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402『武藤喜兵衛の機略(カケルのターン)』

 山岡の里で、池田恒興率いる池田軍は、“赤備え”山県昌景の代理を務める嫡男・昌満の堅実な打ち手と、手筈通り後方を攻めた武藤喜兵衛(後の真田昌幸)の奇襲によって大混乱だ。


 恒興は、撤退の法螺を吹き、三陣・二陣の嫡男・大助と娘・せんを先に逃がして、己はそこに陣を立て直し、娘婿・森長可が逃れ来るのを待っている。



 先陣では、撤退の法螺を聞いた長可が、驚いて振り返った。


「なぜ、我らが多勢なのに撤退するのだ?」


 一騎打ちの火花を散らす三枝昌貞が、不敵な微笑を浮かべる。


「わからんのか、馬鹿な奴だ。伏兵だよ」


 と、長可をさらに挑発する。


 それを聞いた長可は、頭からあふれ出さんばかりの血流を、必死で飲み込み、堪え、槍を背中に返して号令をかけた。


「悔しいが、皆の者、撤退だ!」


「若造、逃げるのか? ならばお前の女は俺の物にするぞ」


「言わば言え、俺は、必ず、お前たち武田を滅ぼして見せる。首を洗って待ってろ!」


 長可、背中を見せると、敵味方構わず、名槍“人間無骨”の餌食にして撤がって行った。


「呆れた奴だ。味方まで手にかけておる。いつか自分がそうなるぞ」


 昌貞は、呆れて追うのをやめた。




「義父上、殿軍しんがりを、自ら受け持たれたので?」


 長可が、恒興の陣へ逃げ延びて来ると、どしりと床几に腰かけて待っていた恒興が重い腰を上げた。


「今でこそ大殿の側で、目立たぬよう心掛けてはいるが、ワシも若い頃は、長可お前と同じ猪武者だったのよ。だから、せんをお前にやったのだ」


 と、恒興が思いがけない心の内を明かす。


「義父上、俺は勘違いしておりました。浅井・朝倉の反撃に合い宇佐山の戦で父上(可就よしなりのこと)を見殺しにしたのは、大殿の元に侍る義父上が何も言わなかったからだとばかり思っておりました」


 堪え性の無い長可の顔をしっかり見定めて恒興は漏らした。


「誰が、友を見殺しにしたいか、大殿に援軍を留まるよう申したのは、光秀よ」


 と、恒興は燃える目で長可と目を合わせると静かに頷き、采配を返した。


「よし、ワシの義息子むすこが戻った。陣を捨て撤退じゃ!」


 恒興が、撤退の陣幕を出ると、逃口のきぐちには、六文銭が翻り、後方からは、“風林火山”と“桔梗紋”が翻っていた。


 恒興は、長可を遊びにでも誘うようん笑って尋ねた。


「長可、賭けをしないか? お前と、俺、左右に分かれて、あの“六文銭”をあべこべに挟み撃ちにしようではない」


「義父上、しかし、賭けとは?」


「共に生きて帰れたら、俺の子になれ!」


「しかし、某には森家があります。聞けません」


 恒興は、長可の実直な物言いを笑って答えた。


「そうじゃない。お前(森家)を池田同等のの一門格にしようって話だ。池田はイイぞ一門が支え合う家柄だ」


 長可は、笑って答える。


「義父上、考えておきます。しかし、俺が逆に生き残って義父上にもしものことがあれば、森が池田を支えます」


 恒興は、笑った。


「そうだな、まずは、先の話より互いに生きて帰らねばな。よし、若殿の元で会おう!」


 そう言って、恒興と長可は、逃口を押さえる武藤喜兵衛の兵に怒涛の如く矢のように向かって突っ込んだ。




「やや、池田め、気づいたか、我らが小勢であることに」


 喜兵衛は、迫りくる恒興と長可の兵の勢いに備えて、鞠を萎めたように密集して衝撃に備えた。


「やはりな。今だ、長可と別れよ」


 恒興が号令をかけると、恒興の兵と長可の兵が綺麗に左右に分かれ、密集した喜兵衛の部隊が開けた小道をすり抜けた。


「やられた!」


 若き喜兵衛は、凡将と侮っていた恒興に裏をかかれた。


 六文銭を無視して撤退する池田と森の兵を、喜兵衛は激流にある中州のように身を任せて見送るよりなかった。


「俺は、まだ甘い。逃げられて、しもうた……」


「喜兵衛が、自分の至らなさにため息をついていると、鶴岡山より伝令が到着した。


「下条殿より伝令です。逃口に明智と稲葉在り」


 それを聞いた喜兵衛の眼が光った。


「まだ、この戦、続きがあるな」


 と、そこへ、陣を進めた山県昌満たちが合流した。


「喜兵衛、助かった」


 昌満が素直に言うと、喜兵衛は一瞬、眉を寄せ、少し間をおいて答えた。


「山岡を出ると、次は、明智光秀と稲葉一鉄が待ち構えてござる。少々、某に機略がござれば昌満殿、お耳を」



 山岡の里の逃口から、池田の緑の軍団が蜘蛛の子を散らすみたいに逃れだしてくる。


 逃口に陣を張る光秀は、横目で池田の者が通り過ぎるのを横目で見ながら、呟いた。


「今、動けば、ワシの上の椅子が一つ空くものを……」


 傍に控える斎藤利三が、眉をしかめて、光秀の愚痴を窘める。


「殿、背後を稲葉に取られたおりますゆえ、滅多なことを申されますな」


 光秀は、吐き捨てるように、


「池田も、稲葉も、家族家族と――。大殿は、一早く、鉄砲や南蛮人の知恵を取り入れる癖に、熱田神宮への信心は欠かさぬし、信忠はまだしも、あの北畠の……」


 と、光秀が言いかけたのを打ち消すように、利三が言葉をかぶせた。


「殿、それ以上は……」


 光秀は、膝に肘を付き、身を乗り出して、利三に不満げに顔を向けた。


「構わぬではないか? 愚鈍は、愚鈍……」


 利三は、大きなため息をついた。



 さらに、後方、第二陣の稲葉一鉄は、撤退する池田恒興、森長可の顔を見ると目を合わせ大きく頷くと、采配を突き上げた。


「よし、池田殿、森殿の無事を確認した。我等も陣を引き払い下がるぞ」


 と、半時ほど前から立ち込めた霧に紛れて足音も立てず陣を引き払った。




 同じ頃、長谷川秀一を大将に、副将として侍るカケルが、吉良見の逃口に着陣した。


「ああ、河尻の兵が……」


 味方を我先に押しのけ、吉良見の間道から無様に溢れて来る河尻の兵にカケルはため息のような言葉を漏らした。


 つづく




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