稲葉の彦六 強くなれ
稲葉一鉄さん。調べると非常に有能な方だったようですが記録があまり残っておらず、有名でもありません。きっとこんなだったろうと描いています。
永禄三年、春――美濃・牧田川。
血の匂いが、風に乗って漂っていた。
戦のあとの静けさは、耳を刺すほど重く、冷たかった。
僧・**通以**は、戦いの跡に立ち尽くしていた。
父、貞通。五人の兄。
みんな亡くなってしまった。
厳しくも強い父。責任感があり優しい兄、いつも活発で武芸が得意な兄。陽気でおもしろい兄。冷静で知恵のある兄。年が近く、一緒に起きて、虫取り、エビ捕り、魚捕り、一緒にご飯を食べて、一緒に寝た兄。
幼い頃から親しんできた叔父や従兄、仕えてくれた家臣たち――名を呼べば返事がくる思っていた人々が、皆、今は灰に還っていた。
僧として、通以は彼らを弔った。経を唱え、手を合わせ、骨を拾った。
だが、それだけでは何も変わらなかった。
命は戻らず、田畑は荒らされ、人心は暗く沈んだ。
「弱かったからだ」
誰の声とも知れぬ呟きが、耳に残る。
「負けたのは、そういうことだ。命が奪われたのも」
それが外から聞こえたものだったのか、自分の内に湧いたのかは問題ではなかった。
確かなのは、祈るだけでは、何一つ守れないことだ。
その夜、通以は寺を去った。
袈裟を脱ぎ、僧名を捨て、**稲葉良通**を名乗る。
もう失わせぬために。
ただ戦うのではなく、守るために。
父兄の後を継いで稲葉家の誰も死なせたくはない。
*
良通は領内を見て回った。
一人で馬に乗り、田を見、村を歩き、人々と話した。
水路の水は途切れ、田は荒れ、戦の残滓が人々の目から希望を奪っていた。
夜には灯を落とし、兵法書と政道書を広げた。
『孫子』、『呉子』、『貞観政要』――勝つための知ではなく、死なせぬための理を探し続けた。
書に埋もれるようにして思索を深め、指で数珠の代わりに筆をなぞった。
忌明けの朝。
幾枚もの紙に並んだ文字を見直し、ようやく一つの確信にまとめ上げた。
強くなるとは、死なせぬ仕組みを作ること。
その言葉が、骨にまで染み込んだとき、良通はようやく家臣たちを前に立った。
*
屋敷の一間に、家臣たちが控えていた。
目に不安を宿しながらも、若き当主の言葉を待っている。
「まずは田を増やす」
良通の声は静かだった。
「人を増やさねば軍は成らぬ。食を増やせば人を増やせる。荒地を洗い出し、用水を整備せよ」
ざわり、とささやきが走る。
「食い扶持を増やして、戦支度でございますか」
年嵩の家臣、又兵衛がつぶやくように言った。
「農がなければ、領地は強くならぬ」
良通は視線を上げ、淡々と応じた。
「負けぬ備え、兵を失わぬ備えを、今日から始める」
次いで彼は地図を広げた。
「関の鍛冶に銀を渡す。刀を整えよ。槍の穂先は折れ欠けに強い良いものを揃えよ」
脇に控えていた権三が静かにうなずいた。
「鍛冶衆への手配、ただちに取りかかります」
「兵の士気は……いかがされますか」
やや若く、気の早い又右衛門が声を潜めて問う。
「最も恐れるのはそこだ」
良通は全員を見渡した。
「稲葉の軍は違える。手負いは後方へ回せ。班の者は互いを見捨てず、全員で戻る。それができぬ戦なら、そもそも戦わぬ」
静まり返る座敷の中で、数人の目に言いようのない光が宿った。
それは驚きでもあり、安堵でもあった。また半信半疑の者も多い。
だが、死んでもやれと言われてきた者たちにとって、「皆で戻ってこい」という指示からは勇気と希望が湧いてくる気がした。
その夜、良通は再び机に向かい、『孫子』を開いた。
戦わずして勝つ。
死なせずに済むならば、それが最善だ。
強さとは、守る知恵の積み重ねである――その思いは、もはや信念となっていた。
それが、父と兄、そして家中の亡き者たちに報いる道だと、彼は信じていた。
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領地に変化の兆しが現れ始めたのは、夏も過ぎた頃だった。
