朝木とおるは、もういない
朝木とおるは、泣きそうな人間に理由を聞かない少年だった。
半年前、大橋灯は非常階段でひとり膝を抱えていた。
友人とすれ違い、家でも嫌なことがあり、授業中に答えられず、笑われた。ただそれだけだった。けれど、その日はそれだけで充分だった。
泣くつもりはなかった。
ただ、誰にも見られたくなかった。
そこへ朝木が来た。
何かを聞くでもなく、慰めるでもなく、隣に座って購買のパンを半分差し出した。
「食べる?」
「いらない」
「そっか」
それだけだった。
朝木は何も聞かなかった。何も言わなかった。ただ隣でパンを食べ、最後に立ち上がるとき、こう言った。
「大橋さんが怒りたくないなら、怒らなくていいと思う。でも、泣きたくないときまで我慢する必要はないと思う」
その言葉が、灯の中に残った。
だから灯にとって、朝木とおるは少し特別だった。
恋かと聞かれれば、たぶん違う。けれど、他の誰とも同じではなかった。
◆
その日の放課後も、朝木はいつものように笑っていた。
「大橋さん、今日、ちょっと無理してない?」
昇降口で靴を履き替えていた灯は、顔を上げた。
「何よ、急に」
「いや、笑ってるけど、目が笑ってない気がして」
「失礼」
「ごめん」
朝木はすぐに謝る。
その謝り方があまりにも朝木らしくて、灯は小さく笑った。
「家でちょっとあっただけ。大したことじゃない」
「そっか」
「それだけ?」
「大橋さんが大したことじゃないって言うなら、僕はそれを信じる」
そう言ってから、朝木は少し真面目な顔をした。
「でも、大したことになったら言って。僕にできることは少ないけど」
「少ないんだ」
「うん。僕、喧嘩とか弱いし」
「じゃあ、頼りにしないでおく」
「それは寂しいな」
いつもの調子だった。
だから灯は、校門の外に立っていた三人の男たちにも、深く注意を払わなかった。
制服ではない。年は少し上に見える。視線が合うと、男たちは露骨に顔を逸らした。
見覚えがあった。
数日前、駅裏で下級生を脅していた連中だ。灯は偶然それを見て、教師に知らせた。大事にはならなかったが、男たちは逃げ際に灯の顔を見ていた。
胸の奥で、嫌な音がした。
その瞬間、隣の朝木の気配が変わった。
顔は笑っている。
けれど、目だけが違った。
校門。男たちとの距離。通行人の数。逃げ道。灯の立ち位置。
そういうものを一瞬で測るような、冷たい目だった。
「朝木くん?」
呼ぶと、彼はすぐにいつもの顔へ戻った。
「何?」
「今、怖い顔してた」
「え、僕が?」
「うん」
「眠かったのかも」
「眠いとあんな顔になるの?」
「人によるんじゃないかな」
変な言い訳だった。
灯はその違和感を、笑って流した。
流してはいけなかったのだと知ったのは、一時間後だった。
帰り道、朝木とは途中で別れた。
灯は一人で商店街を抜け、川沿いの道へ出た。古い倉庫が並ぶ、人通りの少ない道だ。夕方の空は赤く、川面は黒く光っていた。
背後で足音が増えた。
振り返る前に、腕を掴まれた。
「大橋灯だよな」
喉が凍った。
校門の外にいた男たちだった。
「離して!」
叫ぼうとした口を塞がれる。肩に痛みが走った。抵抗した。爪を立て、足をばたつかせた。だが、三人がかりではどうにもならなかった。
使われていない倉庫の中へ押し込まれる。
埃と錆の匂い。割れた窓。積まれた木箱。床に散ったガラス片。
灯は壁際へ突き飛ばされた。膝を打ち、息が詰まる。
「優等生ぶって、余計なことしてくれたよな」
男の一人が笑った。
「私は、ただ先生に言っただけで――」
「それを余計なことって言うんだよ」
別の男が灯の鞄を奪い、中からスマートフォンを取り出した。
「写真撮っただろ」
「撮ってない!」
「嘘つけ」
「本当に撮ってない!」
証拠などない。
ただ教師に言っただけだ。
けれど、男たちは信じなかった。
男は灯の指を無理やりスマートフォンに押しつけ、ロックを解除させた。
「おい。さっき一緒にいたひょろい奴、朝木っていうのか」
履歴にあった名前を見つけたのだろう。
灯の血の気が引いた。
「やめて」
「友達なんだろ?」
「朝木くんは関係ない!」
「関係あるかどうかは、来てから決める」
男はにやにやと笑った。
「ああいう弱そうなのを目の前で泣かせた方が効くだろ。次から二度と正義ぶれなくなる」
「やめて!」
灯の声は届かなかった。
通話が始まる。
何度目かの呼び出し音の後、朝木の声がした。
『大橋さん?』
灯は叫ぼうとした。だが、口を塞がれる。
「お友達を預かってる。川沿いの三番倉庫。警察に言ったら、どうなるか分かるよな」
通話はすぐに切られた。
灯は震えながら男を睨んだ。
「朝木くんは来ない」
来てほしくなかった。
来れば、傷つく。
