いと貴きひと
凛とした空気に包まれた人だった。
多数のものに紛れぬ、冷たくも美しい清冽な風を纏う。
数多の高官に囲まれ、その上に立つ至高の権利と義務を負う人。
例えるならば手を伸ばしても決して届かぬ場所に在る、冴え冴えと輝く孤高の月。
いと貴きひと
仄暗い闇の中を歩く。
草木が寝静まり虫の音すらも一時の静寂を見せる夜半過ぎ。
そのような時間に歩き回るのが好きだと言ったら、きっと多くの人に変人扱いされるだろう。
だが皆は知らないのだ。
日中は喧騒に濁る空気が、夜が更けるにつれ清涼に澄んでいくことを。
日の光を浴びてあでやかに咲き誇る花々が、月光に照らされてひっそりと花弁を閉じるその美しさを。
丁寧に手入れされた中庭は四季に応じた彩りが楽しめるようにと、様々な草花が植えられている。
当然ながらこの季節には花をつけぬ草木もあり、その枝葉は夜闇に映えて深緑を誇る。
池の方に目を向ければ、その半分ほどを水面に浮かび花をつけるという珍しい花が覆っている。
それらの合間から見える魚もまた眠っているのか、その体は動かない。
昼間は水面越しにも近寄る事ができぬその姿をよく見ようと、私は水面に近づいた。
紅白に彩られたその体は雅やかであり、日中はその見た目を裏切らず至極優美に泳ぐ。
月の光に輝く鱗を良く見ようと、私は池のふちに屈みこんだ。
何を隠そう私は魚が好きだ。
食する方も好きだがそういう意味では無く、独特の動きだとか鱗のきらめきだとかが大好きなのである。
だから、一人ぼっちで此処へ来た時この魚を見つけて私はとても喜んだ。
この魚は、そう、七年前に私が宮廷に上がった時から此処にいる。
私に天子様からお呼びがかかったのは、私が十の歳を数えたころ。
当時十二歳になられた東宮殿下の御遊び相手に選ばれた。
遊び相手といっても、あえて女である私が選ばれたということは、将来を約束するという意味合いがあったのだろうし、父からもそう聞かされた。
末娘として散々甘やかされて育った私は父がいきなり決めてきたその話に驚き、また宮中に上がったのちは滅多に家に帰れなくなると知り、行きたくないと駄々をこねた。
とはいっても天子様の命に一貴族の娘が逆らえるわけがなく、話を聞かされた翌月には抵抗むなしく宮廷へ連れて行かれ、一室で殿下を待つように命じられた。
広い部屋に一人で残され緊張でがちがちになりながらもおとなしく待っていると、いきなり襖が開いて、ひょこりと幼い顔がのぞいた。
「お客さん?」
私に客かどうかと聞くのだから、この子は宮廷の人間なのだろう。
使用人の子供にしては良いものを着ているし、今ここに現れるということはほぼ間違いなくこの子が東宮殿下であるはず。
しかし東宮殿下は二つ年上と聞いていたので、自分より幼く見えることを訝しんで尋ねた。
「貴方がえっと、…殿下ですか?」
あろうことか、その時私は東宮殿下である雅仁様のお名前を度忘れしていた。
そのせいで随分不躾な質問となってしまったが、少年は機嫌を損ねた様子もなく頷いた。
やはり幼く見えるだけで、私はお仕えするのはこの方なのだと納得して、自己紹介をした。
「今日から殿下のお話相手を務めさせていただく葵と申します。これからどうぞ宜しくお願いいたします」
父親に教えられた挨拶の言葉を噛まずに言いきれたので、私は大いに満足した。
そのせいで、私はたった今自分が口にした言葉が大きな過ちだとは全く気付かなかったのだ。
目の前の少年は目を輝かせて「本当に?」と問いかけてきたので、私はこくこくと頷いた。