良通が命じた開墾は、早くも耕作のかたちを見せ、田に水が流れ、穂が出始めていた。
水路の掘り直しには、近隣の百姓も、家中の者も一緒に手掛けた。
「口で兵法を語る前に、口に米が入るようにせねばならぬ」――それが良通の持論だった。
さらに、小さな市を設けた。
誰でも出店できる、税もない市だ。
用心棒を名乗る連中は寄せ付けなかった。
商人が出入りし、物資が動き、鍛冶屋が材料を手に入れやすくなった。
それはやがて、兵装の質へとつながっていく。
刀鍛冶には銀を、槍鍛冶には鉄を。
資材を惜しまず与え、「折れぬ刃、こぼれぬ穂先」を目指してもらった。
良通は自ら鍛冶も訪ね、鍛えられていく鋼を見守る日もあった。
鋼の鳴る音が、静かに軍の輪郭を形づくっていくようだった。
「槍の穂先はやや短く、軽くせよ」
良通は鍛冶頭にそう伝えた。
「扱えぬ武具は死を呼ぶ。見栄えは要らぬ」
不思議そうな鍛冶たちを後に
「死者は、声を残す」
良通は目を伏せた。
「私は、それを聞いておるだけだ」
一方、兵たちへの訓練も変わり始めていた。
個の武勇ではなく、「生きて戻る」ことを前提とした統率が導入された。
班単位で行動し、常に相互を庇うよう訓練された。
負傷者は決して置き去りにせず、適宜交替を命じられる。
最初は戸惑いもあったが、やがて兵の中に、静かな信頼が生まれた。
「仲間が見ている」「見捨てられぬ」という安心感が、無言の胆力となって広がっていった。
また、敗戦の中で鍛えられた兵が、逃げず、慌てず、指揮を待てるようになっていく。
奇襲に動じず、挑発にも乗らず。
茶の湯で心を整え、日々の訓練で身体を整える。
静かに、だが確実に、稲葉の軍は一つのかたちを成しつつあった。
ある夕刻、良通は庭先に立ち、草履のまま空を仰いだ。
蝉の声が遠く、風は涼しかった。
「……かたちになってきたな」
隣で控えていた又兵衛が、そっとうなずく。
「はい。御方針が、すでに兵に染み込んでおります。戦わずとも、軍は整う……とは、よう申されたものです」
「戦わぬために、備える」
良通は静かに応じた。
「それを笑う者もいる。だが、備えなき軍に、命を預ける兵はいない」
「まことに。戦場では、前を向くより、振り返ってくれる者のほうがありがたく思えましょうな」
「そう思わせる軍が、強い軍だ」
良通の目に、初めて小さな光が灯った。
焦ることなく、苛立つこともなく、ただ正しいことを重ねた結果が、ようやく見え始めていた。
命を守る仕組みが、軍を育てている――
それは、あの日、父兄の骨に向かって誓った言葉が、静かに現実になりつつある証だった。
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秋の入り口――風の色が変わりはじめた頃、美濃西部にざわりと波紋が広がった。
織田信長の軍勢が、再び国境近くまで進出してきたのである。
斎藤龍興からの使いは、いつものように短い。
「織田の兵、千五百余。稲葉の兵をもってこれを迎撃せよ」
ついに来たか、又右衛門が露骨に顔をしかめた。
「信長の兵……千五百ではないでしょうな、どうせ」
「二千、いや三千近いな。こちらの倍はおるだろう」
良通は、使者の背中を見送りながら静かに言った。
「だが物量に優れる軍は、弱いところもある」
「では、やられますか? 前回のように、守ってかわす手ではなく」
「守りは使いすぎれば鈍る」
良通は答えた。
「ここで一つ、反撃の型を試す」
地図の上に指を走らせながら、彼はすでに布陣の構想を立てていた。
待ち伏せではなく、地の利を活かした短期決戦。敵が物量を展開する前にたたく。
それが、稲葉軍の戦い方である。
最初の戦は、河川敷で行われた。
尾張から押し寄せた織田勢は、地形を把握しきれておらず、兵の分散も多かった。
良通はそれを見極め、わずか四百の兵で、湿地の隘路に誘い込んだ敵の側面を突いた。
「火を上げろ。風は北西、煙が南へ流れる」
良通の命令は的確だった。煙が敵の視界を奪い、音が混乱を誘う。
先陣の又兵衛が槍を振るい、縦隊を割った。
後続が迷う間に、稲葉軍は一陣だけを切り離して壊滅させた。
