十一、項目
脱走しよう。
このまま独房にいたところで、遠からぬ未来に「水元鉄生」が「水元鉄生(名札付きの瓶詰脳味噌)」に成り果てるだけだ。電極で世界を夢想するような近未来小説の主人公になるつもりはない。
古今東西、牢屋は破られるものと相場が決まっている。まして、看守は一人だけだ。物理的な拘束さえどうにかしてしまえばなんとかなる。はず。多分。
手錠部分で鉄扉をガンガンと叩く。重々しい音だ。戸枠も頑強と見える。単純に破壊する事は難しいだろう。
混凝土の壁は、それに比べればまだ歯が立つ代物に思える。爪牙ではどうにもならなくとも、もしかしたら手錠であれば削ることは出来そうだ。狙うべきはこちらか?
しかし、天に二物どころか全てを与えられた彼女のことだ。穴をあけられるのを見越して壁の中に鉄板の層を用意していてもおかしくはない。そうでなくとも、建材としての鉄筋に当たっただけで掘り進めるのが難しくなるのは想像に難くない。
何より呑気に掘っていられる時間は無いだろう。折角掘った穴を寝てる間に鉄板で塞がれるような事をされたら心が折れる。ばれないようにする? ハハッ、人外の俺より人外らしい彼女の目を盗めるとは思えない。というか監視機器の一個や百個、仕掛けていて当然だ。
狙うは……あれ、これ何を狙えばいいんだ。詰んでないか。
「あら、まだ着替えてなかったのね」
不意に掛けられるリンさんの声。扉の格子窓を見ると、相も変わらず冷徹冷涼な顔の偏執的研究者がこちらを見ていた。
「大きさは合わせたつもりだったけど、気に入らなかった?」
先程与えられた衣服について言っているのだろう。白い作務衣のような個性もくそもないものだったが、測ったように(測ったのだろうが)体にぴったりな大きさだったし、妙な見た目にしていないだけ、大分良心的だったとは分かる。
どことなく受刑者めいた雰囲気がある気もしなくはないが、それはおいておく。
て言うか。
「ほら」
愉快な音を立てる手錠を鉄格子に向ける。これがついててどうやって着替えろというのか。
「あ、忘れてた」
こういう天然ぽいところで人間らしさを振る舞おうとするのはずるい。
何かしらの電子音がしたかと思えば、機械音と共に手枷の鎖部分が収納された。
「さぁ、これでどうぞ」
改めて、とにっこり笑うリンさん。というかこれはあれだ。手枷の機能を自慢したいだけだこれ。
なにやら悔しい気がするので、そっぽを向いておく。
「何を仕込んでるかも分からないような服を着るつもりはねえよ。それに、この服だって気に入っているんだ」
良心的と分かってはいても、唯々諾々としているつもりはない。
反抗したところで意味は薄い。それでも、少しでも思い通りにさせたくないという意地はあった。
……埃と血、仄かな異臭に彩られた服を気に入っていると言うのは、自分でも無理があるとは分かっているが。
そんな様子を見て、笑みでいるのは無駄に思ったのだろう。元の冷たい声色に戻る。
「あら、そう。好きにしなさい。少し質問をするから、答えて頂戴」
「報酬は?」
「今日と同じ平穏を、明日も提供してあげる」
へそ曲がりな俺の言動にも、揺らぐことなく脅しを掛けてくる。
俺の「今」など、彼女の手のひらの上だというのは承知している。それをわざわざこう言って来るのは、俺へ理解を求めているのか。
はたまた、本気でそれが俺に対する報酬と考えているのか。
「手短にしてくれよ」
「善処するわ」
深く考えるのを意図的に止める。
考えることは武器だ。だが、それによって俺自身が臆していてどうする。下手な考えをしなくても、休める時間は多いのだから。
