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一、変質

 奇妙な夢を見ていた。

 女の夢だ。

 色香を感じさせるものではない。ただ、漂っている女を見つめているだけの夢。

 霧深い湖。その畔で、水面に浮かぶ女を見ている。

 ゆらり、ゆらりと浮かぶ、長い銀の髪。肌は陶磁器の様に滑らかで、透き通る白さは艶やかでもある。

 それはまるで、塩の様な白さだった。

 穢れが無いのではない。穢れを許さない白さが、俺の目に焼き付く。

 美しい。心からそう思える女だと思った。

 これは夢だ。とうに気付いている。

 夢なのだから、俺が求める姿の女性がいてもおかしくない。

 夢なのだから、その欲望は思い通りになって然るべきだ。

 だが、俺の体は何もしない。出来ない。腕どころか指先、瞼、視線でさえも、思い通りに動かない。

 出来るのは、女の青い瞳を見つめ続ける事のみ。

 吸い込まれる様な深さを秘めた目。怖気すら走る、気味の悪い暗闇を帯びた眼光。

 無表情でありながら――いや、だからこそ、えも言えぬ圧力を感じるもの。

 俺はそれを受け止め、また見つめていた。美しいと言う想いと共に。

 女は、妖しい魅力を持っていた。

 ――夢見心地に思う。俺は、この女性に恋は出来ない。俺とはあまりにも掛け離れていて、意識することも難しい。

 だが、求められたい。

 彼女の為になりたい。恋慕ではなく、献身。あるいは慈悲。助力を惜しみたくない。支えてやりたい。

 そんな気持ちが頭を、心までも満たしていた。

 あるいは。女の儚げな容姿が、俺をその被虐的な魅力へと引き込んだのか。


 ふと、女が腕を上げる。

 こちらに向かって、右手を差し出しているのだ。

 顔は、変わらず無表情。

 手を差し出せ。そう言っている様に見えた。

 誘われるままに、手を伸ばそうとする。だがそれは不要だった。

 俺の体は、俺自身が気付かぬ内に、女と同じ右腕を伸ばしていた。

 まるで、女と鏡合わせになる様に。

 体が女へと歩み寄る。水面を歩き、片膝を付くという動きに疑問を抱くことはなかった。

 ゆっくりと、俺の手が、女の指に近付いていく。

 それは俺の意志では無かったが、望みである事には変わらなかった。

 あの肌に触れたい。その望みを叶える様に、女の手と俺の手は近付いていき、



 ◆



 じりりり、りりりり、じりりり。

 年代物の目覚まし時計がやかましい。

 二つ鐘を叩き続ける鎚に指を挟みながら、文字盤を見る。

 示すのはきっかり7時。ぜんまい仕掛けが告げた朝は、昨日と変わらぬ時間から始まった。


「起き、ねえと」


 布団を蹴飛ばし、伸びをする。寝転がったまま伸ばした腕は、丁度夢の女と同じような体勢、だった、ような。

 ぼんやりと、ついさっきまで見ていた筈の夢を思い出そうとする。けれど寝起きの頭で掴めるのは、女が出ていたと言うことだけ。

 頭を振って意識を醒まさせる。徐々に想起する姿に溜め息が出たのは、俺の想像力が逞しいからだろうか。


「……綺麗だったな」


 しみじみと呟く。浮世離れの美しさというのが当てはまるか。――夢の中だから、当たり前だろうが。

 色白の肌に、整った目鼻立ち。雑に切られた前髪と、伸ばしっぱなしの後ろ髪という拙さと共に調和を持った銀色の髪。胸部は些か慎ましやかが過ぎると言った様子だったが、痩せこけたという程ではなく、むしろ線の細さが色素の薄いという儚さをより印象深くしていた。

 夢でありながら、不思議とその姿を思い描くのは容易かった。


「ふぅ、む」


 それほど出来た女であれば、乱れた姿を想像したくなるのが男のサガと言うもの――だと思いたい。こちとら健全な学生なんだ――だが、不思議と興奮はしなかった。

 むしろ、考えれば考えるほど頭が冷えていく。まるで若かりし頃の母さんの水着写真を見た時の様だ。一昔前の水着に彩られた母の容姿はよく言えば味があるものだったが、成長しきった姿、あるいは劣化した姿を普段から見ている身からすると、なんとも言えない気分になるものだろう。物置の奥で見たいにしえの写真が与える衝撃は、時折あらゆるものを跳躍して襲い掛かってくるから恐ろしい。