次の戦は、翌月。
北方の街道にて、別部隊の侵攻を迎え撃った。
良通は細い道を塞ぎ、あえて広めの道を一本開けた。
「敵は必ず、最も通りやすい場所から入る。だが、そこに兵を置くな」
家臣たちは怪訝な顔をしたが、命令は守られた。
敵が通ると見せかけた道の両脇に隠れた兵が、合図とともに突撃し、物量に頼る編制を粉砕した。
三度目の戦は、穂積野の丘陵地帯。
開けた場所で鬨の声をあげれば遠くてもわかる、稲葉軍は音を味方に行動した。
敵の接近に対して、あちこちで鬨の声をあげさせ、場所を欺いた。
音に振り回された敵は、主力を外し、主幹の一隊だけが孤立。
そこを集中的に叩いて、また勝利した。
三戦三勝――しかも、いずれも兵の損耗は極めて少なかった。
それらの勝利は、稲葉家中に確かな誇りと自信をもたらした。
「我が軍は、負けぬ」
「皆で戻る。それが稲葉の戦だ」
兵たちの口から自然とその言葉が出るようになった。
無理に鼓舞せずとも、士気があがる。
負傷者も少なく、補給は回り、装備は整っている。
戦場にしては珍しく、疲弊のない軍勢が育っていた。
ある夜、囲炉裏を囲んでいた又右衛門が、湯気を前に声を上げた。
「お館様、我ら……強くなりましたな」
火を見つめながら、言葉を繋ぐ。
「尾張の連中、口は悪いが、やることは雑です。数だけじゃ勝てぬこと、もう証明したでしょう」
「調子に乗るなとは申しませんが、手応えはありますな」
又兵衛も静かに言った。
「兵も民も、よく動いております。城下の商いも増えました。戦の影で、城が息をしておるようです」
「……確かに、力はついてきた」
良通も否定はしなかった。
「だが、慢心は最も静かな敵だ。こちらが勝っているときこそ、仕掛けてくる」
「信長は、まだ本気を出しておらぬと?」
「出しておらぬどころか……こちらの戦を観察しているかもしれない」
言葉は重く落ちたが、兵たちの顔に漂う楽観は、完全には消えなかった。
稲葉軍は今、自らの戦のかたちに自信を持ち始めていた。
だがそれは、静かに忍び寄る、次の戦の影に気づかぬままの安堵でもあった。
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初霜の便りが届き始めた頃、信長の大軍が動いた。
木曽川を越え、千五百、二千と押し寄せていたそれまでの兵数は、
このとき一挙に六千を超えたという。
前線に偵察に出していた権三が、泥のついた草履のまま駆け込んできた。
「本隊、濃尾平野を横断してまいります。川筋を包むように、三方から――湿地も道も関係なく押し通しておる」
良通は、地図を広げたまま頷いた。
「本腰を入れてきたな」
尾張の物量は、単に兵の数ではない。
兵站が持続する。米も塩も武器も潤沢に供給され、戦線を崩さずじわじわと圧力をかけてくる。
敵の進軍は、かつての局地戦とはまるで違っていた。
兵は地を選ばず前進し、大量の船も利用して移動してくる。
山谷がない湿地帯の平野では、伏兵も奇策も通じにくい。
「敵の道筋は読めますか?」
又右衛門が、地図の上をなぞりながら訊いた。
「読めるが、止めきれぬ」
良通の声は静かだった。
「相手は道を作ってくる。湿地ごと押し潰して、山津波のようかもしれん」
防衛線は、揖斐川に築かれた。
高地のない平野では、湿地帯の堤を活かして陣を張るほかなかった。
稲葉軍は千余。士気は高かったが、連戦の疲れもあった。
良通は一戦で押し返すのではなく、徐々に削り、確実に退く構えを取っていた。
だが、敵の勢いは、予想を超えていた。
前線が踏み止まっている間に、左翼の湿地が突かれ、後退する兵がぬかるみに足を取られた。
隊列が崩れ、兵の一人が敵槍に倒れる――ついに死者が出始めた。
「引け! 全軍、北へ展開して退け!」
良通の声が飛び合図の法螺貝が鳴るが、ぬかるんだ低地では動きが遅れた。
泥に沈んだ馬、すべる草鞋、散乱する陣地用の材木――
「お館様、これでは……!」
又兵衛が叫び、振り向いた。
「全員で撤くのは、無理です。半数を残し、交代で下げねば……!」
