六、嘲風
◆
樹から伸びた枝のように、腹から腕が生えている。目の前の突飛な光景を、小町はそう受け取った。
薄皮を裂く杖の切っ先よりも、杖を持つ怨霊の腹に注目していた。何時の間に近くに、とか、危うく死ぬところ、とかは一先ず置いておく。
まず最初に考えたのは、別の死神が助けてくれたのかというものだった。
しかし、それはおかしいとすぐに小町は気付く。怨霊の纏う青い装束を突き破って現れているのは、間違いなく人間の腕。死神や、四季映姫のようなものではない。
次に思い浮かんだのは、鉄生の存在。だがそれは、他の死神以上に薄い想像だと即座に切り捨てた。
であれば、一体、なんだというのか。
「見えなければ、見破れない。当たり前の事を理解せずに使えるほど、この眼は甘くありません」
小町には聞き覚えのある声色だった。だが、その温度はまるで異なる。熱の籠らない、無気力を通り越した怠惰な感情。怨霊の背後から聞こえたものは、そこらの石が話した方がまだ感情があるだろうと思えるほどだった。
ずるり、と音を立てる様に、怨霊の腹から腕が引っ込んでいく。だが、誰もがいつまでも茫然としている訳ではなかった。
小町に向かっていた切っ先を、素早く自身の腹へと向ける怨霊。それを小町は感じ取り、咄嗟に素手で狙いを逸らした。
「誰だか知らないけど、感謝するよ。お礼に腕くらいは守らせておくれ」
「――」
怒りを言葉にする時すら惜しいとばかりに、怨霊は自身を中心に霊気の衝撃を叩き込み、即座に小町諸共、腕の主は吹っ飛ばされる。勢いよく引き抜かれた腕。風通しが良くなった腹を、怨霊は憎々しげに見下ろしていた。
もんどり打って倒れた小町だが、即座に立ち上がり渡し銭を構える。だが視線は怨霊にではなく、先ほどの腕の主へと向けられていた。
人間の腕であること、聞き覚えのある声色、であれば当然、という者が、そこにはいた。
水元鉄生。魂ではなく、肉体が、尻餅を付いて痛めた臀部を摩っている。
即座に小町は、先ほど怨霊が食っていた鉄生の魂を見る。いつの間にか起き上がってはいるが、そこから立ち上がれそうな気配はない。顔面は欠落し、声も上げられず困惑しているのが分かる。
怨霊も同じく、『鉄生の体』と、その『魂』を見比べる。確かに自分が魂を抜いた体と、抜かれた魂。体からするりと魂を抜く感触は、間違いなく成功のそれだった。なのに何故、体は動き回っているのか。
それに、あの言葉――おそらく自身に向けられたのだろう先ほどの言葉を反芻する怨霊。魔眼と呼んだものについて知っているような口ぶり。そんな知識が、水元鉄生の中にある訳がない。だとすれば、先ほどの言葉が『水元鉄生の体』から出てきたものならば――
「なるほどねぇ。化けた元凶のお出ましと言う訳か」
怨霊の出した結論に、小町も内心頷いていた。
今、『鉄生の体』を動かしているものは何か。心臓や脳というものではなく、意志を宿している部分。それは当然、抜かれている鉄生の魂ではない。別の何かが体に入り、動かしている。
生き物の魂は、どのような生物であっても、肉の体との親和性が非常に高い。空っぽの肉体であれば、霊障を起こすのも思うが儘。その上、体を操ることすら出来る。
勿論、既に事切れる程に損傷した肉体では魂でも難しい。だが、生きたまま綺麗に魂を抜かれた鉄生の体であれば、犬畜生の魂であっても動かす事が出来る。
しかし、今いるものは浮遊する霊の類ではない。魂を抜かれてからは小町と四季映姫で霊からは守っていた。
鉄生の体に異変が起こってから入り込んだ可能性も薄い。霊気がゼロに近い状態でも、その魂は侵入を防げるほどには体に満ちていた。だからこそ、雑霊に対して魂が過剰に反応していたのだから。
なら、異変が起こる前――そもそも『何か』が体に入ったから、水元鉄生の体に異変が起こったとすれば。
枯渇した霊気も、発現した魔眼も、全てが、いま体を動かしている『何か』が原因と考えれば、合点がいく。
怒気に満ちている怨霊の顔。だが次の瞬間、ころりと笑顔に変わる。
「そうかいそうかい。それなら、この穴に文句は付けられないねぇ。何せ、獲物の横取りになる所だった訳だ」
そう言いながら、腹の穴を数度撫でる怨霊。様変わりした雰囲気に小町はぽかんと口を開けてしまう。
「悪かったよ。謝罪する。私がお手付きした分は、もう握ってるみたいだし、この穴で手打ちにしてくれないかねぇ」
「……構いません」
おどけた調子で話す怨霊に、了承の意を示す『鉄生の体』。声色は鉄生だが、短い言葉でも口調が全く違う。