鉄生(てっしょう)! 起きなさい! 朝ごはん片付かない!」


 噂をすれば。二人の息子をねじ伏せながら育ててきた四十路そこそこの専業主婦は、どすの利かせた声もお手の物だ。

 手早く身支度を済ませて居間に行くと、既に俺以外の家族の食器は下げられた後だった。


「あれ、父さんも兄貴も早かったんだ」

「あんたが遅くて良い理由にはならないから、さっさと食え」

「へいへい」


 台所で皿を洗いながらもぞんざいな態度を崩さない母。その優しさへ真摯に応えつつ、さっさと白米をかっこんでいく。

 噛むのをそこそこに呑み込みながらも机の端に置かれた朝刊をちらりと目を通す。……明日から当分雨か。通学が混むから少し面倒だ。


「今日はずっと晴れなら……あ、母さん、俺の掛け布団干しといて」

「まだ学校行くまで時間あるんだから、自分でやりなさい」

「ええ、めんどっちい」

「それくらい文句言わずに出来ないと、休日に掃除機で叩かれるような男になるぞ」

「それ兄貴じゃん。俺は図書館に逃げるくらいの知恵あるし」

「それも宿六の典型例」


 失敬な。きっちり父さんから学んだと言うのに。いや、それならば当然の帰結だろうか。

 暫く舌戦をするも、家事に関することについては主婦に勝るものは無いらしく。朝食後、何故か家族全員の布団を物干し台へと運ぶ羽目になっていた。


「余計なこと言うんじゃなかった」


 相手が見えないところで文句を言うのと、自尊心を遠くへと響かせる犬の鳴き声は殆ど一緒だ。言ってて虚しくなると分かってはいるのだが。

 ばっさばっさと布団を広げ、手すりに引っかける。母の分は綺麗に、父の分も、まぁ綺麗に。兄貴の分はそれなりに。自分の分は完璧に整えて直射日光が蚤や埃どもを死滅させることを切望する。


「ん?」


 高級旅館もかくやとばかりに広げられた白い布団の上に、きらり、と何かが日の光にきらめくのが見えた。

 ちょい、とつまみ上げる。長く、とても細い糸のようなもの。白、にしてはやや暗さを帯びている色。そのくせ日光を受けて、その存在を誇示するように輝いている。

 (より)(いと)にしては細く、化合紐の端にしては芯が通りすぎている、とでも言うべきか。見た目はその類いの化合物と思えない。

 にしても長い。布団の縦の長さと目測で合わせても同じか少し短いか。それでも絡まることはない。

 まるで、あの髪のような――


「あっ」


 横殴りの風。ごみでも入ったのか、目が痛んだ。

 思わず目を閉じるが、指先は間に合わない。

 そこらを舞う木の葉と同じくさらわれたようで、どこかへ消えていった。


「なんだ、あれ」


 ――仮に、あれが髪だとしても、誰の髪だと言うのか。

 残念ながら寝床に呼べるほどの交遊関係を持っている奴はいない。自分、兄貴、父親ではないのは明らかだ。誰も彼もが黒いし短い日本人。母親のは長いと言えば長いが布団と比べるほどの長さじゃないし、多少染めてても茶色だ。白髪なら、とも思うが、あの人があんな長い白髪を放置しておくとは思えない。

 何より。俺以外の奴が俺の布団に入っているという状況は、あまり考えたくない。

 と、すると。現実的な選択肢を取り除いていく俺の頭には、いつしか非現実的な回答が見え隠れしていた。

 だが、それは、あまりにも。自分の夢の残り香にすがりつきすぎているのではないのか。


「おーい鉄生! 干すのは終わった? 時間忘れるな!」


 回答を反芻する暇もなく、やかましい声が俺を叱りつけている。


「もう終わったって! すぐ出る!」


 中に戻りながら叫び返す。

 そう。そうだ。何であれ、気にすることは無い。やるべきことをやる。学校へ行こう。

 ただの糸かもしれないものに神経質になるのは、疲れてしまう。

 もしかしたら蜘蛛の巣の一部だったりして――あ、考えてみて割とそれはありそうな気がする、が、そんなでかい巣を張る蜘蛛がいるのも勘弁だけれども。

 そもそも蜘蛛の巣の太さはどんなもんだっけ? と、意図的に思考を逸らしながら、登校の準備を進めていた。




「そりゃあ、鉄生。お前が欲求不満なんだろ」

「……お前なあ」


 昼休み。話の流れで級友に今朝の夢について語るも、ばっさり一言で切り捨てやがった。


「女の夢、なんて言ったら、大体そうだろ。夢分析大好きなかの大先生もそう言ってる」

「その人、だいたい性欲で説明しちゃうんだがな」


 百足とか。湖畔に月に船とか。


「みんな一皮剥けばそんなもんだ。それともなにか? 女に興味がないって事は無いんだろ?」


 下卑た顔で見られると否定したくなるが、確かに間違ってはいない。間違ってはいないが、彼女をそう言う目で見たくはない。


「なんだよ、その渋い面。抱きたくないのかよ」

「いや、そういう訳じゃねえけど、言い方に気を付けろよ。女子いるんだぞ」


 ちらりと確認すると、級友共々十把一絡げに白い視線を向けてくる女子達。こちらとしてもいい迷惑だ。


「そんな事は知ってる。けど、やりたい盛りの男だぞ、こっちは。言葉遣いくらいは大目に見てだなぁ。むしろ見せるか触らせるくらいのをよぉ」

「ああ、そーかいそーかい、そりゃよかった」

「なんだ、そのいい加減な流し方。あ、そうだ鉄生。噂なんだが、どこぞの大学で実験と称してそういうコトをやってくれてる人がいるんだと……」

「興味ねえし」

「はぁ!? お前それ本気で言ってるのかよありえねーぇ! 男だったら即反応しろよ! 股についてるのは何だってんだよ役立たせろよ! ……え、ちょっ、何ですか委員長。うるさい? いやそれはこんなひょうろく玉が近くにいるのが許せなくて。だって男子たるもの、そういうのに興味ないは有り得ないだろ! 健全な精神を宿すために健全な肉体を作っていてててて委員長痛い痛いつねらないで痛いから」

