十八、史料
安楽椅子の奇妙な実験は、その後も何度か行われた。
座って揺れていると眠くなり、気が付けば部屋に戻されている。そんな調子を、変わる事なく繰り返している。
風見に弄られずに休めるようなものなので、俺自身は非常にありがたい。――部屋に帰ってから、さんざっぱらやられるものはやられているので、そういう方面での解決にはなっていないが、まぁそれはいい。
いったいどういう意図で行っているものなのか気にはなるが、害があるようなら身近な同居人も黙ってはいまい。幸い今のところはそう言った反応は見られないし、それなら、勘や技能に劣る俺が変に疑ったってどうにならない。
休んで回復する時間がある事を、まず喜ぶべきだ。あとは風見に加減というものを覚えてもらえば完璧なのだが。
6回目の安楽椅子。その時初めて、椅子に座ったままで目が覚めた。
揺れは既に収まっている。覚醒したての気怠さはあるものの、それ以外は快調そのものだ。特に寝起きで風見の手に掛かっていないから調子が良い。前回なんて、俺が寝てるってのにおっぱじめたものだから混乱したものだが……。
いかん、余計な事を思い出してどうする。
ともあれ、これは実験が終わったと言う事なのだろうか。ヘルメットから流れていた音楽――何か流れていると気付いたのは二回目からだ――は止まっている。しかし手足は緩いながらも安楽椅子に固定されている為、リンさんの解放を待たなければならない。
今までは部屋に届けられるまで起きる事は無かったというのに、今回はなんだろうか。耐性がついてきたのか。それとも、まさか?
「……竜神?」
そっと呼び掛ける。だが、答えはない。また眠っているのだろう。ここ最近はずっとそうだ。仕方ないとはいえ、若干の寂しさはある。
しかし起きていないとなると、彼女によって起こされたという訳ではなさそうだ。じゃあ、あとは一つだ。
『ちゃんと目覚めてくれたわね』
被った内側からリンさんの声が聞こえる。やはりか。まぁそうだろうな。納得半分、俺のに対する呆れ半分の割合で、とりあえず頷いておく。姿は見えないが、どうせ見えているんだろう。声に出すよりかはあほらしくないはずだ。
『じゃあ、これからやる事は分かっているわね?』
//パチン。
――脳を弾くような音が、聞こえた気がした。
そんな筈は無い。声以外には、何も聞こえていない。
//耳には届いていても、音とは理解していない。当たり前だ。余計なことは聞こえないようになっているのだから。
リンさんのぶっきらぼうで当然な問い掛けに、俺は再び首を縦に動かす。
『それなら良いわ。じゃあ早速、始めましょうか』
リンさんの言葉に併せて、さっきまでピクリとも動かなかった安楽椅子が揺れ始める。
如何なる仕掛けを使ったのか――ではない。俺が、自分で動かしている。それがこれからの事に必要だから。
『木の調べが、貴方を導く。ぎぃ、こぉ、と囁くと、貴方は過去を思い出せる』
染み付いた音が、染み付いた景色を呼び覚ます。湧き出る。溢れ出る。生きてきた時間が、漏れなく想起されていく。
//都合五十は繰り返した記録の奔流は、今回も変わることなく脳髄を浸す。
『揺さぶる波が、貴方を送る。ぐらりと行けば過去へ向かい、ゆらりと来ると今へ帰れる』
今へ繋がる記録を知る。いや、知っている。だからこそ、再びその想いを追体験する。刻み込まれた道を、誘われるままに歩き戻る。
//繰り返した。同じ道を歩く。同じ過ちを犯す。全ては俺に録音された記録だが、与える想いは変わらない。
『あの頃を思い出して。あの時を繰り返して。もう一度、もう一度だけ、貴方の物語を辿り直して』
郷愁の想いも、後悔の念も、惜別の情も、怨嗟の滾りも。二度と味わいたくない、また訪れたなら今度こそは上手く、そういうありもしない空想を嘲笑うかのように、追体験は進んでいく。
//過去を経験しながら足掻こうとしていた。何度も。何度も。だから知っている。変わらない事を知っている。
