~瓦解~ 5.
秀人の襟に、私たちの襟に、五枚の花弁のステッチが浮かぶ。
桃の花びらは桃花台のシンボル。花弁の一枚だけを見たとしたら、私にはそれが何の花なのか判らないだろう。だけど咲き誇る花を望めば、ああ桃だ、とか、これは紫陽花だ、とか、少しは判る。
私たち人間も同じなのかもしれない。個人があって集団があり、集団があるからこそ自己も生まれる。
秀人の襟を彩る一枚一枚の花びらたちに、それぞれ名前を付けてあげようか。
桃花は愛しき人々の襟の先に、そして窓の外では紫陽花の家族が歌うように揺れていた。
どこまで話したっけ、と数秒視線をさまよわせた後、秀人はああ、そう……と続けた。
「倉持さんは色々と悩んでて、手当たり次第に……こう、なんて言うか……男の人を誘ってたみたいなんだ。それで俺にも『どう?』って……」
今の世の中は、貞操を守ることに重きを置かない人ばかりなのかも。特に男子の中には『据え膳食わぬは男の恥』なんて馬鹿なこと言ってるヤツもいるし……。取り立てて好きじゃない相手なんかとでも抱き合うことが出来るなんて、私には到底信じられない。
──例えば、例えば秀人が相手だとしたら……
などと一瞬想像してしまい、慌ててその妄想を掻き消した。……ちなみにこの手の話題になってからというもの、すずの目には力が入っているし、佐穂里の耳はダンボのようになっている。──無理もない。私たちだって興味くらい……ある。
「──俺、さくらとそっくりな女の子がそんな事してるなんて我慢できなくて、……苦しくって堪えきれなくて、……ほっとけなかったんだ」
秀人は腿に置いた拳を、力いっぱい握りしめていた。
ところが、位置的にそれが目に入らないすずは、そんな感傷をぶち壊す。
「……ん。まあ、その『倉持さん』が淫乱だってのは解ったけど──」
「すずちゃん!」
佐穂里に窘められたすずは表情を険しいものに変えた。
「だって、そうじゃん! カラダを求めるコトが悪いとは言わないけど、安易なんだよ。そりゃあお互い抱き合ってれば幸せなんだろうけどさ、そんなんでホントに満たされるワケ!? 『こころ』って、そーゆーコトじゃないじゃん! 衝動に支配されて、欲望に振り回されて、理性をないがしろにして。そんなんでよく人間は『知的生命体』だなんて言えるわ! 繁殖しか頭にない単細胞生物と一緒じゃん!」
「すずちゃん……」
言いたい事をまくし立てるとお冷やをがぶ飲みし、それでは飽き足らず氷を噛み砕き嚥下した。水冷だ。
「──言い過ぎた。……でも、鳴沢だってそう思ったから、その子の言いなりにはならなかったんでしょ?」
「ん、──ああ。まあ、ね」
秀人の返事は些か心許ない。察するに「危なかった」といった所か。
「……ごめん、閑話休題っ。──それで、その子。……そんなにさくらとそっくりだったの?」
「──ああ、そっくりだった。兄弟でも普通、あそこまで似ないと思う」
佐穂里が尋ねる。
「ねぇ、さくらちゃん。話、逸れちゃってたけど、……今日のって、それが原因?」
──今日の。……私が突然泣き出したことを指しているのだろう。
「今朝の騒ぎのこともあるし、私やすずちゃんには言えないこともあるのかもしれないけれど、話せば楽になることもあるんじゃないかな」
話せば楽になること。
確かに、話せば楽になるのかもしれないけれど、それを言うなら秀人だ。秀人は私の知らない何かを確実に隠している。でも、隠すということは知るべきではないのかもしれないし、少なくとも今は話せない事情があるのかもしれない。どちらにせよ「秀人を信じる」と決めた以上は、深く考えないようにするべきだ。私の方からきちんと話せば秀人が判断してくれるだろう。
「さほ。すずちゃん。……二人とも今朝のニュース見た?」
頷く佐穂里と首を横に振るすず。「俺も見てない」と秀人。