「じゃっ、後は好きに演説しててくれ」


 馬鹿の馬鹿話を打ち切り、教室移動の準備をする。昼休みが終われば物理の実習、それさえ終われば今日は帰りだ。

 空になった弁当箱を机にぶちこみ、教室を出る。背後からやかましい級友の声がするが気にしない。

 まだ少し早いが、授業の準備の手伝いでもしていよう。そんな事を考えながら、物理室へと向かうつもりでいた。


「――」


 つもりでいた、と言うのは、即座に足を止める事になったからだ。

 何も変哲のない、只の廊下。白い建材はひび割れて、何の汚れかも知れないもので薄汚れた壁。蛍光灯は節電とかいって抜かれたまま。

 ああ、きっとそれが良くないんだろう。目の前にある何ぞやかは、きっと光の下に出てきちゃいけないものだから。

 見開かれた目。三日月のような口。端から流れる血は、頬を伝って目の端を通り、汚泥を煮詰めたような黒髪へと伝っている。白い襦袢は、悍ましさという一点ではよく似合っていた。

 血の雫が顔を登ってるんじゃない。単純に、目の前のものは天井から生えているかのように、逆さになっているから。

 大声を上げなかったのは、すくんでいたからに決まっている。教室に逃げ込まなかったのは、反射的に動くべき足が、床に縫い付けられていたのかもしれない。

 幸い、血走った眼はこちらに向いていなかった。もし俺を捉えていたなら、失禁でもしていたに違いない。


「どうした、水元?」


 後ろからの呼び掛けに、文字通り飛び上がる。

 振り向くと、馴染みの体育教師の不思議そうな顔があった。


「そんな廊下で突っ立って、居眠りこいてたわけじゃないだろうな」

「や、別に、そんな事は……先生こそ、どうしたんすか」

「今から用具室に行くところだ。お前も手伝うってんなら嬉しいんだがなぁ」

「俺は、物理室いかねえといけないんで」

「そうか。残念。……どうした? さっきから後ろを気にして」


 背後を気にしながら話していたせいか、体育教師が俺の背中――さっきのアレがいる場所を覗き込む。咄嗟に止めようとするが、既に厳つい顔はアレがいる場所へ向けられており――


「誰かいたのか?」

「……え?」


 不思議そうな顔をして、能天気な声を出していた。

 後ろを見る。逆さの何かはまだそこにいる。それでも教師には見えていない。何故? 分からない。分からないが。


「変な奴だな。どうしたんだ?」

「あー、いやその、ちょっと寝不足でぼーっとしてただけっす。いやほんとに。それじゃ」

「お、おい水元」


 呼び止めようとする教師をかわし、廊下を早歩きで去る。

 今は、考えるよりも先に、動いた方がいいと思った。

 すれ違いさまに触れてしまった逆さの手の感触は、確かにあった。

 冷たい布切れのような、およそ生物とは思えないもの。

 目が痛んだ。


 おかしなものを見てしまったからと言って、すぐに反応すれば恥を晒す事になる。

 そんな、如何にも日本人らしい恥の文化を胸に携え、校内を行く。

 視界の端におかしなものが見える気がする。気がするだけならいい。知らない。知らない。そう振る舞うしかない。

 明らかに生徒でも教諭でもないものとすれ違う。きっと早めの文化祭の準備だ。そうに決まっている。むしろほかに何がある。

 窓の外、逆さに下がっていく人影を見る。蜘蛛糸を服の裾から伸ばすそれは人にも見えたが、尚更にそれが恐ろしい。

 気のせい。見間違い。思い込み。現実逃避。ありとあらゆる嘘で自身を誤魔化すが、加速度的に異常をきたす視界は、逃げ込む先を塞いでいく。

 幽霊が見えている――そんな生易しいものじゃあない。

 だが、今見えているものに、それ以外相応しい呼び方なんてあるのか。化け物で十分なのか。それとも妖怪、あやかし、魑魅魍魎、化生と語彙を捻れば良いと言うのか。


 そのまま授業を受ける選択肢を選んだのは、およそまともな考えではなかっただろう。

 だが、非常に満ちた日常とはいえ、それを捨ててしまうのはとんでもない、という気持ちはあった。

 そのせいで神経を擦り減らす自分は、とても滑稽なものだったが。


 終業の音に弾かれるよう、一目散に校門を出る。

 何がどうしたいのか、なんて考えている余裕は無い。

 せめて自分の部屋に。少しでも落ち着ける場所に。

 いつもの路線を待つ時間も惜しんで、走っていく。


「はっ――は、ァ――はっ――はぁ、あ――!」


 息が苦しい。苦しくても止まらない。止められない。

 時間を惜しんだというのは、単なる言い訳だろう。辺りに漂う化物どもを見てしまえば、誰だって自分の足で帰りたくなる。

 車にへばりつく右手のみの頭。額から獣の牙を生やした赤ん坊。しなりながら蠢く腕の花は、道路に何本も咲いている。

 得体の知れないもの共がいる中で、閉鎖された空間に入ろうとは思えなかった。だってそうだろう。隣に座った奴の顔が半分潰れているだなんて、5分と耐えられるものじゃない。