良通は答えなかった。
「良通様!」
又右衛門が叫んだ。「殿軍を立てて捨石にせねば、全員討たれます!」
何かが、音もなく崩れた。
全員で戻る。誰も失わない。
それが今、自らの兵を泥の中へ引きずっていた。
「……止めよ」
良通は絞るように言った。
「後衛、踏みとどまれ。前列は抜けろ。命令だ」
その言葉に、又兵衛が頷き、槍を逆手に振って退路を確保した。
泥の飛沫が上がり、敵の旗が迫っていた。
稲葉軍は、一部を犠牲にして撤退に成功した。
だが、そこに残った数十名の兵の顔と名を、良通は一人ひとり、心の中に刻んだ。
そして親戚である安藤、氏家の援軍を得て追撃を撃退することもできた。
両家とも相応の被害は出た。
夜が来て、風が止んだ。
撤退した軍を迎えた城では、誰も言葉を発しなかった。
疲労と敗北の痛みが空気を重くしていた。
良通は書庫に籠もり、蝋燭をいくつも灯して書を広げた。
『孫子』、また『呉子』、政道論。
戦術ではなく、戦略。
誰と、どこで、いつ戦うか。
勝てる戦、ではなく、死なせぬ戦を選ぶ視座を求めた。
「敵に勝つことが目的ではない。死なせぬことが、我が軍の義である」
自らにそう言い聞かせながら、筆が止まる。
だが、今日の戦では数多くの死者が出た。
その事実だけが、静かに、深く突き刺さっていた。
やがて朝が来る。
そのとき、良通はもうかつての「誰も死なせぬ」と誓った男ではなく、
誰を生かすかを選び、次に進む知略の将となる覚悟を、静かに育てていた。
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戦が終わっても、風は湿っていた。
揖斐川の流れは変わらず、しかし、河原に吹く風の色はどこか鈍く重い。
稲葉軍が戻ってから三日。
家中には言葉がなかった。
負傷した兵は寝台に伏し、武具の修理が始まり、補給の帳面が回された。
だが、そのすべてが静寂の中で進んでいた。
「全員で戻る」――そう信じていた兵たちの顔に、口には出さぬ動揺が残っていた。
死者の数は多くない。だが、信じる力にほころびが出始めた。
それは、兵の心にとって何より重かった。
良通もまた、言葉を持たなかった。
誰も責めなかった。だが、いつも何か考えている風だった。
良通は戦の翌日から、死者の名を一人ひとり書かせ、位牌を刻ませた。
傷ついた兵には薬を与え、家族には文を送らせた。
そうした作業を、冷静に、だが丁寧に進めた。
美濃の世間は狭い。誰と誰が血縁で、誰と誰が友人か知っている。
幼い時期の失敗や、成長してからの活躍も知っている。
その夜、良通は屋敷を出た。
草履を履き、北にある荒地へ向かう。
そこはかつて父と兄たちが田にしようとして諦めた湿地だった。
足元に草がからみつく。風が頬を撫で、月は雲に隠れたり現れたりしていた。
「すべてを守る」
その誓いが、この手を重くしていた。
一人を捨てる覚悟もなく、すべてを救う理屈だけでは足らなかった。
戦は常に等価交換ではない。
勝っても失い、守っても傷つく。
――では、どこで線を引くのか。
その問いが、良通の胸に、冷たい刀のように横たわっていた。
やがて彼は、ぽつりと呟いた。
「誰を守るかではない。……どう守るか、だ」
その言葉が、霧のように胸に染みた。
数日後、良通は夜陰に紛れて旧知の寺に入った。
そこに待っていたのは、安藤守就と氏家卜全――かつての盟友であり、今も西美濃を支える柱の二人だった。
ろうそくは灯すが、酒も出さず、ただ静かな座敷に三人が並んだ。
「我らが負けた」
良通が言った。
「戦は戦だ。勝ったり負けたり……」
守就が口を開こうとしたが、良通は首を振った。
「違う。私が敗れたのは、戦ではない。自分の信念にだ。私は“全員を守る”と言いながら、それができなかった」
部屋の空気が重く沈んだ。
「信長は、斎藤家を切り崩すつもりで動いている。戦術ではなく、兵站と大勢で攻めてくる。時間の問題だ」
卜全が低く言った。
「では、お前は……寝返るつもりか?」
