十七、検証
◆
ぎぃこぉ。ぎぃこぉ。
降りていく。
ぐらりゆらり。ぐらりゆらり。
下っていく。
ぎぃこぉ。ぎぃこぉ。
沈んでいく。
ぐらりゆらり。ぐらりゆらり。
――落ちていく。
意識はある。
思考も走る。
すぐにでも起き上がれると、自覚している自分がいる。
腕がある。脚がある。動かすまでもない。繋がっている。
皮。その下の肉。筋。骨。神経。血管。不備なんてどこにもない。全てがあるがままだ。
意識する。
右腕。左脚。二の腕、太腿から、力が抜ける。抜けて、解ける。抜け落ちる。
弛緩の波が、肩と肘に伝わる。手首が弛む。指先が震え、やがて止まる。
革袋を繋げられた肩は、その重さに役目を諦める。横たえるだけの腕。もう、動くことはない。
右脚。左腕。萎える四肢が分かる。失せる。薄れていく。
あるべき緊張がなくなる。萎れていく。活力を失い干乾びる。
動かしたいとは思えない。このままでいい。もたれたまま、何もしていたくない。
息を吸うたびに浮かび、吐くほどに沈む。
吸う。浮かぶ。
吐く。沈む。
ぎぃこぉ。ぎぃこぉ。
吸う。軽くなる。
吐く。重くなる。
ぐらりゆらり。ぐらりゆらり。
吸う。溜め込む。
吐く。押し出す。
ぎぃこぉ。ぐらりゆらり。
吸う。膨らむ。
吐く。萎む。
ぎぃ。ぐらり。
吸う。空気と共に力が満ちる。
吐く。満ちた以上の力が抜ける。
こぉ。ゆらり。
吸う。身体と共に、気が張るのが分かる。
吐く。張り詰めた意識が、余計な撓みを持つ。
ぎぃこぉ。
繰り返す。数は数えない。ただ繰り返す。
ぐらりゆらり。
吸う。吐く。吸って、吐く。吸ったということは、吐かなければならない。
深く。浅く。重く。軽く。等間隔に。意図せず乱れて。能動的に。何も思うことなく。
なにせ、生まれてこのかた欠かしたことのない動作だ。程なく、考えずとも続けるようになる。
ぎぃこぉ。ぎぃこぉ。
ぐらりゆらり。ぐらりゆらり。
耳元で囁く声がある。
//意味を解する必要はない。
俺を導く声だと思う。
//意図を汲む理由はない。
信を置く事が許される声だ。
//疑心を芽吹かせる余地はない。
聞き入れるべき。呑み込まなければいけない。
//それは自然。自明の理。原則。式。当たり前。定まった事柄。決まっている物事。可否など元よりありはしない。
俺は――あるいは私は――望むままに振る舞うことにした。
//望まれるまま動くことに、抗う筈がなかった
◆
おかしな実験を行うのには慣れていた。
一昼夜腕立て伏せを続けるとか、延々と水を飲むとか、文字通りの針の筵に座るとか。果たして実験か拷問か、区別が付かないところはあるものの、穏健に終わる事が殆どだ。実に真白だ。良心だとかをまとめて脱色しちまったんだろう。反吐を吐きたいが検体として取られるのが目に見える。
とはいえ、俺だって擦りきれる程度に神経は持っている。そうでなくても骨身を削って脱出を企てているというのに、重ねて怪しげな真似をされれば、疲れだって溜まる。毎度通される実験室を玄室みてえだと腐すのも無理はないだろう?