朝木とおるは喧嘩が弱い。優しくて、怒ることを知らない。こんな場所に来ていい人間ではない。
けれど、十分もしないうちに倉庫の扉が軋んだ。
「大橋さんを、離してください」
震える声だった。
灯は目を見開いた。
朝木とおるが立っていた。
息を切らしている。鞄も持っていない。走ってきたのだろう。額に汗が浮かび、肩が上下していた。
「朝木くん……」
「ごめん。遅くなった」
「来ちゃ駄目って、言いたかったのに」
「うん。たぶん、そうだと思った」
朝木は笑った。
こんな状況なのに、いつもと同じように。
「でも、来ない選択肢はなかった」
男たちが笑った。
「感動的だな」
一人が近づき、朝木の胸ぐらを掴む。
「お前、こいつの何?」
朝木は男を見上げた。
声は小さかった。
「友達です」
「友達ねえ」
「だから、離してください」
男の拳が朝木の頬を打った。
鈍い音。
朝木の身体が床に転がる。
「朝木くん!」
灯は叫んだ。
朝木は咳き込みながら、床に手をついた。立ち上がろうとする。だが、腹を蹴られ、また崩れた。
「弱っ」
「こんなので助けに来たのかよ」
笑い声が響く。
灯は壁から身を起こした。膝が痛い。怖い。逃げたい。けれど、目の前で朝木が蹴られている。
灯は男の背中に体当たりした。
「やめて!」
男は少しよろめいたが、すぐに振り返った。
「邪魔すんな!」
灯の頬に平手が飛んだ。
視界が揺れる。
床に倒れた灯の耳に、朝木の息を呑む音が聞こえた。
「大橋さん」
朝木が顔を上げていた。
その目の奥で、何かがひび割れていた。
彼は立ち上がろうとして、拳を握った。
けれど、その拳をすぐに開いた。
人を殴るための手ではない。
そう自分に言い聞かせるように、朝木は震える指先を見つめた。
「ごめん」
「謝らないで……」
「僕、たぶん」
朝木の指が床を掴む。
「もう、戻れない」
灯には意味が分からなかった。
朝木の頭の奥で、鍵の外れる音がした。
知らないはずの動きが、指先へ流れ込んでくる。
関節の壊し方。
顎の砕き方。
人が倒れる角度。
そんなものを、朝木とおるは知ってはいけなかった。
開けてはいけない扉がある。
開ければ、自分は自分でなくなる。
けれど、開けなければ、灯が壊される。
朝木は震える息を吐いた。
「ごめん、大橋さん」
もう一度、彼は言った。
「僕は、君に泣いてほしくない」
次の瞬間、朝木の身体が跳ねるように起き上がった。
男が拳を振り下ろす。
朝木はそれを半身でかわし、相手の手首を掴んだ。
ごきぃ、という音がした。
男の腕が、ありえない方向へ曲がっていた。
「ぐあああああッ!」
悲鳴が倉庫に響く。
朝木は顔をしかめた。
「うるさい」
低い声だった。
朝木とおるの声なのに、朝木とおるの声ではなかった。
彼は男の襟を掴み、床へ叩きつけた。
残りの二人が凍りつく。
灯も動けなかった。
朝木は、はあ、と軽くため息をついた。
「分かってないよ」
荒々しく突き出された拳を、彼は紙一重でかわす。
「お前ら、全然分かってない」
次の瞬間、男の肩が外れた。
悲鳴。
朝木は表情を変えず、その顎へ拳を打ち込む。男の身体は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「壊すのは、こんなにも、容易いのに」
朝木は呟いた。
足元で痙攣する男を見下ろす。
「築くのは、こんなにも、難しいのに」
そして、自分の拳と、壁際で震える灯を交互に見た。
「お前らは、それを、壊した」
最後の一人が後ずさった。
「ば、化け物……」
朝木は笑った。
人懐っこい笑顔だった。
灯が知っている、朝木とおるの笑顔。
だからこそ、恐ろしかった。
「だから、お前らも、壊れなきゃ」
最後の一人が逃げた。
逃げきれなかった。
灯が瞬きをする間に、倉庫の中から立っている人間は朝木だけになっていた。
朝木は手についた埃を払った。
それから、灯へ向き直る。
「怪我は?」
声は穏やかだった。
灯は答えられなかった。
朝木が一歩近づく。灯の身体が勝手に震えた。
彼はそれを見て、少しだけ笑った。
寂しそうにも、面白がっているようにも見えた。
「怖い?」
「……朝木、くん?」
ようやく声が出た。
すると彼は首を傾げた。
「その呼び方、困るナ」
「え……」
「さようなら、あかり。君の知っている朝木とおるは、もういない」
灯は息を呑んだ。
彼は芝居がかった仕草で、軽く手を広げる。
「そして、はじめまして。イヤ、お久しぶりですと言うべきかナ。大橋灯サン。俺が本当の朝木十竜だヨ」
「とおるじゃ、ないの……?」
「あァ、それは違うヨ。俺らはもともと一つだった」
「ひとつ……?」
「君が見ていたのは、よくできた仮面だ。学校で生きるための俺。笑って、謝って、怒らずに済ませるための俺」
灯は必死に理解しようとした。
