二十、証左
「――蛇から蛟、蛟から龍神様の眷属へとは。出世したんですねえ」
「肩書として与えられたものに過ぎません。人間が得られる仙籍のような恩恵がある訳でもない、隷属の証と大差はありません」
「何を言うんですか。一介の妖怪からしてみれば成功談というものですよ、そういう話は。これはこれで別のネタになりそうなので、後日改めて聞かせていただいても?」
「芋羊羹一本」
「……半分くらいでなんとか」
面白くもない過去をほじくり返されながらもそれほど不快に思わなかったのは、やはり記者の腕というものなのだろうか。
偏屈揃いのここにおいて、伊達に新聞作りを生業にしていない。
「まだ、私自身の話は必要ですか?」
「そうですねえ。これくらいにしておきましょうか。そろそろ本題に……」
行きましょう、と続く言葉は、外から聞こえるどよめきに紛れた。
不安と、少しの苛立ち。怖れ。負に寄った声。
「――ああ。丁度良い」
その顔に浮かべた表情は変わらず笑み。しかし声は硬い。
本来、声に熱など無い。だが、ある筈のない温度が、急速に冷めたのが分かる。被っていた仮面に亀裂が走り、本性の一筋が漏れたか。
「雨ですね」
訳なく呟いた私の言葉に許しを得たと思ったか、店内にも音が満ちていく。
予兆も見せぬ鬼雨。打ち付ける水音は、不意ではあるが、何てことのない代物の筈。
だが。今この時の雨は、記者の言うように『丁度良い』ものだろう。
席を立ち、さんざと降る中に歩む記者。濡れるのを厭う様子はまるでない。
「見て下さい。やはり七色になっていますよ」
促されるまま、店外へと出る。どうなっているかなど知れているけれど、見ろという声を無視するほど突き放すつもりはない。
濡れ鴉に降り注ぐのは、異色に染まった雫達。七つの色彩が空から降り注いでいる。
「ひと月ほど前からでしょうか。この地に降り注ぐ雨が、この様に変わってしまいました。こうして掬ってしまえば、普通の水と変わらないというのに。覆う景色は、まるで虹が降りたかのよう」
ただ事実を語る姿は水が滴っている、ともすれば艶やかな様のみ。空からは赤、青、黄と色彩が降りている筈だというのに、彼女や地面に落ちた雫はただの水と化している。
「ただ色が着いた雨。染めることもない水が注ぐだけ。ですが、異変である事には変わらない。異変解決屋の動きは相変わらず遅いようですが――」
記者の背から、ばさり、と広がる黒い翼。強く吹いた風は、余波と呼ぶには剣呑な気を含んでいた。
「山にまで及ぶこの異変は、天狗としては静観し難い訳です。そこは、ご理解いただけますか?」
「ええ、まあ。天に生きる走狗が、雨にきたした異常を重く見るのは道理でしょう」
「竜宮の使いの方にも、そこは賛同していただけました。ですが詳しくは語れないようで。その権限は持っていない、と黙りです」
一介の使いであれば、それはそうだろう。彼ら彼女らは只の伝言係か世話係のようなもの。今の状況を説明できる筈もない。
尤も、私の情報を売り渡した彼女であれば話せただろうが……面倒だったのだろう。容易に想像できる。
「彼女がそう口を閉ざすという事は、根差すものは龍神様に関わる事柄でしょう。聞き出す為には、より其処に近い者が必要となる。後は言ったとおり、貴方を紹介してもらい、現在に至る訳です」
「そうですか、ご苦労様です」
実を伴わせるつもりもない労いを投げる。しかし、笑顔に皹を刻んだままの天狗は、そんなものに取り合う気は無いらしい。
