第5章:とても甘くて少し苦い
標準時 19:42《アルカ・ソリス》最上階・プライベートレストラン《ル・ヴォルト》
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銀の柱と緋の絨毯が交差する、宮殿めいたレストランの入口で──リゼラド・クレムローザは静かに佇んでいた。
月光のような髪に黒のドレス、幾重にも編まれた髪飾りが、わずかに揺れている。
エルミナの姿を認めると、リゼラドはゆっくりとスカートの裾を摘み、ひときわ優雅にお辞儀してみせた。
「来てくれて嬉しいわ。そして──お見事。今回は素直に負けを認める」
「……そう」
「今夜は、貸切にしたの。ね? 仲直りの夜にしましょう」
そのしなやかな笑みに毒気はなく、エルミナは無言で頷き、後に続いた。
だが、その背にふわりと告げられる。
「そういえば、もう一人、お誘いしたの」
足が止まる。
視線の先、奥の窓際──そこに、ネリア・フレイズの姿があった。
「エルミナさーん!」
カップを片手に、満面の笑み。
テーブルには、小さなスコーンとケーキがかわいらしく並んでいた。
「クレムローザさんに声かけて頂いて、すごく気さくな方で……エルミナさんと幼馴染なんですねっ」
そして、リゼラドがワイングラスを掲げる。
「ねえ、エルミナ。最後に一つ、ゲームをしましょう。あのスコーン、見えるかしら?」
皿の上には三つのスコーン。
そのうち一つは、ネリアが半分ほどかじった跡がある。彼女は今まさに、次の一口を取ろうとしていた。
「そのうち二つには、それぞれ異なる毒が入ってるの」
ネリアの手が止まり、目を丸くする。
「ど、どく……?」
リゼラドは芝居がかった声で、優雅に続けた。
「一つは《イソラネイン》。惑星〈ネアル〉の粘菌から抽出される神経阻害毒。
摂取後10分以内に末梢神経を麻痺させ、呼吸を止めるの」
ネリアが息を呑む。
「もう一つは──《セプテリン酸》。興奮性伝達物質に近い構造で、脳神経に過剰な電気信号を流し、痙攣や多臓器不全を引き起こす」
一呼吸置いて、リゼラドは微笑む。
「どちらも、単体なら致死。でも──これは“ゲーム”よ。ヒントはすべて、この場にあるわ。
怪盗〈カレイディア〉のトリックを見破った、あなたならできるでしょう? 造作もないはず。
どれを食べたかは私にも分からない。運がよければ、毒のないものを選んだだけかもしれない。
……効果が出るのは、そうね──あと五分。それが、タイムリミットよ」
ネリアの顔から血の気が引き、今にも卒倒しそうだった。
エルミナは一瞬だけリゼラドを鋭く睨み、すぐに思考を切り替える。
氷のように蒼いふたつの眼が、冷静にテーブルを見渡した。
素早く、すべての食器に目を走らせる。
皿、グラス、銀器、ナプキン。テーブルクロスではない──いや、違う。リゼラドならば……
エルミナは一つの答えを導き出した。
「ネリア。全部、食べて」
「……え? ええっ!?でも、毒が──」
「食べるの。三つとも。急いで」
その声に迷いはなかった。
ネリアは怯えながらも、言葉なく頷き、一口、また一口とかきこむ。
緊張で喉が詰まり、水を何杯も飲みながら、なんとか三つ目まで食べきった。
最後にカフェオレに口をつけ、ようやく少し落ち着きを取り戻した。
エルミナは、その様子に安堵するとそっと告げた。
「毒は二種。一つは神経を遮断し、もう一つは神経を過剰に興奮させる。
どちらか一方だけなら、確実に致命的。──でも、同時に摂取すれば、それぞれの作用が拮抗して毒性が弱まる。
つまり、すべてを口にすれば中和される」
蒼く鋭い瞳がリゼラドへと向けられる。
「……“打ち消し合う波”──それが、あなたの作品のテーマだったわね」
「……さすが。正解よ、エルミナ。でも──」
リゼラドはワイングラスを傾け、くすりと笑った。
「うそよ。スコーンには何も入ってなかった。
あなたの“焦る顔”が見たかっただけ。……ごめんなさいね」
エルミナは無言のまま、静かに歩み寄った。コツ、コツ──靴音だけが、静寂に刻まれる。
その圧力に、リゼラドは思わずたじろぐ。後ずさった拍子に、椅子の背に手が触れた。
「……な、何? 悪かったわよ、たしかに少しやりすぎ──」
パンッ。
乾いた音が、静寂を裂いた。
──殴るのは、初めてだった。
──殴られるのも、初めてだった。
リゼラドは呆然と頬を押さえ、視線を泳がせる。
「二度と、こんなことしないで。リゼ」
その声には、怒りと冷ややかさがあった。
リゼラドの目に、ゆっくりと涙が浮かぶ。何も言い返さず、ただ視線をそらした。
ネリアは言葉を失い、開いた口を塞ぐことさえ忘れていた。
「行きましょう、ネリア」
エルミナが踵を返す。ネリアは慌てて立ち上がり、彼女の後に続いた。
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扉が閉まり、静寂が広い客間を支配する。
1人残されたリゼラドはか細い声で呟いた。
「ただ……あなたに追い付きたかったのよ、エル」
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標準時 20:23《ル・ヴォルト》前の夜景通り
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外に出たエルミナは、手のひらをじっと見つめていた。
「……初めて人を殴った。……殴った方も痛いなんて、知らなかったわ」
ネリアが苦笑しながら、その手を両手で包むようにさすった。
「でも……すごく、かっこよかったです。今夜は、私がごちそうしますね」
エルミナはようやく、柔らかな笑みを浮かべた。
「ふふ……じゃあ、私が昔大臣と行った店にしましょうか。完全個室よ」
「ええー!? わ、私、財布軽装備なんですけど!」
「冗談よ。あなたの馴染みのチェーン店でいいわ」
ネリアはふっと笑い、エルミナの腕を軽く引いた。
「じゃあ、行きましょ。スコーンはもう一生分食べたので、それ以外で!」
エルミナは心から微笑んだ。
「……ほんと、あなたは強いわね」
──ネオンの光が、静かに二人の背を照らしていた。




