十四、引用
目が覚めると、布団に美女が入っていた。
頬を抓る。しっかりと痛い。俺の意識が覚醒しているのは間違いないだろう。
対して目の前の女性は俺から奪った枕を抱きしめながら、すぅすぅと寝息を立てている。
どうやら、夢や幻の類ではないようだ。
観察してみる。
美人だ。四季映姫の若々しさや小町の人懐こい風とは違う、凛とした顔立ちと言うべきか。穏やかな寝顔で緩んでいるが、むしろ可愛らしさをひとしお添える形になっている。
目立つ緑の髪は、貧弱な電灯の下でも若草を思わせるほど鮮やかだ。緑髪というと少しばかり嫌な覚えがあるが、それらの色彩とは異なっていると分かる。
手を触れてみる。
柔らかく、温かい。白魚のような肌は、見た目の通り心地の良い手触りだ。女性の肌なんて触った経験は数えるほどなので比較対象が少なすぎるが、少なくとも平気で油虫を叩き潰す母の手よりは繊細に思える。おかげで手首に掛けられた枷など気にならない。
少しばかり毛布の中をまさぐる。
勿論、当然、変な意味じゃない。ただ、確認するべきことをしなきゃどうしようもないだろう?
『ケダモノ』
唐突な軽蔑の声。いつもの二割増しは刺々しい。魂だか霊だかになっていても、そういう風紀には正常な感性を持っているのか。
「誰がケダモノだ。何もしてねえよ」
『同衾の現場を見せられて何を信用しろと』
「待て待て、ゴミ箱を見てみろ……ほらやっぱり何もない!」
『何故それで更に自信を持つんですか?』
伝統的な確認法だから。
そんな事はさておき。
「これ、誰? と言うかなんで部屋にいるんだ?」
酔っ払って女の子を引っ掛けてきておきながら、何を楽しむ訳でもなく眠りこけていた、という若さ溢れる経緯でもあれば良いのだが(良くはないが)、生憎と俺はここ数週間、下手すると一月か二月はこの独房に入ったままだ。気軽に出歩ける訳もなく、酒なんて一滴も入れていない。
この女性が雑霊のようにふらふらと入ってきた、としては手枷が着いているのが説明が付かない。
……いや、もうこの手枷が着いている時点で下手人は分かるか。
「リンさん、何のつもりだよ」
「贈り物。可愛いでしょう?」
俺が問い掛けるのを待っていたのか、扉の外からリンさんの声が返ってきた。
いるかもとは思ったが、本当にいるとは思わなかった。
「普通、人を贈り物になんかしないと思うけど」
「そうね。確かに人だったらそんな扱いはしないけど」
「ああ、そうかい」
露骨な言い方。そういう身の上になっている以上、心地好くは無い。
起き上がり、扉にもたれ掛かりながら話を進める。
「何なんだよ、急に。どうやって捕まえてきたんだ」
「ちょっと縁のある人にお願いして。あなたとの対照実験をするつもりだったんだけど、弱っていたからあまり有用な数値は取れなそうだし。それなら、あなたにあげようかなと」
「なんで俺にあげるってなるんだよ」
「食いでがある心霊的なものが欲しいって、前に言っていたじゃない」
いつぞやの軽口を聞かれていたのか。しかし本気にして持ってくるなんて馬鹿なんじゃないか。
「いつか妖怪に刺されるか食われるかしちまうぞ。そんな態度取ってると」
「それなら、刺されても食われても平気なようにしておかないとね」
呑気な言い方。気に入らないが、同時に本当に対処してしまうのでは、と思ってしまい、少し不気味に感じる。
「今日は特に検査項目は無いわ。自由時間よ」
「監視付きなのに自由もくそもあるかよ」
「その子は好きにして構わないわよ。どうせ、数値は取った後だから。食べようが犯そうが、自由にしなさい」
俺の茶々を無視する上に、やけに品の無い言い方をする。
誰が食べるか。見られている中ではもちろん、誰が見てなくともやりたくない。そもそも見ず知らずの人間……ではないか、人型をどうこうしようとは思えない。
「不満そうね?」
「俺が生食するような野蛮人だと思われてるみたいだからな」
「大丈夫よ。毒なんて仕込んでないから」
「そういう心配じゃねえよ」
「けれど、竜神さんの力を取り戻すには、効率がいいんじゃない?」
効率とか、利益とか、そんな単純な言葉で済ませて良いものじゃないだろう。
ああ、いや、俺にとっては割り切れない事だとしても、この知的好奇心の塊にとってはどうでもいいことなのだろう。
「黙れ」
少しばかり昂ぶった感情が口をついて出る。これは俺の心なのか、それとも竜神のものか。わからないが、言いたかったものは同じだろう。こういう類の言葉なら、いくらだって言ってやる。
「不快だったのなら、謝罪するわ。あくまで親切心のつもりだったのだけど、余計なお世話だったみたいね」
その言葉が、その口調が、神経を逆なですると分かっていないのだろうか?
