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Ⅵ.~交叉~ 1.

  Ⅵ.~交叉~



 「んふー」

 イーゼルに立て掛けたキャンバスに向かって、じぃーっと睨み付ける。そうやり始めてから一体、どれ程の時間が経過しただろう。

 まっさらな可能性には、未だ一本の線すら引けずにいた。

 こう、と決めて髪の毛ほどの線を一つでも落としてしまえば、あとは勢いに任せて描き進むことも出来る。……しかし、無地のキャンバスと対峙を始めて、もう、かれこれひと月は経つのではないか?

 思い切りが良くないのはいつものあたしの癖だけど、今回ばかりは……ダメだ。全く何も浮かばない。

 自然と鼻から溜め息も出るってものだ。

 「──お、北河。今日も今日とてにらめっこか? 全く、よく飽きないな」

 無遠慮にがらがらと戸を引き、第二美術室に足を踏み入れてきたのは古賀隼人先輩。

 「……古賀先輩、ここは美術部員以外立ち入り禁止なのですが」

 「いいのいいの。俺、生徒会長だから」

 先輩は飄々と、そう言って退けた。

 「……“生徒会長”は美術部員と違うと思いますが?」

 「生徒会はね、全ての生徒の為のソサエティなの。俺、それの長。ぶっちゃけ、部活動も俺の管轄下!」

 「むむ……」

 我が高校は……自分でいうのもアレだけど、比較的、偏差値が高めだ。そして学力以外にも、より人間性を重要視して、毎年数多の受験生をふるいに掛ける傾向にある。そして、網目に引っ掛かり落ちずに残ったのがあたしや古賀先輩である以上、そろそろそのふるいを新調する必要性があるような気もしないでもないが、なんにせよ入学を許されるのは、そのお眼鏡に適い、人間力を見込まれた者達であるという。──なので生徒会を始め、部活動や年中行事の諸々は、かなりの範囲で生徒達の判断に委ねられている。先輩の言うように“生徒会長”はそれの長だった。

 (──この、越権巧者のブタ野郎が!)

 「……何か言ったかね? 我が配下の、いち会員どの」

 古賀先輩は蛍光灯の光を反射させながら、くいっと中指で眼鏡を持ち上げた。こんなにも『ギラリ』という効果音が似合うシチュエーションを、あたしは他に知らない。

 「……いえ、わたくしめは何も申してはございません」

 「よろしい」

 古賀先輩はあたしの背後までつかつか歩み寄ると、近くも遠くもない、絶妙な間合いをとって適当な椅子を引き、そこに腰掛ける。そして、いつものように鞄から文庫本を取り出すと、おもむろにページを捲り始めた。

 はらり、と紙がたてる音と共に、ちくたく、時は流れる。

 「あの、……先輩」

 「──ん? なんだ、もう帰宅する時間か?」

 なんと、まあ! 先輩が入室してから、まだ五分と経っていないように感じますが!

 顔すらあげず、本に目を落としたままの先輩に告げる。

 「……違います。気が散るのですが」

 「それは君が集中していないからだろう」

 はらり、とページの進む音。

 「だ、か、ら、先輩がいると思うと集中出来ないのですがっ!」

 「──なら、いないと思えばいい」

 ……無茶を言う。

 「それか、何か? 君は俺のせいで筆が進まない、──そう言いたい訳か?」

 「いえ、そこまでは言いませんが……」

 はらり、と再びページを捲る音。

 「だろうね。君はこの休みに入ってからというもの、ただただキャンバスを眺めているばかりだ。俺には絵描きの気持ちは解らない。けど、──どう素人目に見ても、順調とは言い難いみたいだね」

 たしかに、先輩がいようがいまいが、今のあたしには木炭を握りこそすれ、それを擦り付ける決断力がなかった。

 手付かずでまっさらなキャンバスには、無限の可能性が秘められている。このキャンバスには今なら、数億円の値がつく絵画に化けられる可能性もあるし、それこそ可燃ゴミへと化してしまう危険性すらある。いや、むしろそちらの方が確率的には高い。あたしが木炭でこのキャンバスを汚していく度に、がくんと値崩れが始まるのだ。