「斎藤家には恩がある。だが、兵を、民を、命を守るために必要なら……私は信長に与する」
それは、言葉としてはあまりにも静かだった。だが、二人の目にそれが冗談でないと伝わるには十分だった。
「それが裏切りと呼ばれるなら、それで構わぬ」
良通は続けた。
「裏切りではなく、命を選ぶのだ。」
守就は腕を組んで目を伏せた。卜全は言葉なく、真っ暗な外を見つめていた。
外では木の葉が、かすかに音を立てていた。
やがて守就が言った。
「……信長に会うなら、我らも同行しよう。道を間違えるなよ、良通」
「間違えぬ」
良通は目を開けた。
「私は、もう迷わぬ」
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木曽川の分流に沿って建つ、墨俣の古い庄屋屋敷に、静かな四人の影が集まった。
稲葉良通、安藤守就、氏家卜全――そして、尾張より来た織田信長である。
夜はすでに更け、蝋燭の灯が床に長い影を落としていた。
「……皆、よう来てくだされた」
信長は開口一番、そう言って座を見回した。
その声音に高圧はなく、むしろどこか疲れたような静けさがあった。
「我ら、もはや斎藤家に未来を見てはおりませぬ」
最初に言葉を発したのは安藤守就だった。
「だが、未来を託すに足るお方があれば、その者に槍を向けることはござらぬ」
信長は深くうなずく。
「我は美濃を焼き払うつもりはない。ただ、道理の通らぬ支配を終わらせる」
稲葉良通は、じっとその目を見つめた。
その中に、策や計略の色は見えなかった。
あるのは、ただ戦乱を生き抜く者としての、鋼の現実感だった。
「道三殿には学ばせていただきました。義龍殿には戦を交えましたが、礼を忘れたことはありません」
良通はゆっくりと語る。
「されど、龍興には恩もなく、見通しもなく……」
氏家卜全が言葉を継いだ。
「主が国を背負う器でなければ、民が斃れましょう。斃れてからでは、忠義も義理もござらぬ」
信長は三人を順に見渡し、短く頷いた。
「我は、そなたらを家臣とは思わぬ。力を預け合う者と考える。共に進む道を選ぶなら、そなたらの“かたち”のままで良い」
沈黙が落ちた。
風が庇を撫で、どこかで虫の声が鳴いた。
やがて、良通が口を開いた。
「……ならば、我らは尾張の兵ではなく、美濃の兵として、この地を守ります」
それは従属ではなく、命を守る戦の再始動であった。
信長は笑みを浮かべ、蝋燭を一つ消した。
◆シーン6:斎藤家への離脱通告
稲葉城に戻った良通は、書状を一枚、丁寧な筆で書いた。
龍興殿には、これまでのご厚情、痛み入る。
然れど、道三公・義龍公より賜りし恩義に比して、
今の主君に仕え続ける理由を、我は持たぬ。
もってこのたび、我が兵と共に、美濃を去る。
それは、冷たい言葉ではなかった。だが、誤魔化しの一文字もなかった。
使者に封を託すとき、又兵衛が一歩進み出て問うた。
「本当に……よろしゅうございますか。お館様」
「これは裏切りではない。命を選んだだけだ」
良通は短く答え、封に印を押した。
使者が馬を駆って去ったあと、良通は城の一角から西を見た。
遠く稲葉山の山影は見えなかった。だが、胸の奥に確かに存在していた過去に、そっと背を向けた。
「失わぬために戦う。
戦わずに守るために、過去を断つ。
それが、我らの戦だ」
静かにそう呟くと、良通はひとつ深く息をついた。
すでに、次の戦いは始まっていた。
戦わずに勝つための、知と理の戦が。
----------
木曽川の分流に沿って建つ、墨俣の古い砦に、静かな四人の影が集まった。
稲葉良通、安藤守就、氏家卜全――そして、尾張より来た織田信長である。
夜はすでに更け、蝋燭の灯が床に長い影を落としていた。
「……皆、よう来てくだれた」
信長は開口一番、そう言って座を見回した。
その声音に高圧はなく、むしろどこか疲れたような静けさがあった。
「我ら、もはや斎藤家に未来を見てはおりませぬ」
最初に言葉を発したのは安藤守就だった。
「だが、未来を託すに足るお方があれば、その者に槍を向けることはござらぬ」
