十、序文
幽霊。妖怪。神様。悪魔。
人々の口に乗せて伝わる、幻想の存在。いる筈もない隣人。草葉に隠れる在らぬ者。万象見下ろす裁定者。甘言を弄し貶める者。
総じて、この世には居ないとされている。人類の歴史において、切り離せないほど密接な存在であるにも関わらず、あり得ないと一笑に伏されてしまう。
何十億と地球上に蔓延る人間がいても、口の端しか在れないものだから? 情報で繋がる社会になった今でさえ、彼らの存在を立証するに至っていないから?
確かに、微細な粒子を映し出す顕微鏡でさえ、霊魂を構成する一欠けらすら映し出さない。
あらゆる波長を観測する光学機器でさえ、異形の輪郭どころか影すら捉えられない。
それらは正しく人類の叡知。人が霊長と名乗るに足る、知るという力の象徴。非力で無力な存在が、補う為に作り出した『道具』の末裔。
それを以てしても、存在を立証出来ない不可知。果たしてそんなものが、この世にあると言うのか。
見えもしないものを信じる事は難しい。人の心は必ず逆しまを求める。太極図に浮かぶ点こそ、純粋な信仰を奪う濁りに他ならない。
男が女性的思考を有してしまう様に、女が男性的思考を抱いてしまう様に、信という観点において、疑はどこまでも付いて回る。それは確立されない存在であれば尚のこと、疑は膨れ上がってしまう。
見えないものは存在しない、等と言うのは子供の理屈だ。しかし案外、人間とは単純に出来ている。三つ子の魂百までとはよく言ったもので、「そう」成ってしまえば「そう」なってしまう。始まりを断ち切る事など、常人に出来るものではない。
そして人の世界とは勿論、生まれて死ぬまで唯物主義に他ならない。物質に依らない存在などありはしない。生気論を説くのは簡単だが、そんなものが口先以外の何処に存在しようというのか。
自然と、人々は幻想を否定する。幾ら信じようとしても、事実信じていたとしても、植え付けられた観点がそれを汚す。そんなものはありはしないと心の奥底で囁き掛ける。
だからこそ、八意永琳という女は埒外と言える。
人間という種族において、誰よりも優れている彼女。人の極点に位置する頭脳を持つ彼女は、正しく天才だっただろう。万象を俯瞰するが故に、己が只の人間であると思い知る程に。
その彼女が、水元鉄生の身に降りかかった異常を信じてしまうなど有り得ない。
彼女は誰よりも人間だ。唯物主義を掲げ、五感こそが世界に通じる道とする者。六つ目の道などありはしない。存在しない。
人が作りし機械ですら手掛かりを得られない不可視。果たしてそんなものが、この世にあると言えるのか。――在ると認めてしまえるのか。
人が知る事が出来ない不可侵領域があると、理解してしまうのか。自身どころか、世界が知り得ない、秘された無明を垣間見る事を是としてしまうのか。
それは口端に上る類の噂話ではない。真実、彼岸の知識となる。異界の理。常識となる根底を揺るがし壊す事柄だ。
誰よりも人間である彼女だからこそ、常識と呼ばれる事柄は強固となっていた。神秘論などという不確定な事象は一分たりとも入り得ない。そもそも理論をもってすれば、彼女に説明出来ない神秘など存在しなかった。
故に、水元鉄生が持ち込んだものは、彼女にとっては毒となるものであり、あるいは常人にとっては夢想として区分されるものに過ぎない筈だった。
彼女ほどの知恵を持たない人間であれば、不可思議現象を目の当たりにしても「そういう世界があるとは知らなかった」と自己完結が許される。元の知識に虫食いがあるからこそ、真に異常を知ったとしても、それを都合よく解釈――あるいは、目を背ける事が出来る。
しかし、八意永琳は優秀過ぎた。理詰めなどと形容出来ない。理そのものが彼女には備わっている。それを嘲笑うかのような世界の知識は、拒絶こそすれ到底受け入れられるものではなかった。
納得した上に、追求の為に検体を得ようとするなど、埒外と言わずしてなんと言うべきか。
理屈を付けるのであれば。
誰よりも人間である彼女こそ、その心に抱える矛盾が誰よりも大きかったのかもしれない。