怨霊はその答えに満足げに頷く。手を離した腹には、既に穴は消えていた。
「そいつはありがたい。それじゃあ、後はお好きにどうぞ、だ」
全員から背を向けひらひらと手を振り、その場から離れようとする怨霊。
その様子に思わずぼうっと見送りそうになる小町だが、なんとか我に返って怨霊へ声を掛ける。
「……おいおいおいおい、ポンポン話を進めないでくれるか! さっきまでやりあってた落とし前はどうしてくれるって言うんだ!」
「貸しにしといてやるさね。それよりか、もっと気にするべき相手がいるんじゃないかねぇ」
隠形の術で姿を隠しながら語る怨霊。逃すか、と駆け出そうとするが、欠片ほど残っていた理性がなんとか足を止める。
勝手に貸しなどと言われ業腹ではあったが、怨霊の言葉に正しい部分があったからこその判断だった。
「ああ、もう、厄介な……!」
転がっていた鎌を拾い、『鉄生の体』へと向ける。たったそれだけの動作で、小町は疲れきっていた。
二転三転する状況。幸いなことに、障害となるものの数は増えていない。だが、何処の誰とも知れない悪霊まがいは消えてくれた代わりに、もっと扱いに困るものが現れた。そのややこしさは、小町を疲労させるには十分なものだった。
「とりあえず、冥土側の者として言わせてもらうよ。現世の人間の体を弄ぶ事は、たとえ神様であろうと許されない。速やかに離れろ。さもなくば――」
小町が『鉄生の体』へと警告する。だが、投げ掛けられている当人は全く聞く素振りを見せず、自身の掌をじっと眺めていた。
その態度に、小町の中で疲れよりも苛立ちが勝ろうとする。いっそ死神らしく魂を刈り取ってしまえば――とも彼女は思ったが、強硬手段に出るには目の前の存在をうまく量れていない。
当然、人間の体を拝借しているのは見過ごせない。だが、その行動は遠回しではあるものの、鉄生本人の魂を守る事にも繋がり掛けている。『鉄生の体』がここに来なければ、おそらく小町は鉄生を守りきれず、自身すらも危ういところだった。それだけでも、小町は少なからず、恩義を感じていた。
もっとも、小町が助かったのはおそらく偶然だろうし、鉄生の魂が守られたのも、怨霊が言うとおり「獲物」だからこそと判断してしまえば、それまでなのだが。
八割がた障害として認識している。だが、残り二割は――何とも言えない。小町の中の煮え切らない想いが、問答無用の選択肢を防いでいた。
小町の警告の文句が途切れ、睨み合いが続く。だが唐突に、『鉄生の体』はふらりと動き出した。
へたりこんだまま動けずにいる鉄生の魂へと。
「っと、何する気だ?」
一段と引き締めた気のまま、小町が問いただす。
それに対して『体』は、何てことはない風に言い返す。
「持ち主に返すだけです」
今日の天気を話すかのように返された答えを、小町はすぐには呑み込めなかった。
意味を反芻しようとしてる間に、『体』は鉄生の魂の傍まで近付く。
「待――」
小町の静止よりも先に、『体』の手は動いていた。
先ほど怨霊の腹を貫いた手が、今度は鉄生の顔へと触れられる。
咄嗟に小町が渡し銭を打とうとするが、すぐそばにある鉄生の魂がそれを躊躇させた。悪霊であれ怨霊であれ、普通の霊魂でさえも、渡河の弾丸は分け隔てなく貫いてしまう。
であれば――と、小町は一歩、踏み出した。
特に変わりのない、一歩分の歩幅。だが彼女にとっては、その一歩で其処に到達出来る。
距離を縮めるという、条理にそぐわない能力。武術で言う縮地を容易く現実にした小町は、たった一歩で『体』に肉薄した。
その勢いのまま、振り被った鎌を『体』へと目掛け――寸でのところで止める。
「返す、と言ったでしょう。聞こえませんでしたか、死神」
自身に突き立つ寸前の切っ先を見ながらも、その無気力な口調は変わらない。
返すという言葉が、小町の鎌を止めていた。
「返すって、何を」
説明しろ、と鎌をぐいと当てる小町。顔色ひとつ変えずに、『体』は口を開く。
「顔ですよ。いつまでものっぺらぼうでは、不便でしょう」
鉄生の魂へと当てようとしていた掌を、小町へと見せる『体』。
形を持たない、しかし確かに存在する何か。その気配は、小町の良く知る、人の魂のそれだった。
冥土へと渡らせるものと比べれば非常に小さく、魂の切れ端とでもいうべきもの。
「もしかして、あいつが食った奴か!」
「わざわざ腹に手を入れたんです。そうでなけば困ります」
よくもまあ器用な真似を、と素直に驚く小町。その様子に『体』は呆れた風な声を出す。
「しかし、良いのかい」
「何がですか」
