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育て方が残したもの

教育が人物と社会にどう影響を与えるかを考えてみたかったです

朝は、起床の声から始まる。

まだ外が暗くても、父の声は決して遅れない。


「五分前行動だ、立て」


床から跳ね起き、着替えて直立不動の姿勢を取る。正しい姿勢で、厳しい表情で。しっかり前を見る。少年は十二歳。名前はイツキ。父にとって彼は“息子”ではなく、“国民”だった。


「今日の予定を報告しろ」


まだ覚えきれていない学校の時間割を、頭の中で急いで組み立てる。間違えば、声を荒げられるか、拳が飛ぶ。


「……一限は算数、二限は……」


言い終える前に、父はすでに違う話を始めていた。


「なぜお前は服を整えず話す?」


イツキは自分の服を見下ろし、掛け違えた上着のボタンを直す。口は閉じる。喋りながら動くことは“品がない”とされている。だが父の命令にはすぐ返事をしなければならない。“沈黙”も“遅れ”も、叱責の対象だ。


命令に正解はなく、あるのは服従だけだった。


朝食の時間は十五分。食べ残しは禁止。左手は使わない。口を閉じたまま咀嚼し、噛む音すら抑える。


「国は個人のためにあるのではない。お前は、何のために生きている?」


父の問いに、イツキはいつもの答えを繰り返す。


「国のため、社会のため、秩序を守るためです」


それが模範解答だった。それしか許されない。


学校に行く道すがら、ほかの子供とは列を作って登校する。集団登校だ。前から背の順に並び、最後尾だけ最高学年の子供。その子がリーダーで全体を統制する。おしゃべり禁止、寄り道禁止。隊列を崩してはいけない。子供のころから整然と行軍できるように習慣として身に着ける。


彼の父は軍の教官だった。いや、今もそうだ。戦場に出たことはないが、教育が父の“戦場”だった。


彼の目的は、若者たちを意見を持たず、命令に忠実で、失敗しない国民に育てること。


そうしてできあがるのは、忠実で、従順で、規律を重んじる人間だ。


そんな人間が、国を支える――父はそう信じていた。


学校は、家庭よりも静かだった。

誰もふざけない。誰も走らない。黒板に向かって、一斉に鉛筆の動く音だけが響く。


教室の掲示板には大きな文字で書かれている。


「私情を捨て、公を優先せよ」

「権利は捨てても義務は捨てるな」

 「守れ我が国 汚すな歴史」


教師の声は張りがあり、いかにも重要なことを伝えているかのようだったが、内容は献身、服従。そして正確性。誰かが間違えれば、次の瞬間には全員がその子を睨みつける。それは無言の制裁だった。


イツキは一度も間違えたことがない。いや、間違えるくらいなら答えないことを学んだ。


昼休み、生徒たちは無言で弁当を食べる。味の感想は禁止。共通の話題は、最新の国家ニュースや指導者の演説。良いとされている答えを繰り返すだけ。


「国は我々を正しい方向に導いてくれている」

「我々の指導者は偉大だ」

「指導者は国全体を良い方向に導いてくれる」


そんな言葉が、子どもの口から平然と出てくる。

そんな社会だ。自由な意見などない、命令には絶対服従だ。当然不満が溜まっていくが、表現することは許されない。そしきにいやいやながら従うしか生きていく術がない。世の中全体が暗い雰囲気になり、鬱屈した雰囲気が人々を覆っていた。


だが、その日、一つの“事件”が起きた。


クラスメートのハルが、国旗の前で手を胸に当てなかった。形式を忘れたのではない。意図的に手を挙げなかったのだ。全員が凍りついた。


教師は何も言わず、ハルの名前を名簿から線で消した。翌日から、ハルの席はなかったことになっていた。誰も話題にしない。イツキも、その名を口に出すことを恐れた。


家に帰ると、父は静かに言った。


「今日、君のクラスで一人消えたな」


なぜ父が知っているのか、イツキには分からなかった。ただ、答えなければいけないと本能で悟った。


「はい。裏切り者です」


父は満足げにうなずいた。


「勝手な考えを持つな。人々は間違える。だが国家は間違えない」


数週間後、町の広場に非常放送が響いた。


「本日をもって、戒厳令を敷く」


突如として夜間外出禁止、集会の禁止、通信の制限が始まった。誰が敵なのか分からないまま、「敵がいる」とだけ言われた。


街のあちこちに兵が立ち、検問が設けられた。軍用機が頭上を飛ぶようになった。学校の生徒数も減り始めたが、その理由を問う者はいない。


父はますます無言になった。顔をしかめ、書斎にこもり、書類は焼いてしまった。


イツキが部屋の前を通ると、父の声が漏れてきた。


「……この国は正しい……正しいのだ……間違っているのは、人民だ……」


初めて見る、取り乱した父の姿だった。


翌週、国営放送が停止した。町に反乱軍が侵入し、建物が燃え始めた。人々は誰にも助けを求められなかった。なぜなら、国家しか信じていなかったからだ。その国家が崩れたとき、人々は命令のない世界で何をしていいか分からなくなった。