「で、これはどういうつもりだ」
革張りの安楽椅子を前に、リンさんへ問い掛ける。
焦げた茶色は年季を物語っている。不快な古臭さではない。おそらくは上等な代物だろう。そんなものが何故、実験室に用意されているのか。清廉さよりも殺菌感の強い白に混ざった骨董品は、時代を錯誤した不吉を感じる。
「座ると電気が流れるとか」
「いいえ」
「毒気?」
「いいえ」
「上顎と下顎が固定されて、時間が経つと虎鋏も真っ青な有り様に……」
「貴方が私をどう思っているのか、よく問い質す必要があるかもしれないわね」
溜息を吐かれた。気持ちは分かる。けど俺の気持ちも分かって欲しい。
「大丈夫よ。苦痛に対しての実験はひとまず終わったから」
「だからって、簡単に気を抜ける訳無いだろ。鼠だったら心労でとっくにくたばってる」
「それは困るわ。今回は、貴方にくつろいでもらわないといけないんだから」
くつろぐ? 一体どういう意味だ。じっとリンさんの顔を見ても、俺には彼女の意図は読み取れない。
嫌になるほど落ち着いた立ち振る舞いは、自然と俺へと伝播する。どうせ伺ったところで分かりはしない顔色だ。腹を括って天――には敵が多そうだ、星にでも祈っていた方がましだろう。
「で? どうすればいい?」
指示されるままに安楽椅子に『設置』される俺。従順でいるのは諦め六割、逆転した反抗心が二割、怯えが一割、好奇心も一割ってところだろうか。
安楽椅子に深く座りながら、呑気な思考を竜神に嘲られないよう努めて平静を装う。
「座り心地はどうかしら。悪くないものを用意したつもりだけど」
見た目に違わない軋みを立てながらも、椅子は俺を受け入れてくれた。
使い込まれた革の質感は、単に硬さ柔いでは言い表せない。リンさんが悪くないものと言うだけはある。
「俺にはもったいないくらいだ。ちなみにおいくら?」
安易な気持ちで尋ねて飛び出た金額は、ちょっと聞き直したくなる額だった。理解が及ばないほどの桁数に戦きながらも、しかし再度聞けば動揺せずに座っていられる自信が無いと理性が判断し、何も聞かなかった事にした。
「後の指示は、コレを介して行うわ」
渡されたのは、黒い鉄兜のような機器。被ってしまえば後頭部から耳まで覆う大型のものだ。
以前の実験でも似たようなものを着けさせられた覚えがある。その時は頭蓋骨の耐久試験だったか、鼓膜の限界強度検証だったか。
素敵な思い出に鍵を掛けながら器具を装着すると、そのままリンさんは部屋を出てしまった。
ぎぃこぉと鳴る安楽椅子に揺られながら次の指示を待つ。ぼんやり眺める部屋の天井には、寂しい裸電球がぶら下がっている。
ぐらりゆらり、ぐらりゆらり。教室の椅子を理由なく傾けふざけていた、ガキの頃を思い出す。
体勢を崩して倒れるまでが典型だが、今座るものはそんなに安いものではない。俺がどこまではしゃごうが、計算されつくされた造形美はきっちり働き、楽しく揺れてくれるだけだろう。――婦女子二人に見張られている中で、俺がはしゃげる訳無いのだが。
ぎぃこぉぐらゆら。足で床を蹴り、拍子を作る。意味はない。なんとなしにそう思ったから、そうするだけ。飽きれば止めて、動きに任せる。
なんとも子供らしい。我ながらアホの子のようだ。しかし、寛いで欲しいと言っていたのだ。俺もそういう努力をするべきだろう。
ぎぃこぉ。ぐらりゆらり。繰り返す音、視界。上がり下がる電球。鳴き止まない硬木。
手慰みに手掛けを撫でる。良く磨かれた木目。石の様だ。だが、熱を奪う冷たさは感じない。手の温度と調和し、すぐに心地の良い具合となる。
頭を覆う器具も、以前とは異なり程よく頭を締め付けており、不快さは無かった。むしろ、包まれているという安心感すら覚える。
ぎぃ、こぉ。前へ、後ろへ。それほど大きく揺れていないのに、耳は覆われている筈なのに、何故だか音は良く聞こえる。
ぐらり、ゆらり。のけぞり、屈み。緩やかな律動は波になり、芯から体をぐらつかせる。
時を気にせず、されるがまま、揺れるがまま。退屈はある。どうせこれから何をされるか分かったもんじゃないんだ。こういう時くらい弛んでいないと気が持たない。
ぎぃ。こぉ。ぎぃ。こぉ。鳴り続ける。
ぐらり。ゆらり。ぐらり。ゆらり。休みなく。
止まらないまま、安楽椅子は揺れている。その様子は不思議と、早くも遅くもならない。ただ一定に。等間隔に。鳴って唸って、倒れず帰る。
ぎぃ。こぉ。ぐらり。ぎぃ。こぉ。ゆらり。
それを疑問に思うことはなかった。不思議、と思ったのでさえ、全てが済んでからだったのだから。
ぎぃ。ぎぃ。ぎぃ。ぐらり。ぐらり。ぐらり。
揺られている俺は、耳元から流れていた音にも気付かぬまま。
ゆらり。ゆらり。ゆらり。ぎぃ。こぉ。ぎぃ。
ゆっくり、ゆっくりと、意識を溶かしていった。
◇
――「陽だまりの中、芝生の上、風を感じて眠りについて。そのまま微睡む午後の一時」
暖かさ。青臭さ。冷たさ。時の猶予。そんな安らぎを、貴方は思い出す。
少し前。ほんのちょっと前の、優しい思い出。心が幸せになる。満たされる。想いが再生される。
木の調べが、貴方を導く。ぎぃ、こぉ、と囁くと、貴方は過去を思い出せる。
揺さぶる波が、貴方を送る。ぐらりと行けば過去へ向かい、ゆらりと来ると今へ帰れる。
だから、大丈夫。大丈夫よ。いつでも戻れる。過去にも、今にも。貴方は自由。貴方は帰れる。昔へ。輝いていた頃へ。
さぁ、思い出して。耳を澄ませれば、きっと聞こえてくる。導く音と共に、貴方の中から湧き出るわ。
楽しかった頃。懐かしい頃。何が聞こえてくる?