 少なくとも今朝までは普通の道路だった。いや、俺が気付いていなかったのか。夕暮れに染まる街並みは、異形に満ち溢れていた。


「なんだ、なんだ、なんなんだよ、なんだよッ!」


 見たものを言語化するだけで気が千切れ飛びそうだ。転がる岩のように怪異は脅威を増していき、俺の虚勢などいとも容易く毟り取った。

 ちんたら走る自転車を追い抜く。――荷台にへばりつく巨大な蝸牛の目を押しのける。

 通行人をすれすれで避ける。――寄り添うように立つ影絵の人型を突き破る。

 無邪気に走る子供を大げさに躱す。――その背から伸びる燃え立つ手が肩を掠める。

 邪魔で邪魔で仕方がない。道端を這いずる芋虫のような猫を踏み潰す。柔らかい泥を踏むような感触。足元を見る。赤黒く染まった靴。気持ちが悪い。空を見る。逢魔が時の茜色。漂う生首が此方を見返す。気持ちが悪い。


 誰も、何も気付かない。周囲からは気狂いの類に見えるだろうか。それでも良い。この異常から逃げる理由になるならば。


 何かにぶつかる。押しのけて走る。腕を捕まれる。走る。引き戻される。腕を振る。腕を引かれる。――ようやく、何が掴んでいるのかを見る。

 見るのが怖かった。さっきまで自分が押しのけてきた化け物だったらどうしようと思ったから。だから、何の変哲もない男でホッと安心した自分がいたのは当然だろう。

 何かを喚いている。そりゃあそうだろう。ぶつかっておいて何も言わずに走って逃げようとする若造がいたら、文句の一つも言いたくなるものだ。その苛立つ顔も納得出来る。

 おまけにそんな若造が、ようやく人様の顔を見たかと思えば何も言わずにいるんだから、胸倉掴んでくる気持ちも十分にわかる。

 そう、共感はできる。けれど。――そうやって唾が飛ぶほど顔が近いのは、気に入らない。

 そんな感情を抱くと同時に、目が痛んだ。両目を奥から指で突き刺されたのかと思った。

 誰がそうしたのかなんて、分かるわけがない。当然だ、体の中から来る痛みだし。

 分からなかったから、とりあえず目の前の不快な奴と痛みを分かち合おうと思った。前からか、後ろからかの違いがあるだけだ、再現性はきっと高いだろう。そのまま、飛んできた唾の数だけお返しをする。等価といきたいところだが、世の中には利子というものが存在するってのは俺だって知ってる。手頃なものがなかったので、とりあえず右手で支払おう。左手は支えるのに役立った。素人だと数度拳骨を見舞えば拳を痛めてしまうというし、全てを返しきれるかは分からないが、誠意を見せるというのは大事だ。殴る。殴る。唇が裂けた。殴る。殴る。殴る。いつの間にか何も言っていない。鼻は潰れている。殴る。汁まみれの顔。殴る。飛び散る液体が汚かった。殴る。殴る。殴る殴る殴る。手が疲れた。地面に落とす。芋虫猫の血が付いた靴で蹴る。蹴る。手が伸びてきた。触られたくないので踏み潰す。踏む。踏む。踏み潰す。不思議な形の手になった。片手だけだと困るだろう。もう片方の手を踏む。踏み潰す。骨が折れる音が心地良いものだと気付いた。腕を踏む。踏む。根元がぐにゃりと曲がった。踏む。踏む。飽きたので蹴り飛ばす。不出来な腕が気に入らなかった。髪を掴む。殴る。殴る。殴る。殴る。髪が抜ける。また掴む。殴る。殴る。抜け落ちる。


 目が痛んだ。流れた涙は、やけに熱かった。


「あれ」


 頬が焼けたのかと思って、思わず手で拭った。

 焼けてなんていない。ただ、ぬるりと粘つく、蛙の表皮のような感触があるだけ。

 拭った手のひらを見る。何の変哲もない。何の変わりもない。何も――いや、そんな訳がないだろう。

 痛む目を凝らす。そうすれば、ほら、やっぱり。こんな真っ赤に染まった手のひらが、何もないと思うだなんて、おかしいじゃないか。


「……ん? あれ?」


 いや。いや。おかしい? それはそうだろうが、そんな呑気していいっていうのか?

 俺は、いったい、何をしていた?

