「君とは話が合わない」と婚約解消されましたが、あなたが毎週恋愛相談を送っている相手は私です
「クラリス。君とは話が合わない」
婚約者のレオンにそう言われた時、クラリス・ベルモントは手にしていた紅茶を静かに置いた。
「そうですか」
「……驚かないのか?」
「驚いておりますわ」
「そうは見えない」
「では、どのような顔をすればよろしいでしょう」
「そういうところだ」
レオンは困ったように眉を下げた。
三年間、何度も向かい合ってきた顔だった。
侯爵家の長男で、整った顔をしていて、勉強もできる。社交の場で失礼なことを言うような人でもない。
クラリスに対しても、いつも親切だった。
ただし、いつも親切なだけだった。
「君はいつも正しい。いつも落ち着いていて、何を聞いても『どちらでも構いません』とか『レオン様のお好きな方で』とか言う」
「婚約者として、それが良いと思っておりましたから」
「でも俺は、君が何を好きなのか知らない」
クラリスは少し考えた。
「青い花が好きです」
「初めて聞いた」
「言ったことがありませんもの」
「そういうところだよ!」
めずらしくレオンが大きな声を出した。
クラリスは目を丸くした。
「俺たちは三年も婚約していた。それなのに、君が何を好きで、何を嫌いで、何をしている時が楽しいのか、ほとんど知らない。君だって俺のことを知らないだろう?」
「甘い物がお好きです」
「それは誰でも知ってる!」
「朝に弱い」
「家族なら全員知ってる!」
「緊張すると右手の親指をさわる」
レオンの右手が止まった。
「あら」
「……見ていたのか」
「三年も婚約しておりましたので」
今度はレオンが黙った。
クラリスは紅茶を一口飲んだ。
冷めている。
「それで、婚約を解消したいということですか?」
「ああ」
「他に好きな方が?」
「いない」
「私がお嫌いになった?」
「嫌いじゃない」
「では、なぜ?」
レオンはしばらく考えてから、静かに答えた。
「このまま結婚したら、二人とも何十年も『良い夫婦』を演じ続ける気がしたんだ」
その言葉は、思ったより胸に刺さった。
クラリスは少しだけ目を伏せた。
「そうですか」
「君はどう思う?」
聞かれて、初めて困った。
婚約を続けたいのか。
終わらせたいのか。
レオンが好きなのか。
自分でも、すぐには答えが出なかった。
「……分かりません」
「初めて聞いた」
「何をです?」
「君が『分からない』って言うの」
レオンは少し笑った。
クラリスも、なぜか笑いそうになった。
三年間。
こんな話をしたのは初めてだった。
「では、解消しましょう」
「いいのか?」
「一人で決めたのはレオン様でしょう?」
「……そうだった」
「でしたら、今さら不安そうな顔をなさらないでください」
「ごめん」
「謝るくらいなら、もっと早く相談してくださいませ」
クラリスはそう言ってから、少しだけ胸が痛くなった。
もっと早く相談してほしかった。
本当は。
婚約は大きな争いもなく解消された。
家同士も、無理に結婚させるよりは良いだろうという結論になった。
もちろん、クラリスの母はかなり怒った。
「三年間も婚約しておいて、『話が合わない』ですって?」
「はい」
「話したの?」
「何をです?」
「だからそういうところよ!」
母にまで同じことを言われた。
少し腹が立った。
そして婚約がなくなったことで、クラリスの生活にも変化が起きた。
「お母様。王都新聞社で働いてもよろしいですか?」
母は目を見開いた。
「新聞社?」
「はい」
「なぜ?」
「以前から少しお手伝いしておりましたので」
「以前から?」
しまった。
クラリスは口元に手を当てた。
「……少しだけです」
「何をしていたの?」
「恋愛相談を」
「はい?」
母の顔が固まった。
王都新聞には、毎週日曜日だけ付く小さな読み物の紙がある。
料理。
流行。
町の話。
