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続きそうな短編集

朝木とおるは、もういない

作者: 曽我部穂岐
掲載日:2026/06/18

 朝木とおるは、泣きそうな人間に理由を聞かない少年だった。


 半年前、大橋あかりは非常階段でひとり膝を抱えていた。


 友人とすれ違い、家でも嫌なことがあり、授業中に答えられず、笑われた。ただそれだけだった。けれど、その日はそれだけで充分だった。


 泣くつもりはなかった。


 ただ、誰にも見られたくなかった。


 そこへ朝木が来た。


 何かを聞くでもなく、慰めるでもなく、隣に座って購買のパンを半分差し出した。


「食べる?」


「いらない」


「そっか」


 それだけだった。


 朝木は何も聞かなかった。何も言わなかった。ただ隣でパンを食べ、最後に立ち上がるとき、こう言った。


「大橋さんが怒りたくないなら、怒らなくていいと思う。でも、泣きたくないときまで我慢する必要はないと思う」


 その言葉が、灯の中に残った。


 だから灯にとって、朝木とおるは少し特別だった。


 恋かと聞かれれば、たぶん違う。けれど、他の誰とも同じではなかった。




 その日の放課後も、朝木はいつものように笑っていた。


「大橋さん、今日、ちょっと無理してない?」


 昇降口で靴を履き替えていた灯は、顔を上げた。


「何よ、急に」


「いや、笑ってるけど、目が笑ってない気がして」


「失礼」


「ごめん」


 朝木はすぐに謝る。


 その謝り方があまりにも朝木らしくて、灯は小さく笑った。


「家でちょっとあっただけ。大したことじゃない」


「そっか」


「それだけ?」


「大橋さんが大したことじゃないって言うなら、僕はそれを信じる」


 そう言ってから、朝木は少し真面目な顔をした。


「でも、大したことになったら言って。僕にできることは少ないけど」


「少ないんだ」


「うん。僕、喧嘩とか弱いし」


「じゃあ、頼りにしないでおく」


「それは寂しいな」


 いつもの調子だった。


 だから灯は、校門の外に立っていた三人の男たちにも、深く注意を払わなかった。


 制服ではない。年は少し上に見える。視線が合うと、男たちは露骨に顔を逸らした。


 見覚えがあった。


 数日前、駅裏で下級生を脅していた連中だ。灯は偶然それを見て、教師に知らせた。大事にはならなかったが、男たちは逃げ際に灯の顔を見ていた。


 胸の奥で、嫌な音がした。


 その瞬間、隣の朝木の気配が変わった。


 顔は笑っている。


 けれど、目だけが違った。


 校門。男たちとの距離。通行人の数。逃げ道。灯の立ち位置。


 そういうものを一瞬で測るような、冷たい目だった。


「朝木くん?」


 呼ぶと、彼はすぐにいつもの顔へ戻った。


「何?」


「今、怖い顔してた」


「え、僕が?」


「うん」


「眠かったのかも」


「眠いとあんな顔になるの?」


「人によるんじゃないかな」


 変な言い訳だった。


 灯はその違和感を、笑って流した。


 流してはいけなかったのだと知ったのは、一時間後だった。


 帰り道、朝木とは途中で別れた。


 灯は一人で商店街を抜け、川沿いの道へ出た。古い倉庫が並ぶ、人通りの少ない道だ。夕方の空は赤く、川面は黒く光っていた。


 背後で足音が増えた。


 振り返る前に、腕を掴まれた。


「大橋灯だよな」


 喉が凍った。


 校門の外にいた男たちだった。


「離して!」


 叫ぼうとした口を塞がれる。肩に痛みが走った。抵抗した。爪を立て、足をばたつかせた。だが、三人がかりではどうにもならなかった。


 使われていない倉庫の中へ押し込まれる。


 埃と錆の匂い。割れた窓。積まれた木箱。床に散ったガラス片。


 灯は壁際へ突き飛ばされた。膝を打ち、息が詰まる。


「優等生ぶって、余計なことしてくれたよな」


 男の一人が笑った。


「私は、ただ先生に言っただけで――」