この出来事は知っている。あの経験は識っている。当然だ、自分の記憶なのだから。覚えがあるのは当たり前だろう。
まるでつい昨日までの事のように思い出すという滑らかさに感謝こそすれ、恨むことなどありはしない。
//無論、恨むべきは、染み付く程に回想させた者なのだけれども。気付く事も思いつきもしない。
『思い出して、刻み付けて。流れ出して、味わって。ずっと、ずうっと、最初まで。戻っていって。戻ってみせて』
乞われるままに戻る。幼少の記憶。白雪を踏みしめるように、しっかりと。二度と忘れぬように、重く深く。汲めども汲めども尽きはしない井戸で、必死に釣瓶を動かしていく。
//当然、底など知れている。ここ数日、何度とこれを繰り返した事か。汲んで、味わい、尽きれば戻す。
//逆行する運河の如く、俺と言う水を渦巻かせながら、元の淀んだ貯槽が出来る。
墓へ参る。薄い思い。長ったらしい説法に微睡む。花火に溶けた星々、線香の香りが燻す。
音を飲む白銀。泥水に辟易。転ぶ阿呆に見る阿呆。ただそれだけで良い。切り取る非日常。
雲の除かれた空を見る。肌寒さは青臭さに負け、叫びだしたくなる。苦く、甘い唯一無二。
紅が燃えた。木々を燃やした。黄金と赤銅が彩った。終わりに向かう。刻まれた黄昏の暦。
もっと。より深い層を。より冷えた記憶を汲み出す。
形成された人格を覗く。構築された由来を見る。奥に。奥に。柄まで通れとばかりに掘る。海まで掬うとばかりに汲む。
手が萎える。
//――その頃には無かっただろう。
足が縮む。
//――歩くのなんてまだ先だった。
最早、脳に有った事すら疑わしい頃。けれど、この一時を覚えている――何が?
分からないけれど、存在する。俺の空想なんかじゃない。確かに俺の中にある。俺がこの世に認知される前、黒と赤、光が無い、しかし明るい記憶。
//それは胎の記録よりも前。肉の塊となっていた
覚えている訳が無い。残っている筈が無い。
//肉にはもう無い。だが、幸いにも、俺はそれよりも別のものに依る生き物に近付いている。
それでもこびりついている。剥がれないでいる。記憶の井戸を汲んだ先には、確かに残っていた。
//魂というものは、存外に形も色も時間も記録しているものだろう。こうして全て引き出せているのがいい例だ。
『貴方の記録は終わり。じゃあ、他には何がある?』
他?他とはなんだ?
枯れた井戸に何を投げ込もうとも、カラを示した空虚を響かせるだけだろう。
『何も見えない?』
無駄な語り。無駄な指示。
//ともすると、俺自身が気付いてしまうかもしれない、危険な言葉。
何かが鎌首をもたげる。だが、その違和感よりも、より異質に気付く。
在り得ない存在。
虚に等しい井戸の底から、有り得ざる音を聞いた。
尽きた筈の記憶。そう、何も思い出すものは残っていない。品切れの筈だ。
それなのに、俺の記憶の井戸からは、何故だか水音が聞こえてくる。――そんなイメージに取りつかれる。
無意識では決して開かない。気付かない。
意志があるから分かる。それは俺ではないと。
もし、仮にの話だが。俺が夢見心地のまま、同じように井戸の縁に立ったとしても、きっと気付かないだろう。甘美な過去に溺れたまま、未知なんぞうっちゃってしまっていたに違いない。
『貴方はそれを知らなければならない』
そうだ。俺の記憶。俺の魂。だというのに知らないものが紛れているだなんておかしいじゃないか。
得なければならない。その元凶、源泉が何であるか。俺は理解する必要がある。
だから、見つめる。井戸の底を。
それは、穴だった。
俺の記憶を漏れ出させる、あるいは別の何かが染み渡る、黒い黒い穴だった。
//あるいは、落ちれば二度とは戻れないと予感させる不吉さがそう思わせたのか。
木の軋みが俺を促す。
俺の知らない過去へと、意志より強固に動き出す。
//聴いてしまえば、そうならざるを得ない。嫌と考える事も、拒否も出来ず、むしろ望んで行う事となるだろう。
そうして。
俺は。
//何とも知れない記憶へ。
落ちて。
行った。
◇