「その人間を食おうって腹積もりだと思ったのだけどね、あたいは」
「そうされたくなければ、黙って見ていなさい」
鎌を向ける者、向けられている者の会話は、それほど長くは続かなかった。
しかし二言三言交わした言葉に毒気を抜かれた小町は、『体』の邪魔をしなくなった。
刃は相変わらず『体』を捉えているが、黙れという言葉の通りに小町は口を閉ざす。
静かに鉄生の魂へと手をかざす『体』。保持していた魂の切れ端を、何もない顔へと注ぎ込んでいく。
魂は肉の体ほど形に固執しない。肉体から綺麗に抜かれた鉄生はともかく、普通に死んだものであれば自身の体を保ったままでいられるものは少ない。そのまま霊気を置いて冥土に渡れば猶更、魂は形をあやふやにしていく。俗に人魂と呼ばれる火の玉状のものは、それが極まったものと言える。
逆に言えば、魂は形をあやふやにしていても、その機能は変わらない。生前と同じく考え、見聞きし、言葉を発せる。今の鉄生にそれが出来ないのは、人の形を保っていたが故に、それらの機能を象徴する部位を食われていたからだ。
形にこだわる肉の体であれば、容易く治る事はない。だが魂であれば、きちんと同量戻す事さえ出来るならば、正しい形へと治し、その機能を復元する事が出来る。
故に。掌から注がれた魂は、瞬く間に水元鉄生の魂を元の形へと戻す。
顔に正しく部位が刻まれる。目、鼻、口、耳――無表情に魂へと手をかざす『体』と寸分狂わず同じものが出来上がる。
唯一の違いは、その表情が、疑惑や驚きに満ち満ちているところだろうか。
「誰だてめぇ!?」
それは文字通り、魂の叫びだった。
◆
だってそう言うしか無いんだもの。
いや、分かっている。分かっているんだ。なにせ、毎朝鏡に映っているものと同じだもの。見当は付くさ。それほど馬鹿じゃない。
だとしても。だとしても、だ。今までの不可思議体験だって相当だが、こいつは本当に奇妙だ。いや、もっと言えば気持ちが悪い。
急に目が見えるようになったと思ったら、目の前には同じ顔。俺と同じ顔。俺がこんなに驚いてるっていうのに、無表情を貫いている同じ顔。何の冗談だ。こんな事なら見えないままでも――いや、それは困る。口だって利けないと困る。それは分かっている。分かっているよ? でもそれにしたってこれは冗談にもならないものじゃあないか。
「も、もう一回聞くぞ。誰だ、お前」
自分と同じ顔の奴にこんな質問をするなんて! しかも二回も! 気が狂いそうだ。魂だけになってるというのに、魂が抜けそうな気がする。
そんな俺の葛藤なんざお構いなしに、俺と同じ顔をした奴は俺の体を撫で回す。撫で回すといっても、実際に触っている訳ではない。手をかざし、触れずに滑らせているだけだ。
ひとしきりそれが終わると、ようやくそいつは口を開いた。
「疲れました。あとはお任せします」
「は?」
何言ってんだお前質問に答えろよ意味不明過ぎるぞこの野郎しかも俺と同じ声で全然違う口調とか気色悪いわ――等々、文句を言う間もなく、変化が全身を襲う。
分厚い鉄壁に押し潰されるような、圧力と冷たさ。だが体はすんなりと鉄壁にめり込んでいく。潰れた手足は鉄の重さを持ったまま、その機能に異常がない事を知らせてくれる。
やがて頭が鉄に沈む。曇り硝子が視界を覆う。頭、いや体全体に、何かが満ちていく。満ちた中に、俺の体が沈んでいく。鉄壁? いや、違う。
曇り硝子の視界が晴れる。目の前には、俺の顔などはない。当たり前だ。良かった、夢だ、夢なんだ――胸をなでおろし安堵する。暖かい鼓動が俺の手に伝わる。ああ、安心する。何がなくとも鼓動は安心するものだ。
「……んん?」
ふう、と一息吐き出してから、何かおかしいと気づいた。
鼓動。心臓の鼓動。うん、あるのは生物として正しい。正しいが、今の体に鼓動なんざあっただろうか。あって良かったろうか。
胸板を触る。確かに心臓が脈打っている。体温もある。かじかんでいる手が多少温まる。
「……あれ?」
普通のこと、だ。普通のことだが、ついさっきまで俺は普通のことが許されていない体じゃあなかったか?
試しに頬を叩く。痛い。どうやらこれは夢ではない。安心した。していいのか。駄目だろう。いやそうじゃなくて。
「あー、その」
聞き覚えのある女性の声。小町だ。顔を向けると、なにやら複雑な顔をしている。今の俺とどっちが複雑だろうか。
何か言いたい事がある筈なのだが、上手く言語化出来ない。迷っている内に、小町が口を開いた。
「……おかえり?」
その言葉を言われたら、こう返さざるを得ないだろう。
「た、ただいま?」