今はとにかく、機を待つしかない。それが来るのかどうかも分からないが、短気を起こす事が解決に近付くなど早々あることではないのだから。
「あなたの名前は?」
「それ答える必要……分かった、分かった。水元鉄生だ」
大真面目な顔をされると茶化すのも疲れる。
「同名の人間を私は知っているけども、関係するのかしら?」
「おお、するとも。本人だからなぁ。当たり前だろ」
「その証明は?」
「……保険証とかじゃ駄目だよな」
「ええ。『人間』水元鉄生と私しか知らないような、正誤の確認が取れる情報はあるかしら?」
物品を用いず、言葉だけで自身を自身と証を立てる方法とは、難題にも程がある。
だが幸い、相手は旧知の仲――少なくとも俺はそう思っている――なのだから、こういう種には事欠かない。
答えられるからこそ、訊いているのかもしれないが。
「兄貴――水元静雄の机の下。種別は主に風俗、監禁もの、巨乳」
「最近は看護婦ものも増えてたわよ」
「あ、そうなんだ? つーか彼女ともなるとやっぱり確認してるんだ?」
「参考にするには一番だもの」
「その参考って実践の為?」
「もちろん実践……なんで私こんな話してるのかしら」
風俗店で看護服に身を包んだリンさんに監禁されて……悪くない。いや良い。良いじゃん。自然と監禁される側になっているのが仕方がない点だが。
こほん、とわざとらしい咳払いで話題が切られる。
「それ以外に、あなたが水元鉄生である証拠は?」
「えっ、今のじゃ駄目?」
「むしろ良いと思える点があると思ったのかしら」
「んな事言われてもな。指紋とか、遺伝子情報? とか? 多分色々採ってるんだろう?」
「ええ、勿論。凡そ個人を識別出来そうなものの情報は揃えているわ」
「じゃあそれを見てくれよ。一致してるだろうからさ」
「一致していないから訊いているのよ」
「……なに?」
ぱっ、と手のひらを見る。
薄汚れた指先。刻まれている年輪のような模様は、特に変わった様子は無い。
最近の脱走を企てる働きのせいか、指の回りには細かい皮膚の欠片がこびりついている。丁度、日焼けした皮膚が剥けたかのようにも見えた。
「簡易だったけど、血液検査もしたわよ。いまのところ、人類が持っている型、すべてと合致しない代物だったけども。遺伝子に関しては調査中だけど……まぁ、どうなるかは見当がつくわね」
――皮膚を食い破る蛆虫。肉から突き出す鱗。顔の裏に潜む歪んだ異形
言い様もないおぞましさが指先から全身を駆け巡る。幻視したのは、俺の恐怖が生んだものか、あるいは。
「問うわ。あなたは誰?」
「俺、は」
静か。ぶっきらぼうな言葉。その癖、路地裏で魔法使いから下された宣告よりも、重々しく心に横たわる。
この問い掛けは誰にされているものだ? 俺か? では俺とは誰なんだ?
この思考を巡らせているのは誰なんだ? 俺か? じゃあ誰が俺なんだ?
幸運なことに、俺はこれらの問いに対する切り札を持ち合わせている。
不都合なことは、全てあれへと押し付けてしまえばいい。
身に降り掛かる災厄、丸ごとあれのせいにすれば収まる。
俺を陥れた魂。俺を変えた魂。堕ちた魂。穢れた魂。それが己と知っている。彼女はそれを受け入れている。悪性を呑む事がその眼を持つものへ求められる事だから。染まり行く黒は決して恥などではなく、役目に殉じる尊さであって――
「――鉄生」
唸り声のように名乗る。流れ込んでくる情報に押し流されない強さを込めて、必死に声をあげる。
堕ちた魂などと思ってはいない。あれが女など聞かされていない。役目など知ったことか。そんなものは「お前のなか」でしまっておけ! 俺の体が元々と変わったところで、俺の存在を投げ出して、人のせいにして溜まるか!