そして、その中でも特に人気なのが、
《夜ふかし令嬢のお悩み相談室》
だった。
恋愛や結婚について寄せられた手紙に、正体不明の相談役が答える。
たとえば、
『婚約者が一週間も返事をくれません。嫌われたのでしょうか』
という手紙には、
『返事を待つ前に、まず相手が旅に出ていないか確認してください。先月、同じ相談をされた方の婚約者は国境に出張中でした』
と答える。
『好きな人が私の前ではあまり笑いません』
には、
『笑わないことと嫌いなことは同じではありません。本人に聞いてください』
『彼が私のことを好きか分かりません』
には、
『本人に聞いてください』
『婚約者が何を考えているか分かりません』
には、
『本人に聞いてください』
相談室の半分くらいは、だいたい本人に聞けば終わる。
「今週も容赦ないわねえ」
編集部で原稿を読んでいたマリアが笑った。
「だって本人に聞けばいいでしょう」
「それができないから相談してるのよ」
「では、なぜ私には聞けるのです?」
「顔が見えないから」
「だったら恋人にも袋をかぶせればいいのでは」
「新聞に書いたら怒るからね、それ」
マリアはこの相談室の担当で、クラリスの正体を知る数少ない人だった。
クラリスが相談室を書き始めたのは二年前。
最初は、友人のマリアが困っていたのを手伝っただけだった。
「今週、恋愛相談の返事を書く人が休んじゃったの!」
「なぜ私に?」
「あなた、いつも人の話を聞いてるでしょう」
「聞いているだけです」
「じゃあ聞いた感想を書いて」
仕方なく書いた。
それが妙に受けた。
そのまま二年間続いている。
「で?」
マリアがにやにやしながら聞いてきた。
「何です?」
「三年間婚約して、本人に聞かずに解消された気分は?」
「……」
「いつも書いてるわよね。『本人に聞いてください』って」
「うるさいです」
「おお、怖い」
「原稿を返してください」
「はいはい」
婚約がなくなってから、クラリスは新聞社へ正式に通うようになった。
今までは侯爵家へ嫁ぐ予定だったため、表立って働くことはできなかった。
でも今は違う。
「クラリス! 町のパン祭りの記事、今日中!」
「聞いていません!」
「今言った!」
「それを世間では急な仕事と言います!」
「頼む!」
「嫌です!」
「お願い!」
「……焼きたてパンを食べてもいいなら」
「経費でいい!」
「行きます!」
こういう毎日だった。
不思議なことに、とても楽しかった。
誰もクラリスに完璧な令嬢であることを求めない。
言いたいことを言ってもいい。
嫌なら嫌と言える。
もちろん仕事なので、最終的には嫌でもやる。
そこだけは気に入らない。
婚約を解消して二か月たったころ。
相談室に一通の手紙が届いた。
いつものようにクラリスは封を開いた。
『夜ふかし令嬢様。
僕は二か月前、三年間婚約していた女性と別れました』
クラリスの手が止まった。
「どうしたの?」
「いえ」
続きを読む。
『婚約を解消したのは僕からです。
彼女といると、何を話せばいいのか分かりませんでした。
彼女はいつも完璧で、怒らず、わがままも言わず、僕に何をしてほしいとも言いませんでした。
僕は、このまま結婚するのが怖くなりました』
クラリスは紙を裏返した。
差出人は、
《R》
「……」
レオン。
クラリスの元婚約者は、レオン・ローデン。
R。
いや。
たまたまかもしれない。
『僕から別れを申し出ました。
でも別れてから毎日、彼女のことを考えています。
僕は間違っていたのでしょうか』
「……知らんがな」
「クラリス?」
マリアが顔を上げる。
「何でもありません」
「今『知らんがな』って言わなかった?」
「言っておりません」
「令嬢の顔に戻っても遅いわよ」
クラリスはもう一度手紙を見る。
腹が立つ。
ものすごく腹が立つ。