「それを余計なことって言うんだよ」


 別の男が灯の鞄を奪い、中からスマートフォンを取り出した。


「写真撮っただろ」


「撮ってない!」


「嘘つけ」


「本当に撮ってない!」


 証拠などない。


 ただ教師に言っただけだ。


 けれど、男たちは信じなかった。


 男は灯の指を無理やりスマートフォンに押しつけ、ロックを解除させた。


「おい。さっき一緒にいたひょろい奴、朝木っていうのか」


 履歴にあった名前を見つけたのだろう。


 灯の血の気が引いた。


「やめて」


「友達なんだろ?」


「朝木くんは関係ない!」


「関係あるかどうかは、来てから決める」


 男はにやにやと笑った。


「ああいう弱そうなのを目の前で泣かせた方が効くだろ。次から二度と正義ぶれなくなる」


「やめて!」


 灯の声は届かなかった。


 通話が始まる。


 何度目かの呼び出し音の後、朝木の声がした。


『大橋さん?』


 灯は叫ぼうとした。だが、口を塞がれる。


「お友達を預かってる。川沿いの三番倉庫。警察に言ったら、どうなるか分かるよな」


 通話はすぐに切られた。


 灯は震えながら男を睨んだ。


「朝木くんは来ない」


 来てほしくなかった。


 来れば、傷つく。


 朝木とおるは喧嘩が弱い。優しくて、怒ることを知らない。こんな場所に来ていい人間ではない。


 けれど、十分もしないうちに倉庫の扉が軋んだ。


「大橋さんを、離してください」


 震える声だった。


 灯は目を見開いた。


 朝木とおるが立っていた。


 息を切らしている。鞄も持っていない。走ってきたのだろう。額に汗が浮かび、肩が上下していた。


「朝木くん……」


「ごめん。遅くなった」


「来ちゃ駄目って、言いたかったのに」


「うん。たぶん、そうだと思った」


 朝木は笑った。


 こんな状況なのに、いつもと同じように。


「でも、来ない選択肢はなかった」


 男たちが笑った。


「感動的だな」


 一人が近づき、朝木の胸ぐらを掴む。


「お前、こいつの何?」


 朝木は男を見上げた。


 声は小さかった。


「友達です」


「友達ねえ」


「だから、離してください」


 男の拳が朝木の頬を打った。


 鈍い音。


 朝木の身体が床に転がる。


「朝木くん!」


 灯は叫んだ。


 朝木は咳き込みながら、床に手をついた。立ち上がろうとする。だが、腹を蹴られ、また崩れた。


「弱っ」


「こんなので助けに来たのかよ」


 笑い声が響く。


 灯は壁から身を起こした。膝が痛い。怖い。逃げたい。けれど、目の前で朝木が蹴られている。


 灯は男の背中に体当たりした。


「やめて!」


 男は少しよろめいたが、すぐに振り返った。


「邪魔すんな!」


 灯の頬に平手が飛んだ。


 視界が揺れる。


 床に倒れた灯の耳に、朝木の息を呑む音が聞こえた。


「大橋さん」


 朝木が顔を上げていた。


 その目の奥で、何かがひび割れていた。


 彼は立ち上がろうとして、拳を握った。


 けれど、その拳をすぐに開いた。


 人を殴るための手ではない。


 そう自分に言い聞かせるように、朝木は震える指先を見つめた。


「ごめん」


「謝らないで……」


「僕、たぶん」


 朝木の指が床を掴む。


「もう、戻れない」


 灯には意味が分からなかった。


 朝木の頭の奥で、鍵の外れる音がした。


 知らないはずの動きが、指先へ流れ込んでくる。


 関節の壊し方。


 顎の砕き方。


 人が倒れる角度。


 そんなものを、朝木とおるは知ってはいけなかった。


 開けてはいけない扉がある。


 開ければ、自分は自分でなくなる。


 けれど、開けなければ、灯が壊される。


 朝木は震える息を吐いた。


「ごめん、大橋さん」


 もう一度、彼は言った。


「僕は、君に泣いてほしくない」


 次の瞬間、朝木の身体が跳ねるように起き上がった。