 手を見る。暮れていく日に照らされて、茜に彩られた血濡れの掌。手に絡まっている髪の先には、ぶらりと小さな肉片が揺れている。

 足を見る。それほど汚れてはいないが、足元には吐瀉物と思われるものが落ちていた。臭いはひどいものだが、今はそれどころじゃない。何せ、「それ」が原因だと一目で分かるものが隣に転がっているから。

「それ」の指は軒並み折れていた。――覚えている。

「それ」の肘は見事に逆へ曲がっていた。――覚えている。

「それ」の血や唾液、涙や鼻水で汚れた鼻潰れ顔。――よく、覚えている。

 全て、俺がやっていた事だから。都合よく忘れるなんて出来ないだろう。


「いや、だから、なんで、こんな」


 掌の汚れを服で拭う。べっとりとした絵の具のような、それでいて水のように染み込んでいく感触。気色悪い。

 なんでこんなことをしていたんだろう、俺は。人様を殴るどころか、骨まで折って、痛めつけて。一昔前の不良じゃあるまいに。こんな悪い事――悪い事、なのだろう?

 そう、悪い事、に、決まっている。けど。なんで、断言出来ない? それを何故、疑問に思っている自分がいる? 何故、正当化しようとしている自分がいる?

 こんなの許される訳がないのに。――誰が、誰から、許されないのか?


「っ!」


 そこで。この場所が、人の往来がある普通の路であることを、ようやく思い出していた。

 買い物帰りだろうか、野菜の頭が見える買い物籠を持った人。赤ん坊を抱いた人。背広を着た人。自分と同じような、学生服を着た人。知らない人。知っている人。人。人。人の目。

 誰もが遠巻きにこちらを見ていた。怯え、竦んだような目。

 誰も近付かない。誰も止めようとしない。触れてはならないものの様に。

 家の近所に住んでいる人間がいた。悍ましいものを見たせいだろう、苦しげに口元を抑えていた。

 級友として名が分かるものもいた。口を開いたまま、茫然としているように見える。


「ひどい」


 誰かの、そんな呟きが聞こえた。

 糾弾するというには弱い言葉。俺に言ったのか、ただ口に出た言葉なのか、それは分からない。

 だが、その言葉は正しくて、怖れた視線も間違っていない。だからこそ、その言葉が辛く、その視線がおぞましい。

 ひょっとすると、ああ、ひょっとすると、俺が、化物を見たときの様な目で――


「――ああああぁぁぁぁああ!!」


 知らず、叫んでいた。震える膝を隠すように、駆け出していた。

 足が向かうところは、分からない。呼び止めるような声は聞こえた気がする。だが、ちょっとやそっとじゃ、止まりそうにはなかった。

 黄昏時の陽の輝きが眩しい。目が痛んだ。

 ふと思い出す。

 今のような時間帯。昼間と夜の間の、僅かな時間。

 黄昏時は逢魔が時――大禍時。魔に逢う時であり、凶事に最も近い時。




 路地裏に入り、積み上がったごみ箱を蹴飛ばし、金網を飛び越え。

 斜陽から逃れ、いない筈のものから身を隠して、妄想に追われて。

 誰もいないのに、何も追ってきていないというのに、俺はがむしゃらに走っていた。

 いや、途中までは後ろから人の声がしていたか。その都度に脳裏を掠めた光景のせいで、路面へ打ち付けられる靴底は余計に悲鳴を上げる羽目になった。

 誰にも近寄らせたくなかった。何もかもから離れてしまいたいと思った。

 それがどういう意味があるのかは分からない。意味なんて無いのかもしれない。

 それでもいい。単なる現実逃避でいい。


「クソッ、クソクソクソクソッ、クソが!」


 この、火照った頭をどうにかしないことには、俺はなんにも考えられない。

 ――今、この瞬間の行動自体が逃避などではなく、ただ現実を直視させるものだとしても。

 摩天楼の隙間で立ち止まり、薄暗がりの中で溢れ出した思いを口から吐く。


「どうなってんだよ、おかしいだろ。なんで、なんで俺が、あんな、やらかしてんだよ! 畜生、畜生が!」


 口だけでは収まらず、力任せに拳を壁へ叩き付ける。骨身に染みるイヤな痛み。よく見れば、酷使していた右手は皮は破け肉が見え、血が滲んでいた。壁面に当たった肉は痛々しく傷付いていたが、事実として確認する以上には何も出来ない。

 こんな痛みでは、振るわれる拳は止まらないから。


「俺はっ、こんなっ、人間っ、だったかっ、よぉ! 違うだろっ! 違うんだよっ! なのに! なににっ!」


 言い聞かせる語気は強いが、だからこそ虚勢が透けて見えた。

 拳を打ち付けるごとに、白い塗装の上に赤いものが広がる。

 まるで花開く蕾のようだ。この上なく心中が掻き乱されていた反面、どこか他人事のように見えていた。この絵の具の持ち主は自分だと言うのに。


「俺じゃない! 俺じゃないんだ! クソッ! 違うんだよ! 俺じゃない!」


 無意味な譫言を繰り返す。額を打つ。鈍く響く音。衝撃。視界に散る火花。

 ほんの数時間前は普通だった。いつも通りだった筈だ。それがどうしてこうなった? 何が悪かった?


