二十二、添削
文字通り、『雲の上の存在』となる龍神様。眷属である私であっても、直に出会う事はまず無い。何らかの託宣を受け、それに従う形となる。
故に存在するのが、竜宮の使いという者たち。龍神様の意を運び、それを伝えるもの。尤も、龍神様の意思を真に伝えるべき存在などはそういない。精々が、「これから迷惑を掛けるから備えろ」程度の勝手なお告げだ。
神というものは、えてしてそういう存在だ。天上に坐す彼らは、些事にかかずらう事など無い。
まして龍神ともなれば。ただ在るだけで遺棄られた郷里の存在を保証する。それだけの力を持つのだから、地上なぞ端から眼中に無い。
だからこその異常が際立つ。
一介の眷属に過ぎない私が、竜宮の使いに世話されるなど、あってはならない。
「ほら、また髪が乱れていますよ。じっとしていないと。毛先からつま先まで身だしなみを整えて。爪はどうですか? 歯は? 化粧はこれくらいにしておくとして、あとは……」
あってはならない、はずなのだが。
私を天界まで運んだ竜宮の使いは、甲斐甲斐しく私の体を隅々まで手入れしている。
髪に触れられるのは業腹ではあるが、自分に出来ない事をやってもらっている身で文句は言えない。おとなしく鳴りもしない鈴が連なる髪飾りをぶら下げられる。
「案外、御付きにでも向いてるのかもしれませんね、貴女は」
「馬鹿な事言ってないで、少しは自分で身綺麗になろうとする努力を見せなさい」
紅の入れ方も知らないというのに無茶を言う。
口を挟むことを諦め、再びされるがままの人形と化す。
龍神様への「施術」の為に、天界全体は様々な準備に追われている。
あるものは供物を山のごとく拵え、あるものは雲海に走る霊脈の励起に全力を注ぐ。
そしてある者は贄となる者の身支度を丹精込めて行い、またある者はそれをただ受けるのみ。
贄、である。
龍神への供物としてのひとつ、ではなく、行われる施術に必要となる、贄。
私はそれに選ばれていた。
贄となる事に異を唱えるつもりはない。
死ぬと決まった訳ではないが、まぁ意識は保てないだろうというのは分かっている。
終われば元に戻れると言われているが、嘘と見破るのは私には容易い。嘘というよりは、気休めか。
恐れや不満もないではない。だが、受け入れている。
それは諦めからか、御恩への奉公なのかは、私にも分かりかねる。
ただこうしなければならない、という、使命感のようなものが近いかもしれない。
おそらく最期だろう休日を中断されたのに不満は無いではないが、まぁ、勤め人とはそういうものと飲み込もう。
「これでよし。では、行きましょう」
「どちらへ?」
ピシリ、と背を叩かれ意識が引き戻される。
反射的に問うた言葉に、竜宮の使いは眉間に手を当てて答える。
「もちろん、妖怪の賢者のもとへ。最初に言っていたでしょう」
「すみません、聞く気が無かったもので」
拳を固めて震える姿は愉快だった。
普段であれば現世と有頂天を隔てる黒い雲海は、龍神様の変調からか白光を帯びた渦を描いている。
嵐夜を一望するかのような場所に、それは建てられていた。
今回の『施術』の為だけに作り上げられた御堂。
一月ほどで建てられたとは思えないほどの絢爛さは、さて突貫工事を誤魔化すための華美なのか。
生憎と私の目は施工の手間は見透かせど、それを見る目は肥えていない。ただ不遜な勘繰りをするばかりだ。
「ようこそお出でくださいました、碧き蓮の御仁」
その御堂の中央。複雑に描かれた方陣の中に、その女は居た。
恭しく礼をする、金髪の――蛇蝎磨羯。
ヒトの体裁を保つ為に継ぎ接いだ、眼光を束ねる異界そのもの。
ヒトの肉皮を被る為に寄せ集まる、質量を持った隙間の塊。
私の浄眼は、目の前のおぞましいものの真髄を正確に捉えていた。
