゃん。そして、こう続ける。
「──でね、そのドッペルゲンガーを見ちゃった人はね、」
「……見ちゃった人は?」
これは古賀先輩。ごきゅり、といっちょまえに大きな喉仏がお辞儀をする。
「見ちゃった人は、…………死んじゃうんだって」
ひぃ、と不細工な息を飲む声。出所はやっぱり古賀先輩。
「な、ななな、ななんでっ!?」
「──さぁ? なんでだろう」
怖がらせるだけ怖がらせて、にへへ、と微笑む櫻ちゃんは、ちょっと可愛い。……それにひきかえ──、ちらっと斜め上を見上げてみる。……ふぅ。
学校からの帰り道。いつからか恒例となった、あたしと古賀先輩と櫻ちゃんとの三人での散歩道。このお散歩は、ひとまず駅に着くまでの10分間くらい続く。ひとまず、というのは、そこで先輩が抜けるからで。そしてそこからは、櫻ちゃんと二人の延長戦。ここからは、俗に言う『ガールズトーク』が繰り広げられる。
「じゃあな北河、明日も頑張れよ! 二人とも、気を付けてなー」
「はい。先輩もドッペルゲンガーに遭遇しないように気を付けて下さい」
「……そんなこと言うなよ、フラグが立ってしまうだろう」
「じゃあ、遭遇しちゃって下さい」
「もっと嫌ー!」
大きく手を振る古賀先輩に、あたしが小さく応えたあと、ちょんちょん、と櫻ちゃんがあたしを突っついて、こう言った。
「古賀さんって、ちょっと頼りなくない?」
眉毛と口元を八の字にして、困った顔を作ってみせる。その表情は本当に豊かで、いちいち可愛い。
「あははは、まあね。先輩、ホラーとか苦手みたいだしね。前に一緒に映画を観たときなんてね──」
「──うそっ! 桜ちゃん達、そんなに進んでるのっ!」
「いやいやいや。一緒に、って言っても二人じゃないし……」
「なーんだ。デートじゃないんだぁ?」
「……はい。デートじゃないんです。デートじゃ、ないん、です!」
「……どうしたの?」
「大事なことなので、二度、言いました」
「……?」
櫻ちゃんはこの夏に、家庭の事情で、あたし達の住むこの町に越して来たらしい。今は夏休みなので当然学校は休みだけれど、二学期からはあたし達の同朋となる予定だという。ちなみに、櫻ちゃんはあたし達のいっこ下。休み明けには、こんな可愛らしい後輩が出来る、ってことらしい。妹にしたい、と心から願って止まない。
「──ねぇ、お姉さま」
「んがふっ! ──い、今、何と!?」
「……?“お姉さま”?」
櫻ちゃんは本当にいい娘だ。あたしの思ったこと、考えてることを、ずばっと的確に捉えてくれる。あたしの感情が筒抜けなだけかもしれないけれど、思考が読まれていたとしても、不思議と嫌な気がしない。以心伝心というか、阿吽の呼吸というか。ただ単に、馬があう、というだけかもしれないけれど。
「……おーい、聞こえてますかー」
なんにせよ、世の中、全ての人が櫻ちゃんみたいに気の利く人ばかりだったとしたら、人類史上最多、悩み事ベスト10の堂々、第1位を誇る『人間関係』。これに思い悩む人達もきっと少なくなるに違いない。
もし、あたしも櫻ちゃんみたいになれたら……。そうすれば古賀先輩だって、きっとあたしを…………むふふ。
──良い機会だ。何とか櫻ちゃんの処世術を会得してやろう。
「……ちょっと桜ちゃん。邪なオーラが漏れてる」
──来たっ!
一瞬、背筋がぞくっと、した。
いつからか……。多分、夏休みに入ってからのように思う。
部活や委員会の用事で学校から帰宅する時、先輩達と別れ、あたしが一人っきりとなった後に、──それは起こる。
背中を、うなじを、じりじりと蟲が這うような焦点の存在を、感じる。
あたしは、誰かに、視られている。
鼓動が速くなって、呼吸が荒々しくなる。
背後を確かめたりはしない。確かめるのが怖い。
でも、間違いない。誰かが、あたしを視てる。
真夏の暑気のせいじゃない、変な汗が額を、そして掌を滲ませる。
どくんどくん、と焦燥はあたしの全身を駆け巡る。
あたしの足はそれに抗うように、逃れるように、自然と不自然に速くなる。
どくん、どくん、どくん……。
じり、じり、じり、じり。
どく、どく、どく、どく……。
じりじり、じりじり、じりじり。
刺すような視線は無くならない。
どくどく、どくどく、どくどく……。
じりじりじりじり、じりじりじりじり。
呼吸をしているはずなのに、
息を吸っているはずなのに、
苦しくて、苦しくて──。
走っているはずなのに、
逃げているはずなのに、
“それ”はいつまでも消えてはくれない──。
「────っ」
息が……出来ない……。
じりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじりじり……
「……っ、ぁ……ぁぅ」
声にならない。口から漏れる音は、ただの空気となっては消えていった。
誰か……助けて──。
もう駄目だ──、そう思った時、あたしの目の前には見慣れた玄関扉があった。
背後に迫るであろう“なにか”の視線に脅えつつも、いつもの要領で鍵を手繰り寄せる。
かちっ、と解錠の手応えに安堵するもつかの間、急いで扉の内側へと転がり込み、早急に施錠を掛ける。
ぺた、と靴脱ぎにへたりこむと、ようやくゆっくりと呼吸を調えた。
未だ治まらぬ鼓動は自動車のアイドリングみたいで、いやに五月蝿く、耳元で騒ぎ続けていた。
「もう、嫌だよ。こんなの……」
ヴヴヴッ──、と何処かで何かが唸る。
一瞬、びくっと硬直するも、それがケータイのバイブレーションだと思い当たると、鞄をまさぐりケータイを掴み出した。
掌で震える、それを開いてみる。──メール着信だった。
《よう、北河! 帰ったか?
あまり寄り道せずに、すっと帰るように!
俺は明日も生徒会だ。北河は部活か?
絵、頑張れよ。北河ならやれるさ。
じゃあ、また明日な!》
小さな鼓動がもたらしたものは、あたしにとって大きな感動となった。
些細な、本当に些細な日常の挨拶のような文章なのに、何故だか、……何故だか分からないけれど、あたしはそのまま玄関にうずくまり、そして、──声を上げて泣いていた。