三年間婚約していた本人には相談せず、婚約を解消してから知らない相談員には聞くのか。
何なの、この男。
クラリスは紙を引き寄せた。
「返事を書きます」
「ずいぶん気合い入ってるわね」
「職業意識です」
そして書いた。
『R様へ。
婚約を解消したことが正しかったかどうかは、私には分かりません。
ただ一つ、お聞きします。
あなたは婚約者本人に、「何を考えているのか分からない」と相談しましたか?』
次の週。
Rから返事が来た。
『していません』
「しろよ!」
編集部にクラリスの声が響いた。
全員が振り返る。
「……失礼しました」
何事もなかったように座る。
マリアだけが肩を震わせていた。
『今思えば、彼女に聞けばよかったと思います。
でも僕は、彼女が自分といることを幸せだと思っていない気がしていました。
聞いて「その通りです」と言われるのが怖かったのかもしれません』
クラリスは読む手を止めた。
少しだけ怒りが消えた。
そんなことを考えていたとは知らなかった。
婚約中のレオンは、いつも余裕があるように見えた。
何をしてもそつがない。
自分に自信がある人だと思っていた。
でも。
右手の親指をさわる癖。
あれは緊張した時に出る。
クラリスとのお茶の時にも、よくしていた。
「……」
「今度は何?」
「何でもありません」
返事を書く。
『怖かったのですね。
ですが、相手に聞かなかった結果、あなたは自分の想像だけで二人分の答えを決めました。
もし今後、誰かと大切な関係を築きたいのであれば、怖くても本人に聞くことをおすすめします』
書いてから、クラリスはため息をついた。
その言葉は、自分にも向けるべきだった。
Rからの相談は終わらなかった。
翌週。
『元婚約者に、もう一度会いたいと思っています』
クラリスは額を押さえた。
『会ってどうするおつもりですか?』
翌週。
『分かりません』
『分かってから会ってください』
翌週。
『彼女が今、王都で働いているらしいことを知りました』
クラリスは椅子から落ちそうになった。
「早い!」
「何が?」
「何でもありません!」
翌週。
『元婚約者は新聞社で働いているらしいです』
「近づいてきてる!」
「何がよ!」
「仕事してください、マリア!」
「あなたもね!」
さらに翌週。
『新聞社の近くまで行きました。でも入れませんでした』
「なぜ来た」
クラリスは頭を抱えた。
『なぜ入れなかったのですか?』
『会って何を言えばいいか分からなかったからです』
『分かってから行ってください』
こんなやり取りを毎週続けた。
おかしな話だった。
婚約していた三年間より、今の方がレオンの考えていることを知っている。
何が怖いのか。
何を後悔しているのか。
自分をどう見ていたのか。
全部、知らない相談員へ向けた手紙から知っていく。
そしてある日。
クラリスは本当にレオンと再会した。
「今日こそ定時で帰ります!」
「無理だ!」
「なぜ!」
「記事が一本足りない!」
「昨日も足りなかったでしょう!」
「今日もだ!」
「毎日足りないなら、それは計画に問題があるのでは!?」
編集部の扉を開けながら言った瞬間。
廊下に立っていた男と目が合った。
「……クラリス?」
「……げ」
出た。
令嬢人生で一度も人前に出したことのない声が出た。
「今、げって言った?」
「言っておりません」
「いや、言った」
「気のせいです」
「クラリス、定時で帰るならこれだけ持っていって!」
後ろから編集長が紙の束を差し出してきた。
「帰ると言っているでしょう!」
「帰りながら読める!」
「帰る時くらい仕事から離れさせてください!」
紙を押し返す。
レオンがぽかんとしている。
「……クラリス?」
「何です?」
「君、そんな話し方するの?」
クラリスは無言になった。
しまった。
完全に見られた。
「しますけれど」
「俺、一度も聞いたことない」
「見せませんでしたもの」
