十六、異説
◇
眠る草木は無いけれど、私の体は覚えている。
魔的の時、妖の時、月が燦々照る刻限。
――丑三つ時。
古来から、魑魅魍魎が蠢くのは此処と、相場が決まっている。
その由来は、夜目が利かない人を襲うのが容易いからとか、夜型の生活に合った時間だからとか、等々。適した理由は色々あるだろう。
しかし、より大きな理由、利点がある。
妖怪など、霊的な存在が居る上で、最も重要な構成材料たる霊気、あるいは妖気。
潮の満ち引きがあるように、月の満ち欠けがあるように、自然に寄り添う我々にも、霊気の波が存在する。
それは星辰に関わる形であったり、地脈が集う場所、怨念渦巻く古戦場、精神の一状態でも影響を受ける。
その中で、最も普遍的であり、達成容易で、効果のあるものが、時刻。即ち、丑三つ時だ。
個々の性質により、霊気が最も高まる時というのはバラつきがある。しかし、それを正確に把握出来る者は、自身を苛め抜く求道者程度だろう。
そういう個体差を抜きにした、自然として在る高まり。丑三つ時というものは、霊力というものを知るのであれば誰であろうと感じ得る事が出来る神秘の刻限だ。
だからこそ、予感があった。
この時に、彼女が現れる――入り込んでくる、と。
「こんばんは、風見幽香」
「こんばんは、竜神。お出迎え、感謝するわ」
揺蕩う意識の内側、心を象った世界に現れる異物。木気が夏草のように繁茂する。それは侵略ではない。彼女が歩けばどこでもそうなる。ましてやそれが現実でない、水行に属した場なれば尚更。
私はそれを、友人のように迎え入れた。
外敵ではないと分かっている。親愛なる隣人となった彼女でなければ、ここに来る事は出来ない。
即ち、水元鉄生の中。言い換えれば、私の中。彼と私で満ちている体に、風見幽香は己の妖気を入れてきたのだ。
それは本来なら、他人の家に泥のついた荷車を投げ込むような所業。余程の仲でなければ、そんな事は許されない。
相性が悪いとは言え、その気になれば私が風見幽香を弾き出す事だって出来る。水元鉄生にも、強く気を持てば恐らくは。
だが、私の為にもそんな事はしない。幸いなことに――狙い通りと言うべきだろうか――水元鉄生も、それは出来ないほどに眠っている。いくら霊力に疎いと言っても、意志の力は馬鹿にならない。阻害する要因が少ない方がいい。
「良ければ、貴方の姿を見せて頂戴。空に向かって話すなんて、味気ないわ」
本来、霊体に目など必要ない。誰とは言わないが未熟な誰かさんでなければ、気配を感じ取る事など容易い事なのだから。
だが、わざわざ来た客人に対して、そういう無粋を押し付けるのは面白くないだろう。久方ぶりに、己の形を思い出す。
理想を映し出すのではない。魂が象られていた通りのものが、私の体となる。かつてのままの姿だからこそ、私を表す体となり得る。
数拍の後、風見幽香の前に、私は躍り出る事となった。
「あら。やっぱり、鉄生とは全然違う見た目なのね」
「当たり前でしょう。今の肉体は、彼に姿を現させてあげているだけですので」
仮に私が体の主導権を握れば、今取り戻した姿のまま、肉体を形作る事も出来るだろう。
今のこの体は、妖怪と同じく魂の付属品じみてしまっているのだから、それくらいの変生は容易い。
「今、彼の体が水元鉄生のものに沿っているのは、私が彼の意向を汲んでいるに過ぎません」
「ふぅん。でも、瞳の色は同じね。晴れた青空の深い色。吸い込まれそうな蒼穹」
半ば私の言葉を無視し、自分調子でそう言いながら、赤い瞳がこちらを覗き込んでくる。その様子から、発言に悪気が無いと嫌が応にも伝わってくるからやるせない。
そのまま風見幽香は、ふうん、へぇ、等と呟きながら、しげしげと私の様子を観察し始めた。
生前をそのまま想起させたので、着慣れた黒の着流しを身に着けている為、裸体を見られている訳ではない。それでも、たとえ同性であっても注視されるのは落ち着かない。
