三、気迫
お堂の前に座り込む、小町と俺。
人当たりの良い死神は鎌を担ぐのも疲れたのか、罰当たりにもお堂に立てかけていた。何処からか取り出した煙管を燻らせて、夜闇を線香に似た匂いで満たしている。
そんな様を隣でぼうっと眺めながら、俺の手は落ち着きなく動いている。そういう悪癖じゃあない。雑霊の仕業のせいだ。
辺りをうろつく雑霊どもは粗方取り込めたが、時折流れてきたものが俺に向かってくる。殆どを手でペシペシと叩き返し、まとわりつく奴を手で潰す。
夜風とは違う、肌にねばつくように残る寒気は絶え間ない。だが、魂は慣れやすいものなのか、取り込んだ霊気が何かを及ぼしているのか。それとも、ただ麻痺しているのか。体を動かせなくなる程の症状は現れなくなった。
小町の言う霊障。心霊関連の単語として、聞き覚えはある。
「幽霊が祟って起こる、火ぶくれとか麻痺とか、そういう類だろ?」
「人間が使う機械に悪さをするのだって、障りと言えばそうさ。最近の魂は、近代的になっちゃってるからね」
魂が近代的……科学小説で聞きそうな響きだ。
「魂が半分機械とか、機械に宿って人間を支配するとか? そういう?」
「それは近代的じゃなくて前時代的なんじゃない」
時を刻む機械が機械達を支配するというのは今のところ無いらしい。いやあんなものが冥土に行くとは思えないから知らないけど。いやいやそもそもあれが前時代的と呼ばれるほど時分を錯誤したものでもないと思うし、いやいやいやそんな事はどうでもよくて。
ふぅ、と漏れる吐息。物憂げな顔は、煙に飾られた。
「まぁ、今のあんたには関係ないさ。農奴には農奴の苦労がある、って程度でいい」
「農奴? ……あ、死神だからか」
死神の象徴である大きな鎌は、『魂を収穫の様に刈り取る農奴』というのを表しているとか。
小町の歪んだ鎌に魂を刈る事が出来るのかは、甚だ疑問であるのだが。
そこでふと、思い出した事があった。
「そういやさ、小町」
「なんだい」
「仕事、あるんじゃなかったのか」
静寂。
「おい」
「なんだい」
「仕事の途中じゃなかったのか」
静寂。すぅ、と煙を口に含み、瑞々しい唇が吐き出すまで、たっぷり五秒。
「おい」
「いやぁ、今日は本当に冷えるねぇ。大丈夫かい、体調は悪くないかい」
「おい」
「ああ、煙管の煙は平気かい? 慣れてないときついかもしれないね、離れてようか……」
「おい」
「……ええと」
ごまかしの言葉も尽きたのか、口をもにょもにょと動かして目を逸らす。
「……お前まさか、仕事に戻りたくないから此処に座ってんのか」
「い、いやぁ? そんな訳ないってほんと、ほんとに。ただ、ちょおっと憩いの時間というか、自主的な休憩の調整というか、予想外の事態に対しての作戦立案の思案中というか」
「……」
頭痛い。
「で、でもさぁ。ここからどうするのかだって、決まってないだろう? 手助けするって決めたんなら、ちゃあんと筋通さなきゃいけない訳だし。ね?」
「だから、家に帰るっつってたじゃねぇか」
「そこからだよ。おかしなものが見えるって言うのに、そのままで良いとは言えないだろう? ほらほら、直し方とか、対処法とか、気になるんじゃない?」
どう見たって、窮地に回る舌の類でしかない弁論だ。その場しのぎを連ねた無為で無駄な無数の雑言。全部聞き流しても問題ない程度。
しかし、しどろもどろに語った言葉は、俺が不安に思っていた事に間違いはない。
「……ああ。そうだな。このままで、良い訳ない」
「そう、そうだろう? だから私は、こうやって知恵を絞ってね……」