「どうして?」
「あなたも見せなかったでしょう」
「俺?」
「私の前ではいつも立派な侯爵家のご子息でした」
レオンが口を閉じた。
クラリスも黙る。
「あの」
「はい」
「少し話せる?」
クラリスは迷った。
いつもなら、
『本人に聞いてください』
と書く。
「……少しだけなら」
だから、今度は逃げなかった。
二人は新聞社の近くの食堂へ入った。
「何を食べる?」
「肉」
即答した。
「え?」
「お肉が食べたいです」
「……肉、好きだったの?」
「好きです」
「知らなかった」
「言ったことありませんもの」
レオンが少し笑った。
「青い花も好きなんだよな」
「覚えていたのですか」
「最後のお茶の時に聞いたから」
「そうでしたね」
しばらくして料理が来た。
クラリスは遠慮なく肉を食べた。
レオンが見ている。
「何です?」
「いや」
「言ってください」
「思ったよりよく食べるなと」
「失礼ですね」
「ごめん」
「でも事実です」
クラリスはもう一切取りつくろわなかった。
レオンも少しずつ変わった。
甘い物が好きだというので、食後に大きなケーキを頼んだ。
「それ一人で食べるのですか?」
「悪い?」
「いいえ。少し引いただけです」
「正直になりすぎじゃないか?」
「三年間の反省です」
レオンが吹き出した。
初めて見る笑い方だった。
「あ」
「何?」
「あなた、そんなふうに笑うのね」
「俺も言われたくない」
二人で笑った。
不思議だった。
婚約者だった時より、ずっと話しやすい。
「もう一度婚約してほしいとは言わない」
帰り道でレオンが言った。
「そうですか」
「そこ、少しは残念そうにできない?」
「なぜ?」
「いや、いい」
レオンは苦笑した。
「ただ、今の君を知りたい」
「今の私?」
「ああ。婚約していたころの俺は、君を知っているつもりだった。でも何も知らなかった」
「私も同じです」
「だから……友人から、やり直せないか?」
クラリスは少し考えた。
「友人」
「ああ」
「いいですわ」
「本当?」
「ただし」
「何?」
「勝手に気持ちを決めつけないこと」
「分かった」
「分からなかったら聞く」
「分かった」
「甘い物を一人で全部食べない」
「それは関係ないだろ」
「私も食べたいので」
「分かったよ」
こうして元婚約者と友人になった。
それから、時々レオンと食事をするようになった。
婚約中とはまるで違った。
「これ嫌いです」
「初めて聞いた」
「三回目です、その言葉」
「だって毎回初めて知るんだから仕方ないだろ」
「では私も。あなた、魚の皮を残すのですね」
「嫌いなんだよ」
「初めて聞きました」
「ほら」
小さなことばかりだった。
好きな料理。
嫌いな季節。
子どものころ怖かった物。
仕事のぐち。
家族の話。
別に人生を変えるような話ではない。
でも、そんな話を三年間一度もしてこなかったのだ。
そしてRからの相談も続いていた。
クラリスは一度、
「もう直接相談できる相手がいるでしょう」
と返事を終わらせようかと思った。
でも、手紙は届く。
『友人として元婚約者と会うようになりました。
以前よりずっと話せます。
楽しいです』
クラリスは少し笑った。
知っています。
一緒にいましたから。
『良かったですね』
と返した。
問題の手紙が来たのは、それから二か月後だった。
『夜ふかし令嬢様。
困ったことになりました。
僕は今、二人の女性を好きになっている気がします』
「は?」
クラリスの声にマリアが振り返った。
「何?」
「こいつ……!」
「相談者にこいつって言わない」
続きを読む。
『一人は元婚約者です。
最近、彼女と友人として会っています。
婚約していたころには知らなかった面をたくさん知りました。
よく笑うし、思ったより口が悪いし、食べることが好きで、仕事の話になると急に熱くなります。