「男の体だと、少し動きづらいんじゃない? 結構体格差がありそうだけど。ほら、身長なんか、私と同じか、ちょっと低いくらい」
「綺麗な髪ね。白に青がかって見えて、黒の着物に良く映えてるわ。水面の睡蓮みたいで、魅入っちゃいそう」
「知ってる? 青い花弁の睡蓮。目が覚めるような青なの。と言っても、貴方の瞳には負けるけどね。瑠璃のような群青で、水晶みたく透き通ってる」
「私もあなたくらいの体格が良かったわ。何か運んだり、屈んで物を取ったりする時とか、足元が見えづらいもの。服も合わないものばかりだから、考えて仕立てないといけないし」
「あ、後ろ髪だけ伸ばしてるんだ。私も伸ばそうかなぁって思っていたんだけど、ちょっと毛先がうねっちゃうのよね。真っ直ぐな髪、羨ましいわ。首の後ろで纏めてるのも、涼し気で良いわね」
「髪もそうだけど、肌も白いわね。色素が薄いのかしら。私なんか、花の世話をしてるとよく日焼けしちゃうのよ。元に戻るからいいけれど、ちょっと鬱陶しいの。何か秘訣とかあるのかしら? 塗ってるものとかある?」
落ち着かないのは私の方だが、それ以上に彼女の方が落ち着きが無い。そこまで話し続ける必要があるのだろうか。
「そろそろ、いい加減にして欲しいんですが」
「あ、ごめんなさい。ちょっと楽しかったから」
勝手に髪を三つ編みにし始めたところで、静止の声を掛ける。
……こんなことの何が楽しいというのか。まったく。
「そうやってむくれてる所とか。いじりがいがありそうで良いわね」
タチが悪い。本当にタチが悪い。
「はいはい、そんなに睨まないで。もうしないわよ。多分」
誠実な表情とは真逆、紛れもなく嘘と確信するが、いちいちそんな事を指摘していたら話が進まないので聞かなかった事にする。
「それで、どういうご用件でしょうか?」
「え? あなたで遊びに来た」
堪えろ怒りの表面張力。
「まぁ理由の半分ではあるんだけど……もう半分は、どうせ竜神も分かってるでしょう?」
「他人の中に入るにしては悪趣味にも程がある半分の要素は置いておくとして、直近のもので思い当たるのは、昼間の一件でしょうか」
「そうそう。鉄生をめっためたに言っていた、あれ」
「私としては、特筆するべき事柄ではないのですが」
「良く言うわね。あんなに諦めさせようとしてたのに」
「――さて。何の事やら」
形式的に惚ける。だがそこ答え方は、彼女にとってあまり面白いものではなかったらしい。醒めた目をこちらに向けている。
「こんな時に、誤魔化す必要なんて無いんじゃないの?」
「誤魔化すだなんて。語りたくない事に関して、余計な口を開かないようにしているだけです」
「それを誤魔化すって言うんでしょうが」
そうとも言うかもしれない。
「言う気にはなれないって事で良いの?」
「そうしておいて下さい」
「それなら、それでいいけど。……過保護は程々にしなさいよ」
その忠告はまるで的外れなので聞くに値しない、という意図を込めて視線を切る。
「あ、拗ねた。過保護がバレたのが嫌だった?」
「拗ねてませんし、過保護でもありません」
「またまたー。別に、恥ずかしがる必要なんて無いわよ。誰かを大切に思うなんて、綺麗な想いじゃない」
「自分の器を守るのは当たり前の行為でしょう」
「あ、守っているっていうのは合ってるんだ」
ここで姿を消せば、おそらく彼女はより一層面白がる事だろう。
そう言い聞かせる事で、なんとか無反応を装い続ける。
「……意外ね。この辺りでどっか行っちゃうか、怒って襲い掛かってくるかだと思ったんだけど」
「分かってるなら止めてもらえません?」
「やだ」
耐えろ炉心融解寸前の原子炉。
ある筈の無い意識上の頭痛に悩まされるが、その原因たる彼女は何一つ思うところは無いらしい。
「けど、思ったより優しいのね、竜神って。もっと冷たくしてくるかと思ったのに。ほら、鉄生に対してのあれのような」
「妖怪に対して口汚く罵るなんて、人間のやる事です。そんなところまで、彼らと同列にはなりたくありません」