父はある夜、食卓で突然立ち上がり、イツキを見た。


「お前は、立派な国民になる。私の教育は間違っていない」


その言葉を最後に、父は出ていった。軍服を着て、銃を持って、家の扉を閉めた。


それから数日後、兵士の死体が河原に積まれているのを見た。イツキは、父を探したが、見つけられなかった。


そして、自分に問いかけた。

「俺は、これからも国家のために生きるべきなのか?」

でもその国家が、存在しない今、イツキはどうしてよいか分からなかった。


イツキは生き延びた。

国が崩れ、街が焼け、ルールがすべて消えても、生きるために体は動いた。いや、動くしかなかった。


誰も命令をくれなかった。だから、自分が命令になった。

「立て」「歩け」「黙れ」

それが生き残るための唯一の答えだった。


十数年が過ぎた。

瓦礫の街には、新しい建物が立ち並び、人々はまた“平和”という言葉を使い始めた。

だがその言葉に、かつてのような重みはなかった。


イツキは結婚し、父になった。息子の名前はレオ。

赤ん坊を抱いたとき、胸に去来したのは愛情ではなかった。

「この子を、正しく育てなければならない」

それが唯一知っている“父親”の姿だった。


父に教えられた言葉を、自分の口からなぞる。


「間違うな」

「泣くな」

「立て」


レオはよく泣く子だった。だがイツキは一度も抱きしめなかった。抱けば、弱さがうつる気がした。


理由は、なかった。

ただ「そうするものだ」と、体に刻まれていた。


息子が少しずつ言葉を覚え、問いを投げてくるようになっても、イツキは答えを持っていなかった。


「なぜ怒るの?」

「僕は何を間違えたの?」

「どうして、笑わないの?」


そのたび、イツキは無言で背を向けた。問いに答えるという概念が、自分にはないことに気づくのが怖かった。


かつて、自分がそうだったように。

答えなどなくても、「黙って従う」ことが正しさだったのだから。


やがて、時代はレオのものとなる。


イツキの厳しさを受け継ぎ、レオは「まじめで努力家な青年」に育つ。

だが――何のために頑張るのか、そこは確信がなかった。


ーーーーーーーーーー


レオは今日も早朝に目を覚ました。

体がそうできている。目覚ましはいらない。起きてすぐ、床を雑巾で拭く。父に言われたことは、忘れたことがない。


「人間は形を守れ。形が崩れれば、心も崩れる」

「いつも一生懸命やれ。さぼるな」

「遊んでいてはダメだ。毎日鍛錬だ」

「鍛えることで自分が作られる」


父は、そんなことを言っていた。


社会は“復興”という言葉を使っていた。皆が皆、前の世代から勤勉さ、まじめさを受け継いでおり、一生懸命働いた。何に向かってというのは明確ではなかったが、壊れてしまった建物、道路、橋を作り直すことは皆で一致して進められた。皆が勤勉の価値を共有していた。

社会も会社も発展していった、新しいものが発見され、作られるようになり、外国との取引も増えた。次第に世の中が豊かになっていくことが実感できた。がんばりさえすればきっといいことがある。そんな時代の雰囲気だった。


確かに街は新しくなり、道路は整備され、人々はまた列を作って働いていた。でも、レオには何が“復興”なのかよく分からなかった。


大切なのは、生き残ることだ。失敗しないことだ。

だから、レオは働いた。黙々と。真面目に。

誰よりも早く出社し、誰よりも遅く帰る。そうすれば、誰にも責められない。


彼は部屋に飾られた勲章を見上げるたびに思った。


「俺は、父よりマシな人間になれただろうか?」


家では、いつも子どもを睨んでいた。

息子の名前はユウ。元気な子だった。だが、最近はよく黙っている。


「ちゃんとしろ」

「がんばれ」

「泣くな」


そう言えば、父親らしくなれる気がした。


ある日、ユウが宿題を間違えた。レオは机を叩いた。


「何度言ったらわかるんだ。お前はいつも見直しが甘い!」


ユウはびくりと肩を震わせたが、黙ってノートを直した。


レオはその沈黙に、どこかで覚えのある重さを感じた。

かつての自分と同じだった。父の怒鳴り声を、ただ“受ける”しかなかった日々を思い出す。


夕食の席で、ユウがぽつりと聞いた。


「……がんばれば、何かいいことあるの?」


レオは箸を止めた。言葉が出てこない。


「……がんばるのが当たり前だろ」


「なんのために?」


その問いは、冷たい水のようにレオの胸を打った。

昔、自分も同じことを思っていた。でも、口に出すことはできなかった。今、目の前でその問いが投げられている。


「……世の中のために、とか?」


レオは絞り出すように言った。だが、その言葉はどこか空虚だった。

彼は“世の中”のために生きたことがあっただろうか?