――「夏の日。蝉の鳴き声。うだるような暑さにスイカの冷たさ。長い休日、何もしないをする」
――「シンと降る雪。水溜まりに沈む。凍る路面。そこいらの風景が絵画となる。飾られる一時」
――「吹く風。揺れる枝花。花弁は飛び、舞い落ち、次々積もる。儚さが美しくなる時節を見る」
――「曇天に燃える。焚かれた木端をただ眺める。忍び寄る寒気すらも、くべた篝火の肴となる」
そう。流れを止めず、逆らわず、追わず、離れず。思いつくまま、気が向くまま。口から貴方を吐き出して。
心象から思い出。想起から基底。望郷から記憶。必ず貴方は記録している。けれど焦らなくていいの。
ゆっくりと、一つ一つ、丁寧に。無理なく再生していけばいい。大丈夫。時間はいくらでもあるのだから。
貴方が過去を巡る時も。貴方が過去を語る時も。貴方が話す過去という時も。
◆
ここ最近、幾度も幾度も見上げている天井があると言う事は、実験は終わったという事だろう。
部屋まで帰った覚えも、記憶が朧気になってる要因も分からない。分からないが、深くは考えなかった。気が付けば部屋なんて初めの内は気味が悪いとか、何か改造されたんじゃないかとか不安に思ったものだが、毎度の事となれば慣れてしまう。知らない内に意識を失うのになんか慣れたくないものだが。
つくづく思う。日常というものは日々にあるものではなく、自身が感じる普通を言うのだと。いくらおかしいものであっても、それを普通と感じてしまった時点でそれは日常になるのだ。
「起きた?」
つまり。日常になった天井を隠すその影は、まだまだ俺には普通とは言えなくて。
それが非日常という新鮮さを味併せてくれるのは、望外の喜びと共に驚きだった。
「起きた。うん、起きてる筈」
「そう言いながら頬を抓ってるのは何なのよ」
「今の状況が呑み込めなくて、ひょっとすると突拍子も無い夢なのかと思って」
逆さに見える風見の顔が、「猶更分からない」と語っている。
彼女にとってはそう特別な事じゃないのかもしれない。しかし俺にとってしてみれば、『目覚めたら美人に膝枕されている』なんて状況は、羨む事であってとてもじゃないが、とてもじゃあないが、日常とは言えない。
「あー、風見さんや」
「なぁに、鉄生さん?」
俺の髪の毛をくるくると指で弄りながら、おどけた俺に併せる風見。あまり人様に髪を触られるのは好きじゃあないんだが、そこをどうこう言う前に。
「なんでまた、俺の頭をこうしているんでしょう?」
「さぁて、どうしてでしょう」
曖昧な答え。考えてみて、と笑う悪戯な顔。どうしてこう、心を掻き乱してくるのか。それとも俺が勝手にそう思っているだけか?