「俺は鉄生だ。水元、鉄生。誰でもない。どう歪んでも、曲がっても、形が変わったとしても、水元鉄生で間違いない」
断言する。
この先、俺がどんなに姿を変えたとしても。どれほど異形へと近付いたとしても。
水元鉄生という名を捨てることは無い。それだけが、俺に残された証明だから。
それさえ残っていれば、俺は消えることは無いと信じているから。
「そう。それなら、そういうことにしましょうか」
重々しく言ったつもりの言葉だったが、あっさりと流されてしまった。
だが、それ以降、彼女が水元鉄生であるという証明にこだわることはなくなった。
昨日食べたものは。嗜好品は。嫌いなものは。
特筆すべきでもない質問を数十個行うと、リンさんは満足して何処かへ行った。
「……しんどい」
ただ訊かれただけなのに、どうしてあそこまで圧迫を感じるのだろう。
多分、本人は何もやっていない。受け手である俺自身が、過剰に反応しているに過ぎない。
「こう」なってしまった……自身への後ろめたさ、とでも言うべきか。何かの責を、胸に抱いてしまっている。
「俺は悪くない。悪くない、けど。……虚勢は張り続けられねえよなぁ」
たとえ巻き込まれただけだとしても。
空から降る星屑に当たるような偶然性だとしても。
俺自身の決断の結果に、この独房がある。流されているだけではなかった。変えられるべき点はあった筈だ。
だからこそ、考えてしまう。お前が悪い。お前が招いた結末だ。ここで、研究資料として一生を終える。かつての知人が、その幕引きを担っている。
「くっだらねえ……くっだらねえ考えだ」
ごろり、と布団へ横になる。
こうなって以来、思考が妙に後ろ向き過ぎる。これは周囲の環境のせいなのか、それとも。
「お前のせいか? ……『竜神』」
目の前に漂う雑霊を取り込みながら、己に潜む魂へ語り掛ける。
それは愚痴のようなもの。どちらかと言えば、八つ当たりに近い。俺の考えなんて、俺自身が責任を持つべきなのに、好き勝手言っているのだから。
『あなたが勝手に捕まっただけでしょう。私に押し付けないでください』
そんな声が聞こえた気がした。
あれが体を動かしていた僅かな時に聞いたような、冷めた口調。ああ、いかにもそう言いそうだ。空想に合致する女性の声色を夢想する俺の頭も、なかなか出来が良い。勝手な思い込みであろうと、愚痴を否定出来るというのは、それだけ余裕があると言う証左。
「なんだ、お前。喋れたのかよ。それなら少しは、寂しがる必要が無いって訳だ」
思わず出た言葉に、自然とひん曲がる口。自分で自分に語り掛けるなんて、気が確かか疑わしい所業だ。悪霊に言われたイカレのケがあるという評価を笑えない。
だが、たとえ自分自身であっても、語り合える口があるのは大事だ、と思い込む。
何にもない一人っきりの部屋に閉じ込められている、この状況。雑談という人間らしい行動でもしてなくちゃ、早晩参ってしまう。
今の行動そのものが、参ってしまっている人のそれとは薄々分かってはいるのだが。
『生憎と、長々と話すつもりはありません。あなたとの会話より、睡眠のほうが余程有意義です』
「つれないじゃねえかよ。俺はお前さんが寝泊まりしてる家の主だぜ? 話付けておいた方が楽じゃねえか?」
『その家も、そろそろ取り壊し予定でしょうか。住み心地が良かったので残念ですが』
「勝手に変な予想を立てるな。……ちなみに、お前が離れたら俺の体は元に戻るのか?」
『おや、あなたは茹でた卵が元に戻るとでも?』
おいこの幻聴辛辣なんだが。
と言うか、もしかしなくとも。
「幻聴じゃないのか、お前」
『寝ます』
「待て、頼む。お願いします。待ってください」
誰にすれば良いのかも分からない土下座で許しを乞う。
望外の事態に驚きが頭を揺らしていた。何故、どうして今になって、どういう意図があるというのか。
竜神――俺の体に宿ると言われたモノ。幻想の都とやらを滅ぼす原因となった存在。