小町の上滑りしていく文句は聞き流す。
このまま日常生活に戻れるか、と問われれば、俺は無理だと答えるだろう。雑霊に怯えて生きるから、ではない。人を傷付けたから、などはどうでもいい。
俺は異常に触れた。そしてその異常は、思いの外、常の隣にいると知った。
日常に戻るとは、その事実を胸に抱き、その節理の中で生きていく事になる。
もしかしたら、霊気が成長して雑霊なんてものともしなくなるかもしれない。
怨霊にもちょっかいを出されなくなるかもしれない。
俺を怯えさせる周囲を、霊気で塗り潰して安穏を得られるかもしれない。
逆に、そういう事が無ければ。ただこのまま、元居た場所に戻るなら。
俺は、日常に帰れる気がしない。
劣る霊気により魂が凍らされるかもしれない。
怨霊に襲われ、祟られ、喰われ、自身が霧散するかもしれない。
他者の霊気に塗り潰されて、自我を無くしてしまうかもしれない。
いや、心霊的なものばかりなら、まだいい。だが、日常に異常が紛れ込む世界に生きるのなら、より混迷に満ちた問題を考えなければ。
あなたの霊気が私を襲ったんだ、なんて言いながら殴りかかっていったら閉鎖病棟に直送だ。怨霊があなたに憑いている、そんな文句を漏らそうものなら現代社会の村八分は免れまい。
勿論、そんなものを気にせず、見ぬふりのままに生きればいいとは思う。だが、俺に見えているものは、そのまま害を及ぼすものだ。五感を全て潰したところで、迫る手からは逃れられまい。感じていた寒気は、そういう類いのものなんだ。
「……だからってなぁ」
「いやいや、周りからは怠けているように見えても、頭の中は大忙しなんだよ本当に。顔見るだけで寿命が分かるなんてなれば、誰だってそうなるさ」
依然として小町の雑言は止まらない。思わず漏れた俺の呟きを苦言として捉えたのだろうが、やはり無視する。
――どうすればいいのだろう。
達観したところで、道は決めなければならない。敏くなろうと勘を利かせても、これからの事からは逃げられないんだ。
であれば、最悪の事態に対して考えなければならない。簡単な所で言えば、家を出るとか。
勿論、アテなんてない。だが日常から離れるとなれば、手っ取り早いのはこれだろう。
路上で傷害事件起こして家出だなんて、短絡的なガキとあまり変わらないが、むしろ家族にはそう思われるくらいが良いのかもしれない。理由もなくフラリといなくなってしまう方が、よっぽど怖い。家族が突然傷害事件起こすのも怖いことには変わらないのだが。
打つ手が無ければ失踪。なんとも無責任な話だ。
しかし。そんな軽率な判断をして良いのだろうか。
いや、むしろそんな判断を下せるなんて、おかしいじゃないか。
家を出る? 容易に言えても、実際はどうだ。日常に這い寄る異常を恐れる奴が、非日常へ身を投じていれば耐えられるとでも? そんなのはおかしい。
いくら逃げようと、異常は傍らにあるものだ。それならば、まだ日常と手を取り合っていた方がいい。異常を俺が蝕んでも、日常に癒して貰えばいい。小町じゃなくとも、俺の手を握ってくれる人はきっといるだろう。
そもそも、失踪だなんて発想をするのが間違っている。人から離れてしまいたいという思いは、俺を路地裏の怨霊と、隣で未だにごまかしの言葉と煙管で煙に巻こうとしている死神と引き合わせた。
そのせいなのだろうか。不都合な今から逃げれば、きっと何か進歩があると思ってしまっているのか。そんなおめでたい思考、そこらのドブにでも捨てなければ。
あるいは――あるいは? 何だ?