胎での記憶を残している人がいる。
覚えるという言葉、意味を知る前の、ようやく体が成された頃。まさしくゼロからの記述。羊水の中で生じる神秘の一つだ。
珍しいことに、私はそれを持ち合わせていた。多くの人が抱えきれない記憶に難儀する中、それを一つ余さず残して置けるほどの都合のいい頭も。
とは言っても、いくら今は出来が良いと言っても、記憶を残した時はまだ未発達。朧気ながら、そして切れ切れにしか保存されていない。
それをありがたく思うほど、今と先の世に絶望もしていないし、哀愁に浸るほどの年でもない。何より、そんな記憶を見返そうが意味がない。
しかし、原初の記憶という点では指標となる。なにせ、それより以前の記憶は本来ならばあり得ない。覚えていないとかそういうものじゃなく、何かあるという時点で異常なのだから。
神秘に被れた言い分をするならば、それは前世の記憶という奴だろうか。輪廻転生の理に則り廻った魂が、何の因果か記憶を残して新たな生を歩む、というのは、創作でも使い古された題材だろう。
なるほど、そういうものがあるのなら、神智学者に転向するのも悪くはない。妖怪よりは余程身近だ。魂の存在と、その洗浄と使い回しが一緒くたに証明されてしまう。
だが、そもそも原初の記憶に触れる事も人間には難しい。なにせ、記憶とは常に移ろうもの。人の意識が化学反応による電気のきらめきであるのと同じように、脳に染み付いた電気信号が新しい事に上書きされてしまったり、単純な衝撃で失われたり、自身への防御反応に閉ざしてしまう事すらある。
人が意識的に記憶を引きずり出すのには不可能だ。頭蓋に詰まったものすら理解していないのに、ましてや中身だけをみたいだなんて、無謀にも程がある。
まぁ、いつかは解明するつもりはあるけれど。今は近くの他人の解剖よりも、系譜が遠いどころか掠りもしない妖怪についてだ。
自分自身でなければ、いくらかやりようはあるというものだ。
まずは、遠回しではあるが混濁させた意識自身に記憶を判別させてしまう。
妖怪でも催眠術の類いは掛かるのか確証は無かったが、ここは水元鉄生の意識に感謝だろう。
いくら異常超常を飲み込もうとしても、彼は水元鉄生の自己自覚を握り、しがみつき、囚われている。
人の意識に近付こうと――あるいは変わらないように意識が働いている。それなら、『普通の人ならこうだ』と少し誘導してやれば、簡単に引っ掛かってくれた。
何度も、何十回も、過去の想起と追憶を繰り返す。初めは丸一日掛けて一生を振り返ったのを、翌日は十回、二十、三十と、より増やす。過去に対して特化する脳の回路を作り出す。
切欠さえあれば、容易に自己を回帰させる構造。それを焼き付かせる事によって、容易く原初への道筋を作り出す。
そうしてそこから先へと踏み出す際に、予想していない問題が起こった。
◆
気が付いたら、森の中にいた。
正確には、何処とも知れぬ森の、何とも分からない木の根本に、ぺたりと座り込んでいた。
辺りを見回しても、最初の印象以外の情報は無い。まるで定型句を並べたかのように、同じような木々しか生えていない。
高い空は澄み渡り、遠くに見える鱗雲が秋を思わせる。太陽の位置を見る限り、まだ朝方だろうか。
兎にも角にも、欠伸を一つ。
「ふぁ、ぁ……」
伸び上がり、固まった筋肉を解していると、段々と思い出してくる。
「ああ、そうだ。天狗を撒く為に隠れていて、そのまま眠っていたんでした」
天狗。そう、天狗だ。大空を舞う鞍馬の狗が、何故だか私を追ってきていた。
奴等はどうして、物珍しいと思えば何であれ着いてくるのだか。鬱陶しいことこの上ない。
「羽を伸ばそうとこちらに来ましたが、少し反省が必要ですね」
少ない休みの筈が、疲れてしまえば元も子もない。今からでも寝所に戻ろうか。
軽く柔軟体操をしながらそう考えていると、胸元の紙片が音を立てて主張した。
出掛けに小耳に挟んだ、人里で噂の甘味処についての情報だ。なんでも、抹茶の氷菓子が絶品だとか。