けれど、目の前の少年は、あまりにも自然に異常なことを言っている。
「多重人格なの……?」
「惜しいかナ」
十竜は笑った。
「俺は自我を分ける。役割ごとにネ。医者からは、多重人――デュクレプスと呼ばれてル」
「とおるは……どうなったの」
聞くのが怖かった。
でも、聞かずにはいられなかった。
十竜の笑みが薄くなる。
「壊れた」
「そんな言い方……」
「じゃあ綺麗に言おうか」
十竜は倒れた男たちを見た。
「君を守って、役目を失った」
灯の喉が詰まった。
「役目って……」
「とおるは、怒るために作った俺じゃない。人を傷つけないための俺だ。でも君を守ろうとして、向いていない扉を開けた。怒りを知った。壊し方を知った」
十竜は淡々と言った。
「あのままなら、こいつらだけじゃ済まなかった。君も、俺自身も、壊していたかもしれない。だから消した」
「あなたが……?」
「そう。俺が」
十竜は少しも目を逸らさなかった。
灯の目から涙が落ちた。
「私のせい……?」
「違う」
十竜の声が鋭くなった。
灯は肩を震わせる。
十竜はすぐに、いつもの軽い笑みに戻った。
「壊したのは、こいつらだヨ。君じゃない」
「でも、朝木くんは……」
「最後まで君を守ろうとしていた」
十竜は静かに言った。
「それだけは保証する」
その言葉で、灯の中の何かが崩れた。
助かった。
確かに助かった。
けれど、助けに来てくれた少年は、もういない。
「そんなの……」
灯は震える声で言った。
「そんなの、助かったって言わない」
十竜は黙った。
外から遠くサイレンの音が聞こえた。誰かが通報したのだろう。割れた窓から夕暮れの光が差し込み、倉庫の埃を赤く染めている。
十竜は扉の方へ歩き出した。
その背中を見た瞬間、灯は思わず叫んだ。
「偽りなんかじゃない!」
十竜が足を止める。
「何が?」
「朝木くんよ」
「仮面だヨ」
「それでも、私の前で笑ってくれた」
十竜は振り返らなかった。
「私を助けに来てくれた」
声が震える。
それでも、灯は言った。
「だから、本物よ」
しばらく、十竜は何も言わなかった。
サイレンの音だけが近づいてくる。
「……不愉快だネ」
やがて彼は小さく呟いた。
「何が」
「君の中で、本物にされてしまったことがサ」
灯は息を止めた。
十竜はようやく振り返った。
その顔には、いつもの人懐っこい笑みが浮かんでいた。
「灯サン」
「何」
「明日、学校で会ったらどうする?」
「分からない」
「正直でよろしイ」
「あなたは、学校に来るの」
「行くヨ。朝木とおるの生活は、俺の生活でもあるからネ」
「朝木くんの席に、あなたが座るの」
「そうなるネ」
灯は唇を噛んだ。
十竜は扉を開けた。夕方の風が倉庫の中へ流れ込む。
「待って」
灯は呼び止めた。
十竜が振り返る。
その顔に、朝木とおると同じ笑みが浮かんでいた。
「……ありがとう」
灯は言った。
「助けてくれて」
十竜は少しだけ目を細めた。
「それは、彼に言ってやって」
「もう言えないじゃない」
「そうだネ」
十竜は扉の向こうへ出た。
サイレンの音が近づいてくる。
灯は膝を抱えたまま、小さく呟いた。
「ありがとう、朝木くん」
返事はなかった。
◆
翌朝、灯は教室の前で足を止めた。
いつもの朝だった。
誰かが笑っている。誰かが宿題を写している。黒板には日直の名前が書かれている。窓際の席に、朝の光が落ちている。
何も変わっていないように見えた。
けれど、すべてが変わっていた。
灯は教室へ入る。
朝木とおるの席に、朝木十竜が座っていた。
同じ制服。同じ横顔。同じ手。
彼は灯に気づくと、こちらを向いた。
「おはよう、灯サン」
その呼び方で、胸が痛んだ。
クラスメイトたちは誰も気づかない。昨日までと同じ朝木とおるが、昨日までと同じように笑っていると思っている。
灯だけが知っている。
朝木とおるは、もういない。
灯は拳を握った。
泣きそうだった。逃げたかった。
それでも、逃げなかった。
灯は唇を震わせながら、言った。
「……おはよう、朝木くん」
十竜は一瞬だけ目を細めた。
それから、昨日までと同じ顔で笑った。
お読みいただきありがとうございました。
創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いします。
今回は、「喪失感」をテーマに書いてみました。
助けられたのに、助けに来てくれた人はもういない。
しかも姿も声も同じまま、別の誰かとして目の前に残り続ける。
死別とは少し違う、けれど確かに取り返しのつかない喪失。
そんな後味を目指しました。
朝木とおるは本物だったのか、偽りだったのか。
むしろ、誰かのために自分を壊してしまったからこそ、「朝木くん」と呼び続ける限り、灯にとっての朝木とおるは本物だったのかもしれません。