何か引っ掛かりを感じるが、うまく言葉に表せない。
「ああっ、くそっ。纏まらねえ」
バリバリと頭を掻く。どうにも思考が極端に触れすぎる。気を張り過ぎなのが原因か。
一先ずは置いておこう。いや、すぐに直面する問題ではあるが、俺の頭だけで考えたって限界はある。というか程度が知れている。
それならば、もう一つの頭にだって考えてもらってもいいだろう。いや、というより、その為にここで燻っていたんだろう。
「で、死神さんや」
「な、なんでせう、鉄生さん」
「何か妙案は浮かぶか降りるかしてきましたかね」
「ええっとぉ……」
目線を逸らしている姿は、親近感は覚えるものの、頼もしさ絶無のものだった。
「別に仕事怠けてるのは咎めないけどさ、俺をそのダシに使うくらいなら、ちょっとばかしは考えてくれたってよ……」
「待った、待って待って。思い付いてはいるんだよ。だけどね、その……解決策って訳じゃあないんだ。こうやって二人で居ても何も進まないだろう?」
それはつまり――
「別の人の知恵を借りる、とか?」
「惜しい。別の神の知恵を借りようかなって」
神様って気軽だなあ。まぁ、死神に助けられていて何なんだが。
「それって、さっき言ってた待ち合わせがどうとかってのと関係あったり?」
「まぁ、ね。ここいらを管轄してるお迎えの死神が、ここらへんを根城にしてるのさ」
「管轄とかあるんだ……というか、小町は別の場所の管轄なのか」
「別の場所って言えば、まぁそうだね。そもそもあたいは、お迎え担当の死神じゃあないのさ」
「へぇぇ……って、あれこれ聞いて良いのか? 部外秘とかじゃない?」
「大丈夫、大丈夫。知られて困ることなんて、あたいが知ってる訳無いだろう」
笑えばいいところか、それは。突っ込む前から小町は自分で笑ってしまっているが。
「別に良いって言うんなら良いけどさ。……ここで座ってるのは、その死神待ちって事なんだろ?」
「一応ね。いつ来るかは分からないけど、朝になる前には来る筈だよ」
「それなら、その死神が来るまで色々聞いて良いか」
「ああ、知ってることなら答えるよ。暇潰しには丁度良い」
「それなら――」
――不意に、太陽が落ちてきた。
いや、そう思うしかなかった。光、熱。それを伴った木枯らし。いや、どれとも違うというのは分かっている。俺の目に建物の影は映ったままだし、夜風に立った鳥肌だってそのままだ。いや、ひょっとすると鳥肌は別が原因かもだが。
魂で知覚していた。小町のものとはまた違う、誰か、何かの霊気。悪意は無いとは分かる。含まれるものは、言葉にするなら偉く刺々しく、目映いものだ。
小町の霊気から感じた安心が、彼女の持つ感情や性質、気質のようなものだとすれば、これは――
「て、鉄生、行こう、早く行こうすぐ行こう移動しよう」
「え、ちょっ」
「訳は後で話すから! いいから! くぅ〜……四季様滅茶苦茶怒ってるなぁこれ!」
ああ、そういう事。もう今の言葉だけでなんとなく察せた。
乱暴に手を引っ張る小町にされるがまま走りつつ、俺はその『四季様』とやらに心の中で詫びる。怠けていたのは事実なので取り繕えないだろうが、俺のためであったのは間違いない――としてやりたい――訳だし。
「しかし、逃げたら余計に怒られるんじゃないか?」
「逃げてるんじゃなくて早急な対応をしてるだけ! ああああ家どっちだっけ? こっちか! その後についてはまた家に行くから大人しくしてなよ! うわああ四季様追ってきてる怖ぁ!」
こんな余裕が無さそうな状況であっても情に厚い一面を見せるのだから、本当に良い人なのだと分かる。やっていることは、まぁ、言葉にしては可哀想だろう。
それでも、そんな人に救われたのは、まさにもっけの幸いと言う他は無い。
だから、走りながらも感謝の言葉を伝えようとして――俺の体は倒れた。
「――あれ?」
いや、俺は立っている。俺は立っているが、倒れている。倒れているのに、立っている。立って、倒れた自身を眺めている。