家族のため?仕事のため?生き延びるため? 誰かの役に立っているという実感は、ただの幻想だったのではないか?


ユウは何も答えなかった。黙って、箸を置いた。


その顔は、幼いはずなのにどこか冷めていた。まるで、「大人の答えのなさ」にもう気づいているようだった。


ーーーーーーーーーー


ユウは幼いころから、怒られる毎日だった。

字を間違えればしかられ、靴を揃え忘れれば無言のにらみが飛んだ。

忘れ物を注意され、楽しいおしゃべりは根拠がないと言われた。

褒められた記憶は、ひとつもない。


運動会で一位になったとき、父はただ言った。


「一位には誰かが必ずなる」


絵を見せたときも、ノートを提出したときも、返ってくるのは「もっと丁寧に」「誰でもできる」だった。あるいは「ふーん」という無関心。


頑張ることが当たり前、間違えないことが前提。できたものは完璧なのが普通。

そして「なぜそうするのか」は、誰も教えてくれなかった。


だからユウは、怒られないように生きることにとらわれた。


人と目を合わせるのが苦手だった。

職場の空気は薄く、誰も大きな声を出さない。間違いを指摘することも、賞賛の言葉をかけることもない。ただ、誰かの機嫌を損ねないように、波風を立てずに過ごしていた。


それが“大人”というものだと、彼は信じていた。


彼は小さな設計会社で働いていた。これまで出来ていたことを組み合わせを変えながら仕事を淡々とこなす日々。やりがいはなかったが、不満も口には出さない。


「余計なことを言わない人間が信用される」

「まずしっかりやる」

父からそう教えられていた。


成果を出しても、褒められることはない。ミスで責められることはある。

だから、彼の目標はただ一つ――「怒られないこと」だった。


だがこれはユウだけではない。世の中全体がそんな雰囲気に変わっていた。

誰もが人の欠点を見つけては指摘する。失敗を見つけては指弾する。人事評価などは減点主義。


「彼はすごい成果もあげるけれど、周囲に不満を持つ人も増やすから」

「彼女は実行力がるけれど、プレゼンは分かりにくい」

「誰もが一目置く存在だけど、生意気だからね」


皆が完璧主義を目指し、そつなく仕事をこなし、そつなく人生を送ろうとしていた。常により安全な選択肢を選び、保身主義が社会を覆っていった。人々は精神的に孤立し、挑戦もなければ共感もない傾向がじわじわ広がっていった。

人々が自分の安全を最優先に考える風土があちらこちらに浸透していった結果、新しい技術や仕組みは見つけられなくなり、取引で少しでも優位に立とうとし、仲間内だけで当たり障りのないやり取りをする時間ばかりになった。社会は停滞し、生産性は低下し、人口は減っていた。



ある日、同僚のミナが突然、退職を申し出た。

「もっと自分の時間を大事にしたい」と笑っていた。


ユウは、理解できなかった。

“自分の時間”とは何だ? “自分”とは?


彼は家に帰って、机に座り、ノートを開いた。何を書こうとしたのか、自分でも分からなかった。ただ、何かを書かなければ、頭の中が崩れてしまいそうだった。


ふと、幼い頃に父に言った言葉を思い出した。


「なんのために頑張るの?」


答えは、返ってこなかった。


それが、ずっと胸に引っかかっている。


社会では小さな騒動が続いていた。公共サービスの遅延と劣化、官僚の不正と政治家の欺瞞、若者の自殺や犯罪。

ニュースは誰も驚かないような口調でそれを報じ、人々はそれを聞き流したか聞こえていないかのようだった。


ユウもその一人だった。

だが、ある夜、SNSで炎上した記事を見て、指が止まった。

「今の社会に、何も期待していない」と書かれた投稿に、数万人が“いいね”を押していた。


画面を見ながら、ユウは息が詰まる思いがした。

これが「普通」なのか?

誰も信じず、何も求めず、ただ“怒られないように”生きることが、今の生き方なのか?


その夜、彼は久しぶりに父の部屋に入った。

引き出しの奥に、父がかつて隠していた古い日記があった。


そこには、ぎこちない文字でこう書かれていた。


「正しく育てたつもりだったが、なぜ積極的で明るい人にならなかったのかいまだに分からない。

ただ、俺が受けた教育の良い部分だけを与えたつもりだった。

わからない・わからない・」


ユウは、知らず涙をこぼしていた。

父が不器用に残したその言葉が、彼の中の何かを揺らした。



どのような教育が良いの悩みますよね 厳しくもダメ 優しくも人によってはうまくいかない 永遠の悩みかもです

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