 男が拳を振り下ろす。


 朝木はそれを半身でかわし、相手の手首を掴んだ。


 ごきぃ、という音がした。


 男の腕が、ありえない方向へ曲がっていた。


「ぐあああああッ!」


 悲鳴が倉庫に響く。


 朝木は顔をしかめた。


「うるさい」


 低い声だった。


 朝木とおるの声なのに、朝木とおるの声ではなかった。


 彼は男の襟を掴み、床へ叩きつけた。


 残りの二人が凍りつく。


 灯も動けなかった。


 朝木は、はあ、と軽くため息をついた。


「分かってないよ」


 荒々しく突き出された拳を、彼は紙一重でかわす。


「お前ら、全然分かってない」


 次の瞬間、男の肩が外れた。


 悲鳴。


 朝木は表情を変えず、その顎へ拳を打ち込む。男の身体は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。


「壊すのは、こんなにも、容易やたすいのに」


 朝木は呟いた。


 足元で痙攣する男を見下ろす。


「築くのは、こんなにも、難しいのに」


 そして、自分の拳と、壁際で震える灯を交互に見た。


「お前らは、それを、壊した」


 最後の一人が後ずさった。


「ば、化け物……」


 朝木は笑った。


 人懐っこい笑顔だった。


 灯が知っている、朝木とおるの笑顔。


 だからこそ、恐ろしかった。


「だから、お前らも、壊れなきゃ」


 最後の一人が逃げた。


 逃げきれなかった。


 灯が瞬きをする間に、倉庫の中から立っている人間は朝木だけになっていた。


 朝木は手についた埃を払った。


 それから、灯へ向き直る。


「怪我は?」


 声は穏やかだった。


 灯は答えられなかった。


 朝木が一歩近づく。灯の身体が勝手に震えた。


 彼はそれを見て、少しだけ笑った。


 寂しそうにも、面白がっているようにも見えた。


「怖い?」


「……朝木、くん?」


 ようやく声が出た。


 すると彼は首を傾げた。


「その呼び方、困るナ」


「え……」


「さようなら、あかり。君の知っている朝木とおるは、もういない」


 灯は息を呑んだ。


 彼は芝居がかった仕草で、軽く手を広げる。


「そして、はじめまして。イヤ、お久しぶりですと言うべきかナ。大橋灯サン。俺が本当の朝木十竜とおるだヨ」


「とおるじゃ、ないの……?」


「あァ、それは違うヨ。俺らはもともと一つだった」


「ひとつ……?」


「君が見ていたのは、よくできた仮面だ。学校で生きるための俺。笑って、謝って、怒らずに済ませるための俺」


 灯は必死に理解しようとした。


 けれど、目の前の少年は、あまりにも自然に異常なことを言っている。


「多重人格なの……?」


「惜しいかナ」


 十竜は笑った。


「俺は自我を分ける。役割ごとにネ。医者からは、多重人――デュクレプスと呼ばれてル」


「とおるは……どうなったの」


 聞くのが怖かった。


 でも、聞かずにはいられなかった。


 十竜の笑みが薄くなる。


「壊れた」


「そんな言い方……」


「じゃあ綺麗に言おうか」


 十竜は倒れた男たちを見た。


「君を守って、役目を失った」


 灯の喉が詰まった。


「役目って……」


「とおるは、怒るために作った俺じゃない。人を傷つけないための俺だ。でも君を守ろうとして、向いていない扉を開けた。怒りを知った。壊し方を知った」


 十竜は淡々と言った。


「あのままなら、こいつらだけじゃ済まなかった。君も、俺自身も、壊していたかもしれない。だから消した」


「あなたが……?」


「そう。俺が」


 十竜は少しも目を逸らさなかった。


 灯の目から涙が落ちた。


「私のせい……?」


「違う」


 十竜の声が鋭くなった。


 灯は肩を震わせる。


 十竜はすぐに、いつもの軽い笑みに戻った。


「壊したのは、こいつらだヨ。君じゃない」


「でも、朝木くんは……」


「最後まで君を守ろうとしていた」