以前よりずっと彼女が好きです』
クラリスの頬が熱くなった。
「……」
次。
『もう一人は、顔も名前も知りません。
夜ふかし令嬢様、あなたです』
クラリスは机に額をぶつけた。
「痛っ!」
「どうしたの!?」
「馬鹿!」
「誰が!?」
「この人です!」
続きを読む。
『あなたの返事は時々とても厳しいです。
でも、僕が一人で答えを決めようとするたびに止めてくれました。
毎週、あなたの言葉を読むのが楽しみになっています。
元婚約者への気持ちと、あなたへの気持ちが同じものなのか、自分でも分かりません。
どうしたらいいでしょうか』
「同一人物だよ!」
ついに叫んだ。
編集部が静かになる。
マリアが口を押さえて震えている。
「笑わないで!」
「だ、だって……二人の女性って……」
「一人です!」
「知ってる!」
「この男、本当に何なの!?」
「あなたの元婚約者」
「知っています!」
クラリスは頭を抱えた。
三年間。
話が合わないと言われて婚約解消。
その後。
匿名で半年近く恋愛相談。
そして今。
同じ女を二人だと思って悩んでいる。
「……信じられない」
「で、どう返すの?」
クラリスはしばらく考えた。
そしてペンを取った。
『まず、その二人が本当に別人なのか確認してみてはいかがでしょう』
一週間、返事は来なかった。
二週間目も来なかった。
「気づいたのかな」
マリアが聞く。
「知りません」
「そわそわしてる」
「していません」
「今日、朝から五回入口見たよ」
「人の行動を数えないでください」
その時。
編集部の扉が開いた。
「クラリス・ベルモントさんはいらっしゃいますか」
聞き覚えのある声だった。
クラリスはゆっくり顔を上げた。
レオンが立っていた。
「……げ」
「また言ったな」
「今日は気のせいではありません」
「そうか」
レオンはまっすぐクラリスの机まで来た。
その手には、見覚えのある紙がある。
新聞。
《夜ふかし令嬢のお悩み相談室》
「君だったのか?」
「何がです?」
「相談員」
「仕事上の秘密ですので」
「俺の相談だぞ!」
「本人である証明は?」
「全部俺だ!」
「そうですか」
「そうですかじゃない!」
編集部中が聞いている。
マリアはすでに笑うのをあきらめて、普通に笑っていた。
「いつから分かってた?」
「最初からです」
「最初から!?」
「婚約を解消したのが二か月前。三年間婚約。相手が完璧すぎて何を考えているか分からなかった。差出人R」
「……」
「もう少しぼかしてください」
「恥ずかしい……」
「こちらは毎週返事を書いていたんですよ」
「なんで教えてくれなかったんだ!」
「匿名相談ですから!」
「でも!」
「それに」
クラリスは少しだけ声を落とした。
「あなたが私には言えなかったことを、たくさん書いていたから」
レオンが黙った。
「読んでいて、初めて知ったことがたくさんありました」
「俺も」
「え?」
「相談員の言葉を読んで、何度も思った。こういうことをクラリスにも言えたらよかったって」
「……」
「まさか本人に言っていたとは思わなかったけど」
「本当ですわね」
二人とも、少し笑った。
「俺たち」
レオンが言った。
「毎週、ずっと話してたんだな」
「そうですね」
「婚約していた三年間より」
「それは少し情けないですけれど」
「本当に」
レオンは困ったように笑った。
そして少し真面目な顔になる。
「クラリス」
「はい」
「俺は、君が好きだ」
編集部が静かになった。
「……ここで言うのですか?」
「今さら場所を変える方が変だろ」
「全員聞いておりますけれど」
「もういい」
レオンは顔を赤くしていた。
「前も好きだった。でも、たぶん俺は、俺の中に作った『クラリス』を好きだった」
「……」
「今は違う」
彼は続けた。
「仕事が嫌だって文句を言う君も、肉ばかり食べたがる君も、思っていたよりずっと口が悪い君も、相談者に『本人に聞け』って怒ってる君も好きだ」