手を繋いだままの小町の顔は、きっと俺と同じ顔だろう。ぼうっと、目の前の状況を理解が出来ていない顔。
だが彼女は、俺なんかよりも異常寄りの存在。立っている俺に目を向け、倒れた俺の手を離して、駆け寄ろうとして――
「遅いよ、遅い」
聞き覚えのある声が響き、四色の玉が眼前に現れる。
咄嗟に鎌で受ける小町。そこから先は、俺は見る事が出来なかった。
「さぁて。言い残す事はあるかい? 化け物、水元鉄生」
夜空を飛ぶ体。――それを捕らえ、覆う、暗い翼。
眼前で笑う女の顔。初めてみる顔。だが当然、こんな空気の読めない奴は二人としていまい。
数瞬後には消し飛びそうな灯火の身は震える。だが、口だけは意地でもひん曲げた。ツラの悪さを最大限に生かせるよう、必死に睨み付けながら舌を回す。
「生憎と、まだ死ぬつもりはねぇよ。『魔法使い』――いや、怨霊」
◆
「あいつめ、こんな時に来るなんて……っ!」
怨霊の残した玉を弾き飛ばした小町は、空を見上げて憎々しげに言う。
鉄生の体は残ったまま。しかし肝心の中身は、怨霊が奪い去っていった。
「隙を見せても現れないから諦めたと思ったらっ、性格の悪い奴だ。早く追わないと……ああでも体がこのままだとなぁ」
憤りを隠せない小町だが、それが無駄とは承知していた。
腹立たしさは一旦飲み込み、倒れた鉄生の体に処置を始める。
「あーあー、綺麗に抜いてくれたもんだ。とりあえず雑霊にイタズラされないように御守りでも……」
「もしもし」
「何さっ! 今ちょっと取り込みだよ!」
背後からの呼び掛けに、乱暴に答える。しかしそんな小町に臆する様子はなく、呼び掛けた主は言葉を続ける。
「ほう、取り込み中。それは一体、どのような用件で?」
「人が倒れてんのが分からないのかい!」
「そのようですね。しかしそんな事をやっていていいのですか?」
その言い方にかちんと来た小町。いらつく拍子に施していた御守りが霧散してしまい、思わず振り向き怒気を露にする。
「あんたさっきから……」
そこで彼女は、何故、死神である自分に声を掛けられているのかという、浮かんでおくべき疑問の答えを得る。
振り返った小町が見たのは、笑っている少女だった。それが彼女にとって、どれ程の恐怖だったのか。わなわなと震える口元と、見開かれた目が、それを表しているだろう。
「さて。何をやっているのか、説明していただけますか? 小野塚小町」
「あー、えっと、人命が掛かっておりますので、なるべく省かせて頂けたらなぁと……」
怯えにすくんだ舌で紡いだにしては流暢な言い訳。それに対して少女は素直に頷く。
「ええ。まだ事態は飲み込めませんが、火急であるのは間違いなさそうです。しかし、貴方の役目はそのような事でしたか?」
「それは――」
違う。そう答えるしか、小町にはない。彼女には、本来の任務があるのだから。
「あなたの役目は、人命一つとの天秤に掛けられる程度のものでしたか?」
抗うことは許されない言葉。恭順すれば良い。するべきなのだろう。少女は小町よりも上の存在であるのだから。
沈黙はそう短くなかった。小町が口を開く。
「――掛けられません」
「では、あなたはどうすべきですか?」
少女と小町の目が合う。怯えに開いた目ではなく、迷いの消えた目で、少女を見ていた。
「人命は、何よりも尊ぶべき。それは地蔵菩薩である、あなたがよく分かっている筈です」
止まる空気。少女は口を開かず、小町の目を見る。いつの間にか笑顔は消えていた。
先の沈黙と同じく、そう長い間では無かった。少女が、ふぅ、と溜息気味に息を吐く。
「――当たり前でしょう、そんな事は。その体は私が守ります。あなたは原因を追いなさい」
「四季様……!」
「急いで」
「はいぃ!」
ぱぁっ、と顔を明るくするも、感謝を伝える間もなく走り出す小町。
残された少女――四季映姫は、その背を苦笑を浮かべた顔で見送った。