ぶらぶらと出歩く中で、一つの目的として考えていたものだが……。
「……寄ってから帰っても、別に悪くはないでしょう」
折角の情報。確認しないでいるのは、座りが悪い。
こんなところに何時までも居るのは面倒だけれど、甘味があるというんだし、それくらいは我慢しなくては。
そう言い聞かせながら、人里へ向かおうと一歩、踏み出したとき。
「居た!」
鬱陶しい声が、空から響いた。
次の瞬間には、つむじ風が視界を塞いでいた。文句を言う隙すら無い。
「いやー探しましたよ! 泉に行ったかと思えば森の中だなんて、自由な人だこと。追いかける身にもなってください」
「その言葉、私の立場で返しても構いませんか?」
「残念ながら返品は不可能です。私の新聞のように」
悪徳にまみれた天狗が笑う。いや、邪気が無いと言うべきか。悪気がないと表現するべきか。
どちらにしても、迷惑な事には変わらない。
「返品していただかなくとも、お引き取りいただければこちらは満足ですよ」
「何を仰いますやら。記事の種を前にした記者に対してそんな事を言っても、意味がありませんよ」
「ああなるほど。――単刀直入に言いましょうか」
「あ、大丈夫です。大体言いたい事は分かりますんで」
「なるほど」
もとより答えは聞くつもりは無い。下手投げで狙うべき場所をそのまま投げる。
くるりと半回転した刃は、喉仏を捉えずに其処らの木へと突き立った。
苛立つ私を無視して、容易く躱してみせた天狗は、樹皮に刺さった短刀を観察しながら何かを書いている。
「投擲がお得意で? 弾幕ごっこではあまり見ないやり方ですね。巫女くらいなもんでしょうか」
「生憎と、そういう遊びは嗜んでいないもので。それに、不快な烏を捌くならもっと良い手がありますが」
「おお、怖い怖い。そんなに怒らないでくださいよ。ほら、肩の力を抜いて」
誰のせいだと思っているのやら。思わずこめかみを揉みほぐす。
「ところで。もしかしてこれから向かう先は、こちらでしょうか?」
目を開くと、天狗の手には懐に入れていた筈の紙片が入っていた。
聞きしに勝る素早さだ。目端のよさは記者を自称するだけはあるということか。
「ふぅむ。……ここから人里ですと、それなりに掛かるでしょうねぇ」
「それが何か」
わざとらしく考え込む素振りをする天狗。付き合いきれない。
短刀を回収し、さっさとこの場を離れようとすると。
「いえいえ。もしかすると、着く頃にはお目当てのものは無くなっているかもなぁ、と思っただけでして」
そんな揺さぶりを、背中に投げ掛けてきた。
「ほら、こちらの紙には抹茶氷菓が殊更に強調されているようですが、残念ながらこれ、数量限定のものなんですよね」
噂話をしていた死神も、確かにそんな事を言っていたような。
しかし、今から向かえば昼前には着くはず。それなのに無くなるとは……というか、あの死神はなんでそんな代物の味を知ってたのか。
黙り込んだままでいると、天狗は更にわざとらしい声をあげる。
「ああ、そうだ。こちらの店主、実は知り合いなんですよねぇ。口利きさえあれば、一人前くらいは……」
どうでしょう? と。
振り返って見たその笑顔は、いっそ清々しいまでに図太い代物だった。
「………………何が、望みですか」
「独占取材を是非とも!!」
強い圧を撒きながら食らいついてくるのを見ると、条件反射的に拒絶したくなる。
しかしこいつを利用すれば此方にも益はある。そう、この休日を無駄にしなくてすむ。
「……食べ終わった後でなら」
「ありがとうございますやったちょろい!」
「今なんて」
「さぁ早速向かいましょう! 上手くいけば明日の朝刊にはいけますよ! ともすれば今日の夕刊でも!」
「さっきちょろいって」
「あ、実は秘密の注文で抹茶氷菓に山のように苺を盛る事が出来るとかなんとか」
「何しているんですか。早く行きますよ」
これはこの記者をさっさと排除する為に話に乗ったのであって、断じて甘味に釣られた訳ではない。
釣られた訳ではないけど楽しめるものは楽しむべきだと思う。