「遊ぶ相手がいなかったから嬉しい。僕は惟則です。宜しく!」
そういって抱きついてきたので、おそるおそる頭を撫でた。
どうやら、見た目だけではなく中身も葵より幼いようだ。
家では一番年少であったので、弟ができたようで少し嬉しい。
名前の響きに少し違和感を覚えたものの、遊びに行こうと言われて腕をひかれるとそんなことは頭から吹飛んでしまった。
私が愚かな勘違いに気付いたのはそのすぐ後だった。
「東宮殿下はいつも何をして遊んでいらっしゃるのですか?」
「兄上?兄上が遊んでいるところは見たことがないよ」
「あにうえ・・・?」
長男である東宮殿下に兄がいるわけがない。
そこに至って私はようやく人違いに気がついた。
つまり目の前の少年は東宮殿下の何番目かの弟君なのであろう。
道理で幼く見えるはずである。
「ねーね、遊んでくれるんでしょう?早く外へ行こう!」
目の前の少年は私の間抜けな勘違いに気付くはずもなく、無邪気にこちらを見上げてくる。
私は嬉しそうに腕を引く皇子の手を振りほどくこともできず、彼について行くほかなかった。
切り出すタイミングを失った私は惟則様とへとへとになるまで遊んだ後、一旦屋敷まで帰るとすぐに寝台に入った。
それほどに疲れていたのだ。
しかし部屋の明かりを落として、さあ寝ようと思ったとたんに再び明かりがつき、私の疲労などお構いなしの様子で父上が私の部屋に入ってきた。
しばらく会えなくなる娘の顔を拝みに来たのか、ならば寝顔でも拝むがよかろうと私は構わず寝具の奥へと潜り込んだ。
「惟則殿下の―――でお前は―――の方が東宮殿下――――――で良いのか?」
殆んど夢の世界へ旅立っていた私は父上が何を言っているのか半分も聞いていなかったように思う。
最後に同意を求められているようだったので適当に頷き、父親を追い出すと今度こそ眠りの快楽へと身を任せた。
言い訳をさせてもらえるならば、十歳児が眠りの誘惑に打ち勝つのはかなり難しいことなのだと言いたい。
そして翌朝。
何故か私は東宮殿下のお話役兼許嫁(仮)から惟則親王殿下のお世話役兼許嫁に早変わりしていたのである。
全く世の中不思議なことがあるものだ。
宮中とはまったくもって怖いところであった。
兄様姉様に散々脅されていたが、やはり話を聞くのと実際に身を置いてみるのとでは違う。
なんというか、いつ何時でも人の視線を感じるのである。
何とは無しにふと振り返るとこちらを見ている見知らぬおじ様やらおにい様、時にはおばさ――もといおねえ様方と目が合う。
私は気配を読む力など備わっていないので、それはすなわちいつでも見られているということにほかならない。
大抵の場合こちらが目が合わせ睨みつけるようにすると、見ていた方は気拙いのか何なのか笑みを浮かべて去っていく。
その笑みが何やら微笑ましいものを見たと言うようなものなのは何故なのか、ついぞ分からなかったが。
その日は雪が降っていた。
正確には未明に雪が積もり、皆が起きた時分にはやんでいたので「雪が降った」というべきか。
温暖な気候に恵まれた王都で雪が積もるということは極めて珍しく、子供だけではなく大人達も少し浮かれた様相を見せていた。
私と惟則様ももちろん例外ではなく、その日は中庭に出て雪玉遊びや小さな雪像を作って遊んだ。
その時私は池に薄氷が張っていることに気付き、初めてその池に興味を持った。
氷越しに水面をのぞいてみると、小さな稚魚が二匹寄り添うように身を潜めていた。
「わわ!」
久しぶりの降雪での高揚と大好きな魚を見つけた喜びで、私はいささか興奮していたのだと思う。