 十竜は静かに言った。


「それだけは保証する」


 その言葉で、灯の中の何かが崩れた。


 助かった。


 確かに助かった。


 けれど、助けに来てくれた少年は、もういない。


「そんなの……」


 灯は震える声で言った。


「そんなの、助かったって言わない」


 十竜は黙った。


 外から遠くサイレンの音が聞こえた。誰かが通報したのだろう。割れた窓から夕暮れの光が差し込み、倉庫の埃を赤く染めている。


 十竜は扉の方へ歩き出した。


 その背中を見た瞬間、灯は思わず叫んだ。


「偽りなんかじゃない!」


 十竜が足を止める。


「何が?」


「朝木くんよ」


「仮面だヨ」


「それでも、私の前で笑ってくれた」


 十竜は振り返らなかった。


「私を助けに来てくれた」


 声が震える。


 それでも、灯は言った。


「だから、本物よ」


 しばらく、十竜は何も言わなかった。


 サイレンの音だけが近づいてくる。


「……不愉快だネ」


 やがて彼は小さく呟いた。


「何が」


「君の中で、本物にされてしまったことがサ」


 灯は息を止めた。


 十竜はようやく振り返った。


 その顔には、いつもの人懐っこい笑みが浮かんでいた。


「灯サン」


「何」


「明日、学校で会ったらどうする?」


「分からない」


「正直でよろしイ」


「あなたは、学校に来るの」


「行くヨ。朝木とおるの生活は、俺の生活でもあるからネ」


「朝木くんの席に、あなたが座るの」


「そうなるネ」


 灯は唇を噛んだ。


 十竜は扉を開けた。夕方の風が倉庫の中へ流れ込む。


「待って」


 灯は呼び止めた。


 十竜が振り返る。


 その顔に、朝木とおると同じ笑みが浮かんでいた。


「……ありがとう」


 灯は言った。


「助けてくれて」


 十竜は少しだけ目を細めた。


「それは、彼に言ってやって」


「もう言えないじゃない」


「そうだネ」


 十竜は扉の向こうへ出た。


 サイレンの音が近づいてくる。


 灯は膝を抱えたまま、小さく呟いた。


「ありがとう、朝木くん」


 返事はなかった。




 翌朝、灯は教室の前で足を止めた。


 いつもの朝だった。


 誰かが笑っている。誰かが宿題を写している。黒板には日直の名前が書かれている。窓際の席に、朝の光が落ちている。


 何も変わっていないように見えた。


 けれど、すべてが変わっていた。


 灯は教室へ入る。


 朝木とおるの席に、朝木十竜が座っていた。


 同じ制服。同じ横顔。同じ手。


 彼は灯に気づくと、こちらを向いた。


「おはよう、灯サン」


 その呼び方で、胸が痛んだ。


 クラスメイトたちは誰も気づかない。昨日までと同じ朝木とおるが、昨日までと同じように笑っていると思っている。


 灯だけが知っている。


 朝木とおるは、もういない。


 灯は拳を握った。


 泣きそうだった。逃げたかった。


 それでも、逃げなかった。


 灯は唇を震わせながら、言った。


「……おはよう、朝木くん」


 十竜は一瞬だけ目を細めた。


 それから、昨日までと同じ顔で笑った。




お読みいただきありがとうございました。

創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いします。


今回は、「喪失感」をテーマに書いてみました。


助けられたのに、助けに来てくれた人はもういない。

しかも姿も声も同じまま、別の誰かとして目の前に残り続ける。


死別とは少し違う、けれど確かに取り返しのつかない喪失。

そんな後味を目指しました。


朝木とおるは本物だったのか、偽りだったのか。

むしろ、誰かのために自分を壊してしまったからこそ、「朝木くん」と呼び続ける限り、灯にとっての朝木とおるは本物だったのかもしれません。

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