~混沌~ 4.
その日の夜。自室の座卓に宿題を広げてみたものの、いっこうにそれがはかどることはなかった。
頭の中を廻るのは昼間の出来事ばかりだ。
あの後、遥さんの車ですぐに帰途についた。
昼間、百貨店の屋上で私が見たものは一体何だったのだろう? 立ち眩み、意識が倒錯して見せた幻覚と割り切るにはいささか不自然だった。……もっとも、こんなものには自然も不自然もないのかもしれないけれど。
突然頭の中に多量の情報が流れ込み、その受け入れに拒否反応を示すような混乱。いや、混雑と例える方が近いかも。
荒波の奔流に飲まれ、溺れる者が四肢をばたつかせるように抗う脳。
一つの要因として、泳げない者がそうであることに対し、達者な者は己の浮力を信じ、流れに身を任せる。まるでそのことを裏付けるかのように、いつの間にか私の脳はそれを勝手に受け入れていた。
そして、あれを締めくくるのは少女が落ちていく場面だったように思われる。
空がぐるりと回ったように見えたのは、飛び降りた瞬間だったのだろう。
彼女は相好を崩し、声を上げながら落ちていった。
──そして彼女は、確かに……私に似ていた。
あの映像は彼女の瞳を通して見せたもののようだったけれど、それでも少女が鏡を覗く場面に遭遇することが僅かだがあった。
髪型は私とは違い、背中まで届くストレートだったし──私にはあそこまで髪を伸ばした経験がない──服装も私の持っている物とはどれも違う。
──ドッペルゲンガー。
──他人の空似。
似たもの同士を示す言葉や事象は他にもある。
そうだ、それに松村先生が言っていたではないか。警察が身元を確認していると。……という事は、やっぱりあの少女は赤の他人なのだろう。
(月曜日にでも先生に訊いてみるか)
ひとつ背伸びをし時計に目を向けると、既に日付が変わっていた。
大きく口を開けて欠伸をすると、上体を反らしそのまま布団に倒れ込む。
(──あ、結局宿題やってないや)
明日は日曜日なので夜更かししても構わないのだけれど、今日までの色々なことで頭は疲れていた。
(まあ、いっか。そんな瑣末なこと……)
今夜はもう眠ってしまおう、と継ぎ足し継ぎ足し伸ばされた電気の紐に手をかけるが、ちょっと考えた末に明かりはそのままにして、私は瞼を閉じた。
「なにぃ!? 亡くなった子の事を教えろって?」
──月曜日の昼休み。
ダメで元々の姿勢で、私と秀人は松村先生に話を訊いてみた。
こちらの質問に対しておうむ返しで質問を返してくるなんて、まるで何かの『状況説明』のようだけれど、このケースでは違うだろう。もう1パターンある。ただ驚いて、思考が停止した場合がそれに当たる。
「はい。先生は警察からその少女の身元を伺ってるんでしたよね」
先生は箸を止め、どんぶりのへりに揃えて置くと、初めて体ごとこちらを向いた。
「まぁ、聞いとるは聞いとるが……、そう易々とは口外できんだろ。普通」
秀人が、左側に立つ私をじろっと見ると言葉を発すべく息を吸った。今のは『俺に任せてお前は黙ってろ』という意味で間違いないだろう。……なんかムカつく。その態度にも、解ってしまう自分にも。
「──ええ、職業倫理の観点からするとそれはそうでしょう。ですが先生、どうせ新聞などに掲載される情報ですよ? これは事故ですから」
新聞には載っていなかった。それは私も秀人も知っている。──つまり、秀人は意図的に嘘をついている。
「事件によっては情報規制する事もあるそうですが、今回は『自殺』でしたよね? だったらいずれ新聞に載るか、僕たちが気付かなかっただけで、もうニュースにもなっていたかも知れません」
腕を組む先生に対し、なおも続ける秀人。
「……先生。本当は僕たちだけで調べることも可能だと思うんです。ですが、松村先生は生徒に理解のある数少ない先生だとみんなが言っていますし、日々乃さんも松村先生を信頼しています。だから、僕たちは先生に隠れてコソコソと行動したくはないんです」
まずは理屈で攻め、最後は感情に訴え落とす作戦とは。……なんとコシャクであることか。『コソコソしたくない』などとよく言えたものだ! したじゃないか、既に。
わかった、と息を吐く松村先生。
「まあ、いいだろ別に。……ただな、“職業倫理”なんてもんは建前だ。そんなもん振りかざすつもりはない、俺は警察でも無いしな。躊躇ったのは日々乃のことを考えてだ」
「……わたしの、ですか」
ああ、と答える開いた口が次に漏らしたのは、あるひとつの名前だった。
「──サクラ」
「はい?」
「えっ!?」
私は最初、自分の名を呼ばれたのかと思った。だが、どうやら違うらしい。
「“倉持サクラ”。それが、亡くなった少女の名前だ」
──クラモチサクラ。……私と、同じ名前?
「容姿がそっくりな上に名前まで同じなんて気味が悪いだろう? だから、──おい? 鳴沢、どうした!」
先生の声に被さって、ドタン、という音と共に右側の視界が突然晴れる。
──秀人が、崩れた。
「ちょ、ちょっと。シュート!?」
「おいっ! 鳴沢ぁ」
膝から崩れてうずくまる秀人の肩を掴んで揺すってみた。が、すぐに「こら、あまりガクガクするな」と、先生に止められた。
昼休み、ましてや職員室での出来事だ。さすがに対処は速やかだった。10秒から20秒ほどだろうか、秀人が顔を上げるまでに掛かった時間だが、程なく他の先生が保健の先生を連れてやって来た。
「……あ、ああ、スミマセン。ただの立ち眩みです」
秀人はそう言って立ち上がろうとするが、保健の先生がそれを制止する。次いで、松村先生に冷たい水を持って来るように指示を出した。
「ああ、……悪いな、さくら。ちょっとビックリしちまって」
「何言ってんの!? ビックリしたのはこっちのほう! それに、私がショック受けるならまだしもなんでシュートが──」
「知ってる名前だったんだ」
「……えっ?」
虚ろな瞳を宿す秀人の顔は紙のように白く、その声は蚊のように細い。ひとことで言うなれば不気味と言えた。……悪いけど。
「知ってる名前だったんだよ『倉持サクラ』は」
「…………」
俺のよく知ってるヒトだ、ともう一度だけ秀人は呟いた。