分かっているに決まってる。俺の反応を見たいから、そうしているんだろう。
大した反応を見せなければ、それで終わる。軽く流してしまえばいい。俺の理性と呼べそうな思考がそう囁く。
そんな事は承知している。承知しているが、軽く納得できるものではない。
俯かせていた頭を振り上げる。鋼材が波打つ鼓動、視界に飛び散る光の粒、亀裂を思わせる痛みに悲鳴をあげる頭蓋。
「そんな事すると、危ないわよ」
冷たい言葉。痛みも忘れる。腹立たしい、実に腹立たしい。そうだ、これを飲み込めるほど出来た人格が此処にいるものか。俺も、私も、これほど許せないと思えることがあるか。
眩む視界と思考を無視して、立ち上がって扉を叩く。拳で、肘で、肩で。激情に任せて体を動かす。
「あなたのその怒りは、いったい何処から来るのかしら。非常に興味深いわね」
何が興味深いというのか。これを怒る事の何がおかしい。
骨身に響く衝撃が、俺の怒りを肯定する。
他者を蔑ろにする事を許せるものか。
人外だからと辱しめる事を許せるものか。
汲めど流せど満たす思考が、私の憎悪を肯定する。
決して認めない。許容出来る筈もない。報いを受けさせなければ。購わせなければ――。
「うるさいんだけど」
聞き慣れない声を聞いた。
思わず振り向くと、眠っていた美女が不機嫌そうな目でこちらを見ている。
赤い瞳は、今にも俺を刺し殺さんばかりだ。
「暴れるなら他所でやって頂戴。私、まだ眠いから」
そう言いながら女性は、ごそり、ごそりと布団の中を動く。
付けられている手枷もがちゃりがちゃがちゃ音を立てているが、気にしている風ではない。
呑気にも程があるだろう。
「……あんた、そんなんでいいのか。捕まってるんだぞ」
「そうみたいね。けど、眠いし」
端的な理由。先ほどまで俺を満たしていた筈の毒気が一気に抜かれてしまう。
彼女について怒っていた筈なのだが、こうものほほんとしていると怒るに怒れない。
「眠いのか」
「ええ、とっても。ここにはお花も無いし、太陽も無いし。起きててもしようがないもの」
「……じゃあ、仕方ないな」
「ええ、仕方ないわ」
良くわからないが、仕方ないらしい。
俺が納得した(訳ではないが)のを確認すると、女性はまたもや枕を抱いて眠る体制を取る。
「俺は水元鉄生。あんたは?」
手遅れ気味だが一応、名乗っておく。返答は期待していない。
だが名前くらいは言うべきと思ったのか、パチリと目を開いて女性は口を開いた。
「風見、幽香」
それきり、寝息を立て始めた風見幽香。
気付けばリンさんの気配は無くなっていた。いたとしても文句を付けていると風見から苦情が入るだろうし、どうしようもない。
「竜神、どうすりゃいい、これ」
『とりあえず、汚れを拭いておいて下さい』
なんのこっちゃ、と思うが、すぐに意味は分かった。
無理に鉄扉へ殴り付けていたせいで、あちこち裂けた皮膚から血が滲んで汚れていた。
傷はどうということはなさそうだが、赤い色は非常に目立つ。
「……花とか、太陽って言ってたよな。なんか、妖怪とのイメージとは違うけど」
『草花に宿る精霊や、花の化身というものであれば私にも覚えがあります。花に拘るのであれば、花妖怪とでも区分しましょうか。確かに彼女の気配は木行そのもの。この塞がれた空間では元気もでない事でしょう』
「分かるのか、そういうの」
『気配を感じ取れるなら、推測は容易いです。水行に属する私が回復を図るために、なんて話を以前していたでしょう。考え方自体はそれですよ。尤も、私の場合はその必要もありませんが』
「気配、ねぇ。俺にも分かるもんかな」
『さぁ』
「……今、お前から小馬鹿にしたような気配を感じる事くらいは出来るぞ」
『それは被害妄想と劣等意識と考えの浅はかさに依るものであり、貴方の特異な能力とは一切関係の無いものなのでご安心を』
「あからさまに馬鹿にすれば良いって訳じゃねぇぞおい!」
不毛な言い争いに終止符を打つ風見幽香の投擲攻撃が放たれるまで、十秒も必要なかった。