「――よろしくお願いします、境を統べる賢者」
顔を形も見えやしない、およそまともではないもの。そんなものに私は礼を返す。
少し浄眼を閉じれば、その顔は見えたかもしれない。だが、そうまでする義理が何処にある。
私はこれから、こいつが行う術の贄になる。それがすべてで、それで終わりだ。関係性など必要ない。
境界からこちらを覗く目が弧を描く。微笑んだらしい。
「龍神様の再誕、転変、変生を行う此度の儀式。その献身がなければ、成し得る事は出来ませんでした。改めて御礼申し上げますわ」
「そういう事は儀式がつつがなく終わってからどうぞ。見え透いた世辞のやり取りは苦手なもので」
口の利き方が勘に障ったか、竜宮の使いがキッと睨み付けてくる。
どうせもう数刻もしない内に利けなくなる口だ。大目に見て欲しい。
そんな様子を見て何を思ったのかは分からないが、賢者はクスクスと笑う。
「どうやら、既にお心は固いご様子。であれば、疾く済ませるのがせめてもの返礼となりますわね」
賢者はそう語り、継ぎ接ぎは蠢いた。手を動かしたのかもしれない。
足元の方陣はそれだけで淡い燐光を放ち、術の駆動を表し始める。
「お待ちを、賢者殿。まだ星月が昇りきっておりません。施術には未だ時が満ちていない筈では?」
竜宮の使いが慌てた様子で問うと、賢者は裂けた境界から笑い声を上げる。
「いいえ、いいえ。天にて儀式を行う折りに、龍たる虹を孕んだ雨が地に満ちたとなれば、それは第三の海を呼び起こす軌跡に相違ないですわ。龍神様がこの施術を待ち望むが故、彼女の決意も天帝の計らいと言うものでしょう」
それがどこか上滑りする演説のように聞こえたのは、私の気のせいだろうか。
興奮するように脈動する継ぎ接ぎを見て、初めて賢者の顔を窺いたくなった。
「何、所詮は世界に欠けたるものを満たす典礼です。仮初めであれど、現世であれば三なるアマを求める事は道理。ここに至れば後は流れるままに執り行う事こそが、何より龍神様の為になりましょう。我らは所詮影法師、龍神様のお目にもし、お気に召さすばただ夢を、見たと思ってご容赦願いましょう。所詮は小道具。役者らが踊れればよろしいのです」
うわ言めいた賢者の言葉。一層輝く方陣。竜宮の使いは暫し叫んでいたが、諦めたのか頭を振るってその場から離れる。
ただ数秒、無言で私の手を握ってから。
調子の外れた噺家のようであった賢者の声も、いつしか祝詞へと変わっていた。
「――高天原に坐し坐して、天地に御力現し給う龍神様。
世の根元、祖の御使いにして万象滅ぼし万象孕ます。
いと高きにて、八百万の御霊を支配あらせる王神也」
言葉を聞いていく内に、頭が痺れるような感覚に囚われる。
自然と、足が進む。
意思は無い。嫌も無い。ただ、進む。足が動く。
あるべき場所。――そう感じた故に、前へ、前へと進む。
「三界を治め給う龍王神を尊み敬い、愚かなる心を戒め、
罪穢の衣を脱ぎ去らし、まことの六根一筋に御仕え申し、
成就なさしめ給へと,恐み恐み白す」
進む。進む。進む。
抵抗しようと思えば、跳ね除けられたかもしれない。だが、そうしようとは思わなかった。
堂の端。雲海を望む最端。手摺すらない舞台。
此処こそが、私の居るべき場である。
「――一」
しゃん。
髪飾りの鈴が、唐突に鳴った。
「――二」
しゃん。しゃらん。
鈴が鳴り、私の手が揺れる。
「――三」
しゃらん。しゃらん。
足先が滑り、数歩下がる。
「――四」
しゃらん。しゃりん。
下がりながら腕はしなり、跳ねる。
「――五」
しゃん。しゃん。しゃん。
舞いである、と気付くには些か掛かった。
「――六」
しゃらん。しゃん。しゃらん。しゃん。
知りもしない舞い。だが、それが、やけに、馴染む。