頓狂な声を上げるだけでは飽き足らず、稚魚へと手を伸ばすという暴挙に出たのだ。
だが先にも述べたように水面には氷が張っており、いとけない魚に延ばされた魔の手は阻まれた。
私は諦め悪くそのまましばらく手を這わせていたのだが、その時、またいつものように視線を感じた。
子供だからと言って不躾に眺めるなど無礼千万、毎度のように睨みつけてやろうと憤慨して振り返った。
そこには少年がいた。
数人の供を連れ、欄干越しにこちらを見やる少年の衣は紫紺。
禁色を纏う彼こそ、間違いなく東宮殿下だと理解させられた。
超俗典雅とでも言えばいいのか。
侍女たちが麗しい馨しいと騒いでいたがこれ程とは思わなかった。
顔立ちが端正であるのは間違いない。
だが、彼を美しく見せるのはその容貌ではなく彼が纏う品位とでも言うべきものだ。
余りにも――余りにも貴き人だ。
世俗の穢れなど知らぬ、知らなくて良いと思わせる程に無垢でありながら、人を従わせずにはおれぬ気配が有る。
圧倒されるほどの気高き威。
国の頂点に立つ者とはかくあるものかと驚愕した。
世の人々が権を得るために大枚をはたくのは、このような存在に近づくためなのか。
ならば今まで愚かしいと思えていた彼らの行動ですら納得してしまう。
私が彼の姿を見ていたのは時間にして数秒。
私と目が合うやいなや、彼は悲しげに寂しげに眼を伏せた。
先程まで火照っていた体が一気に冷めきった。
一体何が彼の顔を曇らせるのか。
悲しみなどとは無縁であるべき人なのに。
何か、何でもいいから慰めの声をかけねばならぬ。
あのような表情をさせておいてはいけないという強迫観念が私を突き動かす。
しかしその一方で、かの方にひるむ自分がいた。
結局私は立ち尽くしたまま、その後ろ姿を見送るほかなかった。
魚を見ていたら懐かしいことを思い出した。
あれから何度か姿をお見かけしたが、かの気配は曇ることも薄れることもないようだ。
私がそそっかしい間違いなど犯さなければ、今頃私はあの方の傍にいたのだろうか。
そう考えて苦笑した。
私があの方の隣に並ぶなど、想像もできぬことだ。
水辺は寒い。流石に着物一枚では体が冷える。
私は閨に戻るべく立ち上がった。
長くしゃがみ続けていたせいか、立ち上がった瞬間足元がふらついた。
体の重心が、浮く。
まずい。
つんのめった方向には池があるのだ。
このままでは濡れる。そして風邪を引く。
何より長年連れ添ってきた友というべき魚を下敷きにしてしまう!
一瞬にしてそこまで考え、どうにか踏み留まろうとしたのだが如何せん場所が悪かった。
水苔によりぬめりを帯びた石は、無情にも私を助けてくれないようだった。
ああ、魚さん無事に成仏して下さいと祈りつつ水に落ちる覚悟を決めたのだが。
どうやら神は私を見放さなかったようだ。
後ろから腰に回った腕が私の体を支えてくれていた。
しかしこの瞬間に助けを出せるということは、随分とそば近くに人がいたのか。
このような時刻に庭にいるとは珍しい。
自分のことは棚に上げてそう思いつつ、私と魚を助けてくれた恩人の顔を拝むべく振り返った。
つい先ほどまで思い出していた方の御尊顔が御座いました。
「ひ」
うああ、神様こんな悪戯は要らぬのですよ。
つい悲鳴のような声を上げてしまったのは許して欲しい。
心臓が止まるかと思った。
しかしその悲鳴を聞いて何を思ったのか、東宮殿下は私の体から手を離し一足ぶん私から距離を取った。
そして私が礼の言葉を述べるより先に彼が口を開いた。
「すまぬ」
・・・?