信長は深くうなずく。
「我は美濃を焼き払うつもりはない。ただ、道理の通らぬ支配を終わらせる」
稲葉良通は、じっとその目を見つめた。
その中に、策や計略の色は見えなかった。
あるのは、ただ戦乱を生き抜く者としての、鋼の現実感だった。
「道三殿には学ばせていただきました。義龍殿とは共に戦いました、礼を忘れたことはありません」
良通はゆっくりと語る。
「されど、龍興には恩もなく、見通しもなく……」
氏家卜全が言葉を継いだ。
「主が国を背負う器でなければ、民が斃れましょう。斃れてからでは、忠義も義理もござらぬ」
信長は三人を順に見渡し、短く頷いた。
「我は、そなたらを家臣とは思わぬ。力を預け合う者と考える。共に進む道を選ぶなら、そなたらの“かたち”のままで良い」
沈黙が落ちた。
風が庇を撫で、どこかで虫の声が鳴いた。
やがて、良通が口を開いた。
「……ならば、もう織田殿とは槍を交わすことをいたしません」
それは従属ではなく、命を守る戦の再始動であった。
信長は笑みを浮かべ、三人を代わる代わる見た。
そしてお互いに静かにうなづいた。
稲葉城に戻った良通は、書状を一枚、丁寧な筆で書いた。
龍興殿には、これまでのご厚情、痛み入る。
然れど、道三公・義龍公より賜りし恩義に比して、
今の主君に仕え続ける理由を、我は持たぬ。
よって、爾後、行動はともにせぬ。
それは、冷たい言葉ではなかった。だが、誤魔化しの一文字もなかった。
使者に封を託すとき、又兵衛が一歩進み出て問うた。
「本当に……よろしゅうございますか。お館様」
「これは裏切りではない。命を選んだだけだ」
良通は短く答え、封を使者に渡した。
使者が馬を駆って去ったあと、良通は城の一角から西を見た。
遠く稲葉山の山影は見えなかった。だが、胸の奥に確かに存在していた過去に、そっと背を向けた。
「失わぬために戦う。
戦わずに守るために、過去を断つ。
それが、我らの戦だ」
静かにそう呟くと、良通はひとつ深く息をついた。
すでに、次の戦いは始まっていた。
戦わずに勝つための、知と理の戦が。
----------
春の光が、薄く庭の砂利を照らしていた。
稲葉一鉄は、茶の湯の支度をしていた。
膝を折り、湯を沸かし、柄杓を構える。動きに迷いはない。力も要らない。
それが、八十余度の戦を戦い抜いた将の、晩年の日課だった。
一鉄の名を語る者は多くあれど、
一鉄が自らを語ったことはない。
ただ、静かに茶を点て、兵に飯を振る舞い、
来るかも知れぬ戦に備えるよう、今日も田を見、倉を見、火の気を確かめていた。
*
かつて、名を良通といった頃――
彼は「誰も死なせぬ軍を作る」と誓った。
だが、戦はその理想を笑った。
守ろうとすれば遅れ、退けば仲間を斃し、
誰も死なせぬことが、すべてを失わせると知った。
ならばと彼は、理想の形を変えた。
「死なせぬ軍」ではなく、「無駄に死なせぬ軍」へ。
「勝つ軍」ではなく、「負けぬ道を選ぶ軍」へ。
それは敗北ではなかった。
理想が現実に耐え得るまで鍛え直された証だった。
*
若者たちは、語らぬ一鉄の背を見て育った。
戦場での采配より、退き際の速度を学び、
槍の振り方より、仲間を庇う順序を学んだ。
茶の席でも、静けさの中に緊張を読み取った。
彼らにとって一鉄とは、言葉ではなく“構え”で伝える将だった。
誰も教えられたと思っていない。
だが、皆が一鉄の道を自然と継いでいた。
*
一鉄は最後に、一枚の紙にこう記した。
命を奪わずして勝つは、最も難しく、最も尊し。
それは教訓ではなかった。
もはや、それが彼の“在り方”だった。
その日、春風が吹いた。
一鉄は何も言わず、庭を見て、椿の花を一つ拾った。
それだけで、十分だった。
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もっといろいろな事件を盛り込んとも思いますが、若き日を描き、人物の成長を見ていただければと思います。戦国ネタなので大河ドラマで取り上げてくれてもいい稲葉さん。もっと有名にならないかなと思っています。