私と同じような境遇である風見幽香に対して、どうして辛く当たれようか――と、思う気持ちも無いわけでは無い。
無論、言葉に出せばろくな反応にならないのは目に見えているので黙っておく。
「筋金入りの人間嫌いね。疲れないの? 恨み続けるなんて」
「あなたは、息を吸って吐く事に疲れますか?」
ああそう、と溜め息まじりの言葉が聞こえた。
呆れているのかもしれない。だが、それならそれで仕方がない。私はそういうものなのだから。
「変な拘りねぇ。それじゃあ、鉄生はどうなの? 彼はまだ、人間なんだ?」
「ええ。勿論」
肉を妖に食まれ、魂を千切られ、実験動物に落とされようが。
「人に生まれたものは、人にしか成りませんよ」
「そう。――やっぱり、優しいのね」
「そろそろ夜が明けますね退出願いましょうありがとうございました」
「あ、堪忍袋の緒が切れるって奴? って、ちょっ、本気で締め出さないで! 待って待って!」
はて、犬が鳴いたのか、鳥が鳴いたのか。よく聞こえませんねえ。
強制的に存在を薄らげてやると、風見幽香はバタバタと手足を暴れさせる。
「まだ聞きたい事あるんだってば! 例えばほら――この牢屋、出たいの? 出たくないの?」
ようやくまともな問い掛けが出た。
彼女の存在を認めてやると、薄くなっていた体が元に戻る。恨みがましい目を向けてくるが、さっき私が受けていた辱しめを思えば、こんなもの何でもないだろう。
「言ったでしょう。出てもどうしようが――」
「違う。そんな戯言、昼間のうちに聞き飽きた。竜神の欲求を聞いてるの。出てからどうとか、そんなの関係無い。ここに居たいの。それとも出たいの?」
彼女の言う誤魔化しは通じないようだ。
出たいか、出たくないか。黙っていても三食が補償され、風呂にも入れ、維持に何も必要ない寝床から出たいかどうか。答えは決まっている。
「当然、出たいですよ」
こんな人の業の底の底のような場所で朽ちるなんて、嫌に決まっている。
ここではないどこかへと願うのは、当たり前だ。それが出来るかどうかを考えれば、また別だろうけども。
「なんだ。素直にそう言えばいいのに」
「ただの願望に過ぎません。何ひとつ展望もないのに望みだけ言うだなんて、人間のようでみっともない」
「そんな事無いわよ、この見栄っ張り」
「見栄も張れないような生き方、死んだ方がましです」
あのね、と風見幽香が両の肩へと手を置いてくる。
躱すとまた面倒そうなので、おとなしく捕まれるまま捕まれておく。
「自分が何かしたいなら、何がなんでもそこに向かって進もうとしなきゃ駄目じゃない。どんな事をしても、何を犠牲にしても、後悔しようが怪我しようが、向かおうとしなきゃ手に入らないわ」
「そうまでしてやりたいことを通して、何があるって言うんですか」
「違う。やりたいことを通すのが、妖怪なのよ。何があるかなんて、後から着いてくるんだから」
……全く、全く。参った。
花妖怪なんてよく分からないもの、と思っていたけれど。
彼女はどうやら、私以上に妖怪らしく在るらしい。
私が忘れていた妖怪の本能を、これ程までに色濃く見せつけられるとは。
「だから、ですか?」
「何が?」
「水元鉄生の希望を接いでやったのは、外に出る為の『どんな事をしても』という事ですか?」
「当然。私は、私の為にやりたい事をやるんだから」
嫌味は無い。打算という後ろめたさも感じられない。ああ。そうか。そうだろう。彼女は妖怪なのだから。情に流されるよりも、そういう理由がしっくり来る。
それならば。妖怪が妖怪としてそう望むなら。
「だから、竜神。あなたも、私を助けて頂戴。あなたも助かりたいのであれば、尚更」
応えるのは吝かではない。丁度、私も同じ思いだ。同じ思いを捻り出された。
水元鉄生が決めた事に沿っていると思うのは、些か不満だが。
「風見幽香。堕ちた蛇で良ければ、私は貴女を助けましょう」
それこそが、私の願いでもあるのだから。