「ふざけんじゃねえ!」


 一際強く壁を殴り付け、その衝撃に思わずよろめく。ビルの壁面に背をつけ、荒い息のまま狭い空を見上げる。

 紫がかった暗い色は、肩まで響いた衝撃を紛らす事すら出来やしない。嫌な色だ。星も見えない癖に、あたかも夜みたいなツラをしてやがる。


「はーっ、はー……っ」


 激情は未だにある。同時に、それを俯瞰している自分もいる。

 それがとても気持ちが悪い。まるで意識が重複しているかのようで、酷く現実感を薄くさせていく。

 体の痛みが鮮明にあることだけが、救いだった。

 自然と口が開く。


「家、帰らなきゃ」


 これからの事を考えてみると、それが最初に思い浮かんだ。けれど口に出してみると、何故だかとても滑稽に思えた。


「今のザマで帰れる家なんてあるものかね」


 そうだ、その通り。こんな格好で帰れば、幾ら肝の太い母でも気絶しかねない――。

 そこまで考えて、ようやく出所不明の声へと反応する事が出来た。


「誰だ!」


 座り込もうとしていた足をなんとか踏ん張らせ、背を壁につけたまま左右を見る。

 だが当然のように、声の主はいやしない。

 不気味さに身が凍る。今度は幻聴――であるならまだマシだ。そう思えるほどに、今は人が怖かった。

 むしろ、誰かがいた方が怖い。

 そんな俺の気持ちを汲んでくれたのか、辺りに姿は見えないままだ。代わりに、誰とも知れない声は響く。


「ああ、すまないねぇ。驚かせるつもりは……まぁ、あったんだが。そう気を滾らせるもんじゃないよ」


 落ち着いて聞けば分かる。おそらく、女の声だ。こちらを絡め取るような艶かしい声。だが、受け取った印象としては、矍鑠とした老婆に窘められているかの様だった。


「あんた、誰だ」


 表面上だけでも気持ちを静めながら、声を捻り出す。激情が抜けた言葉は、情けないほどに震えていた。

 幸いなことに女の声は震えについては何も言わず、ふぅむ、と一拍考え込んだような声の後に言う。


「私は、そうだな。魔法使いとでも名乗ろうか。今はそれで良いよ」

「魔法使い、だぁ?」

「むかぁしの呼び名さ。今も錆び付いちゃあいないがね。それで、あんたは何て呼べばいい?」


 何気ない風に交わされる会話は、思考に油を注していく。

 その余裕を見せつける声は、徐々に俺へと染み込んでいた。口に力が籠る。


「……水元、鉄生」

「そうかい。良い名だ。掛け値無しにね。それじゃあ、水元鉄生。あんた、何から逃げてるんだい?」

「は? そりゃあ、もちろん……」


 俺がしでかした事を考えれば。逃げずにいられるなんて考えられないだろう。

 モゴモゴと口の中でそう言う類いのことを言うと、魔法使いは薄笑いのままで語る。


「そりゃあ違う。違うねえ。勘違いしてるよ、水元鉄生。あんたは逃げなくたって良かった筈だ」

「んな訳あるか! 俺は、人を、」

「ああ、潰していたね。えらく雑に。初めてだったのなら、まぁ仕方ないさね。誰にだって初体験はあるんだもの。で、それがどうかしたかい?」

「っ、そんな事した奴が、許されるわけが無いだろ! 野放しにしておいていいなんて言うほど、頭お花畑ばっかりだなんてそっちのが嫌だね!」

「それは確かにそうだけどねえ。ただ、ほら。その許すとか許さないとかっていうのは、誰からなんだい? 何が、許さないんだい?」

「それは――」


 まるで、心の殻を削ぎ落としていくかのような言葉の刃。

 囲まれた切っ先から逃げ出すために、必死に舌を回す。


「……人を傷付けるのは、犯罪だ。罪を犯す奴は、他の人間に袋叩きに合うべきだろ」

「おやおや、おいおい。あんたはそんな、罪だのなんだのと言えるお立場なのかい?」

「おかしいかよ。世界で一番売れてる創作本でも罪は犯すなって書かれてるんだぜ。人間、生きる上でやっちゃいけないことがあるんだ」


 上滑る言葉は、魔法使いにではなく、自分に言い聞かせてのものだとは分かっていた。

 それでも、口にしないではいられない。


「は? ――何を言っているんだ?」


 この反応に、数瞬先の言葉を連想してしまうほど、俺の頭は切羽詰まっていたから。


「あんた、まだ人間のつもりなのかい、水元鉄生。それはちょっと、ムシが良すぎやしないかい」


 即座に反発出来れば、まだ良かった。だが宣告は脳から臓物にまで染み渡っていく。

 目眩がする。頭が体幹に沿って、綺麗に左右へ分かれたかのように、二種の思考が両目の視界を歪めていく。

 ――妙なことを言うな、騙そうとするな、平穏無事な日常から逸脱しようとするんじゃない。右手は血で染まっていた筈なのに、色味がどんどん欠落していく。