何に対して謝罪しているのだろうか。
「断りなしに体に触れた」
ああ、なるほど。しかし悠長に許可を取られていたら、私はびしょぬれでした。
「いえ、おかげで濡れずにすみました。危ないところを助けて頂き有難う御座います」
私は情けなくも視線を彷徨わせつつ謝辞を述べた。
彼の胸のあたりに目線を落ち着かせると、彼の顔を見ることもなく緊張も半減する。
暗紅の水干を着た彼は私とは違って、夜の散歩という訳ではなさそうだった。
「濡れずに済んで良かった」
「東宮殿下のおかげで御座います」
・・・。
沈黙が痛い。
そして私は寝着一枚であり、本来ならば人前に晒せる格好ではない。
御目汚しも良いところだ。
「では私はそろそろ――」
閨に戻ります、と続けようとしたところで言葉をかぶせられた。
「名は」
静かに響く彼の声は美しい。
一つ一つの言葉の発音が丁寧なので、余計にそう思うのかもしれない。
発する言葉数が少ないのが残念である。
しかし「名は」とはもしや私の名前を尋ねているのであろうか。
仮にも私は貴方の弟の許嫁なのですが。
律儀に返事を待っている目前の男に少し悔しさを覚えた。
「葵と申します。こちらには惟則様の許嫁として滞在しております」
後半の言い方が少し皮肉っぽくなってしまったからか、彼はかすかに眉宇を顰めた。
ちなみに私がその変化に気がついたのは、目線を彷徨わせる先を胸元から額あたりに移していたからである。
「葵」
名を呼ばれ、反射的に相手の目を見てしまう。
「ようやくそなたの名を呼べた」
彼の声は目眩がするほどに甘やかだった。目元を綻ばせ、本当に嬉しそうにそんなことを言う。
「許せ」
唐突に言われ、彼の表情に意識を奪われていた私は首を傾げる。
彼はそんな私に構う様子もなく一息に距離を詰め、緩やかに私を抱きしめた。
ああ、つまり今のは体に触れる断りを入れたのか。
先程の言葉を思い出した。本当に律義な人だ。
「惟則の許嫁などと言うな」
耳元で苦しげに囁かれる。
どういう意味かと彼を見上げた。彼の瞳が揺れる。
「そなたの相手は私だろう…?」
呼吸が止まる。
この人は私のことを覚えていたのか。
不意に泣きたくなった。
七年前の過ちを、この人に詫びなくてはならない。
何故だか強くそう思った。
「殿下――」
「雅仁と呼べ」
声音は柔らかなのに反論を許さぬ響きが有る。
本当にこの人は、生まれながらにして上に立つ人なのだ。
「雅仁様。七年前のこと、本当に申し訳御座いませんでした」
これだけでは何を謝っているのか分かるまい。
でもこれで良いのだ。謝るのも許しを乞うのも私の勝手な自己満足なのだから。
しかし返ってきたのは予想外の答えだった。
「許さぬ」
耳を疑った。
彼は私の髪を一筋掬い取り、言い聞かせるようにもう一度言った。
「許さぬよ。永遠にそなたを許しはしない」
言葉の苛烈さとは裏腹に髪を梳く手つきは酷く優しい。
不意に彼が悪戯めいた笑みをこぼした。
「つぐないもせずに許しを乞うのか?」
そう言って私の顔を覗き込む。
彼の瞳に思いがけなく艶めいた色を垣間見た私は一気に頬を染め上げた。
戯れが過ぎる。
抗議を込めて彼を睨み上げる。
「本来ならば私とそなたは夫婦となっていた」
だからこの程度のことは許せと?
「この年齢であればとうに契っていてもおかしくはあるまい。ならば口付けの一つを強請ることに何の罪が有ろうか」
どう考えても論としては破綻しているはずなのに、切り崩す糸口がつかめない。
それにしてもずいぶん饒舌ですね、と言いたくなった。
先程口数が少ないのが残念だと思った私が馬鹿みたいだ。
この人の言葉には力が宿る。言葉少なであるくらいがちょうど良い。
ちなみにこの思考の間、現実の私は間抜けな顔で口をパクパクさせていただけである。
そんな私を哀れに思ったのか、彼は妖艶な笑みを消して一歩離れると真面目な顔で私を見つめた。
「葵」
「はい」
彼の様子を見て私も姿勢を正す。
彼は何度か口を開こうとして、その度に躊躇うように口をつぐんだ。
この人でも迷うことが有るのかと、私は当然であるはずのことを今更に思った。
いくら神威にほど近い眩きをもつ彼だとて、神ではなく人なのだ。
葵、と再度彼は私の名を呼んだ。
「私と婚姻の契りを結んでくれないか」
私は驚き、次いで困惑した。
彼だとてそれが無理なことくらい承知しているだろうに。
私は惟則様の婚約者だと名乗ったはずだ。
それが顔に出ていたのだろうか、彼は付け足すようにこう述べた。
既に天子様、父上、惟則殿下には話が付いていること。
あとは私の意思一つなのだと。
「どうか私の妻になって欲しい」
ならば私の答えは一つしかない。
七年前のあの日から、憧れ続けていたのは私の方なのだから。
応える声は、風に溶けた。