「最後のは余計です」
「でも本当だろ」
「……はい」
「もう一度、俺と――」
「待ってください」
クラリスが止めた。
レオンの顔が固まる。
「やっぱり駄目?」
「違います」
「じゃあ」
「順番がおかしいです」
「順番?」
「以前の私たちは、家同士が決めた婚約から始まりました」
「ああ」
「婚約して、結婚することが先に決まっていて、その中で相手を知ろうとしていました」
「……うん」
「今度は逆にしませんか?」
レオンが目を細める。
「友人になって、相手を知って」
「それで?」
「好きになったら恋人になる」
「それで?」
「その先で、まだ一緒にいたいと思ったら」
クラリスは笑った。
「その時、婚約してください」
レオンはしばらく何も言わなかった。
それから、大きく息を吐いた。
「分かった」
「本当に?」
「今度は勝手に答えを決めない」
「よろしい」
「じゃあ聞く」
「はい」
「クラリス。俺と恋人になってください」
今度はクラリスが黙った。
「……」
「クラリス?」
「少しくらい間をください」
「怖いんだけど」
「私だって緊張しております!」
「初めて見た」
「もう!」
編集部から笑い声が上がった。
クラリスは顔を赤くしながら答えた。
「はい。よろしくお願いします」
それから半年。
《夜ふかし令嬢のお悩み相談室》に、一通の手紙が届いた。
『夜ふかし令嬢様。
好きな女性に結婚を申し込みたいと思っています。
一度、婚約を解消した相手です。
今度こそ失敗したくありません。
どう言えばよいでしょうか。
R』
クラリスは手紙を読んだ。
そしてため息をついた。
「まだ相談してくるの?」
「何?」
マリアがのぞき込もうとする。
「見ないでください」
「R?」
「見ないで!」
クラリスは返事を書いた。
『R様へ。
私に聞かないでください。
相手が何を望んでいるのかは、私には分かりません。
本人に直接聞いてください。
今度こそ、勝手に答えを決めないように』
その日の夕方。
仕事を終えて新聞社を出ると、レオンが待っていた。
「こんばんは」
「こんばんは」
「新聞、読んだ?」
「読みました」
「返事も?」
「書いた本人ですから」
「ああ、そうだった」
レオンが笑う。
「それで?」
「本人に聞けって」
「そう書きました」
「だから来た」
レオンはクラリスの前に立った。
以前のような完璧な顔ではない。
緊張している。
右手の親指を何度もさわっている。
「クラリス」
「はい」
「俺と結婚してくれる?」
クラリスは少しだけ考えるふりをした。
「……」
「長い」
「三年間待てなかった方が何を言うのです」
「それを言われると何も言えない」
クラリスは笑った。
「はい」
「……本当に?」
「はい」
「本当にいい?」
「レオン」
「何?」
「そこまで聞いたのなら、今度は信じてください」
レオンは目を丸くしたあと、笑った。
「分かった」
「よろしい」
「じゃあ、これからも分からないことがあったら聞く」
「そうしてください」
「相談室に送っても?」
「直接聞いてください」
「はい」
二人で歩き出す。
「ところで夕食は?」
「お肉が食べたいです」
「知ってる」
「あら」
「やっと一つ、聞かなくても分かることができた」
「では今日は甘い物も付けましょう」
「それは俺が好きだから?」
「私も好きだからです」
「それは初めて聞いた」
「まだまだありますわよ」
三年間婚約していたころ、私たちは話が合わないのだと思っていた。
どうやら違ったらしい。
話が合わなかったのではない。
話していなかっただけだった。
もう投書箱を通す必要はない。
分からなければ聞けばいい。
嫌なら嫌と言えばいい。
好きなら好きと言えばいい。
今度は、ちゃんと二人で話していけるのだから。