 ――人ならざる怪が見え、変貌していく思考に侵されているのだ。むしろ納得だ。合点が行く。左手の指が、改めて受け入れざるを得ない言葉に震えている。


「あんたが人間でなんてあるものか。目を背けるな。身を預けろ」


 左右の視界が別々に歪む。青から赤へ。渦から波へ。痛い。痛い。耐えられない。知らず涙を溢していた。


「思うがままに振る舞えばいい。邪魔になるのなら、そんな皮はさっさと捨ててしまえ」


 ヒビが入る音がした。脳天から額に掛けて、確かだったものが砕ける音がした筈だ。


「何より、あんたさぁ。自分が傷付いてでも人を潰そうとしてたんだよ。そんなものが、まともを装えると思ってんのかい?

 あんたはもう、化け物だよ。水元鉄生だったモノ」


 十数年の人生すべてを否定する言葉は、いとも容易く投げ掛けられた。

 痛みは額から流れていき、代わりに沁みていくその言葉。笑い話にもならない文句。

 そう、笑い話にもならない――だからこそ、暗く淀んだ怒りの呼び水となった。


「黙――れぇ――!」


 渾身の抵抗は怨嗟となり、不可視の魔法使いへの咆哮となる。

 だが、そんな俺の激情はどこ吹く風とばかりに、魔法使いは嗤う。


「ハッ、ハハハハっ!! なんだい、まだ文句を付けようってのかい? 醜いねえ、ああ醜い。あんたが見てきた成り損ない共よりも数段汚い。愉快で、滑稽だ。そういうのは、諦めが悪いなんて言葉は使えないんだよ」

「黙れってんだろうがよ! 俺が化け物だぁ? ふざけた言い草だァああ笑えもしねえクソを口からひり出してんじゃねえぞ!」

「聞きたくなけりゃあ耳でも塞ぐか潰すんだね。私ァこういう性分なんだ。舌が興に乗っちまったんだよ。本当に愉快で仕方がない。化け物が人間でありたいだなんてねえ。これを嘲らないなんて、むしろそっちが失礼ってもんだ」


 神経に触る声は、俺の耳元から聞こえる。いや違う、当然俺の隣にいるわけがない。魔法使いを自称するくらいだ、そんは秘術はお手のものだろう。


「上等だツラ出せこの腐れ野郎が! 口ん中かっぱいで舌引きずり出してやるよ!」

「おお、怖いねえ。出来るものならやってごらんよ。もっとも、姿を出す気は無いけどねえ」


 ははは、はははは、ひひひひ。

 耳障りな笑いが路地を埋め尽くす。右、左、上、下、正面、後ろ――出所なぞ、分かるものじゃないだろう。

 ふざけるな、ふざけるな。俺にここまで言いながらその顔を拝ませないとは道理が通るか。

 見つけてやるさ、見つけてやるとも、こちとら化け物を見ちまう目を持ってるんだ。


「見える、見える、見える、見える筈だ!――絶対見つけてやるッ……!」


 言い聞かせたのは自分じゃない、自分の目にだ。まさか、化け物を見えるだけで終わらせるんじゃねえぞ。この程度、やれないなんてオチは付けさせねえ。


「見つけられなきゃ目玉抉って踏みにじってやるぞ、死ぬ気で見やがれ! アイツを見付けろ! 見破ってみせろ! やれなきゃてめえは硝子玉以下の役立たずだ――」

「無駄だよ、無ぅ駄。あんた程度じゃ、成り損ないの雑妖を見るのが関の山だ」


 見開く目をギョロつかせ路地を舐める。乾く眼球。目が痛む。頭が痛む。神経が千切れるように痛む。痛む。痛むが――その痛みが代償ならば、拒むつもりはない。


「俺には見える、俺なら見える、俺だから見える、見える、見える見える見える見る見る見る見る――」

「おっと、イカレのケまであったとは。そんなんだからおかしなものに見入られるのだろうがねえ、こればかりは性根が悪いか」


 聞くな。見ろ。見ることだけを考えろ。空の色も、壁の血も、そこらを漂う化け物、奴の言う成り損ないなんてものも見る必要は無い。魔法使いを見るのであれば、望みとあれば光だって捨ててやる。


「ああ、ああ、何だってくれてやるし捨ててやる。それでいい、そうするべきだろうが」


 その呟きが鍵になったのか、断続的な痛みが、次第に鼓動のような拍を刻む。何かを刻み付けるように拍を取る。脈動とでも言うべきか。蠢く度に目には力が籠り、同時に痛みの脈動が全身へ溢れ零れ巡っていく。

 眼球へ、脳漿へ、神経血管筋肉皮膚爪髪骨脂肪臓物。体の奥底、感じたことの無い領域。その最奥に眠る、水元鉄生の中心と言うべき何か。

 痛みはまるで優しく差し伸べる手のように――


「そこまでだよ、怨霊。現世の者をからかうのも程々にしな」


 すぐ隣で、声がした。肩に置かれる手。その姿は、痛みを伴わなくとも見る事が出来た。

 風に揺れる二つに結わかれた赤髪。視線は虚空へ注がれており、その顔は険しく見えた。担いでいる鎌はひしゃげた切っ先を鈍色に輝かせている。

 この女性は、人ではない。直感でそう悟った。

 いや、それより、なんだって?