「――七」
しゃん。
いつしか鈴に構わず、己が動いていた。
「――八」
しゃらん。
雲海を望みつつ、思うままに手足が跳ぶ。
「――九」
しゃらん。しゃん。
決して自由でないというのに。解き放たれた――ある種の喜びがあった。
「――十」
無音。
手足は止まる。頭も止まる。思考ごと止まる。
「――天に三星あり。祖は永環を象りし大蛇なり。
天より雨が海へ廻り、海より天へ雨を還す。
汝は結びし世界を解し、七の軌跡を遺す者」
朗々と語られる祝詞か呪言か。
私にそれを分ける術はない。
ただ、その堂々たる有り様は――
「今ひとたび、欠けし三界の一つをここに」
――まるで巫女のようだ。
その思いを最後に、私は雷雲の如き空へと身を投げ、私の体は形を失った。
◆
そこから先は、言葉にならないうわ言ばかりだった。
定形を失った故なのか。彼あるいは彼女が語るように「海」になった、というのであれば、その体現を言葉で表すのは難しいのだろう。
だが、意識を有したまま徒然と語る彼らは、ただ一言は形を成した。
『ゆかり』
言葉が溢された後、水元鉄生はあっさりと意識を失った。
それがいったいどういう意図を持っていたのかは分からない。
これからの考察と仮定の上塗りが必要になる事だろう――。
「……これが、彼への実験結果の概要だけど、何か質問は?」
記録資料を閉じて、背後に声を掛ける。
「いいや、何もない。ただの人間が神秘混じりからここまで引き出すとは、素晴らしい」
暗い部屋にいるのは私一人。
だが、私の背後からは確かに応える声がある。
「それで? こうやって私に話させたのには、何か意味があるのかしら?」
「勝手に覗き見るなど、品が良い行為とは言えまい。それに、この記録はお前の口から聞くことに意味がある」
私は一度たりとも振り向いていない。ただ背後から聞こえた声に応え、先に行った水元鉄生への実験記録を読み上げただけだ。
声の主はそれが気に入ったようで、ご機嫌なまま好きに言っている。
「お前はこれを実験結果というが、私からすればこれはある一人の物語、ある一人の残した欠片を、お前の耳を通して記したものだ。であればその戯曲、人の口によって形を成してやるのが当然だろう」
「書き手の意思を伴ってこそ作品が完成するという事かしら? 見解の相違はあるけど、納得したわ」
「それはなにより」
本人なりの理屈があるものを頭ごなしに否定しても何の意味もない。その程度の思慮なら、私も持ち合わせている。
なにより、突拍子の無い説を振りかざすのは私の十八番だ。共感するところもある。
「私をどうするつもりかしら? 読み手という役が無くなれば、あとは用済み?」
「まさか。お前をどうこうするつもりはないよ。お前のような聡い人間は、この先の人類にとって宝だろう」
それに、と。特段の情を込めたように、濡れた言葉が首筋を撫でた。
「八意の名を持つお前ならば、私を忘れる事は無いだろう。その頭蓋の内に私の存在を刻み込めておけるのであれば、なにより安泰というものだ」
八意の名。知識に長けたという古い神に由来する、ただの名字。
それを得体も知れぬ存在有り難がるというのは、ひどく不気味だ。
そこではじめて、私は「後ろ」に畏れを抱いていた事に気付いた。
「あなたは一体、誰?」
ありきたりな台詞。それに対して鼻を鳴らすのは、私の反応に満足したからか。どこか得意げにも思えた。
「我は後戸の神であり、障碍の神であり、能楽の神であり、宿神であり、星神であり――」
ぎぃ。
木造家屋を思わせる、聞きなれない軋み。混凝土と鉄扉しかない部屋に、鈍く響く。
「末路わぬ亡郷の賢者、摩多羅隠岐奈である」
ばたん。
何かが閉じた音が響く。
振り向く気にはなれなかった。