考えるふりをしながら――実際考えてはいるのだが――無理に上を向いて風見と合った視線を切る。しかし逃げた先には、女性らしさを殊更感じる象徴が二つの丘としてそびえ、余計に目のやり場に困った。畜生そりゃあ膝枕してんだから近いよなそりゃ。
風見はと言えば、そんな浅はかな俺をどういう気持ちからか覗き込もうと頭を下げてくるものだから始末に終えない。浮かべる笑みは変わらず子供のようで、咎めることも出来ない。
「……労ってくれている、とか?」
あまりに自分の望みが籠った答えをしてしまった。尻窄みになる声も仕方ないってもんだろう。
しかし、そんな回答であっても、風見は嘲笑う事はなかった。笑みは浮かべているけれど、それは柔らかく、暖かい。俺を困らせようとしていたとしても、傷付けるような悪意は無い。
「そう。じゃあ鉄生は、労って欲しいのね」
「欲しいっつうか、まぁ、そうだったら良いなぁってだけだけども」
髪を巻き取っていた指が止まる。そのまま髪の筋を、指が沿って行くのが見えた。
「適当な返事だったのなら、何もしてあげないわよ」
「む」
少し拗ねたような口調。本気では、無いと思う。けれど、そう言われてぼおっとしていられるものか。
はっきり言えばいいんだろう。分かったよ。
「風見」
「なに?」
「疲れた」
「体が?」
「頭も」
「つらい実験だったの?」
「それは覚えてないからなんとも言えないけど」
「じゃあ、何に疲れたの?」
子供に語り掛けるような優しさ。言葉に迷う疲労感が、自然と喉の奥に詰まる。
きっと、言葉にしてしまえば簡単だ。けれど、言葉にしてしまうのは、とても不吉に思えた。
言い淀む俺に、そっと毛先から離れた手がくしゃり、と頭を包み込んだ。
「大丈夫、分かってる。頑張ってくれてるのも。頑張ろうとしてくれてるのも」
何でもない、行動の評価と、努力への肯定。
頑張るという、誰でも成せる結果として、認めてくれていた。
「辛くても、悲しくても、立ち向かってる。私はちゃんと、見てるから」
待ち受けるものの空虚さは知っている。竜神が言ったように、俺自身に先の望みが無いのは分かっている。
それでも俺を頼ると言ってくれた風見。その期待に応える為に、自身を騙して連れ立とうとする俺。
限界を迎える前から限度が見えていた俺を、風見は支えようとしてくれていた。
「立ち続けられないなら、私に言って。労って、でもいいわ。甘えたい、でもいいの。こうして、出来る限りしてあげるから」
覆い被さるように、抱き締められる。多少の息苦しさと、柔らかさ、鼻腔をくすぐる匂い。
それだけで、何もかもを忘れられた。不意に流れた一筋の涙に、すべて押し付ける事が出来た。
「――」
ありがとう、と口にすると、風見の体がピクリと反応する。風見に埋もれたままなのでまともな言葉にはならないが、そうやって言う事に意味があると思った。
ああ。協力者をしているつもりなのに、こうやって助けられていてどうするというのか。まったく情けない。
情けないが――こうやっていられるのは、幸せだ。寄り掛かってと言ってもらえるなんて、それ以上に幸運な事は無いだろう。
暫く後に、抱擁から解放された。気恥ずかしさからすぐさま立ち上がろうとする。が、
「駄目、よっと」
肩を捕まれ、動きを阻止される。
「え? か、風見?」
「だから、駄ぁ目。まだ用事は済んでないんだから」
ね? と言いながら、肩に置かれた手が、俺の胸元へと這うように動く。
感じる体温の艶かしさとは裏腹に、全身の毛が逆立つ錯覚を覚える。
「い、労りはもう十分だぞ。ありがとう、そしてありがとう。本当に。だからほら」
「ええ。それは良かったわ。喜んで貰えて私も嬉しい。じゃあ、今度は、ね?」
――私を、喜ばせてくれないかしら?
耳元で囁かれた言葉は、忘れていた欲望の種火を焚き付ける。ヤバい。いやヤバくないが。いやいやヤバいヤバい。
先ほどまでと同じ笑顔の筈なのに、どうしてこうも印象が変わってしまっているのか。
「じ、実は実験でへとへとなんだよ。いやぁ残念。だから今日は、止めとかないか?」
「あら? それにしては顔色は何時もより良いし、何より――溜まってる、みたいだけど?」
何を、と問うほど愚かではない。しかし黙っていれば、このまま流されるのは必至。
好きなように弄られながら、どうにか頭を回していると、ピタリと風見の動きが止まる。
「それとも、鉄生。私じゃあ、駄目?」
そんな泣きそうな顔と声はズルいぞ。逆さになってても当然破壊力は変わらない。
「やっぱり、草花しか扱ってない私じゃあ下手だったかしら。鉄生がそう言うなら、仕方ないけれど……」
「いや、風見は上手いよ。掛け値無しに。……他に経験無いからよく知らないけどさ。それでも、良かったと思う」
くそっ、顔から火が出る思いだ。なんでこんな事をこんな風に言わなきゃならないのか。
俺が狼狽えている隙に、悲しげな顔を一転させた風見は、いっそ残忍と思わせて欲しいほどの華やかな笑顔を浮かべつつ、言う。
「じゃあ、決まりね。今日も沢山、吸わせて頂戴?」
何故だか黄色の向日葵を想起しながら、俺は風見に身を委ねてつつ、考えることを止めた。
間違いなく健全