「『和泉咲良』っていう子なんだけど、その子も私にそっくりだった」
再び頷く佐穂里。
「私と『倉持サクラ』と『和泉咲良』。顔も似てるし、名前も同じ。それに年齢も同じみたいなの。……これって偶然だと思う?」
からん、と秀人のアイスコーヒーが音を立てる。思い出したように目を向けた後、ストローで攪拌し口をつけた。
「……ちょっと、無責任なこと、言ってみてもいいかな?」
秀人は薄氷に小石を投げ込むかのように言葉を紡ぐ。
「この際、事実がどうなのかは置いといて、『兄弟』ってことにしておくってのはどうかな?」
違った。秀人は薄氷にフライングボディプレスをかますような言葉を紡いだ。
「勿論、『他人』っていうのでも構わないけど、生き写しの理由にはならない」
生き写し、か。──もっとも、どちらの『さくら』も最早生きてはいないけれど。なんてね、……笑えないし。
「それじゃあ何も解決にならないじゃん」
ホント無責任だよ、とすず。
「──でも、精神衛生上良くないだろ、こんなの」
「さくらちゃん。お婆さまに訊いてみるのは嫌?」
うん、それは嫌だ。と佐穂里に告げる。それだけは極力避けたい。家族であるが故にデリケートな話題だ。
「鳴沢さん、さくらちゃんとはいつからのお友達なの?」
──そういえば、いつからだっただろう? 気づけばいた、っていうのがしっくり感じる。
「うーん、幼稚園? 違うな。……確か、赤ん坊だったさくらをさくらの婆ちゃんが引き取った、とか、オフクロに聞いた覚えがあるな」
「……誰から引き取ったんだろうね」
「…………」
「…………」
すずの呟きが、水を打ったように場を静める。
「……そ、そりゃ、さくらの婆ちゃんの子供からだろ!?」
佐穂里が私を見つめる。その視線には「お婆さまとさくらちゃんって血の繋がりがあるんだよね?」と聞きたいけど聞けない、そんな成分が含まれている。……目は口ほどにものを言う、とはよくいったものだ。
「──えっとね、調べたことないから医学的にどうとかは判らないけど、血液型は同じだし私の両親のどちらかのお母さん……だったはず」
そう聞いたことがあったような、なかったような……。
ってことはさぁ、と水に手を伸ばしたすずは、グラスがからっぽなことにも気づかず口を付けた。
「……チッ! すいませーん! お冷や下さぁい! ──ってことはさ、さくらと『倉持さん』や『和泉さん』が兄弟だった場合は、さくらのお婆ちゃんとも血縁ってことになるんじゃない? 案外、手紙のやり取りとかしてたりして。──あっ、ハイハイ、ありがとー。お水、いるひとー! …………ん? みんな、どうしたん?」
すずは佐穂里を見て、
佐穂里は秀人を見て、
秀人は私を見て、
その私が見ていたものは何だったのか……。
ただ、脳の中では視野から入った情報よりも、以前に見た記憶の方がより鮮明に映し出された。それは、すずの発した言葉の羅列にあった。
「──……み」
「おい、どうした」と秀人。
「──…がみ」
「さくらちゃん」佐穂里も。
「──てがみ」
「テガミ? 手紙がどうしたの?」すずの声。
三人ともアフレコみたいに、声と口の動きが合っていないように見える。
「──あった!」
ばしんっ、とテーブルを打つ。思ったほど大きな音は出ていない。
「──忘れてた! 手紙あった! 思い出した!」
「おい、落ち着けって。声大きいし。迷惑だぞ、お前。……で、どういうことだよ」
「──手紙あったの。倉持総一郎からお婆ちゃんに」
倉持総一郎って? と訊くすずに、倉持サクラの養父、と簡単に答える秀人。
「養父ぅ!? ってことは倉持サクラも──」
頷いて続ける。
「そう。倉持サクラも両親がいないみたい。──シュート。この前、倉持総一郎に会いに行ったでしょ? あの後、お婆ちゃん宛てに手紙が届いてた。……やっぱり、何かあるんだ」