「怨霊、だって?」

「そうさ。あれは人間、妖怪、神霊、妖精――全てを怨んで祟る霊魂。生前の業とか呪いとかで、どうにもならない魂魄の汚濁を抱えちまっているんだ。あれじゃ輪廻に乗れやしない」


 俺の呟きに律儀に答えてくれる、赤髪の女性。それに不満そうな声を上げるのは、当然怨霊と呼ばれた魔法使い。


「あれまぁ、なんでまた、こんな所に死神がいるんだい? そいつにも、私にも、人間用のお迎えは必要ないよ」

「別に刈り取りに来た訳じゃない。タチの悪い奴に絡まれてたら、助けてやるのが情ってものだ。人だ妖だ、なんてには関係ないね」


 言いながら、女性は置いていた手を離し、唐突に肩を組んできた。うわなにすんの近い当たってる。


「なっ、急に何をぉ!?」

「いいからいいから。見ず知らずの奴が助けるっていうのが変だっていうんなら、ここで友人になればいいだろ?」

「いっ、いやっ、だからってこういうもんなのか!? そうなのか?」


 馴れ馴れしく近づいているが、不思議と不快には思わない。それどころか、十数年来の友との再会したかのような親近感を得られるような……間違いなく初対面の筈だが、心のざわつきが収まるのが分かる。


「是非曲直庁としては、怨霊なんてものはさっさと刈り取るべきなんだ。けど、今回はそれが目当てって訳じゃない。これ以上悪さをしないんなら、見逃してやるよ」


 挑発めいた勧告に呼応するように、見えない空気が歪んだ。怨霊と呼ばれるほどのものが滲ませた怒りがそう見せるのか。


「デカい口を叩くねぇ、いち死神風情が。まぁいいさ、興が削がれた。好きに食えばいいさ、そんなゲテモノ」

「誰が食うか、一緒にすんじゃない……もう消えたか」


 人様をゲテモノ呼ばわりしておきながら、一瞬で霧散する気配。赤髪の女性は噛みつこうとするが、溜め息を吐いて諦める。


「ああ言う手合いは本当に厄介だ。関わらないのが一番良いとは分かってるんだけどね」


 緊張を緩めた顔でそんな事を言う。それは俺に向けての言葉なのだろうか。曖昧に唸って首を縦に振っておく。

 その反応で満足したのか、にやりと笑う女性。しかし一転、目をつむって唸り始める。


「さってと、あたいは仕事に戻らないといけないけど……それだとお前さんが心配なんだよなぁ」

「心配って、なんだよ。別に帰り道が分からないほど迷っちゃいねえよ」


 感じていた親近感のままに砕けた口調で話し掛ける。もしや気を悪くするか、とも思ったが、そんな様子はない。


「いやいや、あんな怨霊に絡まれているような奴をほっとくのは、どうにもね。しかも――」


 ぱちり、と開かれる片目。お互い肩を組んでいるんだ、その瞳は、俺の顔が映り込むのが見えるほど近い。


「訳ありなんだろう? それも、あたいら関係のやつ、のだ。おっと、ごまかす必要は無いよ。こうやって話せているってだけで、何となく察しはついてるんだからさ」

「……だよなぁ」


 先ほど聞こえていたのが本当なら、この女性は死神と呼ばれる類のものらしい。そんなものと気軽に話せるのが普通とは思えない。こうしてはっきり見えている事が当たり前なら、心霊業界はもう少し栄えられた筈だ。


「とりあえず、家まで送ってあげるよ。経緯(いきさつ)は道すがら、聞かせてもらおうか。これでもそれなりに生きてるから、助言だってしてやれるさ」

「……うまく話せるか分かんねえよ」

「なに、どんな言葉でもいいんだよ。腹に溜め込まないで、口から出せば気が楽になる。こういうのは不満も悩みも酒も変わらないもんさ」


 どうかな? と、笑い掛けてくる女性。

 その顔に邪気は無い。人の良さそうな、優しさしか見えない。

 女性に手を引かれるなんて本来ならあるべきでは無かろうが――この状況で、頷く以外に何が出来る。


「よしよし。じゃあ行こう。ああ、そうだ。あんた、なんて呼べば良い?」

「水元鉄生。鉄生でいい。そっちは?」

「小野塚小町。小町でもこまっちゃんでも、好きなように呼びなよ」

「それじゃあ宜しく、こまっちゃん」

「うわ本当に言うとは思わなかった」


 ころころと表情を変える小町。その百面相に思わず頬を緩ませた。

 神も仏も無いものか、と不幸を呪っていたが――存外、死神は身近なものらしい。

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