Ⅴ.~瓦解~ 1.
Ⅴ.~瓦解~
倉持邸を後にした私が家に帰り着いた時、時刻は既に22時を指そうとしていた。
先刻の“探偵もどき”がたたり、携帯のバッテリーは虫の息を通り越し、最早“虫の死骸”というに相応しく、うんともすんとも言わない。電池切れの携帯を虫の死骸に擬えた私が悪いのだけれど、手の平のそれが急に汚らわしい有機物に思え、悪寒が走り鳥肌が立つ。急いでカバンに放り込むとスカートで手をはたいた。
(お婆ちゃん、怒ってるかな)
いつまでも突っ立っていても仕方がないので、居間に面したお婆ちゃんの部屋、その襖の前に正座し話しかけた。
「……ただいま。遅くなってごめんなさい。──あの、お婆ちゃん? まだ起きてる?」
襖が開かれる気配はない。が、声だけが返ってきた。
「どこへ行ってた」
──まずい、結構怒ってる。声には力が入っているし、顔を見せてくれないのは私を見たくないからだ。お婆ちゃんは年のわりには老練さがなく、感情的になりやすいきらいがある。
私が答えに窮していると、
「だから『どこへ行ってた』と訊いているの」
と繰り返して言った。勿論、ありのままを白状するのは避けて通りたいところで……。
「──えっと、き、今日もシュートと図書館に……。ちょっと遠い所へ行ってたし、ケータイの電池も無くなっちゃって。……それで連絡出来ませんでした。ごめんなさい」
見えないだろうが、頭を下げる。
「──秀くんと一緒だったのかね?」
「うん。……ずっと一緒だった」
そう答えてから、私たちはずっと一緒だったと言えるのだろうか、と考えた。電話で繋がれていた状態がどうとかではなくて、近くにいたはずなのに遠く感じた。いつも一番近くにいるのは秀人だと私は思ってた。だけど、秀人の一番近くにいたのは私じゃなくて……。
「──そうか、じゃあええ。勉強も大事かも知らんが、ほどほどにしなさい」
「…………」
「聞いとるかね!」
「──は、はいっ」
「……机にお夕飯あるから、チンして食べなさい」
卓袱台を見ると、一人分というにはかなり多い分量の料理に手がつけられた様子もなく、ラップが掛けられていた。多いと感じるのも当然といえた。全て二皿ずつある。
(……お婆ちゃん、ご飯も食べずに待っててくれたんだ)
「──ごめんなさい。ありがと……」
お風呂にお湯を満たせている間に簡単に食事を摂り、ざぶんと烏の行水よろしく入浴を済ませた。
自分の枕を抱え、再び襖に向かってそっと声をかける。
「──お婆ちゃん?」
ほどなくして「……何だい」と返ってくる。
「今日、一緒に寝てもいいかな?」
衣擦れの音が聞こえる。
夜は、私の視覚を奪う。そのかわり他の感覚が冴えわたる。特に聴覚。音は波で伝わり、温度が低く空気が澄んでいるほど、より伝わり広がる。夜は静かだから遠くの音まで聴こえるというのは錯覚だ。
県道を走る車の走行音や、三軒となりの本田さん宅の夜鳴きする犬──名称:お父さん、犬種:北海道犬。(余談だけれど本田さん宅には、れっきとした“お父さん”もご健在)──の声。
雑多な音に紛れるように
「──勝手になさい」
と伝わる波は、細く、しかし確実に私の鼓膜と胸を揺らした。
締まりのない笑みを顔面に湛え、
「えへへ、おじゃましまーす」
と襖をずらす。
この夜。私は何年かぶりにお婆ちゃんと枕を並べて眠った。
少女の自殺から十日余り、倉持邸を訪ねてから一週間ほどの時が経過していた。
その間、私の周りに変化はなく、秀人との仲も表面上は以前のそれに戻りつつあったように思う。それも私が倉持邸でのことに対し、シラを切り通したのが奏功したからだろう。
ただ一つ、変わったことがあったといえば一昨日、お婆ちゃん宛ての郵便物の中に、倉持総一郎氏からの手紙があった。そんな程度だ。
なにかもう疲れた。疑問や謎が目の前にあるのには落ち着かない。でも謎を謎のまま、疑問を疑問のまま許容することも人生を歩む上では必要なのかも知れない。それが『逃げ』から来る思考であったとしても構うものか。
最近はそんなふうに思う。
雨のあまり降らなかった6月、その最終日の朝──。
再び心を揺り動かす事件が起きたことを、私は朝のニュースで知ることとなった。
遠くの他県で起きた、一つの殺人事件。その被害者の名前は和泉咲良。
17歳の女子高生だった。