 いつからか描くのに躊躇うようになり、そして今では、──線を引くのが怖くなった。

 「……やっぱり『アレ』が原因か?」

 先輩は言う。

 ──『アレ』。

 それは夏休み前に世間を騒がせた、ある事件を指す隠語だ。

 「気にしない方がいい。君とは関係のない、ただの凄惨な事件だよ」

 『ただの』と『凄惨な』がひとつの文章内で融合する、苦味のような不味さに寒気を感じはしたが、あたしはおとなしく頷いた。

 「──はい、気にしないようにはしてますが。……ただ、描けないのはそれとは違う理由だと思います」

 「『違う理由』?」

 「……はい」

 あたしは、自分の納得いく通りに描けない、描くことで、よりいっそう自分の才能の無さを見せ付けられるようで恐ろしい、──みたいなことを打ち明けてみた。

 「……なるほどな。まず言っておく。君の元へ──というより、有名な画家の元へ行けなかった段階で、そのキャンバスくんの未来に可能性なんて皆無だ」

 「キャンバスくん……ですか」

 「そう。だから怖がらないで、君は思うがままに線を引けばいい。足掻くことでしか得られないものもある。……俺にはむしろ、君は今、成長するチャンスにあるように思うがね」

 「成長するチャンス……ですか」

 「そうだ。もちろんキャンバスくんじゃなくても構わない。画用紙さんでもクロッキー帳師匠でもいい」

 「クロッキー帳師匠……語呂が酷いように思うのですが?」

 「んなこたぁ、どうだっていい! とにかく何でもいいから描くということが君にとっては必要だと感じるがね」

 「…………」

 「……まぁ、そういうことだ」

 先輩は言うだけ言うと本に栞を挟み込み、鞄へとしまう。そして「送ってく」と宣言した。

 真夏の太陽は未だご健在だけど、時計の短針はいつの間にか南南西を指していた。



 「……ほら、あの子だよ、“北河桜”」

 「北河さん、って、『あの』?」

 「そうそう、見て! 殺された子にソックリじゃん?」

 それほど日が経っていないせいか、未だに後ろ指を指されることがある。そして、あたしの背中はその度に丸くなる。

 だけどその都度、ぽん、と猫背を軽く叩き、

 「気にするな」

 と囁く声が降る。

 だから、あたしは前を向く。胸を張って歩くことが出来る。

 先輩としては、君は何も悪くない。だから堂々としてろ──くらいの意味しかないんだろうけど、先輩があたしの“猫背矯正ギプス”たる所以は、それが先輩だからだ。

 古賀先輩の隣を歩く女が『陰気』では、先輩に泥を塗ってしまうことに為りかねない。先輩の隣を歩くことを許されているんだ、少しくらいはそれに相応しくありたい。

 6月末か、7月の頭か──。それくらいの時期に、他県の少女が惨殺される事件があった。たしか、名前は──和泉咲良。偶然にも、名前の読みがあたしと同じだった。

 そして、……これは必然なんだろうか? あたしと容姿が瓜二つだった。

 ──違った。

 『あたし』じゃない。『あたし達』だった。

 「おっ! 今日も来てるぞ、櫻ちゃん」

 校門を出たところで待っている、白のワンピースにサンダル履きの女の子。髪は長くて、さらさらで。後ろ手に組んで、つま先立ちで踵をいち、に、いち、に、と手持ちぶさたな感じはいつも同じ。あたしと目と目が合うと、とても同じような造りとは思えないくらいに表情を豊かに微笑む、あたしのソックリさん。

 「櫻ちゃん!」

 あたしが言う。

 「桜ちゃん!」

 彼女も言う。

 夏休み前に、引っ越してきたばかりだという彼女と、道端で偶然出会った時は驚いたけど、それからというもの、今はすっかり仲良しだ。

 彼女は本当に可愛らしくて、あたしに手を振りながらニコニコしている。

 彼女の着るワンピースは羽のようにひらひら揺れて、その姿は、まるで天使のようだった。





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