そんなものが、唐突に、何の前触れもなく、俺の呼び掛けに答えた。この機会を逃す訳にはいかない。
「話がある。お前にとっても悪いようにはならない筈だ」
『何もないあなたに提案できるほどの材料があると?』
「ああ、勿論。なんてったって、お前はもうその恩恵に与ってる訳だからよ」
自分の胸を叩く。そうだ、この魂は何故だか知らんが俺の体に入ることを選んだ。それが明確な理由がなくとも、利用していることには違いない。
――利用できる程度には、この体は価値がある筈だ。
『別に、あなたの肉体でなくても私は良いんですよ』
「それならどうして、ここまで付き合ってくれてるんだ? こんな牢屋へ入れられる前に、脱出すればいいだろう」
『別に。面倒だっただけです』
単純すぎる言葉。本心なのか、それとも何か事情があるのか。
それを推し量る事は出来ないが、面倒くさいという感情はようく分かった。
「だったら、他の人間に移るのだって手間だろう? つーか、ここからお前一人で逃げられるかどうかも分からない。お前は知らないだろうがな、リンさんはおおよそ人間に出来る事だったらやってのけるぞ。見えない幽霊を捕まえてくるのだってその内出来るかもしれねぇ。いーや、どうせあの人のことだ。幽霊が見えるようになるくらい朝飯前だろうさ。そうなっちまえばお前の逃げ場はどこにもねぇぞ。小町曰く、人間ってのは頭が回るようならおかしなものが見えても何にもおかしくないらしいからな」
早口で適当な事を捲し立てる。ここで退かれてしまっては、本当に光明が無くなってしまう。どんな軽口でも妄言でも、注意を引けるなら構わない。
……自分で言っておきながら何だが、あの人だったら本当にやってしまうんだろうなぁという予感はある。
『で、話とは?』
観念したのか、耳を貸してはくれるようだ。うんざりしています、という感情が言葉の色だけで感じ取れるのが気になるが。
「ここから出たい。協力してくれ」
『嫌です』
ずんばらり。切なる想いは容易く切り捨てられた。
なんで。どうして。あんまりだ。思わず泣いてしまいたくなるが、彼女の言葉はまだ終わっていなかった。
『と言うより、無理です。今の私は、あなた程度も役に立ちません』
「むかつく言い方をしやがる……どういう意味だよ」
『単純に、力が足りていないのです。あなたの霊気を根源を全て抑えていても、未だに足りない。時折の雑霊も、まるで薄すぎる。これでは力を振るうどころか、私の意識の維持すら危うい』
「ど、どうすればいい?」
『どうにもなりません。雑霊も少ないこんな場所では、取り込める霊気にも限りがある。あなたから生まれる霊気も、劇的に増やすには諸々足りない。あの女性を食うにも、鉄格子越しでは出来ないでしょうね』
「鉄格子が無くても、人なんか食うかよ」
『おや、手を選んでいる余裕があるとでも思っているのですか?』
「だからって……!」
人道的云々を語れる身の上からは違ってしまっているのは知っている。
だがそれでも、たとえ一瞬感じた忌避感であっても、それを飲み込むほど道を忘れなくともいいだろう。
そんな俺の気持ちを汲んだのか、言葉を続ける竜神。
『とは言っても、私も普通の人間など食べたくはありません。魂だけでも勘弁です。穢れが溜まってお世辞ともおいしいとは言えない』
顔が見えない会話は苦手だ。こんな台詞が、どういう表情で語られたものかも分かりにくい。情感が乏しい声色は、こちらに言外の意を汲ませようとしなければ非常に平坦のまま。食べたくないという言葉も、その意味以上に俺へと伝えるものは無かった。
だが、それでも。真意が見えないものであっても、言葉自体は俺を安心させた。
「人を食ったような態度をしておいて、よく言うぜ」
『寝ます』
「待って」
気難しい隣人ではあるが、居ると居ないとでは大違いだ。
とてもではないが感謝など出来ない邂逅をしている。だが、この状況であっては、交わせる言葉を持つ者は俺にとってありがたい。