唯物主義こそが世の理とする上で、どこか心の中では真逆、観念論を組み立てたがっていたのかもしれない。
生命は化学反応のいたずらなどではなく。
肉体は世界を巡る構成材料などではなく。
精神は電気信号のきらめきなどではなく。
神などいないと理解していながらも、仰ぎ見る空に神座を幻視する。
度を越した現実主義者であり――夢見がちな乙女であったのかもしれない。
◆
乙女はこんなことしない。
ガチャ、ガチャリとにぎやかな音を立てる素敵な手首の輪を弄りながら、遠い日へと消えてしまったリンさんの青春時代へ思いを馳せる。決して穢してはいけない高嶺の月下美人というのは、俺を含め近隣の小中高の学校から商店街に進学塾に至るまでの全てにおいての共通認識だっただろう。おまけに頭の出来は常人離れというか超人寄りという方が近い方なのだから手に負えない。
そんな無数の想い人として崇められかねないお方が、よもや男を囲っているなどと誰も思うまい。
「男を囲うってこういう物理的な意味じゃねえと思うんだけどなー」
言ってはみるものの、返事はない。当然だ。周囲に人などいやしないのだから。
三畳ほどの空間。立ち上がって手を伸ばせば付いてしまうほど狭苦しい。打ちっぱなしの混凝土は寒々しく、監禁という言葉を補強してくれる。天井からぶらさがる裸電球だけが、俺にぬくもりを与えてくれる。
部屋の端には便所。せんべい布団は思いのほか良質で、寝転ぶ分には満足だ。……寝れるとは限らないが。
「……やっぱ外れるわけないか」
手枷を混凝土の壁へと叩きつける。衝撃は俺の手首にまで響く癖に、歪みやへこみが見られないのが腹に立つ。
当然、俺がおしゃれに目覚めたわけでも、呪われたアイテムを装備したわけでもない。単なる手錠を付けられているだけだ。囚人だってもう少し待遇いいんじゃあなかろうか、これ。
目覚めてから一度顔を出したリンさんにそう訴えたが、にべもなくこう言われた。
「あなたに人として快適な暮らしを提供する意味、ある?」
なんか俺、恨みでも買っているとしか思えないような扱いを受けているような気がするのだが。
しかし、得体の知れない化け物かもしれない(否定できないのが悔しい)俺というものが、おとなしくしていると考えるのは楽観視しすぎなのだろうか。
唯一の外界への出口は分厚そうな鉄扉だ。手錠で拘束できるのが分かっているのであれば、こんな扉は手も足も出ないと分かりそうなものなのだが。
「落ち着いたかしら」
不意に、扉越しから声を掛けられる。
即座に扉へと駆け寄り、取り付けられた格子窓へと顔を寄せる。
「落ち着いた、落ち着いてるよ。だから早く出して」
「いいから息でも吸って落ち着きなさい」
「吸うよ?? 常に吸ってるよ?? ついでに吐いたりもしてるよ?? お茶みたいに言わないでくれる??」
「へぇ、呼吸はするのね。なるほど」
冗句なのか本気なのか分からんからやめて。
……手帳に書き込んでるから本気っぽいんだけど。なにそれ、そこまで検証する必要あんの。
「と・に・か・く。冗談は止めて、出してくれよ。つーか何処だよ此処。独居房?」
「大学の地下。戦時中に色々収監するのに使ってたのを、こんな事もあろうかと改良しておいたのよ」
「あんた普段から何考えて生活してんの」
前時代の特撮じゃねえんだから。
「悪いけど、しばらくは出すつもりは無いわ。ご飯は持ってくるから大丈夫よ。要望はある?」
「手術室の確保に手間取ってるからとかは止めてくれよ。牛丼食べたい」
「残念ながらうちには手術室は無いの。だから解剖室にしたいんだけど、あそこは少し掛かりそうね。牛丼ね、分かった。持ってくるわ」
「えっ」
「ああ、大丈夫よ。消毒や滅菌は徹底するから。私も未知の菌に感染なんかしたくないから」
「いやそうじゃなくて」
「お昼も何が食べたいか考えておいてね。それじゃあ」
「待って!」
無情にも外から蓋が閉じられる格子窓。それは今後の俺の展望と符合するのではなかろうか。
五体満足で出られるのだろうか、俺は。