「今、雲上の世界――天界では、何が起こっているんでしょうか。是非とも記事にしたいと考えているのですが、教えていただけないでしょうか」
事ここに至っても言葉自体は乱れずにいるのは、記者の意地というものだろうか。その口振りが先とは一転しているのは隠せてなどいないが。
しかし。さて。
「地に落ちるまでの間、おかしな色になっているというだけのものに、大きく考え過ぎているのでは? ただの雨でしょう、こんなもの」
作物を枯らす事も、毒を撒く事も、燃やす事も凍らす事も無い。単なる雨に過ぎないものだ。
七色の雨というものは、彼女ら天狗にとってそれほど耐え難いものなのか。
――いや。
天狗というものはそもそも、山々よりも高い矜持を持っている。それは傲慢と呼べる程のもの。
何故なら彼らは強い。彼らは速い。妖怪という括りにおいても、幻想という枠の中でその力量は頂に近い種族だ。
蛇であった私が竜の眷属となり、その高みに龍神様があるのだとしたら、彼ら天狗の高みは天魔と呼ばれる存在。荒ぶりながらも天地を司る神としても、神すら惑わす他化自在天としても奉られ畏れられる。
その彼らが庭とするのは空、つまりは天。創世から界を成す三要素が一つを、彼らは掌握していると言ってよい。
まして、此の地においては三要素の内、あるべき一つは欠落してしまっている。天下と誇っている天狗の誇りは推して知るべきだろう。
その天を。彼らが尊び蹂躙するべき愛すべきものを、得体の知れない犯された雨で汚されればどうなるか。
地を汚すものならば良い。天狗は地面など省みない。降らせる場所は考えろよと呆れはするが、その程度。
だがこの雨はなんだ。ただ中空を七色に染めるだけではないか。紅い霧の様に日を遮るようなものではない。意味がない。我らが天を穢れさせるだけではないか――。
「ふむ」
私ならば事情を知るだろうという見立ては、正しい。そこに関しては、彼女の識別眼を称えるべきだ。
この虹雨に関して、確かに答えられる知識は有していた。事情を知る数少ない者と言っても良い。
だが。
「――申し訳ありませんが、回答は差し控えさせていただきます」
知っているからと言って、答えられるとは限らない。記者には記者としての目的があるように、私にも私なりの事情というものがある。
「何故、答えられないと?」
「木っ端のブン屋に語れる程の話ではありませんので」
またも、風。後ろ髪が踊る感覚。乗せられた殺気は、先のものとは比べ物にならないほど指向性を持っている。
「では――風を背負う者、修験を司る天の遣いとして問う」
奇術のごとき手練手管により、彼女の手に葉団扇が握られる。雨粒どころか記者という建前を吹き飛ばし、残すのは正真正銘まさしく鴉天狗の姿のみ。
人に最も近しいと渾名されようが、それは即ち、人とは決定的に違えた点があるという証左にあたる。取り繕うとも、仮面に隠そうとも、写影機械越しに覗こうとも、天魔に類する者という本質はまるで変わらない。
「天にのたうつ龍神は、如何な考えを以てこの様な侵略を起こすのか。答えなさい」
天上天下に於いて、並び立つ者はただ在らず。それは幻想の掃き溜めにて唯一無二の存在に対してであっても変わる事の無い、種族としての本能。
「此度の異変、天界の不道と捉えて構わないわね?」
天駆ける禍津星。大欲界の化身。神魔相食む構造矛盾。
その尖兵が、今にも射抜こうと私に眼差しを投げていた。
だが。その。なんだ。その的外れさはどういうことだろう。
「侵略――」
思わず口に出して確かめてしまう。侵略。彼女は今、そう言ったのか。誰が? 龍神と言われるものが、侵略と?
