37話:千載一遇のチャンスです!
ジェラルドが用意してくれた私の身分は、キャシー・オットマン。
オットマン男爵は実在しており、地方領で暮らしている。キャシーという三女もいて、現在花嫁修業中の身。男爵にはジェラルドから話を通してくれていたので、カーラン商会から問い合わせが行っても問題なしだった。
というわけで私は地方領から王都に出てきた無垢な男爵令嬢。産業スパイとは無縁です!ということは、提出した書類からもすぐに分かってもらえたようだ。さらにカーラン商会へキャシーを推薦した侯爵は、ジェラルドとつながりがある。だがそれは表向きにされていない。そしてその侯爵は優良顧客として、どの商会からもV.I.P扱いされている。ゆえにキャシーは即採用となった。
こうして私は、三つ編みにした左右の髪を後頭部でクロスさせ、耳の後ろでまとめる。顔にはそばかす、唇の近くにほくろ、赤いフレームの眼鏡をかける。そしてフリルのついたクリーム色のブラウスに、鮮やかなオレンジ色のスカートと、地方領出身の令嬢へと変装。カーラン商会で秘書として勤務するようになった。
事務職員は貴族の令嬢。残業なんてさせるわけがない。朝はのんびりスタート、夕方は夕食に余裕をもって帰れる時間に終了。残業も存在しない。裏取引をしているが、表向きのカーラン商会の営業は、健全そのものに思える。
ただし。
商会のある建物から出入りする時のボディチェック!
これはいただけない。
初日はおしりや胸を触られそうになり、「まあ、立ち眩みが!」と係員の男の足を、ヒールで思いっきり踏みつけて回避したが。セクハラすれすれのことをするのだから……。地方領から来た初心な令嬢だと思い、そんなことをするのかしら。それとも他の令嬢にもしているの……?
ただここでは手荷物チェックもしっかりされる。よって裏帳簿を実際に手に入れた時は、ダストボックスを使い、建物の外へ持ち出すつもりでいた。ちなみに産業スパイには警戒しているのに、ダストボックスのチェックをしないのは、デイヴィス伯爵が甘いのか。それとも私が彼より悪党の資質ありなのかしら?
ともかくボディチェックだけが鬼門で、そこさえクリアすれば、裏帳簿は持ち出せる。
既に先輩秘書の給湯室の立ち話で、金庫の暗証番号も把握していた。かつ金庫のある会長室の場所も分かっている。
だがしかし!
秘書なのに、最初はメイドのような雑用ばかり。会長室はおろか、裏帳簿を隠している金庫には近づけない。
潜入から一ヵ月。
来客へのお茶出し、書類の分類、手紙の確認、先輩秘書の昼食の用意……そういったことは完璧にこなせるようになった。でも会長室へ行くチャンスがない! 会長室には重要な書類も保管されているので、先輩秘書と向かう機会はゼロではなかった。でも一人きりになれない! 会長室で秘書を一人きりにさせない……という暗黙のルールがあることは、最近知った。
何よりも面倒だったのは。
先輩秘書=昭和懐かしいお局でもあった。
つまりは後輩秘書に目を光らせ、サボっていないか、暇そうにしていないかを確認し、次から次へと雑用を渡される。その一方で自分達は、やたらティータイム休憩の時間が長いという……。
あしらうことはできる。だがそれでは変な注目を浴びるし、いびるための対象にされても面倒だった。何しろここで「私を誰だと思っているのかしら? フォード公爵夫人よ」とは言えない。言えば彼女達はひれ伏して詫びることだろう。
結局、プロのスパイではない私では、裏帳簿を盗み出すなんて無理だわ――とため息をつくことになる。
「珍しいな。いつも自信満々のキャサリンなのに」
ベッドでジェラルドとイチャイチャしているのに。
カーラン商会への潜入を思い出し、集中できない。
私がアンニュイにしているので、ジェラルドがふざけて私の頬を指でぷにぷに押している。
「暗証番号も金庫の場所も分かっているのよ。それなのに近づけないの」
「仕方ない。君はプロの産業スパイではないのだから。それにこの一ヵ月、根を上げることなく、毎日勤務している。よく頑張った」
ジェラルドはまるで子供にするように、私の頭を撫でてくれる。
「それに裏帳簿が手に入らないなら、裏取引の現場を抑える方法もある。キャサリンはもう、無理はしなくてもいい。そちらはわたしが手を回そう。君の憂鬱はわたしが取り除く。ベッドでは全力になってもらいたいからな」
シュルッと音を立て、ネグリジェの前をとめるシルクのリボンが、ジェラルドの手によりほどけていった。
◇
餅は餅屋という諺は、その通りだ。
産業スパイは、産業スパイにまかせないとダメなのだろう。
退職を決意した私は、その日の業務が終わった後、会長室へ辞表を出しに行くことにした。人事にまつわることなので、会長に直接提出する必要がある。と言っても会長であるデイヴィス伯爵は、ここにめったに現れない。
ゆえに辞表届けは、ドアの下の隙間から、会長室へ差し入れることになる。
今なら誰もいない。
これで会長室へ入れたらいいのに。
そう思い、扉を押すと……。
驚いた!
鍵がかかっていない。
細く開いた隙間から中を覗くと……誰もいない!
これはまさに千載一遇のチャンスだった。