「――クッ、フフッ」
口角が引きつる。嘲りが漏れる。その様な考えに至る面白おかしい思想に、笑いが出ずに何が出るというのか。
「肥溜めに糞を落とすのを、天狗は侵略と言うのですか?」
――渺。思考の間隙すらなく風が襲い来る。
鎌鼬をも貫く鋭さ。真空が生み出す刃や、巻き上げられた小石などでは産み出せない。まさしく、天狗が司る風そのものが弾丸となった絨毯爆撃。
人の身が巻き込まれれば、その原型を留める事は難しいだろう。その様な狂い風を、人里の中とはお構いなしに天狗は撒き散らしている。
「まったく、怖いことをする」
殺気に応じて励起していた瞳が、その兆しは見破っていた。左腕を少し抉られる程度で済んだのはその為だ。
しかし、これ以上やり合うには幾らか準備が必要だ。目の前の粗暴者とは異なり、私はそれほど殴り合いに慣れてはいない
「極めて汚れど溜り無ければ穢れ在らず」
退路へと倒れるように走り込みながら、祝詞を唱える。
それは神に奉じるものなどではない。己の内に奉り、希い、歪めて捻り力を引き出す為のもの。
決して信じられぬ己というものがあり、尚且つ己に眠る力のみを信じる。自身以上にこの世で信じるに値しないものがある訳がなく、私ほど私を疑っているものはいない。
だからこそ。個我など信じず原初――魂に刻まれた力のみを振るう。
「故に内外は清く浄し――水行」
己の血肉に等しい霊力を、同じく骨肉と同居する水行の力へ転じさせる。
流れる水は朽ちず、腐らず、潰えない。それは水に属する私の力も同じ。同じであると、言霊を以て制御する。
そして流転し、精錬された水行の気を、懐から取り出した呪符へと込める。
「竜符『一切成就の八重玉垣』」
宣言。そして、四散。
予め組まれていた式が、流し込まれた水気を糧に駆動した。
私と天狗を中心に、八方を囲む様に展開した霊力の弾丸。互いの面へと巡り廻り、その空間を埋めていく。
それは格子が重なり合うかのように。刻々と造形を変える、飾り箱の様な美しさ。
先の無粋な爆撃とは違う、魅せる為の弾幕。
「舐めて、いるつもりですか」
それが全て無駄と言わんばかりの口ぶり。踊るかのように、冴え渡る飛び様で八重の格子を天狗は抜ける。
確かに舐めていると思われるのも仕方がない。弾幕自体は単純なもの。見た目も出来も大したものではない。
腕を抉られた仕返しと言うのであれば、なおの事。真剣に対して木の棒を振るうかのような、無謀と無知が入り混じる所業。
だが、しかし。舐めてなどいない。むしろ大真面目だ。真面目でなければなんだという。
「あなたであれば、私のお誘いに乗ってくれると思っているだけですよ」
天狗の顔が歪む。不快故にではなく。口角の引きつりは、私の提案に対する怒り半分、嘲笑半分だろうか。
私が行ったのは、最近流行りの決闘法に則った作法。命を取り合う事なく、敗者と勝者を作り出すもの。
妖怪の賢者ら管理人によって生み出されたそれは、人間と妖怪で取り結ぶものと言えるが、別に妖怪同士であっても行わない訳ではない。
むしろ、見目に麗しいその戦い振りは、見栄を張る者にとっては普通の殺し合いよりも優れていると言える。
それを無視して抉り取るような攻撃を天狗が続ければ、その品性が知れるというもの。
粋を知らない、美しくない、そういう烙印を押されても仕方がない。
兎角、この世界は狭い。悪い噂というものは、とにかく広がりやすいものだから。
「竜の眷属が、貴方様に決闘を申し込みます。受けて下さいますね、御山の天狗様」
いやらしい程に口を歪める。傍から見れば私の顔は、憎たらしいことこの上ないものになっているだろう。
だが、今は良い。この目の前の相手を煽れるのであれば、顔が崩れる程度はどうってことはない。
確信を持てる。青筋を立てながらも、天狗の目には理性の光が灯ったままなのだから。
そもそも、ここでこれ以上の軽挙は容認されないと分かっている。むしろ、矛を収めて決闘に殉じ、情報を引き出す機会が得られたのだから、彼女としても乗らない手はないだろう。
「――受けましょう、竜の眷属。この遊びで貴方を負かして、その口を割らせます」
遊び。そう、遊びだ。殺し殺され、などではない。
遊びだ、遊び。遊び故に、私と彼女は全力となる。
全力で遊ぶ。それこそ、この地の楽しみそのもの。